今話から舞台は香港です。
そして過去最高に長い一話となってます。
「――お帰りなさいませ、張白紙扇。それとお連れ様、ようこそ香港へ」
「ああ」
「龍頭はすでにお待ちです。どうぞこちらに」
彼女たちの式まで残すこと後四日。
少し早めに行こうという張さんの意向で、ロアナプラから約3時間を費やし先程香港に着いた。
ロアナプラに住み始めて、初めて街の外へ出た。
それに今まで訪れたことがない場所というのもあり、空港に着いた時緊張感が高まった。
車の窓から高層ビルが並び人々の活気で溢れている先進国らしい風景を目にしながら、今から会わなくてはならない人物との話に更に緊張感が増す。
それを知ってか知らずか、車に揺られている間ずっと張さんとリンさんが他愛ない話を繰り出していた。
特にリンさんはこの国を好いているらしく、「夜景がロアナプラなんかと比較にならない」、「料理も美味しいし、何より美人が多い」と嬉々としてこの国の事を教えてくれた。
――リンさんは元々来る予定ではなかったのだが、彼女にしては珍しく駄々をこねたらしい。式に参列するときに私の化粧を手伝うことを条件に張さんが彼女の同行を許した。確かに私は化粧は苦手なのでそれは有難いのだが、なぜその条件で許可したのかはよく分からない。
久々の故郷に帰れたことで浮かれているのかとも思ったが、そのおかげでほんの少し緊張が解れた気がする。
そんな二人の話に耳を傾けていれば、あっという間に目的地に辿り着く。
――車が停まったその場所は、彼らの本拠地でもある高層ビルの前。
履きなれないヒールといつも以上の緊張感で足を挫いてしまうのではないかと不安になる。
その不安を組み取ったのか、はたまたいつもみたいにからかっているのか車を降りる時張さんが手を差し出してきた。
一瞬躊躇ったが、転ぶよりマシだと彼の手を取った。
愉快そうな表情を浮かべた気がしたが、気恥ずかしさから顔は見れなかった。
そのまま高層ビルの中へ入り、出迎えてくれた三合会の組員らしき人の誘導に従う。
エレベーターに乗り、しばらくすればすぐに最上階へと着く。エレベーターを降り豪邸のような綺麗で広い廊下をまっすぐ進むと、見たこともない大きな扉が見えてくる。
「では私はこれにて」
「ご苦労。お前らは外で待機しろ」
「
誘導してくれた人と後ろを着いてきていたリンさんや郭さん、彪さんまでもが立ち去り静けさが落ちる。
この扉の向こうにある人物がいると思うと自然と体が硬くなった。
拳に力を入れ、息を吐く。
「そう堅くなるな。いつも通り自然に、堂々と。な?」
「……努力します」
いつもと違う私の様子が気になったのか、張さんが隣から顔を覗かせ言葉を掛けてくれた。
口の端を上げ、いつもの余裕な表情。
彼なりに気を遣ってくれたのだろう。それが分かってしまい苦笑する。
張さんは「フッ」と笑い、再び顔を正面に向け、手を動かした。
「龍頭。張維新、ただいま戻りました」
「――入れ」
「失礼します」
扉越しでもはっきりと伝わる荘厳な男性の声音を聞き、張さんがドアノブに手をかける。
そしてそのままゆっくりと大きな扉が開かれた。
中は高級ホテルのような綺麗で豪勢な部屋。奥には香港の街を見下ろす様にガラス張りとなっている。
――そのガラスをバックに、杖をついて立っている男性が一人。
「張、久しぶりだな。景気はどうだ」
「まあまあ、と言ったところです」
「そうか。ま、何事もなければいいんだ」
白髪に髭を整えたその男性は、柔らかい口調で張さんに話しかけた。
張さんは笑みを浮かべ、答えながら中へと入っていく。
――彼が、三合会のトップ?
