桜綾さんが来てとうとう七日目が経過した。
彪さんも一週間はいるかもしれないと言っていたのでそれほど驚いてはいないが、そろそろ迎えに来てあげてもいい頃なのではと思い始めている。
幸か不幸かこの一週間依頼は何も入ってこず、相も変わらず桜綾さんと話をし、その後は張さんに彼女の様子を報告して帰るという日々を送っている。
たまにリンさんも入れて女性三人で話す機会もあったのだが、桜綾さんが“劉帆さん”の話を始めると次第に何故かそそくさと逃げるようになった。
気になって聞いてみれば、「あんな長時間も惚気話聞かされるのは苦手なのよ。恋する女性は素敵だけど、あれはちょっとね」と目を逸らしながらそう言われた。
確かに、桜綾さんは“劉帆さん”の話になると歯止めが利かなくなる時が多い。
この前は二時間……いや三時間ほどノンストップで“劉帆さんをどれほど愛してるか”について語ってくれた。
私としては自分の知らないお伽話のような内容なので、別にそれほど苦ではなかった。
というか私の役目は彼女の話し相手なのだから、楽しそうに話す桜綾さんを前にして逃げるなんてできるはずもない。
やるべきことをこなしているだけなのに、なぜか「やっぱりお前に頼んで正解だった。俺も含めて彼女の恋バナに最後まで付き合える人間はそういない」と張さんに感心された。
――そして、彼女の話し相手となるべく今日も今日とて行きなれた隠れ家に向かう。
寄り道もせず歩いて行けば、すぐに隠れ家というにはあまりにも大きな家屋が見えてくる。
その入り口近くに高級車が停まっているということは、もうすでに張さんもいるのだろう。
そういう時は先に彼に挨拶をしてから桜綾さんの元へ行くのが最早決まりになりつつある。
別にそうしろと言われたわけではないが、無断で彼女と話すよりその方がいいだろう。
真っすぐ入口の方へ足を進めていると、護衛として立っている三合会の人たちと目が合った。
「よう洋裁屋、今日も令爱のお相手か?」
「キキョウさん、お疲れ様っす」
「ええ、貴方がたもご苦労様です。張さんはもういらっしゃってますか?」
「ああ、ついさっきな」
「大哥はいつもの部屋にいるっすよ」
「ありがとうございます」
この二人とこうして挨拶するのも恒例になりつつある。
最低限の言葉を交わし、すんなりと中へ通された。
そのまま家の中へと入り、広い廊下を進み彼がいるであろう部屋の前に立つ。
「――本当ですか! 本当に本当に本当に!?」
ドアをノックしようとした瞬間、部屋の中から聞きなれた女性の声が飛んできた。
「令爱、どうか落ち着い」
「無理です! だって彼の姿をもう1週間以上も見てないんですよ! これが喜ばずにいられますか!?」
「飛び上がるほど嬉しいのは分かりましたから落ち着いてください」
いつもより興奮気味の桜綾さんの声とそれを諫める張さんの声が交互に聞こえてくる。
お淑やかな彼女からこんな声が聞けるとは思わず驚いた。
そのおかげかノックする動きが止まり、完全に叩くタイミングを逃した。
二人の声を聞きながらどうしよう、と立ち往生してしまう。
「キキョウちゃん何してるの。入るならさっさと入ればいいのに」
行き場を失った手をどうするべきか悩んでいると、私の後ろから今度は別の声が飛んできた。
「……ノックするタイミングを失ってしまって。リンさんいつからそこに」
「桜綾様の大きい声が飛んできた辺りから。その時ちょうど話しかけようとしたらキキョウちゃん固まったんだもの。何かの発作かと思ったわよ」
「えっと、持病はないのでご心配なく……」
この返しはどうなのかと我ながら思うが、他にどう返せと言うのか。
あたふたとしていた様を最初から見られていたことへの妙な気恥ずかしさを感じつつ、今度こそドアをノックする。
「張さん、キキョウです。入ってもよろしいでしょうか?」
「……入れ」
一瞬の間を空けた返事にドアノブを回す。
整えられた綺麗な部屋には張さんと二人の腹心、そして満面の笑みを浮かべている桜綾さんがいた。
「お話し中すみません。今日も桜綾さんとお話を……」
