題名はマックスウェーバーの名言を基にしました。
――グレーテルが逃がし屋に殺され、私たちはすぐにロアナプラへの道を戻っていた。
今は岡島と二人きりで船の密室で揺られている。
お互い世間話をする気分ではなく、重々しい空気が漂いずっと無言の状態が続いている。
「……あの、キキョウさん」
「なに、岡島」
そんな中、沈黙を破ったのは岡島だった。
恐る恐るといった感じで声をかける岡島に、できるだけいつもの調子で反応する。
「どうして、あんなことを言ったんですか?」
「あんなこと?」
「人殺しを間違ってない、なんて……あんな、子供に」
岡島は私の発言に強い疑問を感じていたようで、納得できないような顔を見せている。
まあ、彼が言いたいことは分かる。
大方、人殺しをしていることを肯定するなんて信じられないというところだろう。
それが子供ならば尚更。
だが、それは普通に生きていればの話。
彼が数か月前まで生きてきた場所の常識や倫理観なんてこの世界じゃ通用しない。
それを実感できる出来事を味わっていないのか、まだちゃんと理解できていないのだろう。
こういう時、彼は痛みや恐怖で支配されずに生きてきた普通の人間なのだと思い知らされる。
「間違ってないとは言ってない。殺しは理不尽そのものだからね。」
「じゃあなんでですか。――キキョウさんは、何も思わなかったんですか。あんな子供が人を殺して、あんな顔で笑っていることに」
「……」
そこで初めて岡島の拳が震えているのに気づいた。
きっと、彼なりにあの子の事を想っているのだろう。
私がバラライカさんと話している間二人で何か話していたようだし。
ここは下手に気を遣うよりちゃんと話した方がよさそうだ。
俯いて拳を握っている彼に、冷静に声をかける。
「岡島、あの子たちはどうして人を殺してきたと思う?」
「え?」
「優しい人もごまんといるこの広い世界で、どうしてあの子たちはそうしてきたか。……いや、そうしないといけなかったか分かる?」
「……」
微かに揺れている焦げ茶色の瞳を見据え質問を投げかける。
言葉が出てこないのか、はたまた私の言葉を待っているのか岡島は黙ってしまった。
その様に彼からの返答は期待できないと確信し口を開く。
「あの子たちの世界には、優しい人がいなかった。誰も助けてくれない無情な世界で生きるために、死なないために人を殺し続けたんだよ、あの子たちは」
「それは、貴女でもよかったはずだ。貴女ならあの子をこの暗い闇の世界からきっと救えた……! あの子が優しいと評した貴女なら“救えたはず”なんだッ!!」
岡島は目に涙をため、声を荒げた。
拳は血が滲みそうな程強く握られている。
感情を昂らせる彼に言葉が届くようはっきりと告げる。
「買い被りすぎだよ。私にはその力も、優しさもない。何より、あの子たちはもう人殺しを“娯楽”として捉えてた。そんな殺人鬼が、誰に何を言われたところで人殺しを止められるはずがない」
「でも!」
「あの子たちの世界にほんの少しでも優しい人がいれば“ああ”はならなかった。――だけど、そうならなかった。“ならなかったんだよ”岡島」
辛そうな表情を浮かべている彼から目線を逸らすことなく呼び掛ける。
「岡島。私達が立っているこの世界は、理不尽と恐怖と暴力で支配されている。大人であっても耐えることができない程残酷で、情けなんて存在しない世界。それはあの街に住んでる君ならもう十分分かってるはずだよね?」
「……」
「あの子たちはそんな世界で人格が歪むほど必死に生き抜いた。……もう、楽にしてあげても良かったんじゃないかな」
死は一つの救いだ。
辛く苦しい世界から永遠に逃げられる唯一の方法。
長年血と悲鳴の環境で育ち受け入れた人間がその世界から解放されるには、きっと死ぬしか方法がない。
少なくても、あの子たちを救える人間がいない限りは。
私の言葉に岡島は震えた声を出す。
「……死ぬことでしか、あの子は楽になれなかったと」
「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。だけど一つ言えることは、死ねば確実に楽になれるってことだけ。それに、苦しみから解放されるために死ぬのは悪い事じゃないよ」