「お嬢さん、折角来てくださったんだ。そんなところに突っ立っていないで、こっちに来て話をしよう」
「……あ、えっと。失礼します」
男性から声をかけられ、ハッとし部屋の中へと歩みを進める。
想像と少し違ったのもあり呆然としてしまった。
もっとこう、なんというか……少なくてもこんな物腰が柔らかそうな人とは思っていなかった。
こんなことを口にするほど度胸はないので、胸の内に秘めておく。
高級そうなソファに男性は腰かけ、薄笑いを浮かべ「二人とも、かけてくれ」と促す。
張さんが座ったのを確認し、一言断りを入れ自身も腰を下ろした。
「私の事はすでに知っているだろうが改めて。三合会総主、荘戴龍だ。遠路はるばるよく来てくださった」
「キキョウと申します。こちらこそ、ご招待いただきありがとうございます」
香主の時と同じようにお互い名を名乗り、握手を交わす。
握った手はとても武骨で、少し冷たかった。
「いい名前だ。確か“
「よくご存じですね」
「妻が花を好きだったものでね。特に、日本の花がお気に入りでよく話を聞かせてくれた」
「……では、娘様のお名前はもしかして」
「ああ、妻がつけた。人々を惹きつけてやまない、最後まで美しくあってほしいと意味を込めて」
中華圏の人の名前に“桜”と入っているのが珍しいとは思ってはいたが、そういう理由だったか。
確かに、そのような意味を込めるなら花びらが舞い散る様さえ綺麗なあの花がぴったりだろう。
「だが、その最後を迎えるにはまだ早すぎる。まだまだ咲き誇っていてもらいたい。
――この度は娘が本当に世話になった。親として心から感謝する」
「……頭を上げてください」
そう言って龍頭は座ったまま深々と頭を下げてきた。
一瞬驚いたが声を荒げる訳にもいかず、息を吸い落ち着いてから言葉をかける。
桜綾さんがなぜあそこまで礼儀正しいのか何となく分かった気がした。
この親にしてこの子あり、とはよく言ったものだ。
「私は自分の為に動いただけですから」
私の言葉に龍頭は頭を上げ、口元に薄笑いを見せる。
「なんであろうと貴女の行動があの子を生き延びさせた。それだけでなくあの子の話し相手も務めてくれたと聞く。そんな恩ある御仁に礼節を持たず接するのは愚か者でしかない。私はそこまで落ちぶれたつもりはないのでね」
「……私に頭を下げなかったくらいで、三合会トップである貴方が落ちぶれるなんて考えられないです」
仕事の邪魔になるから拾い、元の場所に帰した。
そして、お世話になっている人の頼みだから話し相手になった。
ただそれだけだ。
彼らは皆同じことを言うが、私にはどうしても理解できない。
逆に、私に頭を下げる方が異常ではないのか。
「はは、そう言ってくれる人間は残念ながらあまりにも少ない。――なんせ、我々はヤクザ者だ。そこら辺を歩いている一般人より落ちぶれている。例え大組織の頭であろうとそれは変わらない」
「……」
「だからこれ以上クズに成り果てないため、せめて恩人に礼節を持って接する。私たちが貴女に頭を下げたり礼を返そうとするのはそういう“矜持を保つため”だ」
柔らかい微笑みを浮かべているのに、その視線の鋭さと言い聞かせるような声音に何も言えなくなる。
隣にいる張さんも口を挟む雰囲気はない。
「貴女が頑なに礼を受け取らないその言動は“そんなことに付き合わされるのは御免だ”ともとれる。……つまらない矜持のためにヤクザ者から礼を受けるのは嫌だと、そう捉えてもいいのか?」
「……」
……どうしよう。
まさかそんな風に捉えられるとは思っていなかった。
この人は、きっと桜綾さんや香主から私がお礼を受け取らなかった話を聞いていたのだろう。
そうでなければいきなりこんな事を言うはずがない。
だが、こっちは隣のヤクザ者と何年も付き合っているのだ。
“マフィアとつながりを持ちたくない”という気持ちが浮かぶ時期はとっくに過ぎた。
ここで言葉を間違えたら取り返しのつかないことになるのは明白。
しかも、今度は張さんの立場もかかっている。
いつも以上に、慎重に言葉を選ばなければ。
手に力を入れ、深く吸い込み静かに息を吐く。
「そう捉えられてしまうようなことを言ってしまい申し訳ありません。ですが、決してそのようなことは微塵も思っておりません」
「……」
「私には、貴方が仰るその“ヤクザ者の矜持”とやらは分かりません。きっと誰になんと説明されようと理解できないでしょう。ですが一つだけ言えるのは、そんな貴方がたのおかげで私はあの街で……悪徳の都で安心して洋裁屋を営めています」
