――翌日、まだ朝日が昇って二、三時間。
結局あの後、色々考え事をしてしまいあまり寝付けなかった。
なぜ彼が急にあんな行動をとったのか。
今までずっと、ああいう時言われる言葉はすべて面白半分なものだった。
なのに、昨夜のあれはいつもと全然違っていて。
演技なのかもしれないと思ったが、それを見抜くことは素人目でできるはずもない。
……だが冗談だったとしても、あの時の彼の言葉はあまりにも“甘すぎた”。
それこそ、縋りついてもいいのだろうかと思わせるほどに。
全てを受け入れるなんて、そんなことあるはずないと分かっているのに……揺らいでしまった。
きっと初めてあの腕に包まれたから、混乱して冷静な判断ができなかっただけなのだと、そう結論付けた。
彼がもし私を本当にそういう目で見ていたとしても最後まで抱かれることはない。
過去にあの街で彼の隣を歩いていた女性達を見ればわかる。
皆綺麗で、傷一つなさそうな美女ばかり。
バラライカさんは私よりも傷が多いが、彼女の傷は戦場で戦ったが故の勲章のようなものだと思っている。
女性の顔についた傷を勲章と呼ぶのはどうかと思うが、とにかく私の背中のこれとは明らかに別物。
私はそんな女性たちとは、違うのだ。
万が一この痕を見られた時、あの人に「醜い」と言われ切り捨てられるのは少し嫌だ。
“アイツ”と同じ言葉を彼から聞きたくない。
――改めてそう自覚し、目を閉じて寝付けない夜を過ごせばあっという間に朝日が昇る。
部屋に差し込み始めた陽の光を浴びながらのそのそと体を起こす。
部屋を出て、広いリビングに踏み入れる。
家主である彼はまだ寝ているのかしん、と静まり返っていた。
顔を洗うべく、昨日案内された洗面台へと歩みを進める。
勝手に借りるのは少々気が引けるが、寝ているところを無理に起こす方がよくないだろう。
少し暗いリビングを後にし、小奇麗な洗面台の前に立ち水を出す。
冷たい水で顔を洗い、残った眠気を覚ましながら近くに置いてあるタオルを手に取る。
勝手に使っていいと他ならぬ彼が言ってくれたので、遠慮なく使わせてもらう。
これもまた質の良いタオルで、柔らかい触り心地で気持ちいい。
――気持ちよく顔を拭いていると、リビングから唐突に音が聞こえてきた。
驚き慌てて戻ってみれば、部屋中に鳴り響いているのは固定電話から流れるコール音。
これは私が取るべきなのだろうか。
いや、でも勝手に出るのはよろしくないだろうし……。
それにもうすぐ起きてくる可能性も……というか、起こしに行った方がいいのだろうか。
どうしよう、と悩んでいるうちに音が止み、留守番に繋がる。
『――張、俺だ』
聞こえてきたのは、約一か月ぶりに聞く男性の声。
今日改めて挨拶するために会うはずの香主、鄭さんのものだった。
『張、いないのか? ッたく、急ぎだっていうのに……』
……香主からの連絡をここで無下にしたほうがよくない気がする。
それも急ぎの用であるなら尚の事だ。
勝手に出たことは後で謝ろう。
そう決心し、思い切って受話器を手に取る。
「お待たせしました。香主、でお間違いないでしょうか?」
『……その声は、キキョウさんか? 何故張の家に』
「成り行きで……。えっと、張さんまだ寝ているようで。今すぐ起こしてきますので、少しお待ちいただけますか」
『いや、ちょうどいい。――実は、俺が用があるのは君なんだ』
香主が彼に急ぎの用事でかけてきたのであれば、私が聞くよりも張さんに直接話した方が色々と問題は起こらないだろうと思っていた。
だが香主は“私に用がある”と、はっきりそう言った。
『今ここで説明するのもいいが、直接見た方が話は早い。張を起こしてすぐこちらに来てもらいたい』
「えっと……」
『頼む、急ぎの用件だ。張にも後で説明すると、そう伝えてくれ』
香主がここまで言うということはそれほど大事な何かがあったのだと理解するのは、いくら私でも容易かった。
一体何があって張さんではなく私に用があると言っているのか分からないが、私がここで返す言葉は決まっている。
「分かりました。それで、どちらに向かえば」
『すまない。場所は――』
――――――――――――――――――――――――――――
「――首尾は?」
『ばっちりですよ』
「そりゃよかった。……いいか、ここからはお前の腕にかかっているんだ。しくじったら一巻の終わりだと肝に銘じておけよ」
『俺だってプロだ。んなこと分かってますよ』
本当に分かっているのか?
