ハンカチに手を付けてから何時間か経ち、やっと完成した。
外をみれば、いつの間にか暗くなっている。
いつもならもう少し作業スピードも早かった気がするが、結果完成できたのだから別に気にすることはないだろう。
気にしたところで何かあるわけでもなし。
ずっと座りっぱなしだったおかげで腰が少し痛い。
固まっていた筋肉を解す様に背を伸ばし、紫と白のライラックが一輪ずつ刺繍されたハンカチを片そうと丁寧に畳む。
しかし、それは思わぬところで阻まれた。
――バンッ!!
と、聞き慣れた銃声に遅れて壊されたドアノブが地面に落ちる。
唐突に響いた音とその惨状に手どころか体全体が硬直した。
そのせいか、自室にある護身用の銃を取りに行くという行動さえ起こせない。
私はこの街に来て数年経つが、戦闘に関してはからっきしなのだ。
こんな唐突の出来事に余裕を持てる訳はなかった。
困惑している中、ゆっくりとドアが開かれる。
「こんばんはお姉さん」
そこに現れたのは、大きい銃をこちらに構えているあの銀髪の女の子が笑いながら立っていた。
戸惑いながらも、ハンカチをポケットに入れ逃げることなく見据える。
抵抗しないことを確認すると、女の子は笑顔を携えたまま中に入ってきた。
「乱暴な真似してごめんなさい。時間がないから仕方なかったの」
「……口先だけの謝罪をするくらいならしない方がいいと思うよ」
「あら、怒られちゃったわ。こんな状況でも随分余裕なのね、お姉さん」
「残念なことに心の中は全然穏やかじゃない。どうしてここに?」
この子はメニショフさんを殺した殺人鬼で、バラライカさんが殺そうとしている子供だ。
彼女から追われている身であるこの子にこんなところで油を売ってる暇があるとはとても思えない。
素直な疑問を口にすると、銃を向けたまま答える。
「ここなら人目につかないと思って。それに、殺しに慣れてなさそうなお姉さんなら私のお願い素直に聞いてくれるかなって」
「お願い?」
「そ。実は私たち、もうそろそろこの街から出ないといけないのね。でも雇い主たちを殺しちゃったから手引き役もいなくなっちゃって。だから、お姉さんに手伝ってほしいの」
雇い主を殺した。
それは、つまり裏切ったということか?
だからもうこの街には用がないから二人で逃げようとしているのか。
……そういえば、もう一人はどうしたのだろう。
「あの男の子はどうしたの?」
「兄様はロシア女を殺しに行ったわ。だからいつでも逃げれるように準備をしなきゃいけないの」
その答えを聞いて目を見開く。
ロシア女とは十中八九バラライカさんの事だろう。
雇い主を殺した時点でもう用はないはずなのに、どうしてバラライカさんを殺そうとしているのか。
これ以上殺したって何もないことくらい私にだって分かる。
不可解すぎる。
「ねえ、そんなことしたって意味がないのは分かってるでしょ? どうして続けるの」
「どうして? アハハッ、そんなの決まってるじゃない」
訝し気に問いかけると、可笑しいと言わんばかりに笑った。
そして、言葉を区切り一瞬の間をおいて当然だというようにすんなりと返答する。
「――“そうしたいからよ”。そうしたいからそうするの、理由なんてないわ」
そう言う彼女は、心の底から楽しそうな笑顔を見せる。
だが、あの時見せてくれた笑顔とはどこか違うものであることは確かで。
そうしたいからそうする、か。
周りの人間からしたら意味がないだとか理解できないと思われる行動だとしても、自分にとって意味があればそれでいい。
私もそうやって自分勝手に生きている人間だ。だからこそ、咎める言葉をかけることができない。
この子にどういう経緯があって人殺しを楽しむような人種になってしまったのかは知らない。
だが、もうそうなった。なってしまったのだ。
なら、何も言う必要はない。
そして、そんな子供に殺されてもいいとは微塵も思わない。
この子に今殺される意味もないのに撃たれるのは真っ平ごめんだ。
だから私にできるのは、向けられている銃口の的にならないよう行動することだけ。
「そんなことはどうでもいいわ。さっさと本題に入りましょ。――お姉さんに手伝ってほしいのは、ある逃がし屋までの道案内」
逃がし屋?