「……」
「私にとって重要なのは、洋裁屋として生き後悔せず死ぬこと。それが満たされればなんでもいいんです。そのために彼にパトロンになってもらっています。だから、今更“ヤクザ者からの礼は受け取れない”なんて考えこれっぽちも浮かびません」
黙ってこちらを見据えている龍頭の目線から逸らさず、言葉を区切り再び息を吸う。
「むしろ私の望みを叶えてくれている彼が敬服している方々から何か貰おうだなんて、それこそ愚か者の考えでしょう」
「……」
「それにこうして招いてくださっただけでも、十分すぎるお礼です。これ以上貰ってしまったら罰が当たってしまいます」
「……ふむ」
龍頭は一呼吸間を空けて反応を示す。
顎鬚をなぞりながら、微笑みを崩さずゆっくりと口を開く。
「話には聞いていたが、成程な。……張、席を外せ。お前とはまた後でゆっくり話そう」
「は?」
「え?」
龍頭の唐突の言葉に私たち二人は驚きを隠せなかった。
重なった疑問の声に動じず、彼は張さんに向かって話を続ける。
「このお嬢さんと二人で話がしたくなった。構わんな?」
「しかし」
「外せ」
「……は」
有無を言わさない龍頭の声音に張さんは何も言えなくなった。
そのままちら、とこちらを一瞥し「失礼のないようにな」と言って腰を上げた。
いや、ちょっと待て。
何でいきなり二人きりになるんだ。
唐突の事に若干混乱している間に隣にいてくれた彼は颯爽と部屋を出て行ってしまう。
しん、と静まる空間に心の準備ができてないまま取り残されどうしていいか分からなくなる。
ひとまず扉から目を逸らし、躊躇いながらも再び龍頭の顔を見据えた。
「すまない。少し踏み入ったことを話したくなってな」
「いえ、お気になさらず……」
踏み入ったこと?
張さんを出て行かせるほど重要な話なのだろうか。
一体何を言われるのか、緊張で固くなった体を身構える。
「正直驚いた。まさかあそこまではっきり言うとは」
「本心ですから」
「だが分かっているだろう。あの街にいれば寿命を迎えることなく死んでしまう。理不尽に、無残にな。君が言う“洋裁屋として満足して死ぬ”ことは到底叶わない街だ。邪魔になれば躊躇なく殺し棄てる。それが最も許される場所だ」
「……」
「日本には帰らないのか?」
「……はい」
「何故?」
「あの街の居心地が好きだからです」
急に何の話だ。
龍頭の質問の真意が読めず戸惑いながらも返答する。
「帰れない、の間違いではないのかな?」
「え」
「貴女は我々とも日向側の人間とも違う。その生き方じゃどちらにいようと生き辛い。あの閉鎖的な島国では特にそうだろう」
「……」
何が言いたいのだろうか。
張さん以上にこの人が何を考えているか分からない。
口の端を下げることなく向けられている視線は、逃げることを許さないと言わんばかりに鋭利なもの。
「こちらから見た貴女はあまりにも真っすぐで、綺麗で眩しい。その姿は荒野に咲く一輪の花や砂漠の中のオアシスのように、我々に尊いと思わせる」
「……そんな綺麗な人間じゃありません。私はそんなんじゃ」
「そんなんじゃないと言い聞かせているだけじゃないのか」
脳に響く老いを感じさせる声に思わず言葉が詰まった。
それと同時に、どこか心の奥底を見透かされているような感覚に陥る。
「本来の自分を否定しそうやって言い聞かせているのは、あの街に溶け込むため“我々と同じ人間でありたい”と渇望しているからではないのか」
「……」
「そんな貴女は、あまりにも無様だ」
とうとう龍頭から微笑みが消えた。
部屋に充満している最大の緊張感が全身を包み込んでいる。
だがそんなことを気にする前に、彼の言葉に対し腹の底から何かがこみ上げてきていた。
「だったら、なんだっていうんですか」
「……」
「私が、どこでどう生きようと、貴方には関係ないでしょう」
拳に更に力が入る。
何故、今さっき会ったばかりの人間にそんなことを言われなければならないのか。
私の生き方に口出しする権利は彼にはないはずなのに。
「私はあの街で、後悔せずに生きると決めたんです。だから」
「そんなのは無理だ」
「え……」
鋭い声が私の言葉を遮った。
今まで以上に固い声音に、喉に何かが詰まっているかのように再び声が出せなくなる。