男は出かかった言葉を飲み込み、眼鏡を指で押さえ話を続ける。
「その言葉忘れるなよ。また生きて会えることを心から楽しみにしている」
『ご期待に沿えるよう頑張りますよっと。じゃ、また三日後に』
暗いコンクリートの部屋にツーツー、と音が響く。
「たく、若いやつはこれだから。相手を分かっていないというかなんというか……」
煙草をポケットから取り出し、ライターで火を点ける。
そのまま肺に煙を入れゆっくりと吐き出した。
「俺だったら、敵の本拠地でまた行動を起こそうとする人間を信用なんざできねえがなあ。少し考えればいいように使われていることくらい分かるだろうに」
香港に入ってから約半年。短い間で異様に懐いた若者が自身に向ける尊敬の眼差しを思い出し、男は冷ややかな笑みを浮かべる。
「若気の至りにしちゃちょっと馬鹿すぎたな。本当に哀れだ」
再び煙草を口に咥え、今度は胸の内ポケットから一枚の写真を取り出す。
「この女はそんなお前如きにいいようにされるほど軟じゃない。だから“お前には無理だ”」
そう呟く男の目は、生気などまるで感じない濁ったもの。
「――張維新もこの女も、まとめて俺が“あの街”で始末する。お前じゃ役不足なんだよ」
憎悪を胸に抱き、男は吸い殻を下に落とす。
やがて傍らに置いていた黒いガジェットバッグを手に、そのまま冷たく暗いコンクリートの部屋を後にした。
――――――――――――――――――――――――――――
――香主から電話を貰って十数分後。
あれから大急ぎで張さんを叩き起こし、自分も外に出て恥ずかしくはない格好に着替え、今は告げられた場所に二人で向かっている。
起こそうとしたとき、香主が呼んでいると言っているにも関わらず「夜這いか?」と寝ぼけたことを言ってきたので、水をたっぷり含ませたタオルを顔に被せた。
瞬時に「殺す気か」と言われたが、香主から急ぎの用件で私たち二人に呼び出しがかかっているともう一度丁寧に説明すれば文句を言う気はなくなったのか、黙っていそいそと準備してくれた。
そんな感じでバタバタと準備をし、いつの間に呼んだのか郭さんと彪さんが用意した車に乗り込み、黙って揺られている。
それにしても、一体こんな時間から何があったのだろうか。
香主がわざわざ「私に用がある」と言うほどなのだから、きっと私も無関係ではいられないはず。
だが呼び出されるような事をした覚えもない。
もう一度何か思い当たる節はないかと思考を巡らせる。
……もしかして、昨日の会話で龍頭の怒りを買ってしまったとか?
確かに、あの時色々と失礼なことをしてしまったのでそれなら納得がいく。
彼は「気にしないでくれ」と言ってくれたが、やはりまずかったのだろうか。
「……何をそんな考えているんだ。彼の呼び出しに思い当たる節でもあるのか?」
自身の言動を必死に振り返っていると、隣に座っている張さんが怪訝そうに声をかけてきた。
「思い当たるというか……やはり龍頭に失礼を働いてしまったことで呼び出されたのかな、と」
「それはないから安心しろ。俺と話した時、龍頭は別に怒っちゃいなかった。それどころかご自分が“余計な事をした”と反省までしてたんだ。そんなあの方が後になって、なんてのは考えられん」
「じゃあ、なんで」
「知らん。だが香主が急ぎだと言ったのであれば、“いい報せ”ではないかもな」
その言葉に思わず緊張が走る。
香主の用事がいいものだろうとなんだろうと、少なからず私もそれに巻き込まれることは必然。
……できるなら、比較的悪くないものであってほしい。
そう心の中で願ったのと同時に盛大なため息を吐きそうになったが、必死にこらえた。
「――お待ちしておりました。どうぞこちらに」
車に揺られ数十分。たどり着いたのは香主から電話で聞いていた場所。
――そこは、3日後に行われる披露宴の会場となっている高級ホテル。
海の傍に建てられた高く聳え立ち、景色も最高だということで有名なそのホテルの中で盛大な結婚式が行われる。
そんな式の当日に初めて訪れる予定だったのが少し早まった。
その早まった理由を確かめるべく、昨日と同じように三合会の組員らしき人の誘導に従う。