生憎、私はこの街では人脈が広い方ではない。
いや、マフィアは置いといてその他の殺し屋とかそれこそ逃がし屋については全くと言っていいほど関りがない。
そんな私と関りがある逃がし屋と言えば一つだけ。
それ以外は案内しろと言われても所在を知らないのでしようがない。
さて、どうしたものか。
「ラグーン商会っていうんだけど、案内してくれる?」
女の子が告げられた聞き覚えのありすぎる逃がし屋の名前に一瞬目を見開くが、同時に安堵する。
もしここで知らない名前を出されたら頭を悩ませるところだったが、ひとまず言い訳をする必要がなくなった。
普段仲良くしてもらっている人たちに重荷を背負わせるようなことはしたくないのだが、この子に殺されるのよりマシだ。
「……ここから少し歩くよ、それでもいい?」
「もちろん」
「分かった。でもその前に、銃を下ろしてくれると嬉しいかな」
「ダメよ、逃げられたら困るもの」
即答されてしまった。まあ、当然か。
私には殺人鬼から逃れるほどのスキルは持っていないのだが、彼女なりに警戒しているのだろう。
だが、その銃を向けられたまま歩くのは遠慮したい。
特に子供からは。
少し息を吐き、あの時のようにしゃがみ目線を合わせからて口を開く。
「じゃあ、私が逃げないように手をつないでくれないかな?」
「……え?」
「逃げられるのが嫌なんでしょ? なら、手を繋いでくれれば一応拘束されることになる。私も銃を向けられなくてよくなるし」
「……」
女の子は私の提案に驚いたようで、目を見開いた。
その顔から笑みは消え、銃を構えたまま訝し気にこちらを見据える。
「君もさっき言った通り、私は人を殺すことに慣れてない。君の方が人殺しに関しては上だと思う。だから、私が君を殺せる確率はゼロに近いよ」
「……そうだと分かってるのになぜ? 私はいっぱい人を殺してるわ。お姉さんの事だって簡単に殺せるのよ。怖くないの?」
「怖いよ。でも、銃を向けられて歩くよりよっぽどマシ。ただそれだけだよ」
「…………」
こんなこと頼むなんてどうかしてると自分でも思う。
だけど、私には銃口を逸らす方法がこれくらいしか思いつかない。
「銃を下ろしてくれる代わりに君をちゃんと逃がし屋まで案内する。――約束するよ」
女の子の灰色の瞳を真っすぐ見つめ告げる。
もしかしたら、例え生き残って帰れたとしても張さんやバラライカさんに殺されるかもしれない。
『犯人を逃がす手伝いをした人間』として。
彼が自分に、この街に不利益をもたらす人間を許す訳がないのは分かりきっている。
だけど、どうせ殺されるならこの子ではなくあの人がいい。
だからここで殺されるわけにはいかない。
今は自分の命がこの子に奪われる可能性を少しでも低くできればそれでいい。
しばらく私を見つめていた女の子が、やがて「フフッ」と息を洩らし微笑みを浮かべ口を開く。
「本当に不思議な人ね、お姉さん」
そう言って女の子は構えていた銃を下ろす。
そして、空いている方の手を差し出してきた。
女の子の行動の意味を察し、ゆっくりとその小さな手を握り返す。
「じゃあ行きましょ、お姉さん。離れたらダメよ?」
「分かってるよ。……ねえ、もうひとつ聞いてもいい?」
「なあに?」
「君の名前、教えてくれる?」
今度会った時、名前を聞いておこうと決めていた。
それに、少しの間とはいえ道中共にする仲だ。
名前を聞いたって罰は当たらないだろうと素直に聞いてみる。
すると、女の子は微笑みを崩さず可愛らしい声で発した。
「グレーテル、皆そう呼ぶわ。お姉さんの名前は?」
「キキョウだよ」
「いい名前、素敵よ。」
「ありがとう」
他の人が見たらきっと異様に映るであろう光景。そんな中でお互いの自己紹介を済ませ腰を上げる。
そしてそのまま、小さな手をしっかりと握り家を後にした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
――街の一角にある噴水広場。
中央にある大きな噴水の縁に、バラライカは一人ただ静かに腰かけていた。
ヴェロッキオファミリーを襲撃しても尚、自身を殺そうと動いていた双子を追い込もうと彼女は遊撃隊に指示を出していた。
途中でそれぞれ別行動を取ったらしく一人を見失ったが、もう一人を捉え続けることに専念する。
そして、広場の周りで先ほどまで轟いていた自身の部下たちが標的と戦っている銃声が今は嘘のように静まり返っている。
それは、彼女の思惑通り敵を誘導できた証拠に他ならない。
無線で部下の報告を聞き、静けさの中バラライカは瞑っていた目をゆっくりと開けた。
「隠れることないわ、でてらっしゃい」
「……気づいてたんだ。流石だねおばさん」
その声掛けに応えたのは、銀髪の少年ヘンゼル。
ヘンゼルはニコやかに笑いながら歩みを進める。
「部下だって優秀なわけだ。追いかけっこしてた割には一人も殺せなかったよ」
「……」
バラライカは紫煙を燻らせ、張り付けられた壊れた笑顔を黙って見据える。
その視線は鋭く、冷たいもの。
「ねえおばさん。楽しませてくれたお礼に一つ話してあげるよ。――僕らが殺したあの男の話さ」
