香港編、最終話です。
「――すまないな。本当ならこちらから出向くべきところ」
「お気になさらず。いつまでもベッドで横たわっているわけにはいきませんから」
「あそこまで無茶をしたんだ。もう少しゆっくりしてもいいと思うがな。……体に変わりはないか?」
「ええ、お陰様で」
「それはよかった」
心配してくれていたような言葉をかけてくれたのは、あの何を考えているか分からない微笑みを浮かべている龍頭。
初めて会った時より緊張は帯びていないが、やはり気兼ねなく話すということはできず体に力が入っている。
――桜綾さんと話を終えた後のこと。
香主と桜綾さんは式が終わっても方々に挨拶回りなど忙しいようで、ゆっくり世間話をする時間はなかったらしい。香主にも感謝を告げられた後、私からの結婚祝いであるショールを羽織った桜綾さんと香主はすぐさま帰っていった。
その時、「父も貴女に会いたがっています。貴女の都合がいい時にでも会ってくださいませんか?」と桜綾さんから捨て台詞のように言われた。
龍頭がそう言っているならすぐにでも会った方がいいだろうと思い、すぐさま張さんへ相談し連絡を取ってもらった。
忙しいはずだからそんなすぐには無理かと思ったのだが、龍頭が時間を作ってくれたようで翌日話すことになった。
いつの間にか夜になり、念のため酒を控えリンさんと話をして過ごした。
体に異常が見られずひとまず大丈夫だと言うことで、リンさんもゆっくり寝るために自分の家へと帰っていった。
張さんともその後少しだけ話を交わしたが、特にいつもと変わらなかった。
その態度に、やはり何も変わらないのだと安堵しつつそのまま眠る。
そして一夜を過ごし、約束の時間となり香港へ来た初日に訪れたビルへと向かえば、杖をついた彼が出迎えてくれた。
ちなみに張さんは龍頭からの「二人きりで話がしたい」という言葉に従い、部屋の外で待っている。
「桜綾から話は聞いた。貴女の言う通り、確かに事の元凶はどこぞの鼠であり、もしかしたら貴女自身にもあるかもしれない。傍から見れば我々が謝る必要はないだろう。だが、よりにもよって我々の本拠地で、我々自身が招いた客人を危険な目に遭わせたのは警戒の甘さが招いたこと。それだけは、責任逃れすることは許されない」
「……」
「私からの謝罪の言葉も、聞いてくれる気はないのか?」
微笑みから真剣な表情へと変え、こちらを真っすぐ見据えている。
そんな彼の言葉に、自身が思っていることを告げようと一つ間を空けてから口を開く。
「失礼を承知で申し上げます。桜綾さんにはお伝えいたしましたが、私の何かしらの行動を快く思わなかった人間が事を起こしたのは事実。ということは、私の自業自得です。しかし、私は貴方や張さんの裁量によって命を救われました。私が頭を下げる理由はあれど、貴方が私に頭を下げる理由はどこにも見当たらないでしょう」
きっと、私がなんと言おうと彼は頑なに謝ろうとしてくるはずだ。
彼女を育てた父親だというなら、それくらい予想できる。
だが、今回に関しては彼が頭を下げる事にどうしても腑に落ちないのだ。
「貴方がた三合会は責任もってお二人の式を無事に終え、尚且つ私の命を救ってくださいました。この結果をもたらしてくれた貴方がたが責任逃れをしているなんて、誰が言えますか」
「……」
「寧ろ、私から感謝の言葉を伝えさせてください。――今日はそのために来たんです」
何も言わず話を聞いている龍頭を見据えたまま、腰を上げる。
そしてそのまま、彼に向かって深々と頭を下げた。
一つ息を吐き、再び口を開く。
「この度は盛大な式に招いてくださったこと。そして、私の命を救っていただいたことに心から感謝いたします。本当に、ありがとうございました」
張さんから、私が連れ去られたとき彼も動いてくれたと聞いた。
