『――やめてください……っ、こんなこと……!』
『ほら、いいだろ? 見られて興奮するタイプだもんなお前は』
『こんな、こと……ッ、もうやめ……!』
『そんなこと言って、体は正直だぞ』
『いっ、た……!』
苦しそうな女の人の声と上機嫌な男の声が響く。
一体何事かと閉じていた眼を開ける。
視界が霞み目の前がはっきり見えず、何回か瞬きを繰り返す。
段々はっきりしてきた視界に映ったのは、顔を殴られたのか頬が腫れている女性に男が口の端を上げながら乗っかっている様。
これはなんだと思ったのも一瞬で、すぐ一つの答えに辿り着く。
――これもまた、何度も見てきた光景。
決して忘れることのできない記憶が、またこうして映画のように見せられているのだと。
女性が悲痛な声で必死に抵抗しているにも関わらず、男は気色悪い笑みを浮かべている。
やがてこちらを見ると、楽しそうな声音で話し出す。
『――は、自分が生んだ子供の前で犯されるのはどんな気分だ?』
『“ ”、こっちを、見ちゃダメ……!』
『あ……』
女性もこちらを見ながら必死に声を出す。
正確には私のすぐ隣で縮こまっている女の子の方を。
十歳にも満たないであろうその女の子は怪我をしているのか腕と足に包帯を巻いている。
女の子は男の言葉に体を震わせ、怯えたような表情を見せる。
私は近づくことも声を出すこともできず、ただ見ることしかできない。
『お前も目を逸らすなよ。言う事聞かなかったら分かってるな』
『……っ』
『なんて、こと……! あなたの娘でも、あるのに!』
『あれは女としての役目も果たせない俺を苛々させるだけの害虫だ。背中にあんな痕がある女を欲しがる男がいるならすぐくれてやるんだがな』
『あなたがっ、無理矢理つけたもの、でしょう……! それを』
『うるせえな。いい加減黙れ』
『うっ……!』
拳を振り、女性の顔を殴る。
そしてまた腰を動かし、女性の苦しそうな声が響く。
隣の女の子は男に逆らうこともできず、目を逸らさず目の前の光景を見続ける。
目には涙を溜め、唇を噛みながら必死に泣くのを堪えている。
――この子は今、大好きな母が苦しそうにしているのに何もできない歯痒さと男への恐怖心に挟まれている。
何もできないことに悔しさを感じているのなら動けばいいじゃないか。
動けば少なくても矛先は君に向く。
少しの間であっても母親が苦しまなくて済むなら、それでよかったはずじゃないのか。
どうして、ここで動かなかった。
どうして、自分が犠牲になろうとしない。
動かなければいけないと分かっているのに、どうして。
そう思っていても、声を出すことも手を動かすこともできない。
“また”見ていることしかできない状況にどうしようもない苛立ちを感じながら、女の子と一緒に時が過ぎるのをひたすら待つ。
――しばらくして男は気が済んだのか、息が上がっている女性を置いてどこかへと立ち去っていた。
酷い顔で床で横になっている女性は、女の子を見て柔らかく微笑むとゆっくりと体を起こした。
『“ ”、ごめんね。怖かったでしょう?』
『……かあ、さん』
『おいで』
『……』
女の子は恐怖が残っているのか呼ばれても動くことはなかった。
相変わらず震えている女の子に、女性はこちらに手を伸ばし再び優しい声音で話しかける。
『“ ”。こっちに来て、顔を見せて……』
女性の切ない声から出た願いに女の子は震えながらも立ち上がり、恐る恐る歩き出す。
やがて目の前に来た女の子へ手を伸ばし、壊れ物を扱うように抱きしめた。
『あんなもの見せられて……びっくりしたわよね』
『……ごめんなさい。私のせいで、母さんが』
『あなたのせいじゃない。あなたは何も悪くないのよ』
『私が役立たずだから……こんな、ひどいこと……っ。ごめんなさい……ごめんなさい』
『そんなことない。そんなことないのよ』
女の子は女性の腕の中で堪らず涙を流す。
ごめんなさいと繰り返す女の子を女性は優しく撫でている。
『ごめんなさ……私なんか、いなければ……ごめんなさい……』