「……なぜ、そこまで死ぬことを前向きに捉えてるんですか」
やはり私の返答が納得できないのか、訝し気に聞いてきた。
その質問にどう答えるべきか少し悩み、息を吐き考えを口に出す。
「死にたかった時に死ねなかったから、かな」
「……」
そう言った瞬間、自嘲的な笑みが自然と零れた。
岡島は私の返答に目を見開いたが今度は納得したのか、また言葉が出なかったのか再び黙る。
「ごめんね、偉そうに話して」
「……いえ。俺の方こそ、感情的になってすみませんでした」
「謝ることじゃないよ。気にしないで」
「…………はい」
彼も気持ちが少しだけ落ち着いたのか、感情を露にしたことを謝罪してきた。
そこは別に気にしていない。
だからその言葉は必要ないと素直に伝える。
そこからはお互い、あの街に着くまで一言も発しなかった。
そうして数十分ほど密室で静かに揺られていると、やがて船の揺れが止まった。
「着いたぞ二人とも」
「分かった」
「ほらロック、お前もとっとと降りな」
「……ああ」
部屋の外で待機してたであろうレヴィが、静かに到着を待っていた私達を呼びに来る。
その呼びかけに私は直ぐに腰を上げ、岡島は遅れて反応し三人で日差しが照り付ける甲板に出た。
既に船首で立ったまま煙草を吸っているダッチさんに後ろから声をかける。
「ダッチさん、この度はご迷惑をおかけしました」
「俺達はただ仕事をこなしただけさ。お前はそれに巻き込まれただけ、気にすることはねえよ」
「そういう訳にはいかないでしょう。普段仲良くさせてもらっているんですし」
「それはお互い様ってヤツだぜキキョウ。ま、どうしても気になっちまうってなら酒でも奢ってくれりゃいい」
こちらを見向きもせずそう言うダッチさんに思わず笑みがこぼれる。
なんだかんだこの人も、私に対して少し甘い所があるのは気のせいだろうか。
「それでいいなら、いつでも喜んで奢りますよ。もちろん、ラグーン商会全員分」
「気前がいいことだ。なら、これからすぐにでも行こうか。……と言いたいところだが、お前さんにお迎えが来たみてえだぞ」
「え?」
その言葉に思わず首を傾げる。
私を迎えに来る人に心当たりは全くない。
一体何を見てそう思ったのか、ダッチさんの隣まで歩みを進め彼の目線の先を辿る。
桟橋の入り口の近くで停まった黒塗りの車から出てきたのは、黒いスーツに黒いサングラスの男性。
いつもと少し違う格好だが、それが誰なのかすぐに分かった。
「……なんであの人がここにいるんですかね」
「さあな。ただ、俺達に用がないのは確かだな」
ダッチさんが言う俺たちというのは確実に私は含まれていないだろう。
…そういえば、前にもこういう事があったような。
これがデジャヴというやつか。
「ほら、早く行ってこい。……健闘を祈るぜ」
「ありがとうございます。生きて会えたら、必ず奢りますね」
「あまり期待しないでおいた方がいいかな?」
「お好きなように」
ダッチさんは口の端を上げ冗談っぽくそう言った。
私もつられて頬を緩ませ、軽い言葉で受け流す。
向こうで早く来いと言わんばかりにこちらを見つめる彼の元へ行こうと足を動かす。
「キキョウさん」
船を降りようとしたとき、後ろから岡島に呼び止められる。
振り向くと、何か言いたげな表情でこちらを見ていた。
「最後に一つだけ教えてください。――俺は、甘すぎるんでしょうか」
「……」
その質問に少し目を見開いた。
一つ間を空けて、素直に思っていることを伝えようと口を開く。
「私も人の事はあまり強く言えないけど、この世界じゃ甘い方だとは思う」
「……」
「だけど、その生き方を貫きたいなら貫けばいいんじゃないかな」
「え」
「それがこの街で通用するかは、保証しないけどね。ま、どうするかは岡島の自由だよ」
私の返答に岡島がまだ何か言いたげな顔をしていたが、それには構わず足を動かす。
少し遠い距離にいるレヴィが手を振るのが見えたので、振り返すと彼女は煙草に火を着けた。
その様を横目で見ながら今度こそ船から降りる。
桟橋を渡り、未だにこちらを見つめ立っている男性の元へまっすぐ進む。
彼の目の前まで来たとき、いつもより少しだけ重苦しい空気を漂わせていることが分かった。
そんな雰囲気の中、彼が徐に口を開く。