「……」
「あの男ね、腕や足を千切っても、腹を裂いても、頭を強く殴っても命乞い一つもしなかったんだ。そんな男が最期に呟いた言葉、なんだと思う?」
ヘンゼルはニヤリと顔を歪め、言葉を続ける。
「“大尉、先に逝くことをお許しください”だって。馬鹿だよね、誰かに死ぬことを謝るなんて。それだけ言って死んじゃったから、楽しませてくれたお礼にちゃんと全部潰してあげたよ」
「…………ふうん、そう」
聞かされた話に一言だけそう返すバラライカに、「冷たいね、おばさん」とつまらなさそうにする。
「でもね、おばさんもすぐにあの世へ送ってあげる。本当はあの男と同じように全部潰してあげたいけど、時間がないんだ。残念だよ」
そう言って、しまっていた斧を取り出す。
バラライカは動揺することなく、徐に口を開く。
「そうね。本当に残念。坊やには悪いけど――あなたはここでお終いなのよ」
胸の内の怒りを表に出さないよう、冷静に言葉を続ける。
「でもその前に、悪いことをしたら謝らないとね坊や」
煙を吐き出し、射貫くような鋭い視線を注ぐ。
「とりあえずそこに跪きなさい」
「……フフッ、そんなこと言って」
「跪け」
瞬間、一つの銃声が轟いたのと同時にヘンゼルの右膝に穴が空く。
何が起きたのか理解できないまま、驚きと痛みの中でその場に倒れる。
咄嗟にもう一つの斧を取り出しバラライカへ投げようとするが、再び銃声が響きその腕が半分吹き飛んだ。
「おしまいなんだよ、坊や。もう少し理性が働けば気づいたはずだ。自分が敵地の真ん中に来てしまったことを」
片足と片腕から血を流し痛みに耐えるヘンゼルに、冷たい声音と言葉がかけられる。
「お前の最期に手向けられるのは花ではなく、我々の銃弾だ。……結局お前は、どうしようもなく壊れた哀れなクソガキのままここで死ぬ。なんとも哀れだ。」
「……ふ、ふふ。おかしいや、何言ってる、の? 僕は、死なない。死なないんだ。だって、いっぱい人を殺して来たんだ。いっぱい、いっぱい」
その言葉にヘンゼルは焦点が定まってない目でバラライカを見つめ、言葉が途切れ途切れになりながらも笑顔を浮かべた。
「殺してきたのよ。私達はその分、生きられるの。命を増やせるのよ」
唐突に、少年の声から少女の声に切り替わる。
「僕たちは
そして、また少年の声に戻る。
今血を流し倒れている子供は、少女なのか少年なのか。
それは子供自身にも分からない。
それ程までに、子供の体はボロボロにされていたのだ。
バラライカはそのことを見抜いたが、同情も情けもかける気は起きなかった。
どんな理由や過去があろうと、自身の仲間を殺したことには変わりないのだから。
「それがお前の宗教か。素晴らしい考え方だが、永遠なんてものは存在しない。お前たちはそう考えなければ耐えられなかったのだろうが、それが覆ることのない真実だ。――さて」
葉巻を地面に落とし、言葉を区切る。
「これからお前を、お前が私の部下にしたように手足を千切り、腹を裂き、頭を砕けば同志の仇も討てるだけでなく、私の怒りも少しは晴らされるだろう。――だが、生憎そこまで下品な嗜好は持ち合わせていない」
バラライカは目の前で瀕死の子供に対し、冷静に告げる。
「だから私は、お前の死に様をただ眺めていよう。お前がこの世を去るまでの時間を、我が同志の鎮魂へあてる」
「……ハッ……ハッ……!」
ヘンゼルはうまく息ができない中、自身の命の終わりが近づいているのをひしひしと感じていた。
本当は分かっていた。だけど分かりたくなった。
自分たちが手にかけてきた人たち。
その中には、あの凄惨な状況を一緒に生き抜こうと仲良くなった友もいた。
今となってはその顔も思い出せないが、その友や他の人間のように無様に横たわる肉袋になりたくないと必死に殺してきた。
生きるためには仕方なかった。生きるために殺し続けた。
――だが、その日々も終止符を打たれようとしている。
怖い、痛い、苦しい。そんな感覚がヘンゼルを覆う。
その感覚とは別に、彼はどこか安心を感じていた。
“ああ、やっと終わるのか”と。
「ヒュッ、ハッ……ウグッ……ウッ……」
「泣くな、馬鹿者」
息苦しいのと安心した感覚が混じり、彼の目からは大粒の涙があふれる。
その様にバラライカは咎める言葉をかけるが、その声音は先程よりも尖ったものがとれているようだった。
「ハッ……ハッ……ハ…………」
ヘンゼルの苦しそうな息だけが響く中、バラライカは黙祷を捧げる。
――そして数分後、その音が完全に止まり再び静けさが落ちた。
『大尉』
「軍曹、こちらは片付いた」
『肝が冷えますよ、大尉。引き金に指がかかりっぱなしだ』
「すまん、私の我儘に付き合わせてしまったな。……片割れの行方は?」
『捜索を続けておりますが、未だに掴めておりません』
「……そうか」
バラライカは無線で報告を受けた後、溜まっていた息を吐き空を見上げる。
その空は、夜明けが滲んでいる色だった。
『――大尉』
「なんだ」
『片割れの行方なのですが』
「掴んだか?」
『はい。ですが、その……』
「どうした」
『それが――』