『謝らないで。謝らなくていいのよ』
『でも』
『本当なら私が……』
抱きしめている腕と声が震えている。
女性は震えを止めることができないまま、言葉を続ける。
『本当なら、私があなたを守るべきなのに……。ごめんね、弱いお母さんで……っ』
『え……?』
『あなたは何も悪くない。悪くないのよ……っ。ごめんね、こんな目に合わせて』
『……』
悲痛な声だった。
心の底からの謝罪の言葉。
それに対し女の子は、驚きで目を見開いている。
だがその表情は、すぐさま怒りのようなものへと変わる。
――ああ、そういえばこの時だったな。
あの男に対して明確な怒りを感じたのは。
母親が泣いているのは自分のせいだと分かっていた。
だがそれ以前に、あの男が私だけに矛先を向ければよかったのではないか。
あの男と自分さえいなければこの人はこんなに苦しまなくて済んだはずだ。
なぜ母は何も悪くないのにこんなに謝る必要があるのかと、子供ながらに思ったのを鮮明に覚えている。
『……ねえ“ ”、あの人はあなたにとても酷い言葉を言うけれど、そんなことないの』
『え……?』
『こんなに痛い目にあっても、酷いことを言われても逃げずに傍にいてくれる。一緒に耐えてくれている。あなたは自慢の娘よ』
『……そんなこと、ないよ。こんな、役に立たない人間』
『いいえ、あなたはとっても優しい子。……そんなあなたにつけられた傷は深くて、中々治らないと思う』
『……』
『だけどいつかその傷も含めて、あなたの全てを受け入れてくれる人がきっと現れる』
その言葉に思わず目を見開く。
“――お前の全てを受け入れる”
数日前、そういってくれた人が確かにいた。
心なしか鼓動が早まり、自身の手が震えている。
『ねえ“ ”、もしそういう人に出会えたら――』
女性は腕を緩め、女の子の頬に触れる。
『恐れずに、信じてあげなさい』
そう言った母の顔を見た瞬間、頬に温かいものが流れた。
「――キキョウ」
誰かの声が聞こえ、意識が底から戻ってくる。
重い瞼を開けると、何故か視界がぼやけていた。
何回か瞬きをすれば、目から涙が流れるのと同時に視界が段々はっきりしてくる。
「起きたか」
「……張さん?」
声がした方を向くと、素顔を晒している張さんがこちらを見ていた。
やがて武骨な手で頬に触れ、流れている滴を指先で拭いながら言葉を続ける。
「随分魘されていたようだが、何か悪い夢でも?」
「……少し、懐かしい夢を見てました」
「そうか」
武骨な手の感触にいつも以上の安堵感を抱く。
あの夢を見たせいなのか、また別の理由からなのか分からない。
だけど、今はその安心感に浸りたいと思った。
目を瞑り、頬を包む大きな手を黙って受け入れる。
「お前がこうして甘えるのは、初めてだな」
「……ダメ、でしょうか」
「これはまた随分素直だな。――構わん。お前の気が済むまで、好きなだけ甘えろ」
その言葉に口の端を上げ、顔を摺り寄せる。
今は恥とか失礼だとかいう考えは浮かばなかった。
彼もまた、私の行動を拒否することなく受けいれてくれた。
――そうしてしばらく心地よさに浸れば、自身の気持ちも落ち着いた。
「もう、大丈夫です。ごめんなさい、我儘を言ってしまって」
「構わんと言ったろ。普段もこうやって甘えてくれれば嬉しいんだがな」
「それはちょっと……」
「つれないな」
ゆっくりと体を起こし彼の手から離れれば、いつもの雰囲気へと戻る。
少し話をしたところで、張さんが真剣な顔で言葉を続ける。
「お前、あれから3日寝ていたんだぞ」
「え……」
「眠る前のことを覚えているか?」
張さんから告げられた話に驚きを隠せなかった。
そして、必死に寝る前の記憶を辿る。
確か、桜綾さんのウェディングドレスを完成させた後、何も分からないまま無理やり男に連れ去られ、犯されそうになったところまでは覚えている。
その後、リンさんや郭さんが助けに来てくれて、そこからは――。
一つ一つ丁寧に思い返していけば、やがて眠る前までの記憶が蘇る。