なら、感謝するのは当然であり逆に謝られるなんて言語道断だ。
私にとっては、ドレス修繕を無事に終えた上にちゃんと生きているこの結果がすべてだ。
その過程で色々と悶着あったが、今は気にすることではない。
「……頭を上げてくれ」
「……」
私の言葉を聞いた後、龍頭はしばらく間を空けた後声をかけきてた。
素直に従い、頭を上げて再び彼の顔を見据える。
無言で座るよう促され、高級椅子に腰かける。
「まさか、感謝の言葉を返されるとは。それも、偽りや形式ではないものを」
「当然ですよ。心から感謝してしますから」
「……ここまで言ってくれた相手に謝罪するのは逆に失礼にあたる、か」
そう呟くと、ふむ、と何やら考えるように顎に手を添えた。
お互い何も喋らず、沈黙が落ちる。
彼が何を考えているか分からないが、こちらは大人しく彼からの話を待つしかない。
しばらくするとようやく龍頭が顎から手を離し、こちらを見据え再び口を開く。
「これ以上、謝罪の言葉は不要だな。ならせめて、こちらからも礼を言わせてほしい。――貴女のおかげで、無事に式を済ませることができた。二人の親として、心から感謝する」
「……」
「言葉だけでなく何か返したいのだが……今も望むものは何もないか?」
やはりそうきたか。
これまでのやり取りから、彼が感謝の言葉だけで済むはずがない。
――私が今望むもの、か。
「ではお言葉に甘えて、一つだけ聞いてもいいですか?」
「……なんだ」
少し驚いたような表情を見せた彼に向かって、緊張した面持ちで言葉を返す。
「桜綾さんのお母様……貴方の奥様が着ていたというドレスについてです」
「あのドレスが何か?」
「……以前申し上げたと思いますが、あのドレスはとても素晴らしいものでした。どんな洋裁屋であっても、短期間では決して完璧に直せない程に。――ですが、使われていた技術は私にとって見覚えがあるもの……いえ、私がある人から受け継いだものと“非常に似ています”」
手に取って写真と見比べた時はただの偶然かもしれないと思っていた。
だが、触れていく内に明らかになっていく技法や、布の使い方。
それら全てを直接確かめたことで、ある一つの疑念が確信へと変わっていった。
「確か、仰っていましたよね。“滅多に依頼できない洋裁屋”に仕立ててもらったと。その洋裁屋について、貴方が知っていることを教えてください」
あの人がこの国でも洋裁屋として生きていたという事実を確かめたい。
もし私の考えが外れていたとしても、あの素晴らしいドレスを仕立てたのがどんな人なのか知りたい。
緊張からか自然と拳を握る。
龍頭は私の言葉を最後まで聞くと、徐に口を開いた。
「――二十年も前の事だ。結婚する時、滅多に我儘を言わない妻が“とある洋裁屋にドレスを頼みたい”と言ってきた。その洋裁屋は妻が日本で知り合った友人だったみたいでな。結婚する時必ず依頼すると約束していたらしい。……だが、私は反対した。当時は今以上に敵が多く、そんな中で会ったことのない、信頼できない人間に頼むことはしたくなかったんだ」
昔を懐かしむように、龍頭の顔には微笑みが浮かんでいた。
その表情を携えたまま、話を続ける。
「なら会ってみたらいいと、半ば強引にその洋裁屋を彼女がこちらへ招いてしまってね。“彼”と会ったのはその時だ。――いかにも暴力とは無縁の世界で生きてきたような人間だった。我が妻にあのような知り合いがいたことに驚いたものだ」
「……」
「だが、彼はそんな見た目に反して我々ヤクザ者を前にしても堂々と振舞っていた。私が脅しにも似たような言葉を浴びせても動じるどころか、“依頼するのが嫌なら他を当たれ”と言われたよ。――彼も貴女のように真っすぐで、自分の職に誇りを持った素晴らしい職人だった」
「……その、職人の名前は」
「重富春太。そう名乗っていたよ」