「貴女は本当に自分を騙すのが得意なようだ。後悔するかしないかは神でもない限り分かるわけがない。そんなことを言いながら、実際何回も後悔しているはずだ」
「……そ、んなこと」
「ないとは言わせんぞ。その性分であれば後悔するたびに“仕方ない”だの“これでよかった”だのと言い聞かせてきたんだろう」
なんとか捻りだした否定の言葉を彼は難なく跳ね除けた。
言葉と声の重みに上から押しつぶされそうになり、今すぐにでも逃げ出したい気持ちに駆られる。
だが、そんなこと許されるわけもない。
拳を力いっぱい握りしめ、腹の底でふつふつと湧き上がる感情を必死に抑える。
「そんな滑稽な生き方が、貴女の本当の望みなのか」
「私、は」
「心の底から望むものがあの街にあると、本気で思っているのか」
瞬間、頭の中で何かが切れた。
――滑稽? だから何だ。
私がそれでいいと思っているのだから別にいいじゃないか。
あの街で生きたいと思って何が悪い。
「……昔、心の底から欲したものがありました。それを周りが平然と持っていることに、嘆いたこともたくさんあります。――だけど、それはもう絶対手に入らない」
「……」
声が震える。
息を深く吸い込むこともできず、落ち着きを取り戻すことはできない。
目の前で悠々とこちらを見ている男性を睨みつけるように見つめ返す。
「手に入らないことを嘆き、ああすればよかった、こうすればよかったと思いながら生きるより、その時その時を必死に生きて死ぬ。これのどこが、滑稽なんですか」
「……」
「生きるも死ぬも、誰かに命を預けるのも、全てがあの街で自由に選択できるんです。
――何もかも支配され選ぶことを許されず、そのせいで何かを選択するのでさえ恐怖に感じていた人間にとって、それがどんなに尊い事か、貴方に分かりますか?」
「……」
声の震えが止まらない。それどころか拳まで震えてきてしまっている。
ここまで自分の気持ちを吐露したのは、いつぶりだったか。
「私はあの街で“自由に生きている”」
あの場所は、私がどう生きようと誰も咎めたりしない。
自分が何者だろうと受け入れてくれる。
だから――
「
息が荒くなりながらも言い放つ。
彼が何をどう言おうと、これが私の本心だ。揺らぐことはない。
体の震えを何とか落ち着かせようと、肩を上下させ呼吸する。
息を吸い込み、ゆっくりと吐く。
「……そうか。そこまで言うなら、もう何も言うまい」
私の様子を黙って見ていた龍頭が、やがてゆっくりと口を開く。
「すまなかったな。急に」
「……いえ」
「桜綾と劉帆から“あんな欲がない人間は見たことがない”と聞いていたのでな。――この世に欲がない人間なんざいない。最初の感じでは君の本当の望みが聞けないと思った。娘を助けてくれた恩人の望みを叶えたいと思ったが故に、話を切り出した」
「……」
「だが、もう貴女の望みは叶っているんだな。そうとも知らず勝手なことを口走った。申し訳ない」
「……大丈夫です。こちらこそ、失礼なことを」
「先に無礼を働いたのはこちらだ。不快に思うのは当然のこと。だから貴女が謝る必要はない」
この人は本当にそれだけの為にあの話を切り出したのだろうか。疑問に感じたが、これ以上掘り下げるのはやめておこう。
……少し疲れた。
「長々とすまなかったな。私の話は以上だ。――今度は張と二人で話がしたい。表にいるはずだから呼んできてくれないだろうか」
「分かりました」
彼から話は以上と言われたのであれば、もうここに長居する必要はない。
というか、これ以上ここにいたくない。
――あそこまで心の奥底を見透かされたのは、彼が初めてだ。
世界に名を馳せる大組織のトップからすれば、小娘一人の胸の内を言い当てるのは簡単な事なのかもしれない。
そのせいか、少し話しただけなのにもう苦手意識を持ってしまっている。
だから一刻も早く去ってしまおう。
そそくさと腰を上げ、足早に扉に向かう。
「キキョウさん」
扉の取っ手を掴もうとした瞬間、後ろから名を呼ばれる。
振り返れば、またあの何を考えているか分からない微笑みを浮かべている龍頭と目が合う。
「あの街に嫌気が差したらいつでも香港へ来るといい。歓迎しよう」
「……お気持ちだけ、受け取らせてください。では失礼します」
口の端を上げ答えたが、きっとうまく笑えていなかったはずだ。
それを取り繕う間もなく軽くお辞儀をし、今度こそ部屋を出る。
その時「怖がらせてしまったか」と龍頭が呟いていたことは知る由もない。
――――――――――――――――――――――――――――
