「大哥、キキョウちゃん連れてきましたよ」
「入れ」
荘さんのいる部屋よりも少し小さいドアの前で立ち止まり、リンさんがノックをし声をかけると反応が返ってきた。
「失礼します」と断りを入れつつ中へ入れば、部屋の奥で高級そうなソファに腰かけている張さんの姿が目に入る。
ロングコートとジャケットは脱いでおり、Yシャツにスラックスといういつもよりラフな格好だ。
優雅に足を組んでいる彼の後ろには、郭さんと彪さんが腹心らしく静かに立っている。
「面倒をかけたな」
「服の事ならお気になさらず。仕事ですから」
「それもあるが――俺が言っているのは彼女の事だ」
私の姿を捉えるや否や言葉を投げかけてきた。
部屋の中だというのに頑なに取ろうとしないサングラスから一瞬だけ瞳を覗かせる。
黒い瞳がこちらを真っすぐ見据えていることは、その一瞬だけで分かった。
「俺はお前に聞きたいことが山ほどある。だが、それはお前も同じだろう?」
「ええ。ですが、彼女に関しては貴方がたの仕事です。何もできない私が聞いてもいいんですか?」
「ここまで来て何も説明なしってのはな。それに、心配しなくてもお前に聞かれて困る話はこっちで勝手に伏せさせてもらうさ」
「そうですか。なら、安心して話ができますね」
ニヤりとした彼につられて、自身も口の端を上げながら軽い冗談を返す。
「少しばかり長話になるだろう。まあ座れ」
「失礼します」
そう促され、彼とは反対側のソファに腰かける。
相変わらず優雅に足を組んでいる彼と向かい合い、お互い顔を見据えた。
「さて、とりあえず状況を整理しようか。まずは俺の質問に答えてもらいたい」
「はい」
――そうして、張さんから次々に質問が飛んできた。
彼女とどこで、どんな経緯で出会ったのか。
何故彼女を助けたのか。
何故すぐに連絡しなかったのか。
繰り出される質問に対し起きたことをありのまま話す。
ボロボロな状態で家の前に倒れていたこと。
人が倒れているのを放置した状態で仕事が捗らないため保護したこと。
色々考えたうえで、関係者であり医者であるリンさんに連絡したこと。
三合会と関係があると確信を得た上で張さんに連絡しようとしたこと。
嘘偽りない内容を伝えている間、張さんはただ黙って聞いてくれた。
最後の質問に答え終わると、何か考え事をしているのかしばらく沈黙が落ちる。
「……」
「……」
誰も何も話さない。
沈黙が重く感じる空気になんとか耐えながら、彼の言葉を待つ。
長い足を組み替え、やがて一つ息を吐き口を開いた。
「お前がこういう時嘘をつかないことを俺はよく知っている。それに、リンから事前に話は聞いていたしな。疑う余地はない。……だが、お前は特にメリットがない拾い物をするタイプだったか?」
「今回はデメリットの大きさを危惧しただけですよ。貴方が彼女を知らないと仰っていたら、問答無用で追い出すつもりでしたし」
「そうか。――まあ何にせよ、お前が彼女を拾い俺達の元へ連れてきたのは事実だ」
真剣な表情で発したその声音はいつもより少し固いもののように感じた。
張さんはこちらを見据えたまま話を続ける。
「彼女の事はどこまで知ってる?」
「三合会トップの方の娘さんということと、無理矢理連れ去られたことだけです。あ、後はもうすぐご結婚されるとかなんとか……」
「ほう、令爱がそこまで喋ったとはな。結婚のことについてはあまり他言しなくなったんだが……成程、彼女がお前を様付けで呼ぶ理由が掴めた」
真剣な表情から一変、彼は愉快そうに口の端を上げる。
一体どこに愉快に思う要素があったのか分からず首を傾げた。
そんな私の様子を気にすることもなく、そのまま話を続ける。
「お前が認識してる通り彼女は俺たちの首領、龍頭の娘御だ。そして、近いうちに香主とご結婚されるお方でもある」
「……シャンジュ?」