――そうだ。
何故か体が異様に熱くなって、彼にこのベッドの上で……。
男女の性行為は何度も見た。
女性が痛がっても男が絶対やめないその行為は、見てて辛く、恐ろしかった。
だがあの時の彼とのそれは、痛みだけではなかった。
細かいことはよく覚えていないが、多少の痛みはあったものの、過去に何回も見てきた行為とは何かが違っていて。
彼に抱かれたという事実とこの背中を見たのに何故抱いたのかという疑問。そして、どういう顔をすればいいのか分からない戸惑いで頭が混乱していく。
「その顔だと、今思い出したって感じだな」
「えっと、その……私……」
どうしよう。
どんな顔すればいいのか本当に分からない。
背中を見られたというだけでも耐えがたいのに、みっともない姿を晒してしまったことに動揺してしまう。
顔を逸らし、俯いて言葉を返そうとするが何も出てこない。
「そう不安そうな顔をするな。何も心配することはない」
「え……?」
「俺は――」
「お話し中失礼します! 大哥! キキョウちゃん起きたらすぐ呼んでくださいってアタシ言いましたよね!?」
張さんが何か言いかけた瞬間、ノックしたのと同時にドアを開け大声を出しながら誰かが部屋に入ってきた。
驚いている間にもつかつかと歩み寄るその人は、どこか疲れたような顔をしていたリンさんだった。
リンさんの登場に張さんは眉根を下げ、サイドテーブルに置いてあったサングラスをかける。
「お前な……ノックの意味知ってるか?」
「貴方が“キキョウが起きたら呼ぶ”と言ったからリビングで待ってたんですよこっちは! だというのに、いつまでも戻ってこないから様子見に来たらこれですよ! ノックしただけマシだと思いますけどね!?」
「そう騒ぐな、お前の声はうるさくて敵わん」
「誰のせいだと……はあ。――キキョウちゃんおはよう。気分悪いとか痛いところとかない?」
「お、おはようございます。えっと……特にないです」
「よかった」
リンさんの言葉をあしらいながら張さんはベッドから腰を上げた。
彼女は安堵したような表情を見せた後、再び張さんの方を向き口を開く。
「大哥、この子にはアタシから話をします。終わりましたらまたお呼びしますので」
「出て行け、だろ? 言われなくてもそのつもりだよ。ったく」
頭を掻き、やれやれと呟きながらリビングの方へ向かっていく。
部屋を出る前に目が合ったが、すぐさま目を逸らしそのままドアが閉まる。
リンさんと二人きりになり沈黙が落ちる。しばらくすると、やがて彼女が先に口を開く。
「キキョウちゃん、本当に体に違和感ない? この前の、その……変な感覚とか今はない?」
「……ええ、大丈夫です。強いて言うなら、寝すぎたせいか少し頭がボーっとするくらいですね」
「そう……」
リンさんが言っているのは、あの熱く、痺れたような感覚のことを言っているのだろう。
彼に触れられた瞬間急に襲ってきたあの感覚は、嘘のように全く感じない。
私の返答に彼女は安堵したような声を出した後、どこから持ってきたのか水が入っているペットボトルをこちらに差し出してきた。
「喉渇いてるでしょ。先にこれ飲みなさい。話はそれからよ」
「ありがとうございます」
そう言われてみれば、確かに喉が渇き声が少し掠れている。
三日も寝ていたのだから当然か。
夢見が悪かったのと混乱していたのもあり、起きてから全然気にならなかった。
ひんやりとしたペットボトルを受け取り、そのまま水を口に含む。
喉を潤しペットボトルから口を離すと、リンさんが真剣な表情で話し始める。
「……キキョウちゃんがあのクソ野郎に打たれた薬、ちゃんと調べたのよ。そしたら、やっぱり催淫系の麻薬も混じってたわ。所謂、普通の媚薬よりも効きやすいものよ」
「……」
「麻薬による依存性や効果の持続性は低い。だけど、今後あの時みたいな状態にならないとは言い切れない。直接血管に打たれたんだったら、尚更その可能性はあり得る」
「……そう、ですか」