――煌びやかなネオンの光に包まれる時間。
寂れた住宅街の端にある、一等人を寄せ付けない家屋。一つの電球だけが照らすその部屋に、二人の男が酒を片手に話をしていた。
「珍しいすね、李さんが酒を飲むなんて」
「たまにはな」
「何かいいことがあったんで?」
「まあな」
眼鏡を外し酒を嗜む李の様子に腕に刺青を入れている男は興味を示す。
「もしかして、そろそろ香港を出れる目途が」
「それもある。が、機嫌がいいのはそれだけじゃない。これにはお前も喜ぶと思うぞ」
「え、俺も?」
「ああ、とびっきりの朗報だ」
李はグラスを置き、薄笑いを浮かべながら静かに話を続けた。
「今日外に出てアイツらの様子を見に行ったんだ。その時に思いがけない人物を目にした」
「思いがけない人物?」
「詳しくは話せないがそいつとはちょっとした因縁があってな。張にも恨みはあるが、それ以上に憎くてたまらん。……それがなぜか張と一緒にこの国へ来ていた。ご丁寧にエスコートまでされてたよ」
足を組み、苛立ちを隠すことなく舌打ちをする。
その話を聞いている男は首を傾げ疑問を投げかける。
「それがなんで朗報なんすか?」
「俺にとってあの女は地球上で一番殺したい人間だ。それが目の前に現れた。すなわち、ちょっとした意趣返しをお見舞いできるチャンスが来たってことだ。そのチャンスを使わない理由はどこにもないだろう」
「うーん……アンタがそいつをぶち殺したいって気持ちは分かったんすけど、俺が喜ぶ理由ってのは」
「そう急くな。こいつを見れば一発で分かる」
李は胸ポケットに手を伸ばし、一枚の写真を取り出す。
刺青の男は不思議に思いながら受け取り目に映した。
「これって」
「髪は短いが黒だ。瞳もその髪と同じくらい黒く顔も整っている。――おまけに、純粋な日本人だ」
「……マジすか?」
「ああ。どうだ、お前の好みにドンピシャだろ?」
写真に写っているのは、男に手を引かれている日本人の女性が遠い距離から撮られたもの。
男はその女性に視線を注ぎ静かに口を開く。
「写真じゃはっきり分からねえけど、綺麗な髪だな……短くしてんのが勿体ねえ。けど柔らかくて、手触りは最高なんだろうなあ。この瞳も絶対実物の方が綺麗なんだ。肌も白くて傷一つねえ。しかも日本人か。――ああ、隣の男が羨ましい」
恍惚とした表情を浮かべながら男は写真から目を離さずに呟いた。
李はその様を眺め、ニヤリと口元を歪める。
「気に入ったようだな。そこで、俺からお前に一つ頼みたいことがある」
「……なんとなく予想はつきますけどね。なんすか?」
そこでようやく写真から李へと目線を写し、ニヤニヤしながら言葉を待つ。
期待に応えるように、はっきりと告げる。
「その女を殺してもらいたい。もちろん、たっぷり可愛がった後でな」
「それは“依頼”すか?」
「ああ」
「俺のやり方で殺しても文句はない。そういう認識でいいんすね?」
「俺はあの女が苦しんで死んだという結果さえあればなんでもいい」
その返答を聞き、男はさらに口を歪め嬉々とした声音を発する。
「ならその依頼。この殺し屋“
「そう言ってくれると思っていた。――さて、早速だが作戦会議でもしようか。行動を起こすのは早いに越したことはない」
――――――――――――――――――――――――――――
――龍頭と話をしてから数時間後。
すっかり陽は沈み、香港では人工的な光が辺り一面に輝いている。
「ここから見下ろす景色は素晴らしいぞ。俺も気に入っている」
「そうなんですか」
「ほら、お前もこっちに来い」
「いえ、私はここで」
「いいから来い。ここで飲む酒は格別だぞ」
あの街よりも高く聳え立つビルの一室。そのバルコニーから、ネクタイを取りYシャツにスラックスというラフな格好をした張さんから呼びかけられる。
――この部屋は彼の持ち家。つまり自宅だ。
私はてっきりそこらへんのホテルで過ごすものと思っていたのだが、「部屋に空きがあるからそこを使えばいい」となぜか連れてこられてしまった。
勿論最初は断固拒否した。私の立場で彼の自宅にお邪魔するのは図々しいにもほどがある。
だが拒否権はないと言わんばかりに全く聞く耳を持たず、私が何を言っても上手い事かわされた。
私一人じゃどうにもならないと、彪さんと郭さんにも助けを求めたが二人とも「大哥がそこまで言うなら」と彼の腹心らしい忠実さを見せてくれた。