「三合会で二番目の地位。すなわち次期龍頭にあたる」
ということは、だ。
荘さんは龍頭の娘でもあり、未来の龍頭の奥さんになる。
なんというか……『なんて凄まじい道を歩むんだ』と思ってしまった。
いや、そんな感想はどうでもいい。
気になるのはやはり――
「あの、なんでそんな彼女がこの街に? 三合会の実情は知りませんが、こんな易々と攫えるものとは」
「俺としてもそこが不可解でな。どんな手段を使いこの街に連れてきたのかは分からん」
「なら、犯人はまだ掴めていないと」
「この街に運んできた連中を捕らえるのは容易だった。だが、肝心の親玉については未だ掴めていない。……まあ、そこについては香港の方で動いている。俺達にできるのは、向こうが落ち着くまで令爱を預かっておくことだけだ」
この言い方だと、その親玉は少なくてもこの街にはいないということか。
そうであれば、離れた土地にいる張さん達ができることはそんなにないのだろう。
ひとまず現在の状況は分かった。
あとは彼女がいつ香港に帰れるのか。
いくら張さんが保護しているからといって、あの様子だと彼女自身早く香港へ帰りたいだろう。
それに、彼女にこの街は似合わない。
「帰せる目途は立っているんですか?」
「今のところは何とも言えん。だが、すぐに落ち着くだろうさ」
「確証はあるんですか」
「本部が本腰を入れて事にあたっているんだ。なら、こっちはただ吉報を待つだけだ」
「……そうですか」
彼は憶測で物を言うタイプではない、と思う。
立場のせいもあるのだろうが、確信を得ないまま自ら行動を起こすなんて滅多にない。
少なくても、そうなった事を私は見たことも聞いたこともない。
そんな人が、こうも堂々と断言している。
彼女が帰れる時が来るのは、意外と早いのかもしれない。
「しかし、まさかお前のところに来ていたとはな」
張さんは再び足を組み替え、いつもの声音で呟いた。
「私も、まさか家の前で倒れてたのが三合会と深く関わっている人だなんて思いませんでしたよ」
「だろうな。……普段なら褒められる行動ではないが、今回に関しちゃ話は別だ」
真剣な表情を携えたまま、彼は静かに話を続ける。
「俺の元に、『令爱がこの街にいる』という情報が届いたのは昨晩。“彼女を五体満足で香港へ送り帰す”ことが俺達に課せられた重要な任務となった。彼女に万が一のことがあれば、俺も含めた全員の首が飛んでいただろう」
リンさんと同じことを言っている。
いくら冗談好きな張さんでもこんなことを軽々しく言う訳がない。
それほどまでに、三合会の人たち全員にとって切羽詰まっていた状況だと今更ながら理解する。
「お前が令爱を拾わなければ、こんな短時間で保護することは絶対不可能だった」
「……」
「お前がどんな気まぐれを起こし彼女を拾ったのかは知らん。だが、その行動のおかげで俺は今こうしてゆっくり話ができている」
いったい何が言いたいのだろう。
私の行動は私のためだけに起こしたもので彼らのためではない。さっき言ったはずなのだが伝わっていないのか。
訝し気になりながら黙って話を聞いていると、張さんは口の端を上げニヤリとした表情を浮かべた。
「キキョウ、お前は俺に……いや俺達に最大の利益をもたらしてくれた。さながら幸運の女神のようにな」
「やめてくださいその言い方。今回は私の行動がたまたま貴方達にとって有益だっただけの話でしょう」
「その利益があまりにも“大きすぎる”んだ。なら、ただの偶然だとしてもそれなりの礼はして然るべきだろう」
「……なんだか、随分ご機嫌ですね」
「ああ、今すぐ手の甲にキスしたいほどにな」
表情や声音からしていつも以上にご機嫌だというのは手に取るように分かった。
「冗談はやめてください」
「冗談じゃないさ。――本当に最高だお前は」
これは、今まで見た中で一番機嫌がいいのでは?