薬物中毒者はあの街で遠目から見たことはあるので、重症化すればどうなるかくらいは分かっているつもりだ。
何回も麻薬を摂取しているからああなっているのであって、今後自分が摂らなければ何も問題ないだろう。
だが、これはあくまでも素人の考えだ。完全に問題がないとは確かに言い切れない。
「リンさん。もしまたあの状態になったら……我慢するしかない、ですよね」
「それでもいいけど、一番は今回みたいに発散させることね。薬を使うと段々効果が薄れてそのうち効かなくなる上に、そのせいで逆に中毒症状にもなりかねないから」
「薬で済むなら、私はそっちの方がいいです」
あんなみっともない姿を誰かに晒さずに済む方法があるならそっちを取りたい。
自慰なんてしたことないし、性行為をする相手も見つかるわけがないのだから。
「……キキョウちゃん。アタシが言うのもあれだけど、そうなった時は大哥に頼るのも一つの手じゃないかしら」
「……え?」
「背中の痕も見られたんでしょ? それでも大哥は貴女を抱いた。――なら、そういう点では誰よりも頼りやすいんじゃないかしら」
「……」
確かに、彼は私の背中の痕を見ても“気にしない”と言ってくれた。
それは覚えている。
――だが、それが本当の言葉なのか分からない。
今回だって彼の気まぐれの可能性だってある。
その言葉を本気にしてもう一回痕を見せた時、彼から“やっぱり醜い”と言われるかもしれない。
それで今までの関係が壊れたら、きっと私は彼に体を許したことを一生後悔する。
彼が気まぐれで抱いたのか、それとも本当に痕の事を気にしていないのかを確認する勇気は私にはない。
それに、さっき話した時いつもと変わらなかった。
なら、わざわざ自分から関係が壊れるかもしれない危険を冒す必要はない。
……そうだ、気にしなければ今までと何一つ変わらないのだ。
そうすればまた彼にみっともない姿を晒すことも、関係が壊れることもない。
「リンさん、それは無理ですよ」
「どうして?」
「また彼にあんなみっともない姿晒したくありませんから」
「そんなこと大哥は気にしないと思うけど」
「私が気にするんです。それに、こんな汚い体をまた抱くなんてあり得ないですよ。彼はもっと綺麗な女性が好みなはずですから」
「……これは手強いどころの話じゃないわね」
リンさんが怪訝そうな顔で聞いてきた質問に素直に返す。
すると何やらぶつぶつと呟き始めてしまった。
その様を首を傾げて見ていれば、私の視線に気づいたリンさんが一つ息を吐いて再び話し始める。
「まあ、キキョウちゃんがそう言うなら無理に言わないけど……。これからは少し様子を見ましょう。それで薬を用意するか決めるから。でも、使わないに越したことはないんだからね」
「ありがとうございます」
「ひとまずアタシからの話は終わり。一応、体に異常がないかちゃんと診ましょうか」
「お願いします」
そう言って私の方へ手を伸ばし、彼女による診察が始まった。
――――――――――――――――――――――――――――
「――キキョウさん、よかった……本当に……」
「ご心配をおかけしました。桜綾さんも、何事もなかったようでよかったです」
リンさんの診察を受けている間に張さんが龍頭や桜綾さん達へ私が目覚めたことを報告したらしく、「彼らがすぐこっちへ来たいそうだ」という驚きの報せを受けた。
急すぎる内容にリンさんも驚いた様子で、慌てて栄養不足な状態を何とかしなければならないから急にはやめた方がいいと張さんに進言していた。
だが、向こうもがどうしても会いたいと言っているようで、それならば数時間後ではどうかという結論に至った。
途中、私が会いに行こうかと提案してみたのだが、リンさんに「絶対ダメ」と言われ敢え無く却下された。
そういうことで、大人しくリンさんお手製のお粥をちまちまと食べながら時間を過ごす。
リンさんの手料理ということで少し不安だったのだが、少量の塩と米だけなら味が変になることもなかったようだ。
時間をかけようやく食べ終わり、彼女たちを迎えようと身支度を整える。