「キキョウさん! 今日も来てくださってありがとうございます! 実はさっきですね!」
「うわッ……桜綾さん、いつも以上にお元気そうで」
「ええ! 今私とっても嬉しいんです! もう走り回りたいくらい!」
「それは楽しそうですね。でも走り回る前に、その嬉しくなった理由をお聞かせくださいますか?」
張さんへ話しかけている途中で、桜綾さんが先程と違わない興奮したような声を出しながら勢いよく抱き着いてきた。
いつもは礼儀がよくしっかり者の印象がある彼女が、落ち着きのない少女のような行動を取ったことに驚愕する。
そんな状態でなんとか彼女を受け止めつつ、そんな状態に至った理由を聞きだす。
「実は今日、劉帆さんが迎えに来てくださるんです! もうこちらに向かっているそうで!」
「……え、今日ですか? 明日ではなく?」
「ええ、今日です! あと少しで会えるんです! ようやくちゃんとキキョウさんに紹介ができます! ああ、こうしてはいられません! 私ちょっと準備してきます!」
「あ、ちょっと桜綾さん!?」
正直、そういう事だろうとは思っていた。
彼女の様子とさっきの会話からして誰だって見当はつけられる。
だが、まさか“今日”三合会の香主が迎えに来るとは流石に予想していなかった。
呆気にとられる間もなく、桜綾さんは早口で言った後すぐ部屋を出て行ってしまった。
私の引き留める声も聞こえていないのか、パタパタと駆ける足音はもうすでに遠くなっている。
嵐が去った後のような静けさが落ちる。
徐に部屋の奥を見やると、張さんがソファに腰かけ少し困ったような表情を浮かべていた。
「お疲れ様です張さん」
「ああ。まったく、ああいうところは昔から変わってない」
「でもよかったじゃないですか。元気がないよりは大分マシでしょう?」
「まあな」
張さんを翻弄できる女性なんてこの世で彼女だけなのでは?
マフィアとずっと関わってきたからこそできる芸当なのかもしれない。
やれやれと一息つき、彼が再び静かに口を開く。
「さっき彼女から話があった通り、香主が今日ここへ訪れる。勿論彼女の迎えのためだ。だが彼の用事はそれだけじゃない」
「……」
「分かってるなキキョウ」
「ええ、ここまで来て“知りません”なんてしらばっくれるつもりはありませんよ」
香主がここへ来た時に済ませる用事。
第一に桜綾さんの迎え。
第二に――私への挨拶。
桜綾さんから話を聞いたその日、なんと張さんからも同じことを言われたのだ。
あの時も私は中々納得ができず、少ない語彙力で説得を試みたのだが……
『――香主が令爱を迎えに来られるとき、ついでにお前にも挨拶したいんだそうだ。事前に話を通しておくべきだと思ってな』
『私に挨拶なんてはっきり言って必要ないでしょう。私はなにも見返りが欲しくて彼女を拾ったわけじゃないんですから』
『それも分かった上でのことだ。香主は誰も彼も会うような方じゃない。そんな人が“わざわざ”挨拶に行くと言っている。その気遣いを無駄にするのはよろしくないだろう』
『よろしいよろしくないの問題じゃないです。私はただの洋裁屋ですよ? 国際的なマフィアのナンバーツーに挨拶される立場じゃ』
『今回は洋裁屋がどうとかの話じゃない。彼の妻となる女性を救った恩人への挨拶だ』
『何回も言っていますが恩人なんて大げさすぎです』
『お前がどう言おうと俺達はお前に大きな借りができたことは変わらない。そんなお前に何も要らないと言われたんだ。なら挨拶くらいさせてほしいと思うのは必然。律儀で有名な彼なら尚更だ。――だが、お前がどうしても嫌だというなら仕方ない』
『え?』
『そこまで言うなら、俺が誠心誠意頭を下げて断っておこう』
『……は?』
『はあ、“俺達の頭である彼”の気遣いを無駄にするのは忍びないが仕方ない』
『ちょ』
『俺としてはぜひ受けてほしかったんだが、無理強いはよくないしなあ。やれやれ困ったもんだ』
『……その言い方はずるいですよ張さん』
『こうでも言わないと首を縦に振らないだろう?』
『本当、ずるいですよ――』
