双子の殺人鬼がロアナプラを震撼させ、命を落とした日から一週間。
やがて長かった雨季も終わり、やっといつものカラッと乾いた気候に戻った。おかげでいい天気が続いている。
だが、私は相も変わらず家に籠っている。
この一週間で一日だけ、バラライカさんにもちゃんとお礼をしようとホテル・モスクワの事務所へ張さんと話した翌日に赴いた。
彼女はあの事があっても尚、いつも通りに迎えてくれた。
ロシアンティーを片手に二人で話したのは、これもまたいつもと変わらない世間話。
その時「まさかあそこで惚気話を聞くことになるとは思わなかった」と少しため息をつかれた。その意味がよく分からず首を傾げたが、バラライカさんは教えてはくれなかった。
そこからは天気がいいにも関わらず、張さんの新しいコートの作成のため外には出ていない。
もう何度も作っているので手慣れたものだが、それでも油断は禁物。作り終えた後は必ず細部まで最後のチェックを行う。
今回も特に問題はなさそうなので、約束通り彼に連絡を取ろうと作業台に置いてある携帯を手に取った。
――そうして張さんへ連絡を取ってから20分。
どうやら彼はまた少し忙しくなったらしく部下の人に取りに行かせるそうだ。
誰が来るのかは言わなかったが、大体は彪さんが来てくれるので今回も多分彼が来るのだろう。
彪さんにもコーヒーを淹れてもてなそうとするのだが、彼はやることをやってとっとと帰ってしまう。なのでいつも余ったコーヒーは、少量ずつココアに加えたりしながらなんとか消費している。
それでもお世話になっている人なので今日もコーヒーを作った。
独特のほろ苦い香りが微かに漂う中、今か今かと受け取りに来るのを待っている。
……それにしても暇だ。
すぐに客人が来ると分かっているのに刺繍などして机を散らかす真似はしたくない。
自分があまりにも趣味を持ち合わせていない事を苦に思う時が来るとは。もうそろそろ来てもおかしくないと思うのだが、今回はどうにも時間がかかっている気がする。
まあ、ここから一時間とか待たされることはないだろうから大人しく待っておこう。
「――ちょっとなんで付いてくるのよ! アンタと歩いてるとこなんて見られたらたまったもんじゃないわ!」
「お前が俺に付いてきてるんだよ。そんなに嫌ならおまえがどっか行きやがれ」
「アタシはこの先に用があるのよ! とびっきり可愛い女の子のとこにね!」
「奇遇だな、俺もこの先に用があるんだ。お前とは違ってちゃんと仕事のな」
「息抜きの一つもできない男は女に嫌われるわよ。あ、アンタの事好いてくれる女の子はいなかったわね」
「気遣いのできない女は女にも嫌われるぞ。お前みたいなやつは特にな」
どうやって暇をつぶそうか考え始めた時、表から聞き覚えのある男女の声が聞こえてきた。
私の周りで気兼ねなく罵り合いをするのはあの人達しかいない。
未だに聞こえてくる罵詈雑言の嵐を聞きながらドアを開ける。
「……何してるんですか、お二人とも」
やはりそこにはバチバチと火花を散らしているリンさんと郭さんが立っていた。
二人が揃ってここに来るなんて珍しいこともあるものだ。
私がドアを開けても二人はこちらを見てくれなかったので、一呼吸空けて声をかける。
「あ、キキョウちゃん。ごめんなさいね、うるさくしちゃって。このクソ野郎がいつまで経っても付いてくるからつい」
「俺はただの仕事で来てるだけだって言ってるだろ、人の話を聞きやがれクソ女。……すまねえキキョウ、遅くなった」
郭さんはうんざりといった顔で悪態をついた後、なぜか私に謝罪してきた。
この言い草だともしや
「もしかして、今回は郭さんが受け取りに?」
「ああ。大哥にたまにはお前が行けって言われてな」
「あら、とうとう厄介払いされたんじゃない? いい気味ね」
「それなら俺はとっくに殺されてるよ。一々嫌味を言わねえと気が済まねえのかお前は」