もうこうなったら最後の手段だとリンさんの背に隠れてみたが、まさかの「ごめんね、今夜はアタシ行くところあるから」とやんわり見放された。
絶望にも似た感情に襲われながらも、彼にそのまま引きずられるような形で連れてこられ今に至る。
広いバルコニーの奥から手招きされるまま彼の隣に歩みを進める。
「サングラスかけたままじゃ折角の景色も見えないんじゃないですか」
「外してほしいのか?」
「どちらでもいいですよ。ただ気になっただけです」
「そうか。まあ確かに、美人が隣にいるのにこれは無粋だったな」
口元に弧を描きながらサングラスを外し、そのまま胸ポケットに差した。
本当に、よくもまあ飽きないものだ。
ここで反応を示せば更に何か言われるのは目に見えているので、静かに視線を正面に向ける。
「でも、本当に綺麗ですね」
「向こうより何倍もいいだろ」
「私はあの街の夜景も好きですよ」
「それは俺と見ているから、と言ってくれないのか?」
「……今日はいつもより変な冗談ばかり言うんですね」
「そう怒るなよ。これでも飲んで機嫌直せ」
誰のせいだと思っているんだ。
こちとらあの何を考えているか分からない龍頭の話に少し疲れているのだ。
そのせいもあり、彼の冗談にノる気力はない。
大人げないと思いつつも、彼から差し出されたグラスを受け取る。
「
二人同時に言葉を発し、そのままグラスに口をつけた。
「シナトラセレクトですか。贅沢ですね」
「この夜景をお前と見るんだ。折角なら上等な物をな」
「お気遣いありがとうございます」
「まあ、これを出した理由はそれだけじゃないが」
ジャックダニエルの中でも高級なこの酒は滅多に飲まないのだが、彼が出してくれるのであれば有難く飲んでおこう。
値が張るだけあって、とても上品なこの味わいは割と好きだ。
「龍頭にちっとばかし苛められたんだ。いい酒飲んで気分を晴らしてやるべきだと思ってな」
「……聞いてたんですか」
「何を話したのかは知らん。だが、部屋から出てきたお前の顔を見れば一目瞭然だ」
「そんなに顔に出してましたか?」
「ああ、あんなしょげている様を見れるとは思わなかった」
しまった。
私なりに平然を装っていたつもりだったのだが、自覚している以上に参っていたらしい。
「すみません……みっともないところをお見せして」
「別にそうはいっていない。――ただ、面白くなかったのは確かだな」
「え?」
「相手があの方とはいえ、会ったばかりの男にこうも短時間で俺の前では絶対見せない表情を引きずり出された」
普段人前では見せない素顔をこちらに向け、お互いの目が合う。
「俺は嫉妬しているんだぜ、キキョウ。ここまで大事に育ててきた花が見たことない咲き方をしているのを、俺以外の誰かに見せたことに」
「貴方が嫉妬? その冗談を彪さん達が聞いたら笑ってくれると思いますよ」
「冗談だと思うのか? ……だとしたら、お前は相当な勘違いをしている」
今度は顔だけではなく、体ごとこちらに向けてグラスを置いた。
その表情は、薄笑いを浮かべてはいたがどこかいつもと雰囲気が違う気がする。
思わず自身もグラスを置き、話の続きを待つ。
「いいか、俺はお前が思っているほど淡白じゃない。目の前で“殺されても文句はない”と告げられた上に、人前でああもはっきり俺と付き合ったことに一切の後悔はないと言い放った女に何も思わない訳がない。それが俺だけとなれば尚更」
「……」
「そんな女の全てを手に入れ、独占したいと思うのは男の性だ」
一体この人は何が言いたいのだろうか。
彼ほど人心掌握に長けている人物であれば、人生と命を差し出す人間は組織内にもたくさんいるだろうに。現に郭さんがいい例だ。
だから何故そんなことを言っているのか理解できなかった。
訝し気に彼を見つめ、黙って言葉の続きを待つ。
「なあキキョウ、ここまで言っても分からないのか? 俺がどれほどお前を欲しているのか」
「……何を言っているんですか。何回も言っている通り、私の命と腕は貴方の物ですよ」
「そういうことじゃない。――本当は分かっているんだろう」
彼の口元から笑みが消える。
それと同時に、武骨な手を伸ばし右頬に触れる。
夜風に当たっているからか、それとも酒が入っていて自身の体温が上がっているせいなのかいつもよりその手は冷たく感じた。
「確かにお前の命と腕は俺の物だ。だが、男ってのは貪欲でな。手に入れた途端更に求めてしまう。この俺だって例外じゃない」
「……私にこれ以上、何を求めているんですか」