彼の口から出た名前に、驚きはなかった。
大組織のトップである彼からあそこまで評価された事実に、自分の事のように嬉しくなる。
それと同時に、申し訳ない気持ちが生まれた。
尊敬してやまないあの人が仕立てたものを、私のような未熟者が手を加えたことに。
複雑な心情に、拳に更に力が入った。
「先程“受け継いだものと似ている”と言っていたな。……貴女は彼の弟子なのか?」
「……ええ。彼には、色々な事を教えてもらいました」
「そうか。――親子共々、貴方がた師弟に世話になるとはな。なんとも奇妙な巡り合わせだ」
「そうですね。本当に不思議な事です」
龍頭の微笑みにつられ自身の口の端も上がる。
悪徳の都で偶然家の前で倒れていたのが三合会龍頭の娘で、その娘の結婚式で師が仕立てたドレスを目にし、更には手を加えることとなった。
偶然だとしても、あまりにも不思議な巡り合わせだ。
「今回の件、実は彼に頼もうと思っていたんだ。貴女の言う通り、仕立てた本人ならばなんとかしてくれるだろうとな。……そこで数年前に彼が亡くなっていたことを知った。遅ればせながら、師匠殿にはご冥福を」
「……ありがとうございます」
「あれから彼と会ってはいないが、私にとって今でも忘れられない人物の一人だ。それほどまで、彼はどこまでも真っすぐな人間だった。――そんな彼と貴女はよく似ている。彼の全てを受け継いだのだとその身をもって示すようにな。彼もきっとこんな素晴らしい、一流の洋裁屋を育てたことに誇らしく思っているはずだ」
「……それは、どうでしょうね」
あの人は普段は温厚で優しかったが、洋裁となるととことん厳しい人だった。
教える時も一切怒らないが一つでもミスしようものなら、どうしてミスしたのか。ミスしないためには何が必要か。起こしたミスでどのようなリスクが伴うか。ミサイルのように飛んでくる彼の質問にすんなり答えられるまで、一切裁縫道具を触らせてはくれなかった。
彼の教え方は怒鳴って分からせるものではなく、諭すようなやり方だった。
そのおかげで私の洋裁屋としての腕は上がったように思う。
……だが、それでも彼の腕にはまだまだ程遠い。
ずっと隣で見てきたのだ。彼に比べて未熟者であるのは誰より理解している。
その上、私は人に誇れるような人生を送ってはいない。
そんな私が彼の誇りとなっているとは、到底思えない。
「彼は私を、一流だと称したことはありませんでした。それどころか、恩返しができないまま最後まで迷惑をかけて。そんな不孝者を誇りだなんて言うとはとても」
「だが貴女は見事に此度の依頼をこなしてくれた。立派に自分の教えを受け継ぎ生きているだけでも十分な恩返しだと思うがね。……自分が手塩に掛けた娘なら尚更だ」
龍頭が何を考えてそんなことを言っているのか分からない。
私はどうしても納得できないが、目の前の彼は先程までとはどこか違う微笑みを浮かべていて何も言う事が出来なかった。
「まあ、これは他人が口出すことではないな。だが、そこまで自分を卑下するのは師である彼にも失礼だ。改めた方がいいとだけ言っておこう」
「……ご忠告ありがとうございます。できるだけ、善処します」
桜綾さんにも同じようなことを言われたことがあるが、やはり親子だからか気にしてしまう部分は一緒らしい。
苦笑いで返答すれば、彼は何も言わずまたあの微笑みを返してくれた。
――しばらく龍頭と依頼の報酬やちょっとした世間話などを話した後、今度は張さんと話がしたいそうで、入れ替わるように豪勢な部屋を後にした。
張さんとすれ違った時「今度はいじめられなかったみたいだな」と嫌味にも似た言葉を浴びせられ、言葉を返そうとしたがさっさと部屋へ入ってしまった。
なので気にしたほうが負けだとそのまま歩みを進め、近くで待機している郭さんや彪さん。
