先程までほんの少し明るかった空には既に月がはっきり出ていた。
月明かりが照らす道を辿り今度こそ家路につく。
いつもと違うのは、まだあどけなさが残る双子が私よりも遥かに小さい歩幅で着いてきていることだ。その子たちの歩調に少しでも合わせようとゆっくり歩き、5分もすれば見慣れた小さな家が見えてくる。
ドアを開け、中に入り可愛らしい客人たちを招き入れる。
「どうぞ」
そう言葉を投げかけると、二人は躊躇う事なく部屋に一歩踏み入った。
明かりをつけ、この子たちをもてなそうと子供には少し大きい椅子を出す。
「何もないけどゆっくりしてて。飲み物はココアでいい?」
「ココアは好きよ。お砂糖たっぷり入ったものはもっと好き」
「僕も甘いものは大好きだよ」
二人の素直な答えに思わず口の端が上がる。
子供はどちらかといえば好きだ。いい意味でも悪い意味でも素直でそれが可愛いと思っている。
この街に来てからも何度か子供を相手にすることはあったが、やはり年相応に素直なのはいいことだ。
まあ、大人びていてもそれはそれで可愛いと思うが。
この子たちの要望に応えようと、自室に向かい砂糖と牛乳を入れたアイスココアを2つ作る。
私が甘いものを摂りたくなった時によく作るので最早手慣れたものだ。
アイスココアの入ったマグカップ2つを手に作業場へ戻る。
「はいどうぞ。こぼさないようにね」
地面に着いていない足をプラプラさせて座っている二人に手渡すと「ありがとう」とお礼を言われる。
両手で持ちながらちびちびと飲む姿はとても可愛らしい。
「じゃ、とっとと終わらせようか。さっきのぬいぐるみ貸してくれる?」
「ええ。お願いね、お姉さん」
差し出されたぬいぐるみを受け取り、作業台の上にいったん寝かせる。
家を出る前にほったらかしにしていた未完成のハンカチは作業するには些か邪魔なので、片付けようと手を伸ばす。
「――リリアックだ」
その時、聞きなれない単語が飛んできて思わず反応してしまう。
声の方を向くと、男の子が少し驚いた顔をしてこちらを見ていた。
直後、椅子から離れ少し駆け足で近づき嬉々とした表情で私に話しかける。
「お姉さん、もしかしてリリアック知ってるの?」
「リリアック?」
「そのハンカチのお花のことよ」
「……ああ、ライラックの事ね。本で見ただけだけど、一応知ってるよ」
昔、よく花の写真集を買って眺めていた。
だが私が知っているのは形や色、ちょっとした知識くらいで、育て方や実際の匂いなどは分からない。
刺繍する花はいつもパッと頭に思い浮かんだもので、特にこれと言って選ぶ理由はない。
今日はたまたまライラックが頭に浮かんだから選んだだけなのだが、どうやら男の子はこの花に興味があるらしい。
男の子なのに珍しいものだ。
「リリアックは冬が終わって暖かくなってくると一斉に咲くんだ。とっても綺麗で、甘い香りがするんだよ」
「すごい、よく知ってるね」
「僕たち、昔この花が咲いている庭で遊んでたんだ。この花を眺めながら姉様の歌をよく聞いてたよ」
「懐かしいわね。……本当に、懐かしいわ」
「……そっか。じゃあ君はこの花が好きなんだね」
二人は柔らかい笑みを浮かべながらとても穏やかに話している。
だけど、どこか寂しそうにも見えるその顔に少し戸惑いながらも素直な感想を述べる。
「うん、とっても。――もう二度と見れないと思ってたんだけどな」
本当にライラックが好きだということが言葉と表情で充分伝わってくる。
男の子が後半に何か呟いた気がしたが、あまりにも小さくて聞き取れなかった。
「ねえお姉さん、一つお願いしてもいい?」
「なに?」
「そのハンカチ、僕にちょうだい」
あまりにも素直な言葉に思わず苦笑した。
真っすぐ見続ける男の子の目線から逃げることなく、できるだけ優しい声で答える。
「…ごめんね。実は、これまだ完成してないの。未完成な物をあまり渡したくはないかな。」
「僕それでいい、“それがいい”んだ。お願い」
……困った。
どうして中途半端な代物を欲しがるのか分からない。
経験上こういう頑なになっている子供を諦めさせるのは相当骨が折れる。
恐らく何を言っても「これが欲しい」と言い続けるだろう。
どうしてもと本人が言うなら気は引けるが渡してもいいとは思っている。