とまあ、こんなやり取りを行い渋々香主の挨拶に応じることを承諾した。
正直今この瞬間も香主の気が変わらないだろうかと願っているのだが、それが叶う可能性は極めて低いだろう。
完全に納得していないとはいえ、一度応じると言ったのだから逃げ出すわけにもいかない。
「腹は括ったようだな。まあ、挨拶と言っても少し話すだけだ。いつも通り堂々と応対してりゃいい」
「貴方が敬服している方を相手にですか? 勘弁してください」
「何も取って食おうとしてるんじゃないんだ、そう気負い過ぎるなよ」
私の気持ちを知ってか知らずか、彼はいつもの余裕を見せる表情を浮かべている。
ため息を吐きたくなるのを何とか堪え、顔を見据え口を開く。
「もうこちらに向かっていらっしゃるんですよね。ということは後2、3時間ほどですか?」
「ああ、空路でこっちに直行だ。直接ウチのビルに来ることになってる。彼が着くまで、令爱と最後の話し相手を務めてもらいたい」
「分かりました」
“最後”か。
短かったような長かったような不思議な感覚だが、彼女にとって喜ばしい事なのだ。
少し寂しいなんて、口が裂けても言えない。
「では、桜綾さんとの最後の茶会に行ってきますね」
「ああ。リン、お前も今回は最後まで付き合ってやれ」
「かしこまりました。ついでに、怪我の具合もチェックしてきますよ」
「失礼します」
これ以上話すこともないので、数日任された役目を全うしに足を動かす。
ドアを閉め、一緒に部屋を出たリンさんと目が合う。
瞬間、いつもの微笑みを向けられた。
「頑張ってね」
「リンさん、今回は絶対逃がしませんからね」
「あら怖い。最後くらいちゃんと付き合うわよ、多分」
「リンさん」
「はいはい。ほら、さっさと行きましょ!」
ごまかす様に背中を押すリンさんに促されるまま廊下を進む。
その先にある大きな部屋から、機嫌がいい女性が奏でる鼻歌が聞こえてきた。
―――――――――――――――――――――――――――
「――キキョウさん、私どこもおかしくないですか?」
「そんな数分では変わりませんから安心してください。大丈夫ですよ」
「すみません。彼に会えると思うとなんだか落ち着かなくて」
「とりあえず座りましょう。ずっと部屋の中を歩き回ってたら会う前に疲れてしまいますよ」
「そうですよ桜綾様。香主に元気な姿を見せるためにも落ち着きましょう」
香主がこちらへ向かっていると聞いてから2時間後、もうそろそろ着くらしいと張さんから報せを受け、私たちは熱河電影公司ビルへ移動した。
客人を招くための応接室に通され、桜綾さんの付き添いとして私とリンさんも彼の到着を今か今かと待っている。
部屋に通されてから桜綾さんは中々落ち着かないらしく、鏡の前を行ったり来たり、ガラス越しに空を何回も見上げたり、座ったと思ったらすぐ立ち上がって部屋中を歩き回るというそわそわした様子を見せた。
そんな彼女をなんとか落ち着かせようと、リンさんと二人であの手この手でじっとさせようと試みている。
そうやって根気強く何回も同じやり取りをしたおかげか、段々こちらの言葉を聞きいれるほどには落ち着いたらしい。
私達の言葉を聞き、少しだけソワソワしながらも良い素材で作られたチェアに腰かけてくれた。
「もう2時間経ったのに……。なにかあったんでしょうか」
「そんな顔しないでください。妻たるもの夫を信じるべきなんでしょう? なら今も信じて待つべきです」
「それに、何かあればすぐ大哥へ報告が行くはずです。知らされていない間は何もありませんから、安心してください」
「……はい」
渋々ながらも、なんとか納得したようで素直に返事をしてくれた。
眉尻を下げ、とても悲しそうな表情を見せていることについてはあまり触れないでおくべきだろう。
香主の事となると、彼女は普段よりも感情を露にし落ち着かない様子を見せることがある。
彼女も自覚はしているようでなんとか抑えようと頑張っているらしいのだが、今回のように何日も離れている時は中々上手くいかないのだと桜綾さん自身から聞いた。