そして、久々に顔を合わせる胡さんと合流する。
「よう洋裁屋。こうして話すのは久々だな」
「お久しぶりです胡さん」
「相変わらず硬えなあ。もっと気楽に喋ろうぜ」
「これでも割と気楽に話してるんですよ」
「そうかい」
胡さんとはロアナプラでもちょくちょく顔を合わせては挨拶をする仲だ。
彼の仕事は主に邪魔者にお灸を据えることだと本人から聞いたが、実際の仕事風景をお目にかかったことはない。というか、あまり見たくはない。
「あ、そうそう。あの変態鼠とはしっかり遊んでやったぜ。向こうも泣いちまうほど楽しかったみてえで、最期は歓喜で震えながら地獄にいったよ」
「あはは……。えっと、ありがとうございます」
「どういたしまして」
「まったくお前は。キキョウに話さなくてもいいことを」
笑顔でそう話す胡さんにどう返答していいか分からず、苦笑しながら一言お礼だけ返す。
そんな胡さんに郭さんは呆れたようにため息を吐くと、今度はこちらに言葉をかけてきた。
「災難だったな。体はもういいのか」
「ええ、お陰様でこの通り」
「そうか」
「元気そうで何よりだよ」
郭さんに便乗して彪さんも口を開いた。
軽く言葉を交わしたところで、一呼吸空け二人を見据える。
「……お二人もありがとうございました。色々と動いてくださってたみたいで」
あの街から張さんが連れてきた彼の直属の部下さん達は、私が連れ去られたとき文句ひとつ言わず動いてくれた。
特にこの二人は率先して動いたとリンさんから聞いた。
いくら張さんの命令とはいえ洋裁屋一人のために彼らが動いたことには驚いたが、そのおかげで生きているので素直に感謝を伝える。
「気にするな」
「そう、俺達は大哥の命令をこなしただけだ。礼を言われる筋は」
「相変わらずの忠犬ぷりっだな郭。悪意のない感謝の言葉は素直に受け取った方が吉だぜ?」
「素直も何もそれが事実だろうが。もう一回そのクソむかつくこと言いやがったら歯折るぞ」
「怖えなおい。なあ洋裁屋、こいつ張大哥の獲物を俺に横取りされたから嫉妬して俺に八つ当たりしてんだ。こんな女々しい男どう思う?」
「おい、表出ろ」
「あはは……」
郭さんの鋭い目線をものともせず胡さんはヘラヘラと笑っている。
そんな二人の様子に彪さんは再びため息を吐いた。
「お前ら、ここで喧嘩すんのはやめとけよ。ったく……」
「お二人仲いいですね。彪さんも混ざったらどうですか」
「俺が入り込む隙はねえな。――は、冗談言うくらいには余裕ができたみたいでよかったよ」
「貴方達のおかげです。本当に感謝してます」
「俺はその言葉を素直に受け取っとくよ」
彪さんの軽い返答に、思わず口の端が上がった。
そこからは他愛もない話に花を咲かせ、張さんが来るまでの時間を潰した。
――――――――――――――――――――――――――――
――キキョウが去った後、入れ替わるように部屋へ入ってきた張は龍頭と向かい合うように高級椅子へ腰かけた。
挨拶もそこそこに、龍頭は微笑みを消し一つ間を空けてから本題へと入るべく再び口を開く。
「張、用件は分かってるな」
「哀れな生贄を使った臆病な鼠についてでしょう」
「ああ。今も国中を隈なく探してはいるが一向に見つからん。この状況から考えられることは」
「またナリを潜めているか、とっくに国を出たかのどちらかでしょう。ですが、ここまで大きく事を起こした上にあの便箋を置いていった。なら、後者である可能性が非常に高いかと」
「一体どんな手段を使ったのか知らんが、我々がこうまんまと逃がすとはな。黒社会を牛耳る組織としてこれは大失態に外ならん。……まあ、恩人を生かして取り戻せた事だけでも幸いと思うべきか」
龍頭が醸し出す緊張感の中で、張もまた淡々と話を続ける。