「殺人鬼とのクルージングは楽しかったか?」
どこか嫌味にも聞こえるその質問に苦笑いを浮かべながら言葉を返す。
「あまり、いい気分ではなかったですね」
「そうか」
「……張さん、何故ここに?」
「お前の事が心配でたまらなくてな」
「御冗談を」
「割と本気で心配したぞ。――その命が俺以外の奴に奪われやしねえかってな」
その言葉に思わず一瞬言葉に詰まる。
黙っているわけにもいかないと、サングラスの奥から覗く瞳に射貫かれたまま口を開く。
「それは、とんだご心配をおかけいたしました」
「はッ。まあ、言い訳は後でたっぷり聞いてやろう」
そう言って、彼は車のドアを開け「乗れ」と私に命令する。
彼が自らその行動をしたことに内心驚いたが、命令に背かせる気が全くない空気に「失礼します」と断りながら後部座席に乗り込む。
私が乗ったのを確認すると、ドアを閉め彼は私の隣に座った。
運転席にいる腹心に「出せ」と彼が一言言うと車のエンジンがかかり、ラグーン商会の船がすぐさま遠くなっていった。
――――――――――――――――――――――――――――
――俺は、彼女が張さんに連れて行かれるのを見届けた後もその場から動けずにいた。
いや、正確にはキキョウさんの最後の返答からだ。
キキョウさんの答えに、少し戸惑っているから動けないのかもしれない。
思えば、昨日から驚きと戸惑いの連続だ。
昨夜、ラグーン商会の事務所にロアナプラの恐怖の一夜を引き起こした犯人に銃を向けられた彼女が現れた時は全員驚きで一瞬固まった。
俺は食べかけのピザを落とすし、ダッチとベニーもどうしたものかと戸惑っている様だった。
レヴィはキキョウさんに妙に懐いているのもあって、すぐ殺気を放ちソードカトラスを抜き出して激昂する始末。
そんなレヴィを俺が宥めている間、意外にもとんとん拍子で話が進み女の子の依頼を受けることになった。
やっとレヴィも落ち着いたと思ったら、なんと女の子が「お姉さんも一緒に行きましょ」とキキョウさんに言った。
その提案に再びレヴィの怒りのスイッチが入り収めていたソードカトラスを再び抜いた。
今にも事務所中を穴だらけにしそうな仕事仲間をまた宥めようとした時、なんとキキョウさんが「いいよ」となぜか了承したのだ。
てっきり彼女はその提案に乗らないものとばかり思っていた。
だから「着いていく理由はないはず」と素直に疑問をぶつければ、「スムーズに話が進むなら」と少し困ったように答えてくれた。
キキョウさん自身がそう言っているのと、ラグーン商会のボスであるダッチがそれを許したとなれば俺達には何も言うことはない。
だが、俺が言うのもなんだが武器も持っていない彼女が、子供とはいえ殺人鬼と共にいることはあまり得策ではない。
レヴィも俺と同じことを思っていたのか多少……いや、大分不満気な感じだったが渋々銃を下ろした。
その後も女の子を鋭い目つきで睨んでいたので、それを咎めようとすると「あ?」と今度はこっちが睨まれたのでもう何も言うまいと放っておいた。
そこからは、女の子を逃がし屋に連れて行くまで監視という名目でキキョウさんと依頼人の部屋に俺が居合わせることに。
別にレヴィでもいいんじゃないか、と進言したが「レヴィだといつキレるか分かんねえからな。アイツはキキョウの事となるといつもより殺気立つ」とダッチに言われたので結果そうなった。
確かに、この前キキョウさんの事を「マフィアに取り入ってる売女」とか言っていた男を問答無用で撃ち、ぶん殴っていた。
何故レヴィがそこまでキキョウさんに対し敏感になっているのか本人に聞いても教えてくれないので、そこはよく知らない。
そんなレヴィが密室の外でソードカトラスを構えている中、俺はただ二人の会話を聞いていた。
話の内容は、子供が話すにはあまりにも残酷で。
“殺し殺されるのがこの世の理”だと、女の子はさも平然と言ってのけた。
その時思わず「お兄さんが死んだとしても悲しくないのか」と聞いた。聞かずにはいられなかった。
すると女の子は長髪のウィッグを取り、今度は男の子の声で「僕らは殺した分だけ生き続ける。だから死なない」とこれもまた当然だと言わんばかりにすんなりと答えが返ってきた。