「と、とりあえずお二人とも中にどうぞ」
何やらまた言い合いが始まりそうな雰囲気を感じ取り、そうはさせまいと声をかける。
このままドアの前で罵声の浴びせ合いを行うのは遠慮したい。
家の中へ促せば二人はほぼ同時に顔を逸らす。先に「ありがと」とリンさんがお礼を言いながら遠慮することなく足を踏み入れた。その後無言で郭さんが入ったのを確認しドアを閉める。
「コーヒー飲まれますか?」
「ぜひいただくわ」
「郭さんは?」
「俺は受け取りに来ただけだからな。今回は遠慮させてもらう」
やっぱり。
郭さんはよく顔を合わせたら話し相手になってくれたりする。
だが彼は張さんの護衛に心血を注いでいるような人だ。そんな人がのうのうとボスの元を離れてコーヒーを飲んでいるのは想像がつかない。
「これだから堅物は。折角キキョウちゃんが淹れてくれたのに飲まないなんて」
「じゃあ俺の分までお前が飲み干しておいてくれ。よかったなあ、キキョウのコーヒー独り占めできるぞ」
「それは確かに喜ばしいことだわ。よく考えたら、アンタにキキョウちゃんのおもてなしは勿体ないものね」
「そんなこと言う暇あるならキキョウの客人の招き方を見習ったらどうだ。お前は大哥が来た時でさえ茶の一杯も出さねえじゃねえか。――ああ、出せないの間違いか。お前料理の腕は壊滅的だもんな」
「アタシのは味が独特ってだけ。というか、料理に関してアンタにだけは言われたくないわ」
「焼けてりゃなんでも食えるだろうが」
「言っとくけど、炭は食べれるものじゃないわよ?」
二人がそんな会話をしている間に、私はさっさと椅子を差し出し自室へ避難……じゃなかった、コーヒーを注ぎに行っていた。
自室にいても作業場からの声は普通に聞こえるので客人達の話は全部筒抜けだ。
話を聞いて『料理についてはどっちもどっちでは?』と思ったが、巻き込まれるのは御免なので心の中に留めておく。
「どうぞ、リンさん。熱いので気を付けてください」
「ありがとう」
椅子に座っているリンさんに淹れたてのコーヒーを手渡せば、郭さんに向けていたしかめっ面を瞬時に笑顔へと変える。
この切り替わりの速さは本当に尊敬できるレベルだ。
そのまま郭さんに確認を取ってもらおうと、ハンガーに掛けていた張さんのコートを手に取る。
「こちらが張さんのコートです。ご確認いただけますか?」
「……もしかして、いつもこうやって見せてるのか?」
「ええ。中に何が入っているのか確認してもらった方がいいと思いまして」
「
「ありがたいことですが、念のためですよ」
私がよく熱河電影公司ビルにお邪魔するため、三合会の人たちには恐らくほとんどの人に顔が知られている。最初はよく睨まれていたが、郭さんと彪さんを始め色んな人と話していくうちに段々そういうことはなくなった。
今では信頼されているのか、はたまた何の力も持っていない女だからか警戒はされていないようで、街中にいてもよく話しかけられたりする。
本当にありがたいことだが、その信頼を崩したくないので例え些細な確認でも怠りたくない。
「……そうか」
私の言葉を聞き一呼吸空けてそう言うと、やがて郭さんは懐からあまり使われていないであろう黒い手袋を取り出した。そしてそのままコートに触れ、端から端まで確認する。
「……終わったぞ」
「ありがとうございます。では今から紙袋に入れますので少し待っててくださいね。」
郭さんがコートから手を離したので、そのまま皺がつかないよう綺麗に畳む。
予め用意していた紙袋に入れ、郭さんに差し出し伝えるべきことを伝える。
「張さんにこちらを渡す際、何かあればいつも通りすぐ対処するとお伝えください」
「分かった」
「では、よろしくお願いいたします」
「ああ。……なあキキョウ」
紙袋を受け取り、郭さんは何か言いたいことがあるのか私の名を呼んだ。