今日はハイヒールではないので、足早な誘導にも問題なくついていける。
広いエレベーターに乗り込み会場のある階へと辿り着く。
――ドアが開き、眼前に広がった光景に思わず目を見開いた。
ロビーには、なぜか数十人が集まっている。
目に入ったのはガタイがいい人や顔に傷がある人、鋭い目つきをしている人など様々だったが、ここにいる人たちが“一般人”ではないことは手に取るように分かった。
そして、次の瞬間。そんな人たちが一斉にこちらに目線を向けた。
しかも、歓迎しているのか分からない鋭いものを。
思わずこのままドアを閉めてしまいたい気持ちに駆られた。
「怖くて歩けないなら俺が手を引いてやろうか?」
「……結構です」
私のそんな様子に、張さんがいつものような冗談を言ってきた。
気を遣ってくれたのかは分からないが、その言葉のおかげでほんの少し緊張が解ける。
彼はこういう事に慣れているのか私よりも悠々としており、「フッ」と笑うと歩みを進めた。
その様に『この人について行けば問題ない』と確信し、すぐさま自身も足を動かし後を追う。
誰とも目線が合わないように、広い背中だけを見つめ突き進む。
「あれが噂のか?」
「ああ。なんでも龍頭も認めたって話だぜ」
「信用できんのか? 日本人なんだろ、あの女」
「思ったより貧相だな。美人っていうからどんなもんかと思ったんだが……」
其処彼処で話しているのが聞こえてくる。それでひそひそ声のつもりなのか、または敢えて聞こえるように言っているのか。
別に気にするようなことでもないが、何か言いたいなら直接言ってほしい。
陰で噂を話したり聞いたりするのが好きなのはどこの人間も一緒のようだ。
再びため息が出そうになったが、めんどくさいことになりそうなのでなんとか押し込む。
今は私よりも大きい歩幅に置いていかれないことだけを注意しよう。
大勢の人間の視線を浴びながらひたすら歩けば、やがて一つのドアの前で立ち止まる。
傍らに立ててある看板には、「等候室」の文字。つまり、控室だ。
「失礼します。張白紙扇、キキョウ様をお連れしました」
「入れ」
ここまで誘導してくれた男性がノックし声をかけると、今朝電話越しに聞いた声が返ってきた。
ドアが開かれるとすぐさま「失礼します」と改めて張さんが断りを入れながら中へと進む。
「すまないな張、こんな早くに」
「お気になさらず」
出迎えてくれたのは、約一か月ぶりに会う香主と桜綾さん。
広い控室には二人以外に、奥のソファに龍頭が座っており、その後ろには部下らしき人達が立っている。
龍頭と目が合い、反射的に会釈すれば彼も軽い会釈を返してくれた。
だが、やはり昨日の事で苦手意識を持ってしまっているせいですぐさま目線を外す。
その時目の端で龍頭が困ったように頭を掻いているのが見え、少し申し訳なく思った。
「キキョウさん、お久しぶりです。ごめんなさい急に呼び出してしまって」
「お久しぶりです桜綾さん」
目の前にパタパタと駆けてきた彼女が、3日後には念願の式を挙げられる。
桜綾さんにとって幼い頃からの願いであった分、その顔はとても幸せそうな表情。
――とはかけ離れたものだった。
「相変わらずお元気そう……ではありませんね。どうされたんですか」
話し相手を務めていた時、あんなに楽しみにしていたとは思えない程悲しそうな瞳をしている。
折角の結婚式が間近に迫っているというのに、一体何があったのだろうか。
「……見ていただいた方が早いと思います。どうぞこちらに」
一呼吸間を空けてそう言うと、私の手を取り引っ張っていく。
それに逆らうことなく、誘導されるまま足を動かす。
後ろから数人着いてきているのを感じながら、部屋の奥にあるドアの前で止まる。
「ここは私の衣裳部屋です。ウェディングドレスと披露宴用のドレスを置いてたんです」
桜綾さんはどんな部屋なのか説明しつつ、そのドアを開ける。
明かりが点いておらず、中の様子が全然分からない。
目を凝らして見ようとしていると、彼女がすぐに電気をつけてくれた。
――瞬間、目の前に広がった光景に驚愕する。
「……これは」
「昨日の夜までは普通だったんです。それが、今朝見に来たらこんなことに」
「……」
あまりの出来事に言葉が出てこない。