「ええ。そして、これもまた不幸中の幸いか親玉はキキョウに異常に執着しております。自分の首を絞める真似をしてまで欲したのがキキョウの死であるなら、また彼女の元に現れるはずです。彼女が我々の手の中にいる内はいくらでもチャンスはあるでしょう」
「……彼女を餌に鼠を捕まえるか。少々気が引けてしまうが、背に腹は代えられんな」
「勿論、できるだけキキョウに害が及ぶ前に終わらせるよう尽力します。これ以上、思い通りにさせるのは我慢ならないことですから」
「すんなり捕まってくれればいいがな。――ここまで我々のテリトリーを食い荒らし、尚且つ逃げ切った相手だ。お前に言うまでもないだろうが、最大の注意を払え」
「御意」
「我々を侮辱したその罪は、何が何でも安い命で贖ってもらわねばな」
言い放たれたその言葉と共に、大組織の頭らしい冷徹な微笑を浮かんだ。
その表情を目の当たりにし、張はまだ見ぬ敵に少なからず同情する。
こんな恐ろしい人物をここまで怒らせた。なら世界のどこにいようとも追い詰められるだろう。
“ま、自業自得だがな”と、胸の内で鼻で笑った。
「ああ、そうだ張。これはまた別の話になるんだが」
龍頭はいつもの柔らかい微笑みへと戻し、思い出したように言葉を投げかける。
「彼女の出自、お前は知っているのか」
「……キキョウの、でしょうか? そこまで詳しくは知りませんが、それが何か」
「何を知ってる」
唐突の質問に張は驚いたものの、動揺することなく冷静に口を開く。
「とある洋裁屋の弟子であったことは彼女自身からも聞いておりました。その洋裁屋について調べたところ、確かに一人弟子を連れて世界を飛び回っていたことが確認されました。……ですが」
言葉を区切り、一呼吸間を空けてから真剣な表情で話を続ける。
「その弟子は、7年前から日本の戸籍上では死んだことになっています。これ以上探ろうにも二人について詳しく知る者はおろか、弟子については顔写真さえ手に入りませんでした。彼女が本当に重富という洋裁屋の弟子だったのかは本人しか分かりません。……何であれ、彼女もあの街に流れ着いた人間です。碌な人生は歩んでいないでしょう」
「やはりな。だが、さっきも彼女は私に彼の弟子だとはっきり言った。良くも悪くも嘘がつけない彼女の事だ。あの様子で嘘をついているとは到底思えん」
龍頭は張の報告に驚く様子を見せず、納得したような声音を出した。
「ふむ」と何やら考え事をしているのか、部屋には沈黙が落ちる。だがそれも束の間、すぐさま龍頭は口を開く。
「まあ、どんな過去があろうとお前と信頼を築いた人間だ。お前も別に問題がないと判断したからこちらへ連れてきたのだろう?」
「ええ。そしてもし、こちらに何か害を及ぼす真似をした時は俺がこの手で殺します。――それも、キキョウとの約束なので」
口の端を上げ話す張の様子に、龍頭は「ほう」と興味を示した。
「お前がそんな約束を律儀に守ろうとするとはな。だが気をつけろよ。女は恋愛と復讐においてとてつもなく苛烈だ。約束を破ろうものなら、とんでもない報復を受けることになるかもしれんからな」
「その言葉、しかと胸に刻みましょう」
二人はお互いの顔を見据えたまま、同時にクス、と小さく笑った。
――――――――――――――――――――――――――――
香港に来てから八日。予定では式の翌日に帰る予定だったのだが状況が状況だったので、数日遅れての帰国となる。
だが、いつまでもあの街を離れているわけにもいかないようで今夜には飛行機に乗るらしい。
それまでの時間、張さんの計らいでリンさんとの約束でもあった香港観光へ行けることになった。
この前の事もあり二人きりでは出歩かせるのはよくないと、その時は張さんと彼の部下たちが付き添ってくれた。
「折角来たんだ。少しくらい楽しんでもらわんとな」という彼なりの気遣いを有難く受け取り、ハイテンションなリンさんとともに数時間色々な所を見て回る。