と言っても、髪を梳かしたり顔を洗ったりなど簡単なものだが。
服もリンさんが持ってきたもので、Tシャツとお腹を締め付けないワイドパンツというゆったりとした格好だ。
仮にも大組織の№2とその妻である二人の前に出るには少しラフすぎるかもしれないが、別に問題ないだろうと張さんから言われたので気にしないことにした。
出迎える準備もでき、そこからは彼女たちが来るのをリンさん、張さんと話しながら待っていた。
話の中で、張さんが桜綾さんの事を「大姐」と呼び方を改めていたことに驚いたが、彼なりに彼女を認めたのだろうと勝手に解釈した。
式を終えてから何か変わったのだろうかと、少しドキドキしながら待っていた。
そうしてしばらく話に花を咲かせていれば、遂に約束の時が来る。
張さんが彼らを出迎えに行き、数分もしない内に桜綾さんと香主が姿を現した。
――私の姿を見た途端、桜綾さんがパタパタと駆けてきて先程の言葉を掛けてきてくれたのだ。
「すみません、話をすると約束したのにお待たせしてしまい」
「こちらこそお疲れが取れていないのに押し掛けてしまって。キキョウさんが起きられたと聞いて居ても立っても居られずつい……」
「私の事はお気になさらず。――香主も、わざわざこちらに足を運んでいただきありがとうございます」
「恩ある御仁にこれ以上無礼を働くわけにはいかないからな。なら、こちらから出向くのは当然だ」
その言葉に思わず苦笑する。
何回も「気にしないでほしい」と言っているのだが、どうもそこは譲らないようだ。
「そこまで気遣っていただく必要はありませんよ。私は私のやるべきことを為しただけですから」
「そういうわけにはいきません」
苦笑しながらいつものように気にしないでと伝えると、唐突に桜綾さんが横から真剣な声音で話し始めた。
彼女の顔は、声音と似つかわしい表情を浮かべている。
「……皆さん、私からキキョウさんに大事な話があります。少しの間、二人きりにしていただけますか?」
「桜綾、それは」
「劉帆さんも、お願いします」
「……分かった」
彼女の言葉に張さん達が素直に部屋を出て行く。
その時香主が何か言いかけたような気がしたが、特に何かいう訳でもなくそのまま去っていった。
呆気にとられていると、桜綾さんは私を見据えたまま話を続ける。
「急にごめんさい。どうしても二人で話したくて」
「大丈夫ですよ。……それで、お話というのは?」
わざわざ人払いをしてまで話さなければならないとは。
どういう内容なのか気になるのは当然だろう。
早速本題に入らせようと声をかけると、彼女は一つ息を吐き意を決したように再び口を開く。
「キキョウさん、今回も本当にありがとうございました。――そして、ご迷惑をおかけしたことを心からお詫びいたします」
その言葉と共に、桜綾さんは頭を下げてきた。
まさか、こんな行動をするとは予想できるはずもなく、一瞬の間を空けた後すぐさま声をかける。
「頭を上げてください。別にどこか怪我をしたわけでもありませんし」
「あの街で助けてくださっただけでなく、ドレスを修繕していただいた貴女をおもてなしするどころか危険な目に遭わせてしまいました。どんな謝罪の言葉を述べようと、どんなに頭を下げようと許されることではありません」
「……それは貴女のせいじゃないでしょう。桜綾さんが謝る必要なんてどこにも」
「恩人である貴女にここまでの無礼を働いてしまったのは、招待した私に責任があります。直接的な原因がなくても、もっと注意を払っていれば少なくてもこんな目には遭わずに済んだんです」
そう話す桜綾さんの肩が少しだけ震えているのに気づいた。
あの男は、私に何かしらの恨みを持っている人間から依頼されたと言っていた。
なら、こうなったのは誰のせいでもなくただの自業自得。
それどころかドレスの修繕をする時も、三合会の人たちは私の部屋の周りを警備してくれたと聞く。
何故、何も悪くない人がこんなに震えながら謝らなければならないのか。