披露宴用であっただろう紫、黄色、薄桃色の三着のドレス。
そして、彼女が一番思い入れがあるはずの純潔の象徴である白のウェディングドレス。
――それらすべてが、ズタズタに引き裂かれている状態でトルソーにかけられていた。
近くの机の上には、恐らくこうなる時に生まれたであろう布の残骸が山のようにまとめてある。
「これは酷いですね」
「ああ。特にウェディングドレスが酷い有様だ」
後ろで張さんと香主が会話しているのが聞こえてくる。
どことなく、怒りの感情が声音に乗っているような気がした。
「ずっと前から準備してたんです。このウェディングドレスを着て式を挙げることが、夢だったんです。それなのに……ここにきてこんなことに」
桜綾さんの瞳には涙が溜まり、今にもあふれ出しそうだ。
「……桜綾さん。こういう状況なのであれば、今すぐにでもこのドレスを仕立てた方や業者に直してもらうか、新しいものを用意するべきです」
「……」
「幸いまだ3日あります。既存の物になるでしょうがないよりは」
「あのウェディングドレスは、母の形見なんです」
「……え?」
「母が父と結婚するときもあのドレスを着たんです。私が4歳の頃にちゃんと式を挙げて……。あの時の母の幸せそうな顔は今でも忘れません」
母の形見。
そんな大切なドレスがこんな有様では、泣きたくもなる。
それどころか犯人を罵詈雑言で責めても足りないくらいではないのか。
「滅多に依頼できない素晴らしい腕を持った洋裁屋さんに特別に仕立ててもらったものらしいんです。その方がどこにいるのかは分かりません」
「なら業者に頼むべきですよ。この国にだって腕のいい洋裁屋は何人でもいるでしょう」
「それが……」
「色々当たったんだが、“こんな代物をこの状態から完全に修繕するのは無理”だと断られた。早く新しいものを買った方がいいと、全員口を揃えて言いやがった」
言い淀む桜綾さんの代わりに香主が怒気を隠さずに話してくれた。
「それでも、どうしても着たいんです。……我儘だって分かってます。でも、やっとここまできたのにそんなすぐに諦めたくない」
肩を震わせ、悔しそうな表情を浮かべる彼女を何も言わず見据える。
やがて桜綾さんは目に涙をためたまま、再び口を開く。
「キキョウさん、貴女は私が知る洋裁屋の中でも一流の腕を持っていらっしゃいます。もう私たちが頼れるのは貴女しかいません」
「……」
「無礼であることは百も承知です。助けてもらった上に客人である貴女に、頼むのは本来するべきことでないことも分かっています。でも、どうしても諦められないんです」
「……」
「キキョウ様。どうか、せめて母の形見だけでも式までに修繕していただけませんでしょうか? ――お願いします」
桜綾さんは凛とした声音でそう言うと、すぐさま頭を下げてきた。
まさかここにきて依頼が来るとは思わなかった。
それも、とてつもなく切羽詰まった悪い状況というおまけつき。
再び、酷い有様と成り果てたドレスたちを目に映す。
見た感じ、確かに披露宴用のドレスよりもウェディングドレスの方が被害が大きいように感じる。
元の形が分からないので何とも言えないが、構造が複雑な物であれば3日……いや、正確には2日と数時間では完全に修繕するのは難しいかもしれない。
もっと時間に余裕があればまだ可能性はあっただろうに。
だが、私の腕を見込んでわざわざ頭を下げてまで依頼する彼女の気持ちを知ってなお、「いや無理です」と頭ごなしに断るのはしたくない。
どうしたものかとしばらく考え、「これならば」と意を決して頭を下げたままの桜綾さんに声をかける。
「頭を上げてください、桜綾さん」
「……」
「今から依頼を受けるか受けないか決めるための話をさせていただきます。面と向かって話したいのでどうか上げてください」
「え?」
断られると思ったのか肩を一瞬ビクッとさせても頭を上げてくれなかったが、二回目には不思議そうにしながらもこっちを見てくれた。
不安そうに揺れる瞳を見据えながら、話を続ける。
「ひとまず、ドレスの状態をちゃんと見させてください。それと、こうなる前のウェディングドレスの写真はありますか? それも含めて検討します」