正直、ここでもう帰るんだろうなと思っていたので呼びかけられたことに少し驚いた。
しかもその表情は、どこか真剣さを帯びている。
一体何を言われるのか内心ドキドキしながら、言葉の続きを待つ。
「お前の事だ。大哥を裏切るだとか甘えるだとか、そんな考えを持っていないのは分かる。」
「はい」
「だが、大哥に捧げたはずのその命を他の奴に易々と差し出す行為は考え物だ」
「え?」
「ちょっと、キキョウちゃんにまでアンタの忠誠心を押し付けるんじゃ」
「
郭さんの発言に見かねたリンさんがすかさず止めに入ったが、低い声音に口を閉ざした。
あのリンさんが押し黙るとは予想外だったが、それほど彼は真剣に話をしているのだと瞬時に理解する。
「あの人はお前や俺らが思っている以上に、お前の事を気にかけている。それこそ自分以外が殺すことを許さないほどにな」
「……」
「だから、他の誰かが奪うことは許されない。ましてや、自ら他の誰かにその権利を渡すなんざな」
成程。彼はきっと今回の双子に対する私の対応に疑問を感じたのだろう。
だからこそ、こうしてわざわざ忠告にも似た言葉を言ってくれている。
「お前は三合会の人間じゃないからこんなこと言うのはお門違いだと重々承知だ。
だが、同じ人間に命を捧げている者として敢えて言うぞ。――あの人に少しでも恩を感じているのなら、自分の気持ちだけで突っ走るのは控えてくれ」
彼は私の知る三合会の人間の中で一番と言っていいほど律儀で忠実で、常に張さんのために行動している人だ。
今の言葉も郭さんなりに彼の事を思って発言しているのだろう。
だが、私は後悔しないために動く人間だ。
それだけは、真摯に気持ちを伝えてくれた彼にちゃんと言わなくてはならない。
こちらを見据える彼の目線から逃げることなく言葉を返す。
「郭さん、私は確かに彼に命を捧げました。ですが、私は彼の為に命を捧げたのではなく自分の為に捧げたんです」
「……」
「もし張さん以外の誰かに殺されたいと思う時が来れば、その時は何の躊躇いもなく鞍替えします」
これは限りなくありえない話ではある。
腕と命を助けてくれた彼以上に殺されたいと思う人間はきっと現れない。
だが、それは絶対とも言い切れない。
もしその時に少しでも後悔してしまうと思えば、私の行動は決まってくる。
そんな私とは反対に、郭さんは例え後悔したとしても今までの恩を考え必ず張さんにつく。
そこが私と郭さんの決定的な違いだ。
「私と張さんは、自分の為にお互いを利用しているだけなんですよ。それはこれからも変わりません」
結局私たちはそうなのだ。
お互いの利益の為になれればそれでいい。
「それだけは、頭の片隅にでも留めておいてください」
郭さんに何をどう言われようと、私と張さんの関係は変わらない。
だから遠回しに、“貴方の忠告は聞けない”とそのまま伝えた。
沈黙が落ちる。
しばらくお互いの瞳を見据え続けたが、やがて郭さんが目を伏せ盛大なため息を吐いた。
「はあああ。そうだったな、お前はそういう女だったよ」
納得したような呆れたような声で呟くと、頭を掻きながら困ったような顔を見せる。
「たく、お前だけだぞ。こうもはっきり“張維新とは自己満足の為に付き合ってる”なんて言うのは」
「そう聞こえてしまいましたか」
「それ以外に聞こえねえよ。……お前は相変わらずイカれてるな、キキョウ」
郭さんはどこか嬉しそうな笑みを浮かべそう言った。
てっきり、彼はこういう話を聞いていい気はしないものとばかり思っていた。
だからその表情をみて、少し拍子抜けする。
「長々と邪魔したな。じゃ、俺はこれで」
「あ、はい。張さんにもよろしく言っといてください」
「ああ」
もうここにいる必要がなくなり、最低限な言葉だけを残し彼は部屋を出て行った。
送る暇もなくさっさと立ち去った郭さんの上機嫌な様子に首を傾げる。