その様に驚いている俺を一瞥し、今度はキキョウさんに向かって「僕たちは間違っていないよね?」と少しだけ不安そうな声で尋ねていた。
この子はきっと、肯定の言葉が欲しいだけだということはすぐに分かった。
だけど、子供が人殺しをすることを間違っていないなんて言えるのか。
そんなあまりにも残酷なことを、すんなり肯定できる訳がない。
きっとキキョウさんだってそう思っているはずだと、信じていた。
だが、キキョウさんは“間違っていない”とはっきり告げた。
俺は驚いて思わず何を言っているんだと声をかける。
俺の呼びかけには応えず、彼女は女の子の頭にウィッグを戻し優しく撫で始めた。
「そうするしかなかったんだよね」
そう話す声音と表情は、撫でている手つきと同様に優しいもの。
あまりにも穏やかで、まるで母親が子供にするような。
その様に、俺は何も言葉が出てこなかった。
女の子は頭を撫でられながら、やがて「お姉さんも命を紡いだのね」と納得したような声音で話した。
その言葉にキキョウさんは「私の場合、紡がれたっていう方が正しいかな」と少しだけ口の端を上げていた。
彼女の言葉がどういう意味を孕んでいるのかよく分からなかった。
そこで丁度ベニーがキキョウさんを呼びに来た。
「話してくる」と一言言い残し、彼女が出て言ってしまったため二人きりの空間になってしまう。
そうなると、女の子の話し相手は自然と俺へと切り替わる。
『――ねえねえお兄さん。お兄さんはどう思う?』
『……なにがだい?』
『私達の事、怖い?』
『……』
『いいのよ、気にしなくて。それが皆の反応だもの。――でもキキョウお姉さんはね、私が銃を向けてお兄さんたちのところまでの案内を頼んだ時、“手をつなごう”って言ったの』
『え』
『“逃げないように手をつないで”って。その時怖くないのって聞いたら“怖いけど、銃を向けられるよりよっぽどマシ”って言われたの。……自分が殺されるかもしれないのにそんなこと言うなんて思わなかったから、びっくりしちゃった』
『……』
『もし逃げようとしたら殺すつもりだったわ。でもお姉さんは、最後までその手を離さなかったの。…キキョウお姉さんは約束を守ってくれて、私達の我儘も聞いてくれた。そんな人初めてで…とっても嬉しかったの』
『じゃあ、君にとってキキョウさんは初めて出会った優しい人、なんだね』
『ええ――』
その時の彼女の笑顔は先程浮かべた歪なものではなく、その顔に似つかわしい可愛らしい少女そのものだった。
だから尚更、こんな子供が人を殺していることをキキョウさんがすんなりと肯定したのが理解できなかった。
そして逃がし屋の場所まで送り届けた時、女の子は殺された。
ホテル・モスクワが裏から手を回したのだ。
頭を打たれ、空を仰いで倒れた女の子にキキョウさんはハンカチを胸元に置いた。
まるで花を供えるように、そっと。
港で依頼人が殺されそのまま街へと戻る道中、船の密室で今度はキキョウさんと二人きりになった。
俺はこの機会を逃すまいと、思い切って気になっていたことを尋ねた。
『なぜ、人殺しを肯定したのか』。
俺の問いに彼女は「あの子たちは優しい人に巡り合えなかった。だから必死に生きただけ」と冷静に答えた。
確かに、あの子たちに手を差し伸べてくれる人間が一人でもいればあんな死に方はしなかっただろう。
今までの生き方であれば。
あの子たちにはまだ未来があったはずだ。
どうしてここで死ぬ必要があったのか。
貴女なら、今までとは違う生き方をさせられたはずじゃないのか。
あの子が優しい人だと認めた貴女なら。
色々な思いがこみ上げて声を荒げてしまう。
そんな俺に「あの子たちはもう十分頑張った。だから楽にしてあげてもよかったのではないのか」、「楽になるために死ぬことは悪い事じゃない」と言い聞かせるように言ってきた。
まるで死ぬことが希望だと言わんばかりの返答に、「なぜ死ぬことを前向きに捉えるのか」と疑問をぶつけた。
キキョウさんは少し考えた後、微笑を浮かべ「死にたかった時に死ねなかったから」と答えた。
返す言葉が見つからず、黙ってしまう。
そこから街に戻るまでずっと考えていた。
暴力で支配されているこの世界で、子供に対して情けや優しさをかける事は間違っているのか。