だが、なにしろ私には彼との“約束”がある。
この子がこう言っていても、報酬なしに渡すわけにはいかない。
「じゃあ、君は私に何をくれる?」
「え?」
「君がこれを欲しがる気持ちは十分伝わった。でもね、私はこれをタダで渡すわけにはいかないの」
「お金が欲しいってこと?」
「違うよ。有難いことにお金には困ってない」
怪訝そうに聞かれた疑問に即答すると、男の子は不思議そうに首を傾げる。
「ある人とそういう約束をしているの。だから、何か君から貰わないと私は何も渡せない」
「お金が欲しい訳じゃないなら、お姉さんは何が欲しいのかしら?」
「何でもいいよ。タダじゃなければそれでいいんだから」
子供が相手なのだから少しくらい良いのではないか、と周りは思うかもしれない。
だが、それでは彼との約束を破ることになってしまう。
それだけはどんなことがあっても犯してはならないタブーだ。
破ってしまえば今までの信頼がすべて水の泡となり、容赦なく殺されるだろう。
信頼を裏切って生き延びるより、約束を守って死んだほうがマシだ。
「ヘンな人だね、お姉さん」
「よく言われる」
私の返答を聞いて、よく分からないといった表情をしながら男の子はそう言った。
子供にまで変人扱いされることになるとは思わなかったが、悪い気はしなかった。
「うーん、じゃあ何あげようかな。お金なら持ってるんだけどそれじゃ面白くないもんね。何がいいかな姉様?」
「そうねえ。じゃあ、兄様のお歌聞かせてあげたら?」
「え、それなら姉様の方が得意じゃないか」
「私は兄様の歌好きよ。ねえ、あの曲久々に聴きたいわ」
「でも……」
「ねえお姉さん、兄様の歌とっても素敵なの。それに私以外の人に聞かせたことないはずだから特別なものになるわ。ちょっと聞いてみたくない?」
女の子は可愛らしい笑顔を浮かべ聞いてきた。
兄妹であろうこの子がそこまで言う“素敵な歌”に興味をそそられる。
「そうだね。少し、聞いてみたいかな。でも嫌なら無理しなくていいんだよ?」
「ですって兄様。どうするの?」
「……しょうがないね。お姉さんがそう言うなら」
「ありがとう。じゃあ、君の歌を聞きながらぬいぐるみを直そうかな」
私はしまう途中だったハンカチを丁寧にたたみ、作業の邪魔にならないよう端に置く。
「いつでもどうぞ」
「あまり、期待しないでね」
私の声掛けに男の子は少し恥ずかしそうに前置きすると、徐に口を開いた。
直後、部屋に一つの歌が響く。
その声は私の言葉では言い表せないくらいとても儚くて、綺麗で、美しいもの。
天使の歌声とはまさにこういうものなのだろうと素直にそう思った。
彼の歌っている姿に思わず魅入り、耳に心地よい歌声に浸る。
その歌声をしばらく聞いて、裁縫道具と寝かせていたぬいぐるみを手に取る。
とても贅沢なBGMだと思いながら、いつもより軽くなっている手を動かした。
――作業を始めてから三十分。
千切れかけてた腕と足は繋ぎ止められ、糸が解れ出ていた綿は中へ戻り普通のぬいぐるみになっている。
決して作業を邪魔する訳でもなく、だが全く聞こえない訳でもない丁度いい音量で歌ってくれたおかげで作業が捗り思ったより早く修繕が終わった。
つまり、彼が歌ってくれたおかげで私の作業スピードが上がったも同然だ。
恥ずかしがりながらも、素晴らしい歌声で何曲も披露してくれた彼に欲しがっているハンカチをあげない選択肢は私の中に残ってはいなかった。
先程「ぬいぐるみの方を終わらせてから渡す」と約束をし、彼は今か今かと待ちわびている。
そんな落ち着きのない様子に微笑みながら最後の仕上げをし、腰を上げて女の子の前に立つ。
「お待たせ。こんな感じでいいかな?」
視線を合わせるため、再びしゃがんでから修繕されたぬいぐるみを差し出し声をかける。
元通りになったお気に入りのぬいぐるみを手に取ると、女の子は嬉しそうな笑顔を見せた。
「すごいわお姉さん。こんなに早くできるなんて」
「彼の歌のおかげだよ。ありがとね、聞かせてくれて」
「喜んでくれて僕も嬉しいよ。人前で歌うのはお姉さんが初めてだったから緊張したけど」
改めてお礼を言えば男の子もまた柔らかい笑みを浮かべた。
その顔を見て自然と自身の口の端が上がったのを感じながら、再び作業台に戻る。