「は、はい……! ぜひお願いします!」
「ありがとうございます。あ、あとすみません。どなたか手袋を貸していただけませんか? 直接触ってこれ以上汚したくないので」
「郭、お前持ってるだろ。綺麗なら渡してやれ」
「は」
こんな状態であろうと、着るかもしれないドレスなのだ。なら丁重に扱うのが普通だろう。
私の頼みに張さんが即座に反応し、持ち歩いているであろう郭さんに声をかけた。
郭さんが歩み寄り「まだ使ってないヤツだ」と言いながら差し出してくれた手袋を礼を言いながら受け取る。
瞬時に両手に嵌めて、「では失礼します」と断りをいれてからドレスに手を伸ばし状態を見る。
見た感じ、これは恐らく元の形はマーメイドラインだ。
膝までは体にフィットさせ、裾が人魚のように広がっているもの。
体のラインが特に強調されるこのドレスは、高身長ですらっとしている女性が着ることが多い。
「これが、ドレスの写真です」
「ありがとうございます。拝見しますね」
これはあくまでも予測なので実際はどうなのかと写真を見る。
――そこにはマーメイドラインのウェディングドレスを着た桜綾さんと、白のタキシードに身を包んだ香主の姿。
いつもなら「幸せそうですね」と一言添えるべきなのだろうか、生憎そんな余裕はないので今回は勘弁してもらおう。
改めて写真とドレスを見比べる。
確かに、一見すればマーメイドラインと区別されるドレス。だがよく見ると、裾の一部にスリットが入りその部分に素材の違う布を挟んでいる。そのおかげでピシッとした印象だけでなく、柔らかな雰囲気も感じさせる。
それだけでなく、このドレスにはあまり見られない先が三角形となっているポインテッド・スリープという袖となっている。
――普通、ウェディングドレスにスリットを入れようとする花嫁はあまりいない。
近年確かにセクシーさを売りにするドレスが流行りつつあるが、ウェディングドレスとなるとまだまだ馴染みのある形ではない。
それに上半身と裾で布の素材を分けることはあっても、裾の部分でこうもあからさまに違う素材を使うのもあまり見られない。
だが、エレガントとセクシーさ、そして柔和さを絶妙なバランスで醸し出せるこのドレスを仕立てるにはそれなりの大胆さは必要である。
こんな型破りなことをしながら何一つ魅力を欠かすことなく仕立て上げる職人を、私は一人だけ知っている。
だが、香港で働いていたなんて聞いたことない。
あの人とはまた別の人なのだろうか。
「あの、キキョウ様?」
「……すみません。少し考え事をしてました」
後ろから桜綾さんに声をかけられハッとする。
今は誰が作ったなんて考えている場合じゃない。
問題なのは目の前にある“一級品”をどうするかだ。
「単刀直入に申し上げます」
振り帰ると、いつの間にか龍頭と複数の部下の人たちも来ており一瞬驚いたが、すぐさま気を取り直し不安げな表情の彼女を見据える。
「これは完全に修復するのは不可能です。このような状態から以前の形に何の違和感もなく修繕できるのは、このドレスを仕立てられた方しか無理です」
「え……」
「このドレスはそれほどまでに“素晴らしすぎる”んです。他の方々が口を揃えて“無理”だと言ったのは、その逸品を実物を見たこともないまま再現するにはあまりにも期限が短すぎることにあります」
写真を見ただけでもこの魅力であれば、実物はそれ以上に魅了される。
そんな代物をたった2日と数時間で修繕するのは、私がどんなに頑張っても無理だ。
――完全に修繕することは。
「どうしても以前の状態へ完璧に戻したいのであれば、何が何でも仕立てられた方を探すしかありません。残念ですが」
「そんな……」
「……」
桜綾さんは再び下を俯き、そのすぐ後ろで香主は真剣な顔で黙っている。
何人かに鋭い目線を浴びせられているが、それには構わず再び口を開く。
「――ですが、全く用意できないわけじゃありません」
「……え?」
さて、ここから本題だ。
この話を受け入れてもらえなければ、もう私にできることは何もない。
「ここにある切れ端とそこに掛けてある状態の物を基に、違う形のドレスを仕立てあげることはできます」
「……それは」