「全てだ」
私の疑問に彼は真剣な声音で即答した。
そこでいつもの雰囲気と違うことをはっきりと感じ取り戸惑ってしまう。
瞬間、右頬から手を離したかと思えばすぐさま右手を掴まれ引っ張られた。
――気づいた時には、張さんの顔が目と鼻の先に。
そして逃がさないと言わんばかりに腰に手が回る。
あまりにも唐突のことで頭が真っ白になる。
「なに、して」
「こうでもしないと、お前は分かってくれないだろう」
何か言わなければと、混乱し目を逸らしながら言葉を発する。
「御冗談が、過ぎますよ」
「俺の目を見ろキキョウ。冗談だと本気で思っているなら、いつものあの真っすぐな目で一蹴しろ」
「……」
何故、彼がこんなことをしているのか理解できない。
だからどうしていいのか、何を言えばいいのか分からなくなる。
目を合わせることでさえできなくなるほどに動揺していた。
「気丈で儚く、強かで、いざという時は必ず人の目を見るお前が“こういう時”だけはいつも目を逸らす」
直ぐ上から彼の声が降りてくる。
その声音は、冗談だと言うにはあまりにも真剣でいつものように流すことができない。
「――俺はお前の全てが欲しい。身も心も何もかも」
彼は今どんな表情で話しているのか。
体が思う通り動かず、手を振り払うこともその顔を窺い知れることもできない。
深呼吸を繰り返し、やがてゆっくりと自身の口を開く。
「私には、貴方が今何を言っているのか、本当に分かりません」
「……」
「だけど、一つ言えるのは……私にはもう貴方に差し出せるものは、ありません」
「……」
「この体は、貴方に差し出せるような代物じゃないんです。心だって、“殺されてもいい”というのが精一杯なんです。私にとって、それが限界なんです」
自分でもなにを言っているのか分からない。
だけど背中のこれは、この人にだけは見せたくない。
心も殺されたいと思う以上の感情はきっとでない。
これは揺るぎない、確かな思いだ。
だから、もう差し出せるものは何もない。
求められても困るだけだ。
「俺では、役不足だと?」
「え?」
「俺ではお前の全てを受け入れられないと、そう思っているのか」
その疑問に思わず顔を上げる。
視線が合わさった瞳は、人を撃つ時に見せる昏いものでも、冗談を言っている時のからかったようなものでもなかった。
今まで見たことがない眼に、言葉が見つからず黙ってしまう。
「お前以上に醜く、腐った人間を今まで嫌というほど見てきた。そして俺は、そういう奴らより何倍も穢れている。――だからこそ、例えどんな傷があろうと、醜い心であろうと受け入れられる」
「……」
「それでもまだ、足りないのか」
“お前の全てを受け入れる”
その言葉に胸の鼓動が早まる。
本当に、そんなことあり得るのだろうか。
いや、あり得ない。
いくら彼であっても、こんな醜い体を。ましてやこんなめんどくさい女を欲しがるとはとても思えない。
――でももし、言葉通り受け入れてくれるのだとしたら。
もしすべてをさらけ出した時、いつものように笑い飛ばしてくれるのだとしたら。
そんなことが本当にあり得るのだとしたら、どれほど楽だろうか。
彼がいつもするように、自身の空いている左手で彼の頬に触れれば、それは肯定と受け取られるのだろうか。
この左手を動かして、後悔しないか。
もし本当に、許されるのであれば……
『――本当に役立たずだな、お前は』
左手を動かすか迷った瞬間、ふと脳裏で蘇る。
『愛想の一つも振りまけず、ただただ金を毟り取る寄生虫。それがお前だ』
この数年、ずっと思い出すことのなかった言葉の羅列が重くのしかかる。
『しかも背中にそんな痕があっては女としても終わりだな。本当に使えない』
体が硬直する。息を吸うのさえ忘れるほどに、何もできなくなる。
『お前は誰にも必要とされない。ただの害虫だ』
その言葉を思い出した瞬間、左手を動かす気が失せた。
――何が“もしも”だ。
そんなことある訳ないと分かっていたはずなのに、何を考えているんだ私は。
「……キキョウ?」
「張さん。さっきの言葉、冗談だったとしても嬉しかったです。……でも」
一つ息を吐き、右手を掴んでいる武骨な手の上にそっと自身の左手を重ねる。
「その言葉は私ではない、いつか出会う本当に口説きたい女性に、言ってあげるべきですよ」
真剣なまなざしを見据え、微笑みながら言葉を放つ。
「……そうか」