「あの街で助けていただいただけでなく、無茶な依頼にも応えてくださいました。私達にとってそれは一生かけて返すべき大きな恩です」
やめてほしい。
謝る必要なんてどこにもない。
何も悪くない彼女が、声を震わせてまでするべきではない。
「それなのにこんな、恩を仇で返すようなことに……最早どのような謝罪の言葉も、意味を持ちません」
「桜綾さん、もうその辺で」
「どんなに罵倒されようと、仕方ないことです」
息が詰まり、腹の底からせり上がってくるものを感じながら拳を握る。
これ以上、彼女から自分を責めるような言葉は……聞きたくない。
「キキョウさん。私達の式でこのような結果を招いてしまい、心からお詫びいたします。……本当に申し訳」
「謝ってどうするんですか」
「……え?」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
声を荒げたい感情を抑え、桜綾さんの言葉を遮ったことも気にせず、できるだけ冷静に話を続ける。
「貴女を拾ったのも、ドレスを修繕したのもすべて私がしたいからしたこと。そして、私を連れ去ったのは私に恨みを持つ人間。ということは、私の自業自得です。これのどこに貴女が謝る必要があると?」
「……私達の式で、こんな危険な目に遭わせたのは私達に責任が」
「私の何かしらの行動で恨みを持った人間に殺されかけたというのに、張さんのおかげでこうして生きている。それが全てであり、それ以上何もいりません」
「……」
責任? 知ったこっちゃない。
彼女は本当に自分を責めているのだろうが、そんなのは無駄だ。
「私は私のために貴女を保護し、ウェディングドレスを仕立てた。そして、私が殺されかけたのは自業自得であり、三合会の方々は何も悪くない。――何も悪くないのに謝るのがヤクザ者の矜持なんですか?」
龍頭から言われた言葉を思い出す。
“貴女に頭を下げるのは、これ以上クズに成り果てないために。そういう矜持を保つためだ”
――頭を下げる必要がないのに謝っている彼女の行為は、逆にその矜持は保たれないのではないのか。
「お願いですから、何も悪くない貴女がそれ以上謝らないでください。……お願いします」
幼い頃、今の彼女と同じように震えながら私に謝る女性がいた。
その女性も何も悪くないのに、泣きながら「ごめんね」と繰り返していた。
桜綾さんの今の姿は、そんなあの人と全く同じだ。
何も悪くない人が震えて謝る姿は、これ以上見たくない。
私のお願いに、彼女はようやく頭を上げてくれた。
それでも、どうしていいか分からないと言ったような表情で少し俯いてしまった。
「失礼を言ってしまい申し訳ありません。ですが、貴女が謝る必要は全くないんです。――むしろ、こちらからお礼を言わせてください」
「え……?」
そう言うと、彼女の茶色の瞳と目が合った。
戸惑っている彼女に、いつもの声音に戻し話を続ける。
「大事な式に招いてくださったこと。未熟な私に大切なドレスを預けていただいたこと。そして、修繕の間も三合会の方のお力を貸していただいたことに心から感謝いたします」
「……」
「おかげでこの数日間、洋裁屋としてもキキョウ個人としても充実した時間を過ごせました。この体験は、本当に貴重な糧となりました」
「……来なければよかったと、思わないのですか?」
桜綾さんは不安そうな表情を浮かべ、声を震わせている。
「無礼を働いただけでなく、こんな酷い目に遭ったのに……それでも尚、招待したことに感謝するというのですか」
「ええ、感謝しかありませんよ。それに、今まであの街で大分危険な橋を渡ってきました。私は貴女が思っているよりも、こういう殺し殺される世界に慣れてるんですよ」
「……」
「今回の事もちょっとしたハプニングだと思えば、何ともありません」
何の力も持っていない人間がこの世界で順応していくには、「生きていれば上等」というスタンスを持っている必要がある。
まあ今回は彼との間で色々あったが、桜綾さんには関係ない話なので今は細かいことは気にしないでおこう。