今も抑えようとしているのか、窓の方を見つめながら左手の薬指をずっとさすっている。
この一週間よく見かけたその癖は、彼女が自身を支えるための行動なのだと勝手に解釈している。
「劉帆さん……」
「……」
だが、この様子ではあとどれくれらい持つのか分からない。
この一週間、彼女をずっと見てきたのだ。
今まで見たことないほど不安であることは手に取るようにわかる。
だからといって、私にどうにかできる術がある訳もない。
「キキョウちゃん」
どうしたものかと頭を悩ませていると、小さな声でリンさんに呼びかけられた。
桜綾さんに聞こえないようお互い顔を近くに寄せ、こそこそと話し出す。
「どうしたんですか」
「アタシちょっと大哥のところ行ってくるわ」
「え?」
「逃げるわけじゃないのよ? 香主があとどれくらいで着くのか一応聞いてくるだけ。このまま待ち続けるより大分マシだと思うから」
「分かりました。その間は私一人で対応します」
「よろしくね」
そう言って私の肩をぽん、と叩きそのままドアの方へ向かっていく。
「……あら?」
ドアを開ける音が聞こえた瞬間、ふと後ろでリンさんの不思議がる声が飛んできた。
そのまま部屋を後にするものだと思っていたのもあり、訝し気に振り向くとドアを開けたまま動かないリンさんの姿が目に入った。
「丁度いいタイミングで。令爱が待ちくたびれてますよ」
そう言ってドアを更に開けると、ロングコートは置いてきたのか、スーツ姿の張さんが部屋に入ってきた。サングラスは相変わらず取る気はないようでそのままだ。
「令爱」
「張兄さん。劉帆さんは……?」
「ご安心を、先程香主がこの街に入りました。あと数分でこのビルに着きます。ご準備を」
「……はい!」
「ご到着された際はこちらにお連れします。それまでもう少々お待ちください」
「ええ!」
「キキョウ、お前もな」
「分かってますよ」
「では令爱、また後程」
今はただ報告に来ただけなのだろう。口早に言い終えると、颯爽と部屋を後にする。
張さんがもたらした報せに桜綾さんは先ほどとは打って変わり、本当に嬉しそうな満面の笑みを見せていた。
私はと言えば、もうすぐ来てしまう『挨拶の時間』にお腹が痛くなりそうな心持だった。
「キキョウちゃん、頑張ってね」
「……何をですか」
「緊張で吐かないこと?」
「はあ……」
その軽口が少し恨めしいと思ってしまう。
目の前で喜びに浸っている女性には、私のため息は聞こえていないようだった。
熱河電影公司ビルの屋上。
風が吹いている場所には、ビルの主である張が部下数名を控え立っていた。
煙草を咥え、ただ黙って煙を吐き出している。
下に落とした吸い殻が何本目かとなった時、彼らの元に一際強い風とヘリ特有の轟音が近づいてきた。
数名の部下がそのヘリを誘導する様と近づいて来るヘリを目に収める。
――やがて頭上から降りてきたヘリが、ビルの屋上に着地する。
それとほぼ同時に、張は風に吹かれながら足を動かす。
後ろには、部下数名を引き連れて。
真っすぐ歩みを進めているとヘリのドアが唐突に開き、一人の男が姿を現した。
歩みを止めることなく、サングラスで隠れた瞳でその姿を見据える。
高級なテーラードスーツに身を包み、強面な顔をした男の傍に近寄り張は言葉を投げかける。
「――お久しぶりです」
「久方ぶりだな張。相変わらずサングラスは必需品なようだ」
「ええ。貴方に『掛けた方がいい』とアドバイスをいただいた時から変わっていませんよ」
「お前、そんなに素直だったか? ま、言いつけを守ってるのは良いことだが」
「俺もこのスタイルは気に入っているので」
「はは、そうかそうか」
二人はそんな軽い挨拶を交わし、お互い口の端を上げた。
「これからじっくり話でも……といきたいところだが、その前に彼女に会わせてもらいたい」
「勿論、どうぞこちらに。――令爱が待ちくたびれていますよ、香主」
「ああ」
張の誘導に、香主は素直に従い着いて行く。
周りの部下たちは、初めて目にする香主の姿にいつも以上の緊張を感じざるを得なかった。
やっと香主登場。