端の方に置いていたハンカチを取り、今度は男の子の前にしゃがんで話しかけた。
「一応聞くけど、本当にこのままでいいの?」
「うん。それがいいんだ、僕」
「そっか。君がそう言うなら、もう何も言わないよ」
私としてはこの状態のハンカチを渡すのはかなり気が引けるのだが、未完成の物を渡すには贅沢な報酬を貰ったのだ。彼がそれを欲しいというなら拒否する権利はない。
彼を説得するのを諦め、素直に彼が好きだという紫の花が一輪だけ刺繍されているハンカチを目の前に差し出す。
男の子はこれでもかというほど嬉しそうな顔で、未完成のそれを両手で受け取った。
「Mersi.」
嬉しそうな笑顔のまま、英語ではない言葉で何か呟いた。
意味が分からず思わず首を傾げる。
「じゃ、私たちもうそろそろ行かなくちゃ。ぬいぐるみ、今度こそ大切にするわね」
女の子は椅子から降りて、私に近づきそう言った。
そういえばさっきこの後何か用事があるとか。だが……
「ねえ、本当に今から外出歩くの? ちょっとやめといた方が」
「あら、心配してくれてるの? でも、すごく大事なお仕事だから行かなきゃいけないのよ」
「そう。僕たちにとってとても大事な、ね」
街の情勢を考えて子供が夜に出かけるのは危険なのではないかと思い提案したが一蹴されてしまった。
こんな子供が夜に仕事なんて一体何をさせられているのだろうか。
こうして客人として招いたのだ。多少の心配はする。
何やら意味ありげな言葉に少し疑問を感じたが、あまり深入りしても何も得はない。
それに、この子たちは“お仕事のため”に外へ出かけるのをやめる気はないようだ。
私にできるのは、この子たちに死体となって転がらない幸運が巡るよう祈る事しかない。
「じゃあお姉さん。また会えたら、今度は私の歌聞かせてあげる」
「楽しみにしてるよ。――じゃ、気を付けてね。外は危ないから」
「ええ。アイスココア、美味しかったわ」
「このハンカチ、大事にするね」
二人はドアの方に向かい、「Ciao!」とあの可愛らしい笑顔で言い残し部屋を出て行った。
……あ、そういえば名前を聞くのを忘れてた。もし、無事にまた会えたらその時にでも聞いておこう。
そう思いながら先程男の子が歌ってくれた曲を口ずさみながら、作業台の上を片付け始めた。
「―それにしても珍しいわね兄様」
「何が?」
「あんな我儘を言っているのを見たのは久々だわ」
月明かりが照らされている人通りの少ない道を、銀髪の双子は歩いていた。
姉様と呼ばれた少女は微笑みを浮かべながら隣の片割れに声をかける。
『兄様』は、先程自身が歌を披露し手に入れた紫色のライラックが一輪のみ刺繍されているハンカチから目線を隣の少女へ移す。
「逆に姉様は欲しくなかったの? こんなに綺麗なのに」
「私が気に掛けるより先に兄様が欲しがったんですもの。それに、私はぬいぐるみ直してもらえることで満足だったから」
「そっか。――ねえ姉様」
「なあに?」
「あの人、本当に不思議な人だったね」
「そうね。とても不思議」
言葉を交わしながら、自身の我儘を聞いてくれた裁縫が得意だと言った女性を思い返す。
「今まで見てきたどんな大人よりも優しかった。わざわざしゃがんで目線を合わせてくれる人なんて、初めて見たよ」
「ええ。それに、ちゃんと約束を守ってくれたわ」
「あの人は、いい人だね。……でも、あの部屋。姉様は気づいた?」
「ええ、血の匂いがしてたわ。きっと、誰も気づかないくらいほんの少しだけ」
先程招かれた布と裁縫道具に囲まれた部屋を思い出しながらお互い胸の内をぽつりぽつりと吐き出した。
「この街は本当に色んな人がいるんだね」
「ええ、とても楽しいわ。おかげで退屈していないもの」
「じゃあ、もっと遊ぼう。そして命を増やすんだ。――楽しもう、姉様」
「そうね、兄様」
「アハハッ」
「フフフッ」
子供らしく無邪気に楽しそうな笑い声を響かせながら、少年と少女は夜の闇へと消えていく。
「ねえおじさん、僕たちと遊ぼう!」
「がっ……!」
「伍長!!」
「さ、楽しみましょう兄様」
「ええ、姉様」
――双子によるブラン・ストリートのカリビアン・バー襲撃が行われたのは、その数時間後の事だった。
男の子であっても歌が上手だろうなと思っております。