──子供に刺繍を渡してから四日。
いつも通り作業をこなそうとしたのだが、縫うための糸が切れかけているのを忘れていたため、今は近くの市場へ買い出しをしている。
相も変わらず賑わっているこの市場は嫌いではない。
こういう普通の活気を感じるとなぜか少しだけ安心する。
せっかく市場に来ていることだし、他にも何か買っていこうか。
基本家に籠っていて滅多に来ないのだから。
──そうして買い出しを終え、片手に紙袋を抱えたまま帰路に就いていた。
糸のみではなく、布や針など予定より多く買ってしまったが、久々の買い物で気分がいい。
浮ついた気分のまま歩いているとあっという間に家が見える距離まで来た。
そのまま家に帰って作業を再開する。
──のはずだったのだが、思いもよらない事態が起きた。
よって今、とても家に入れる状況ではない。
何故なら、私が今『最も会いたくない人間』が家の前にいるからだ。
あの季節感ゼロのグラサン男。
私は咄嗟に近くの路地に身を隠した。
私にはあの男に会わなければならない理由もないしその気もない。というか二度と会いたくない。
とにかく、会ったら最後。
もう二度といつもの日常に戻れない。
確証はないがそう確信している。
そんな状況の中私が取るべき行動は、あの男から見つからないように逃げることだけだ。
「──いや参った、まさか留守とはな」
あの服を作ることしか興味がない洋裁屋のことだ。
てっきり籠っているかと思ったんだが、とんだ誤算だった。
だが、家の様子を見る限り作業の途中だったようだ。
あの洋裁屋がこんな状態で長時間家を空けるはずがない。
ということは──
「……彪、女は近くの市場か家の周りにいるはずだ。探せ」
部下に携帯越しで命令する。
作業途中でいなくなった理由は、「なにかの在庫が切れたから買いに行った」ぐらいだろう。
あの女に人の気配を察知して逃げるなんて芸当ができるはずもない。
──そして、俺から逃げることも。
コートのポケットからはみだしていた『一輪のアマリリスが刺繍された布』を奥に押しやり、俺はその場を離れた。
「はあ……」
あれから一時間ほど経っただろうか。
どこの通りを出ても黒スーツを着た異様な男たちがいた。
おかげで今も見つからないために小さな路地にいる。
「なんなんだもう。どうして私がこんな目に……」
堪らず項垂れ呟く。
どうにかして無事に家に帰れないものか。ひとまず必要最低限のものだけ持ちだしたい。
持ち出したら別の場所で暮らそう。
あの家に居続けたらまたあの男に会う羽目になる。それだけは勘弁したい。
小さな路地でしばらく頭を悩ませる。
そこではた、と一つの可能性があることに気づく。
……もしかして、あの男はもう家の前にいないのでは。
流石に一時間もあそこでずっと一人でいることはないだろうし。
色々考えたってしょうがない。
こうなったら一か八かだ。
意を決し、来た道を戻る。
──裏路地を使い、なんとか家の近くまで無事にたどり着く。
あとは家に戻って荷物をまとめるだけだ。
一応家の前や周りを確認したが、やはり律儀に待っているわけがなく誰もいない。
だが、油断は禁物。
表から入るのは不安なので、念のため裏口から家に入った。
あとは最低限必要なものだけ。
私が取りに来たのは金と裁縫道具だ。
この二つがなければ私は生きていけない。
金は自分の部屋に。
裁縫道具は作業場に。
裏口から入ったら直接自分の部屋なので、金はすんなり手に取れた。
あとは裁縫道具。。
早く、早くと焦りと緊張が体中に巡る。
だがそれもすぐ終わる。
あと、あともう少しで……
「随分遅いお帰りじゃないか」
瞬間、作業場からいるはずのない人間の声が聞こえた。
しかもそれは、私が今最も会いたくない男の声。
「家をほったらかしてどこに行っていたんだ。待ちくたびれたぞ」
なんで。
どうして。
疑問ばかりが頭によぎる。
「さて、少し話をしようか。お嬢さん」
サングラスをかけたあの男が余裕を含んだ笑みを浮かべながら私に話しかける。
──もう最悪だ。
ちょっとした豆知識。
アマリリスの花言葉は『誇り』、『輝くばかりの美しさ』。