だが、桜綾さんは腑に落ちないらしく、瞳は未だに不安で揺れている。
どういう言葉をかけるべきか頭を悩ませていると、ふと目の端に“ある物”が映る。
おかげで、やるべきことがもう一つあるのを思い出した。
「……そういえば、まだちゃんと言っていませんでしたね」
小さく呟き、ベッドから腰を上げる。
そして、部屋の隅に置いていた小奇麗な紙袋を手に取り桜綾さんの前に立つ。
「桜綾さん、遅くなりましたが」
「……これは?」
紙袋を差し出したのだが、状況を読み込めていない彼女は素直には受け取ってくれなさそうだ。
「私からのお祝いです。気に入ってくださるか分かりませんが」
「そんな……いただけません!」
「未熟な洋裁屋からの贈り物は受け取りたくありませんか?」
「そうではありません! 迷惑をかけた方から貰うなんて」
「私が貴女の為に、時間をかけて作らせていただいたものです。――もし、今でも私に何かしたいと言うのであれば、どうか受け取っていただけませんでしょうか? 謝罪よりも、そっちの方が嬉しいですよ」
この言葉は数年前、ある人から言われたことだ。
“これはあの子がアナタのために選んだものよ。なら、どんな理由があろうとアナタには受け取る義務がある。――何もしてあげられなかったというなら、せめて受け取るくらいはしてあげなさい”
友人からの最期の贈り物を受け取れないと言った時、真剣な顔をして言われたもの。
まさか自分が言う側になるとは思わなかったが、ここは有難く使わせてもらう。
「受け取っていただけますか?」
「……貴女は本当に、お優しい方ですね」
桜綾さんはどこか諦めたような声音で、微笑みながら呟いた。
やがて恐る恐る紙袋を受け取ってくれた。
「開けてもよろしいですか?」
「どうぞ」
そう言って彼女は紙袋の中に手を伸ばし、丁寧に包装された物を取り出す。
包装を開けていけば、次第に中身が見えてくる。
その様を私はいつものように気に入ってくれるかどうかドキドキしながら見守る。
「これは……」
「これから寒くなるので羽織るには丁度いいかと。ですが、一年中使っても問題ない素材を使っています。――あと、以前桜を一度も見たことがないと言っていたのでこちらの柄を誂えました」
「……綺麗」
桜綾さんが手にしているのは、白い布に桜が刺繍されたショール。
ショールの端には桜の花びらを一面に散らし、鮮やかな薄桃色が映えている。
あの街で話し相手をしていた時、『自分の名前に入っている花をいつか見てみたいんです』と言っていた。
もう何年も見ていないが、この花は私にとっても思い入れが強いのもあり、刺繍するのは苦戦しなかった。
「桜は満開に咲き誇っているだけでなく、散っていく様でさえ美しい花です。花弁が風に舞う姿は儚さと尊さを感じさせ、そのせいか日本人はそんな花に人生の儚さを重ねてみることもあります」
他の花よりも長く咲き誇るのにあっという間に散ってしまうと感じるのは、命と人生の儚さを重ねてしまうからだとどこかで聞いた。
だがその儚さを感じさせるからこそ、より美しく見えるのだとも。
どこまでも儚く、散っても尚見た人の中で生き続ける美しい花。
「貴女はとても芯が強く、凛とした美しい女性です。そんな貴女に惹きつけられる人は、この世界にたくさんいるでしょう。桜のように、最後まで綺麗な生き様をそんな人たちに見せつけてあげてください」
かつて、その花の名前を持っている女性が美しいとは言えない無残な死を向かえてしまった。
だが彼女には、誰もが羨む幸せな、美しい最期を迎えてほしい。
「――この度は、ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに」
偽りではないその言葉を、微笑みながら投げかける。
桜綾さんは一瞬目を見開いたが、やがてゆっくりと口を開く。
「ありがとう、ございます」
彼女の顔には、あの綺麗で可愛らしい微笑みが浮かんでいた。
香港編は次の話で完結となります。