起きることを全て受け入れることが正しい選択なのか。
俺の考えは、甘いのか。
街に着いてキキョウさんが船を降りようとした時、最後にそれだけ聞こうと呼び止めた。
何回目の質問だと鬱陶しがられるかもしれない。
だがキキョウさんは邪険にすることなく、こちらを見据え答えてくれた。
『どうするかは俺の自由』だと。
それだけ言って彼女は今度こそ船から降り、この街の顔役の一人である男の元へと向かって行った。
俺はずっと、彼女も俺と同じ人間なんだと思っていた。
いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。
同じ日本で生まれ育ち、武器も権力もない普通の人間。
だから俺と考え方が一緒なのだと信じ込んでいた。
だが、その考えがこの短い間に崩れ去った。
彼女は普通の世界の常識とこの街の常識どちらも理解している。
レヴィのように自分の経験したことや考えだけを正しいと思っているのではなく、理解したうえで“受け入れている”。
これは俺の憶測で確証はないが、きっと彼女が全く語ろうとしない過去に関係しているのだろう。
そうでなければ、全てを受け入れた上で少女にあんな優しさを向けられるはずがない。
それに、彼女が言った『死にたいときに死ねなかった』という言葉。
その言葉を発した時の彼女の表情は、儚さや寂しさを漂わせていて――
それが、とても綺麗だと思った。
悪徳の都に住まう人間があそこまで綺麗な表情ができるのかと、正直驚いた。
そんな彼女が何故この街にこだわっているのか。
何故、平和な世界で生きていないのか。
何故、マフィアとああも好意的に接しているのか。
何もかもが分からない。
だからだろうか。
――彼女をもっと知りたいと思ったのは。
いつもこの街で凛と生きているかと思えば、ふとした瞬間に儚さと寂しさを漂わせる彼女のことをちゃんと知りたい。
そう思うのは、少し欲張りだろうか。
「おいロック、事務所帰るぞ。色々と整理せにゃならん」
「ああ、分かってるよダッチ」
いつの間にか桟橋に移動していたダッチに声をかけられ、自分もそのまま船を降りる。
彼女があの男の元へ内心喜んでいるような顔をしながら向かっていた姿を思い出す。
その時少し眉間に力が入った気がしたが、あまり気にすることなく前を行くボスの後に着いていった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
――家に着くまでの間、迎えに来てくれた彼は無表情で、無言でただ煙草を吸っていた。
どこか重苦しい空気を感じ取り、口を開くことなく窓の外を眺めながら目的地まで時間を過ごした。
そして、車に揺られ20分もすれば港から家に辿り着く。
車が止まった瞬間、運転席で少し気まずそうにしていた彪さんへ一言お礼を言ってから車を降りた。
当然無表情で隣に座っていた彼がこのまま帰る訳もなく、片手にいつものロングコートを持ち、少し遅れて家に向かう私の後を何も言わず着いてくる。
「……」
「……」
マフィアに無言で後を着かれるのは冷や汗ものだが、これまでの状況を考えれば文句は言えない。
この後私がどうなるのか想像すれば、今の状況なんて些細なことだ。
我が家の木製のドアの前まで来たとき、あの子のおかげで壊れていたはずのドアノブが直っているのに気づいた。
これが誰の計らいなのかは分からない。
だが今はそんな事よりも一刻も早く彼と話をし、けじめをつけることの方が最優先だ。
きっと中に入ればもう後には引けない。
自分の家のはずなのにいつもと違う場所のように思える。
意を決し、新しくなったドアノブに手を伸ばし鍵のかかっていないドアを開ける。
「どうぞ」
すぐ後ろにいた彼を先に中へ通し、入ったのを確認した後自身も見慣れた作業場へ踏み入る。
そしていつものように椅子を出そうと動いた時、今まで黙っていた張さんが口を開く。
「今日はくつろぐ気なんざない。お前だって世間話をしたいわけじゃないだろう」
「……ええ」
遠回しに椅子はいらないと言われ大人しく彼の前に立ち、顔を見据える。
サングラスをしていて相変わらず表情は読めない。
こういう時の彼はいつにも増して抗えない雰囲気を纏っている。