「勿論、元の形とはかけ離れたものになるでしょう。しかし“このドレスを着て式に出る”という貴女の願いを、短い時間で叶える方法はこれしかありません」
「……」
そう、私達洋裁屋が無理だと言ったのは“完璧な状態”に戻してほしいという依頼だったからだ。それに加え短い時間でという条件なら尚の事。
だが、元の形に拘らないのであれば話は変わってくる。
かなりギリギリではあるが、やれないことはない。
「貴女がこの話を受け入れてくれるのであれば、私は全身全霊をかけて貴女に似合うドレスを仕立てることを約束します」
「……」
「ですが決めるのは貴女です。どうしてもお母様と全く同じものを着られたいなら、断ってください」
「……」
「どうなさいますか?」
私の問いかけに桜綾さんは俯き、黙ってしまった。
これは彼女にとって苦渋の決断となるだろう。
あんなにも拘っていたものを諦めなければならないのだから。
だが、それでもいいと言ってくれたなら、私なりにその思いに全力で応える。
私にはそれしかできない。
「――令爱」
しばらくしても何も言わない桜綾さんに、今度は張さんが話けてきた。
「このドレスを仕立てた人間がどれほど一流なのかは知りません。ですが、目の前にいる洋裁屋はそれと同等。それ以上の腕を持っています」
彼の言葉に耳を疑う。
一体何を言い出すんだこの人は。
そうやって期待を煽るのはやめてほしい。
だがこの雰囲気で話を遮る勇気もなく、黙っていることしかできなかった。
「そんな一流の洋裁屋が“全身全霊をかけて依頼をこなす”と約束した。なら貴女にこの世で一番似合う最高なドレスが出来上がるはずです」
「……」
「こいつはできないことを易々と請け負う人間じゃない。そして、自分でした約束は必ず守ります。――そうだな、キキョウ」
「……ええ。約束を守らないのはただの屑ですから」
約束を守る。それが私にとって一番の信条であることは彼はよく知っている。
何を考えてあんなことを言ってるのか分からないが、余計なことは言わず素直に肯定する。
桜綾さんは張さんの話を聞いても俯いて黙ったまま。
「桜綾、もう子供じゃないんだ。いつまで悩んでいても何も解決しないことくらい分かっているだろう」
「……」
「早く決めなさい」
龍頭までもが真剣な声音で決断を促す。
それでも未だ俯いて何も話してくれない。
これは、どうしたものか。
父親である彼の言葉も効かないなら、もう何も言うべきではないのかもしれない。
だが時間がないのも事実で、やるなら早く動きたいのが本音だ。
そう思っていても、彼女の決断がない限りどうすることもできない。
「――桜綾、君があのドレスに強く拘っていることは俺が誰より知っている」
どうしたものかと頭を悩ませていると、香主が桜綾さんの両肩を掴み、柔らかい声音で話始めた。
「だが俺は、正直何でもいいと思っている」
「え……?」
「例えボロ布に身を包んでいようと、俺の妻であることは変わらない」
「……」
「だが叶うなら“世界一のドレス”に包んだ君を拝んでみたい。幸いなことに、ここにそれを仕立てることができるらしい洋裁屋もいらっしゃっている」
「……」
「桜綾、俺のその願いを、我儘を聞いてくれないか?」
目の前で繰り広げられた会話に思わず「うわ」と声に出しそうになった。
いや、別に悪い意味ではなく、単純にずるい言い方だと思った。
幼い頃から惚れていた彼にあんなことを言われた上で“お願い”されれば、彼女が無下にできる訳がない。
ずっと傍にいた婚約者だからこそできることなのだろう。
「――キキョウ様」
やがて、今まで俯いていた顔をこちらに向け、あの綺麗な茶色の瞳で見据えられる。
「私に最高なドレスを、仕立ててくださいますか?」
意を決したような表情で告げられたその言葉は、彼女が苦渋の決断を下した何よりの証。
ここで私が返すべき答えは、たった一つ。
「荘 桜綾さん。貴女のその依頼、承りましょう」
龍頭「(なんでいつも劉帆の言う事はすんなり聞くんだ。父の言葉には何も反応しないというのに)」
香主「(……龍頭の視線が痛い)」
張「(目合わせたらとばっちりを喰らいそうだ)」
みたいなことを思ってたり……。