今にも大声で笑いだしそうな雰囲気だ。
酒も煙草も口にしていないのにここまでなるとは。
「さて、そんな幸運の女神さまは何か欲しいものはないのかな」
「ありませんよ。強いて言うなら、今すぐその呼び方をやめてほしいですね」
「そんなに気に入らなかったか?」
「ええ、これっぽちも」
「そりゃ残念」
彼の冗談に躊躇なく真顔でそう返すと、くくっと笑い心底愉快そうな表情を見せる。
私としては“女神”なんてガラでもないので、またそう言われるのは本当に遠慮願いたい。
「とりあえず、お前への報酬はまた考えておく」
「いや、ですから報酬も何もいりませんよ?」
「まったく、相変わらず欲がねえな。貰えるもんは貰っといた方がいいと思うがね」
呆れたような感心したような声音を出し、小さくため息を吐いた。
そんなことを言われても、今回は報酬を貰うために行動をしたわけではないので本当にいらないのだが。
「ま、一応少しは何か考えとけ。ひとまず俺からの話は終わりだ。お前の方は?」
「気になることは大体聞けたので特には。……あ、彼女の服についてなんですが私が持ってきたのが2.3日分なんです。なので足りない時はご連絡いただけると」
「分かった。その時は彼女のためだけの服を持ってきてくれ。そっちの方が令爱も喜ぶだろう」
「ええ。そのためにも彼女のサイズを測らせていただきたいんですが、今は遠慮した方がいいでしょうか?」
彼女はマフィアのボスの娘だが、話した感じだとこの街の住民たちとは明らかに違う。
周りの環境が普通とはかけ離れているから異質だと感じるだけであって、荘さん自身は普通の女性のように思える。
そんな女性であれば、保護されたばかりで気持ちが落ち着いていない可能性だってある。
もしそんな状況なのであれば、採寸は急ぐ必要はないのでまた後日にすればいい。
「いや、彼女なら大丈夫だろう。ああ見えて肝が据わってる。それに、相手がお前ならむしろ喜ぶと思うぞ」
「え?」
「俺もまた後で令爱のところに行く。それまで彼女の話し相手になってやってくれ」
「……分かりました」
私よりも荘さんの事を知っている彼がそう言うのであればきっとそうなのだろう。
この街での保護者である張さんから許可が下りたので、後は彼女自身に許しを貰おう。
よく分からないことを言われた気がしたが、彼の言う通りひとまず採寸ながらでも話し相手になればいい。
「リン、お前はキキョウについて行け」
「喜んで」
「では、また後で」
短くそう挨拶し、ソファから腰を上げ足を動かす。
後ろで黙って聞いていたリンさんと目を合わせそのままドアの前まで歩く。
部屋を出るとき、軽く会釈をし再び彼女のいる部屋へと二人で向かった。
『――確かに一刻も早くとは言ったが……ちと早すぎないか』
「俺自身も驚いています。まさか昨日の今日で令爱を見つけることができるとは」
『仔細を』
リンとキキョウが去った後、張はすぐさま携帯を手に取りとある番号へとかけた。
相手は言わずもがな三合会香主、鄭 劉帆である。
多大な労力と時間を要するかと思われたが、たった数時間で自身の婚約者が見つかったと報告を受け、流石に香主と言えども驚きを隠せなかった。
「我が知人が偶然令爱を拾ったと。話によれば、疲れ果て家の前に倒れていた彼女が我々と関りがあると考え保護した、とのことで」
『たったそれだけの理由で正体も知らない人間を拾うわけがない。何か見返りでも求められたか?』
「いえ、何も」
『あ?』
「“何もいらない”と、はっきりそう言われました」
『……』
張の返答を聞き、香主は口を噤んだ。
世界中の悪党が集い、悪党どものためだけに存在するロアナプラ。
その悪徳の都に住まう人間が見返りもなしに正体も知らない女性を保護するなど、あり得ない話だ。
「そいつは少々変わり者でして。そいつにとっての見返りは、強いて言えば“自身の仕事に支障をきたさないこと”。それ以外に望むものはない、ということなのでしょう。何か見返りを求め行動を起こしたのなら、素直に言うはずですから」
『随分信頼しているようだな』
「ええ。この街で数少ない、我々の仲間以外で信頼するに足る存在の一人です。それに、令爱も短い間で気を許したようで」
『桜綾が?』
「はい。自ら貴方とのご結婚の事まで話し、様付けで呼ぶ程に」
『……珍しいな。彼女は滅多にそのことを話さなくなったはずなんだが』
知りもしない相手の利益のため幾度も攫われ、傷つけられ、己を害する者から狙われ続けた総主の一人娘は簡単には心を許さなくなっていた。
常に疑り深く、慎重に行動する。
そんな彼女がたった数時間前に会った人間に気を許したなど、傍で見ていた鄭にとって予想だにしなかった異例中の異例だ。
『まあいい。その知人の事は桜綾からも直接聞いておこう』
「令爱は貴方と話すのをとても心待ちにしておりますよ。……それで香主、そちらの方はいかがですか」