「さてキキョウ、早速だが言い訳を聞かせてもらおうか。なぜ片割れを逃がそうとした」
「恥ずかしながら、子供に逃がし屋まで案内しなければ殺すと脅されたんです。なので仕方ありませんでした」
「はっ、お前が脅しに屈するとはな。これは驚きだ」
いつもの冗談のように聞こえる言葉が冷えた声音で発せられる。
私にできるのは、無駄口を叩かず聞かれたことに対し正直に話すだけ。だから黙って話の続きを待つ。
「言い方を変えようか。俺との信頼よりもガキの命を優先したのは何故だ?」
「私が優先したのはあの子の命ではありませんよ」
「――本当にそうかな?」
そうではないと間を置かずに返答する。
だがその答えに納得がいかないのか、張さんは冷えた声音のままそう言うとじりじりとこちらに詰め寄ってきた。
「キキョウ、俺は以前言ったな? “ガキには何も必要ない”と」
抗えない雰囲気に、思わず足が後退る。
「だが、お前は子供に甘い。俺とお前が出会ったのもその甘さが発端だ。忘れたわけじゃないだろう」
「……」
私と張さんが出会ったきっかけ。
この街でまだ洋裁屋として商売を始める前。
私の服を欲しいとしつこく強請ってきた子供に負けてタダで渡した事があった。
そんな些細なきっかけのおかげで今この街で洋裁屋として生きている。
あの時にすべてが変わったのだ。忘れるはずがない。
コツ、コツと革靴の音を鳴らしながら、張さんは話を続けた。
「そしてお前は、後悔しないためなら覚悟を決める女だ。そんな奴が子供を逃がしたとなれば、情けや同情で行動したとしても不思議じゃない」
持っていたロングコートを作業台の上に置き、また更にこちらへ近づく。
そしてとうとう、壁際に追い詰められる。
身長差のおかげで、自然と上目遣いになりながら顔を見据えた。
こんな近くで彼の顔を拝んだのはいつぶりだろうか。
「キキョウ、お前は本当にあのガキに対し情がなかったと言えるのか?」
この質問に返すべき答えは、もうすでに持っている。
だから躊躇せず、この距離で辛うじて見える奥に隠れている瞳を見据え口を開く。
「確かに、私の行動は傍から見れば情で動いたように思われるでしょう」
「……」
「ですが、私が動いたのはそんなもののためではありません」
黙って私の話を聞いてくれる張さんに誠実な態度を示すため、嘘偽りない自身の気持ちを告げる。
「結論から申し上げて、私は貴方に殺されたいからあの子の脅しを聞いたんです」
その言葉を聞いて驚いたのか、一瞬だけ張さんの片眉が上がった。
「ご認識の通り私は後悔しないために行動します。私はあの時、あの子に殺されたら後悔すると思ったんです」
張さんは微動だにせず、私の話を黙って聞き続けている。
何を思って聞いているのかは分からないが、途切れさせまいと更に言葉を発する。
「脅しを聞かなければあの子に殺される。だけどあの子を逃がそうとすれば貴方に殺される。……どのみち行き着く先が変わらないのなら、せめて行き着くまでの過程は選びたい」
結局、私も自分の事しか考えていないのだ。
本当に情で動く人間は、わざわざ見殺しにするような真似はしないのだから。
そう改めて認識すれば、自嘲にも似た笑みが浮かぶ。
一呼吸間を空け、口元に弧を描いたまま口を開く。
「Mr.張。こんな利己的な私があの子に情をかけて動いたと、本気でそう思われますか?」
情けで動いたのではないか、と疑った張さんに今度は私から問いを投げかける。
私の今までの話を聞いても尚、彼がそう思うなら仕方ない。
だが、私は私の素直な気持ちを彼に伝えられた。
それだけでも、十分だ。
私の問いかけを聞いた後張さんは口元を手で覆い隠し、何か考えているようだった。
彼の言葉を聞こうと大人しく待つ。
「……くッ」
「え?」
「はっはっはっは!」
張さんはたまらずといった風にいきなり笑い声を上げた。
ついさっきまでの無表情を崩し、楽し気に笑う彼の姿に思わず呆気にとられる。
一体どうしたというのか。
私はただ質問しただけだというのに。
「あー、全く」
あまりにも突然すぎてどう反応をすればいいか困惑する。
しばらく笑い続けやっと収まったのか、口元に弧を描きながら話しかけてきた。
「本当にお前は変わらんな」
浮かべる表情は変わっても壁に迫られている状態は変わっていない。