「気にすることはないわよキキョウちゃん」
すると、隣で黙って聞いていたリンさんがコーヒーに口をつけながら声をかけてきた。
「頭空っぽの癖に色々考えてたんでしょアイツも。それで勝手に納得して帰った、ただそれだけだから」
「いや、そうだとしても上司のことをああ言われたら上機嫌にはならないと思いますけど」
特に郭さんなら。
疑問を素直にぶつけると、リンさんはコーヒーを喉に流し込み、一息ついた後再び口を開いた。
「何様なのかって話だけど、アイツなりにキキョウちゃんを認めてるのよ。――じゃなきゃ、今頃頭吹っ飛んでるわ」
「え」
「昔からそう。アイツ大哥に逆らったり、大哥の事を冗談でも悪く言う奴は考えなしに殺してきたのよ。それはこの街に来てからも変わってない」
面白くないと言わんばかりに、私の前ではいつも笑顔を見せる彼女らしくない表情を浮かべながら静かに話し始める。
この人もあまり過去の事を言わない。というか、リンさんに限らずこの街の人間が大体そうだ。だが、たまに少しだけ語りたくなる時もあるのだろう。
何も言わず、ただ静かに彼女の話に耳を傾ける。
「そんなアイツが張大哥を馬鹿にしても殺さない人間は、大哥自身に利益があると判断した奴だけよ。まあ、大哥が殺せって言ったらすぐに殺るだろうけど。……とにかく、アイツにとってキキョウちゃんは“有益な人間”だと判断された。それ以上もそれ以下もないの。本当、上から目線でムカつく話ではあるけどね」
「何をどうあの話を聞いたらそういう結論になるんですかね」
「知らない。アイツ脳筋で頭空っぽなクソ野郎だもの。どういう思考回路してるかなんて興味ないし知りたくもないわ」
彼女はそう言うと、ズズッと再びコーヒーに口をつける。
なんだかんだ言って、リンさんも郭さんの事をちゃんと理解している。逆に郭さんもリンさんのことを理解している。
あれだけ罵倒し合っているのに。
いや罵倒し合える関係だからこそ、というべきなのか。
まさにこれを“喧嘩するほど仲がいい”というのでは?
そう思ったが、これを言ってしまえば不機嫌になることは明白。
だから代わりに違う言葉を投げかける。
「彼と腐れ縁である貴女でも分からないなら、私に分かるわけないですね」
「それならとっとと腐り落ちて欲しいもんだわ」
彼女は腐れ縁であることは否定せず、代わりに半ばやけになりながら残っていたであろうコーヒーを飲み干した。
「まあ、何はともあれ様子を見に来てよかったわ。アタシも見てて面白かったし」
「どこに面白さを感じたんですか?」
「キキョウちゃんのああいうはっきりした態度、見てるだけでスカッとするのよ。どいつもこいつも言い訳ばっかりで自分のしたことを取り繕おうとするから。だから、アタシはキキョウちゃんが好きなのよ」
リンさんはそこでやっといつもの笑顔を見せた。
ここは褒められているからお礼を言うべきなのだろうか。
「あ、ありがとうございます?」
「なんで疑問形なの。フフッ」
可笑しい、と声を洩らす彼女につられて自身の口端も上がるのを感じた。
「ねえキキョウちゃん。折角だから、今からイエローフラッグで一緒に飲まない?」
「いいんですか? リンさん自宅か静かなバーで飲みたいんじゃ」
「たまには馬鹿騒ぎしながら飲むのもいいでしょ。今日はそういう気分なの」
これはまた珍しいこともあるものだ。
男ばかりが出入りするあの酒場で飲もうなんて。
だがきっと、多少でも気心の知れている彼女とお気に入りの酒場で飲む酒はとても美味しいだろう。
断る理由がなかった。
「そういうことなら、ぜひ」
「ありがと。じゃ、早速行きましょ」
リンさんから空いたコーヒーカップを受け取り、自室に向かい台所のシンクに置く。
そしてそのまま、すでに外で待っている彼女の元へ急ぐ。
今から飲める酒の味に心躍らせ、リンさんと共にイエローフラッグへと向かった。