『足は掴めた。後は核心に至る証拠ってところだ。あと2.3日で親玉を炙り出せるだろうな』
香主の言葉に張は少しだけ目を見開いた。
ここまで大きな事を起こしたにも関わらずこの街まですんなり運んできた相手であれば少々手こずってもおかしくないと踏んでいた。
いや、彼らが動いた時点でそんな考えは杞憂だったのかもしれない。
「流石、としか言えませんね」
『今のところは、の話だ。少し気になることもある。だから彼女にはもう少し待ってもらうことになるが……張、桜綾はどうしてる?』
「我が知人と話してる最中です。また後程、すぐにそちらへかけ直します。その時にでも令爱を宥めていただけると」
『あんまり期待はするなよ? ――龍頭も彼女の声を聞きたがっている。なるべく早くな』
「
そう言葉を交わし、やがて向こうから通話を切られた。
ツーツー、という音を何回か聞いた後、張は携帯を後ろで静かに聞いていた彪へ手渡す。
ふといつもの癖で懐に手を伸ばしたが、客人である彼女が婚約者以外の煙草の臭いが付くのは好いていないことを思い出し取り出すのをやめた。
頭を掻き、一つ息を吐き腰を上げる。
「令爱が駄々をこねなきゃいいがなあ」
十数年前に自身も手を焼いた“やんちゃで我儘なお嬢様”の姿を思い返しながら、女性の話し声がする部屋へと歩みを進めた。
――――――――――――――――――――――――――――
――香港。
高層ビルがいくつも聳え立ち、煌びやかなネオンの光が輝いている街中にはかび臭くいつ倒壊するか分からない程ボロボロな家屋も存在する。
何もかも失った哀れな人間が所々に横たわっている場所にも、誰も使おうとは思えない家屋がある。
水漏れし、天井から滴が落ちる音が響く部屋には、黒髪をオールバックに整え、眼鏡をかけた中国系の男が携帯を片手に誰かと言葉を交わしていた。
『――話が違うじゃねえか! この計画はお前が提案したもんだぞ!』
「“張維新失脚のためなら何だって差し出す”と言ったのはそちらです。私はその心意気を買い、チャンスを与えたに過ぎません。その大きなチャンスのために三合会すべてを揺るがすことのできる高貴な人質も確保した。そこから先は貴方の役目だったはずですよ」
『お前だってアイツに恨みがあったからやったんじゃねえのか!? なら最後まで付き合うのが道理ってもんだろ! てめえ一人だけ助かろうなんざ』
「マフィアの貴方から道理という言葉が出てくるとは。我々のような人の善意につけこんで稼ぎ、食っている人間に初めから道理なんてものは存在しない」
男は鼻で笑いそうになるのを堪え、指で眼鏡を押さえながら話を続ける。
「それに、私は『貴方と最後まで付き合う』なんて一言も言っておりませんよ」
『ふざけんな! このままじゃ俺に全部飛び火がくる!』
「それは貴方の自業自得。そもそも自身を拾った恩人の一人娘を攫おうという計画にのった時点で“終わっていた”んですよ。――恩を仇で返すようなクソ虫の行く末なんざ、知ったことではない」
『舐めた口聞いてんじゃねえ、たかが売人風情が! 密売ルート渡してやったこと忘れたのか!』
「忘れていませんよ。だからそのお礼に、張が失脚する“かも”しれない一歩手前まで駒を進めた。それで十分では?」
自分の本音がつい漏れてしまったことに苦笑を洩らしつつ相手の怒号を流す。
飽きもせず大声を出し感情を爆発させていることに呆れながらただ冷静に言葉を返す。
「ルートを渡してくださったことへの礼を返した今、私が貴方と手を結ぶ理由はない。更に言わせてもらえば、計画が頓挫した状況でこれ以上付き合うメリットも。なので、私は私のため貴方と手を切らざるを得なくなっただけのこと」
『てめえ、まさか最初から……!』
「ご想像にお任せします。――残念ですが私も少々忙しい身。ではこれにて」
『おい! まだ話は』
相手が言葉を続けているにも関わらず、問答無用で電話を切る。
男はそこで溜まりに溜まったため息を盛大に吐き出した。
「はあ、これだから直情型の馬鹿は。アンタに張の相手が務まるわけないというのに」
Camelと書かれた箱から煙草を取り出しライターで火を点ける。
煙を吐き出し、眼鏡を小さなテーブルへ置く。
「にしても、まさか1日でお嬢様を見つけるとは。ひ弱な女が“あの街”で生き延びれるとは思えないが」
男は顎に手を添えながら思考を巡らせた。
眉間に皺を寄せながら、様々な可能性を浮かべては消し、浮かべては消しを繰り返す。
「……ま、今となっちゃどうでもいいか。やるべき事は済んだ。後はタイミングを待つのみだな」
椅子から腰を上げ、眼鏡を再びかける。
黒いガジェットバッグを片手に、咥えていた煙草をベッドの上に投げ捨てた。
――数時間後、その家屋は跡形もなく消し去るように燃え盛っていた。
桜綾さんは無事に保護されましたが、まだまだお話は続きます。