至近距離で静かに発せられる言葉に黙って耳を傾ける。
「こんな肥溜めの中で死ぬことは、そこらの野良犬共の餌と化し糞と成り果てることと同義だ。例え誇りだなんだと言いながらくたばったとしても、その事実は変わらない」
「……」
「短いとは言えない時間をこの街で過ごしてきたお前なら、それをよく分かっているはずだ」
そこまで言うと、やがて徐に右手を壁につける。
おかげで更に逃げられないような体勢へと変わった。
「だというのに、お前は命を無駄にする時ほどその瞳を向ける」
近かった顔を更に近づけられる。
今にも額同士がぶつかりそうな距離で張さんは話を続けた。
「俺に銃を向けられた時やヴェロッキオの所へ乗り込んだ時も、そして今回も愚かなほど素直に、哀れなほどの死にたがりっぷりを見せた。ここまで真っすぐ自殺願望を唱える奴はいないだろう。――そんなお前は儚く無様で、とても魅力的だ」
私はただ、後悔するくらいなら死んだ方がマシだと考えているだけ。
無駄に生き延びるより、満足して死ぬことを望むのがイカレているとはどうしても思えない。
張さんは愉快そうに口の端を上げ、今度は左手を動かし私の右頬へそっと触れてきた。
これはもうとっくに慣れた彼の癖。
今回もいつものように、指先で頬の上をなぞる感触を受け入れる。
「だから、こんなことで殺すには“勿体ない”」
その言葉に思わず目を丸くする。
張さんはそんな私の表情を見て「フッ」と笑う。
彼の言葉の意味はつまり…
「私を、生かしてくれるんですか?」
「ああ、あんな情熱的なアプローチをされたんだ。まだまだ愉しませてもらわねえとな。それに、バラライカが生きることを許したんだ。ならこれ以上、お前を責め立てる必要はどこにもない」
恐る恐る問いかけてみれば上機嫌に返された。
『情熱的なアプローチ』とは何のことかさっぱりだが、今はとりあえずまた生かされたことを感謝するべきだろう。
例え彼の気まぐれであっても。
「本当貴方には、何度お礼を言っても足りないですね」
「礼を言う事じゃない。今回も、お前が俺に生かしておきたいと“思わせたんだ”。感謝するなら自身の行動に、な」
「そんな私の自分勝手の行動を寛容に許してくださったんです。感謝しない訳がありませんよ。」
「フッ、そうか」
そう言いながら張さんは、また頬の上を親指でなぞり始める。
この人はマフィアのボスで、誰よりも手を血で汚してきたのだろう。
だが私は何度もこの手に救われた。
そんな武骨で大きく冷えた右手が左頬を包むこの感触は、嫌いじゃない。嫌いになれるはずがない。
そう思えば自然と口の端が上がる。
いつもなら少しの戸惑いとまたかという気持ちが混ざるが、今はそんな感情は全く湧き出てこなかった。
「……お前がここでそういう顔を見せてくれるとは」
私の顔を見て少しだけ驚いた後、ティアドロップのサングラスを外し素顔を晒した。
そしていつものにやり顔を見せ、微笑を浮かべながら口を開く。
「
小恥ずかしいあの呼び方をしながら、深く黒い瞳を私の目線と合わせてきた。
投げかけられた質問に少し戸惑ったが、再び素直な気持ちを告げようと瞳を見据えながら言葉を発する。
「
ああいう質問は何度かされているのだが、実は未だに意味がよく分かっていない。
私の命と腕はこの場所で告げたあの時からとっくに彼の物だ。
その二つ以外に彼が私に求めるものが分からず、今ではただの再確認なのだろうと勝手に思っている。
だから何故今その質問がされたのか不思議だが、何も言わないよりはマシだろうと当然の事を返した。
拙い中国語ではあるが、意味はちゃんと伝わっているはずだ。
「我不是那个意思」
「え?」
「……いや。まあ、もうしばらくはこのままの方が面白そう、か」
一呼吸おいて何か呟いていたが、この距離でも分からない程小さい音量だったので聞き取れなかった。
何を言ったのか気になって聞き返してみたが、彼の言葉に更に首を傾げた。
どういう意味なのか分からず困惑していると「気にするな」、と言いゆっくり頬から手を放し、詰めていた距離を開けた。
「相変わらずたまによく分からないことを仰いますね」
「分かってもらおうなんて思ってないさ」
上機嫌なままサングラスをかけ再び瞳を隠した。