私の言葉を聞いた張さんは一呼吸間を空け、目を伏せながらそう呟いた。
そしてゆっくり右手と腰から手を離し、一歩引いて距離を取った。
「全くお前は。俺がここまで言ったというのに、そう返すのか」
「……」
「一つ聞かせろ。さっきの“冗談でも嬉しかった”は、本音か」
「……ええ、嘘偽りはありませんよ」
「そうか。それが分かっただけでも十分だ」
「え?」
「いや、気にするな」
何が十分なのか分からず首を傾げる。
だが、気にするなと言われてしまってはそれ以上聞くこともできない。
「今日はもう疲れたろ。明日は令爱と香主に改めて挨拶だ。明日に備えて早く寝とけ」
「は、はい。……では、張さん。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
あそこまで思い切った行動をされたのは初めてで、正直このまま酒を飲む気分ではなかった。きっと張さんもそれを察してくれたのだろう。
その気遣いを無駄にしないため、短く挨拶を交わし足早にバルコニーから中へと戻る。
『――俺はお前の全てが欲しい』
彼の言葉が頭をよぎり足が止まったが、これ以上考えるのはよそうとすぐさま客室へ歩みを進めた。
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「――やれやれ、まさかあそこまでとはな」
キキョウが去り、広々としたバルコニーで俺はただ一人酒に口をつけていた。
「ここまでお膳立てしたってのに。……ちいとばかし性急すぎたか」
脳裏には、先程まで腕の中にいた女の戸惑った顔が浮かんでいた。
――龍頭と話をした後のアイツの顔には正直驚いた。
不器用なりに、基本自分の気持ちを隠そうとするキキョウがまさか初対面相手にあそこまで取り乱していたのは初めて見た。
だからその後、彪にアイツが好きなジャックダニエルの中でも一級の酒を用意させ、俺のお気に入りの夜景を眺めながらいつものように過ごし、ついでに自分の機嫌をよくしようとした。
だが、俺が知らない表情を浮かべたことにどうしようもない苛立ちを感じていたことは無視できず、ついその感情を口走った。
もう止めることはできないと、一か八かの賭けに出た。
結果、惨敗だ。
だが――
「嬉しかった、か。ったく、本当に罪な女だ」
全てを受け入れると言った俺の言葉に、あいつは確かに“冗談でも嬉しかった”とそう言った。それは、完全に振られたわけではない。あともう少し、あと一歩で手に入れられる可能性を示す言葉。
俺が冗談のように言う口説き文句をいつも呆れたような表情で流してきたアイツが、下手くそな作り笑いで手をかすかに震わせながら告げた。
それがどれほどの手ごたえを感じさせたか、誰にも分かるまい。
「……にしても、一体何に怯えてんだかな。俺の可愛い花は」
キキョウが僅かに見せた、まるで何かを怖がっている子供のような表情が思い浮かぶ。
その表情は俺ではないまた別の誰かに対してのものだということは一瞬で分かった。
――だが、今度はそんな邪魔者が入る隙なんざ与えない。
この賭けは“まだ続いている”。
最後に勝つのは俺だ。花に巣食う虫如きに負けてたまるか。
=キキョウが去った後、龍頭と張さんの会話=
「――龍頭、あまりアイツをいじめないであげてください」
「いじめたつもりはないんだがな」
「アイツのあんな表情は俺も初めて見ました。一体どんな話をされたんです?」
「なに、ちょっとだけ“核心”をついただけだ。――ガラにもなく無粋な事をしてしまった。ああいう若い者を見るとどうにも口うるさくなってしまう。私も老いたものだ」
「……」
「張、ああいう女はいつ壊れるか分からん。慎重に扱わなければ跡形もなく消える。それほどまでに儚く、脆い。そんな彼女があの“真っすぐな目”を持っていることに興味が湧いたんだろう?」
「何もかもお見通し、というわけですか」
「まあな。――いいか、彼女を手中に置いていたいならどんなことがあっても手放さないことだ。一度離したら二度と戻らんぞ、あの手の女は」
「……ええ、よく分かっていますよ」
「そうか。……まったく、お前も大変な女を選んだもんだ」
「誉め言葉として受け取っても?」
「好きなように」
やりたいこと全部詰め込みました。
なので結構なボリュームになってしまいました。
だけどその分読みごたえはあったかな、と。
こんな感じでこれからもやりたいこと遠慮なくやっていきたいと思いました。