その時「ああ、忘れるところだった」と何か思い出したかのような口ぶりで話し出す。
「昨日そこのコートに二つばかり穴が空いちまってな。また直しておいてくれないか?」
そう言いながら指さす方向には作業台の上にあるロングコート。
ひとまず壁から背中を離し、無造作に置かれたものを手に取り状態を見る。
一見どこが空いているのか分からないが、よく見てみると左側の一番端に彼の言った通り二つ穴が空いていた。
だがそれはいつもの煙草によるものではなく、銃で撃たれたような綺麗な穴だった。
一瞬目を見開いたが、すぐに張さんへ言葉をかける。
「……ひとまず、撃たれたのがコートだけでよかったです」
「ああ。なら、今回はお咎めなしってことでいいのかな?」
ニヤニヤしながらそう言ってきたのでため息が出そうになったが、なんとか我慢する。
「撃たれたということなら、穴が空くのは仕方ないので」
言いながら再びロングコートの状態を見る。
このコートも何度か私が手入れを施してはいるが、やはり少し生地のメリハリがなくなっている。
穴を修繕するのもいいが、折角なので一つの提案を投げかける。
「張さん、よろしければ新しいものお作りしましょうか? もうそろそろ買い替えた方がいいかと」
「お前がそういうなら、そうした方がいいんだろうな」
「では、こちらは一応修繕されますか?」
「いや、いい。新しいのが来るなら着る必要はなくなる」
「分かりました」
彼は服には何の執着も特にこれといった拘りもないため、こういう時は私の提案を丸々了承するのが多い。
唯一彼が服に対して拘りがあるとすれば、“自分の存在を引き立たせるもの”ということ位だ。
私の腕が、彼のその拘りに見合う服が仕立てられると認めてもらえているからこそ、いつもこうして任されている。
本当にありがたいことだ。
「できたら連絡くれ。その時にでもまた一杯やろう」
「ええ、ぜひ」
「また来る」
そう言ってドアの方に向かったので、客人を送り出そうと慌ててドアを開ける。
そのまま部屋の外へ出て行った彼の背中を見続ける。
煙草に火を点け、煙を燻らせながら車に乗り込んだのを見届け中に戻った。
椅子に腰かけ、無意識に溜まっていた息を吐く。
さっきまで殺されると思っていたのに、いつの間にか普段織りなす会話をしていたことに安堵する。
私は本当、人に恵まれすぎている。
そう考えた時、一瞬人に恵まれなかった子供たちの笑顔がちらついた。
だが、それはもう余計なことだと踏ん切りをつけ、入ってきた仕事をこなそうと裁縫道具を手に取る。
――例え子供を見殺しにしたとしても、結局私はこの街で洋裁屋として生きてければそれでいいのだ。
この後も若干触れたりすることはあると思いますが、双子編これにて完結です。
双子編を書くにあたり、色々と複雑な思いがありました。
それについて、ここで少しだけお話させてください。
序章を書き終え、原作編を手掛けた時からこの結末にすることは決めていました。
本編でも触れていますが、キキョウでは双子は救えないのです。
あの子たちが助かるには、
・生き永らえさせたいと思う心
・バラライカさんや張さんと互角に渡り合える力
これが必要不可欠だと思っています。
何度かあの子たちを救える方法はないかと考えましたが、救うためにはあの真っすぐなキキョウが「あの子たちになんとしてでも生きてもらうんだ!」という正義心が芽生えることが必要だと思います。
ですが彼女の根本には張さんも言っている通り「死にたがっている」部分があります。
そんなキキョウが苦しんで生きてきた人に生きていてほしい、なんて思うわけがなく…。
見殺しにし、ハンカチを供えたのはそんな彼女なりの優しさです。
ちなみに、張さんはもともとあの時点で殺す気は全くありません。
だけど、一応何か言っておく必要があったのと、キキョウがなんて答えるのか興味があったため、あえて尋ねています。
だとしても、あの人に無言で後ろから着いてこられたら怖くて歩けませんね。
とまあ、少々長くなってしまいましたが、9話に渡る双子編に付き合っていただきありがとうございました。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。