――そんな中、布や糸などの素材を売っている専門店に巡り合った。
道中を歩いているときに端の方でひっそりと店を構えているのが目に入り、我儘を言って寄らせてもらった。
店内は薄暗く、人気は感じられない。入店した時本当に営業しているのか疑心暗鬼だったが、奥から店主らしき高齢の女性が驚いた様子で出迎えてくれた。
話を聞けば、その女性が一人で切り盛りしており、何十年も前から営業しているのだが客の入りは良くないらしい。そして歳が歳なのでそろそろ店を畳もうと考えているようだった。
「好きなだけ見てっておくれ」と嬉しそうに言ってくれた言葉に甘え、じっくりと店内に並んでいる商品を見る。
どこでも買えそうなものだけなく、私でさえ見たことない布やボタンなど仕事で使えそうなものばかり。その上、素材がいいものを取り揃えており品揃えは悪くない方。いや、むしろ良い方だろう。
こんな素晴らしい店を畳んでしまうなんてもったいないと思ったが、彼女もやっとの思いで決断したのだろう。長い事切り盛りしてきた店を手放すのは簡単に割り切れりることではない。だから何も言わず、ただひたすら商品を眺めていた。
そんな私が珍しいのか「若いのにこういうのに興味があるのかい?」と尋ねられた。
こういうことを職業にしていることを伝えれば、また嬉しそうに笑顔を見せ、店内の商品について色々と教えてくれた。
そこから意外と話が盛り上がり、何故か「お代は気にしなくてもいい。気になった物を全部持って行っていいよ」と唐突に気前がいいことを言ってきた。
そういう訳にもいかないとすぐさま返したのだが、「どうせ廃棄されるならあんたみたいな人に使ってもらいたい」とある意味反応に困ることを言われた。
その言葉は嬉しいのだが、気になる物がたくさんありすぎる。というか、できることなら全部譲り受けたいのだがどう考えても持ち運べる量ではない。
それにやっとの思いで手放す商品をタダで貰うのはどうしても避けたいが手持ちでは足りない。
だが、彼女の気遣いも無下にはしたくない。
どうしたものかと悩んでいれば、中々出てこない私に痺れを切らしたのか外で待っていたリンさんが様子を見に来た。
何を話し込んでいるのかと怪訝そうに聞いてきたので事の顛末を話せば、「こういう時こそパトロンを頼ればいいんじゃ」とさも当たり前のように言われた。
忙しいはずなのに連れ添ってもらっている時にこういう我儘を聞いてくれるとは思えず渋る私に「大丈夫だから」と半ば強引に手を引っ張られ、外で煙草を吸っていた彼の元へ連れ出された。
不思議そうにこちらを見る彼の様子に、ここまで来て何でもないと言うには些か苦しく腹を括り全てを話す。
話を聞いた張さんは「お前がおねだりするのは珍しいな」といつものにやり顔を見せ、何も言わず店内へと入っていた。
慌てて彼の後へ着いて行けば店主と何やら話しており、口を挟める雰囲気ではなかった。
少し話した後、ようやく彼がこちらを見て「話はつけた」とたった一言告げた。
どうやら、この店にある物をあの街に運ぶよう手筈は整えてくれるらしい。
お代も彼が持とうとしているらしくそれは流石に甘えすぎなのであの街で金は返すと言ったのだが、「ドレスの報酬だと思っとけ」と何が何でも受け取る気はないようで、いつものようにこちらが折れるしかない状況となった。
その後、店主に一言お礼を伝え店を後にし次の目的地へと歩みを進めた。
――そこからまた様々な場所を巡っていれば、あっという間に時間が過ぎる。
数十分車に揺られ空港に到着し、飛行機へと向かう。
搭乗口まで歩みを進めれば、そこには挨拶回りで忙しいと聞いていた桜綾さんと香主の姿があった。
目を見開いていると、私が結婚祝いで贈ったショールを羽織った桜綾さんがこちらに真っすぐ駆けてきた。
そして私の目の前まで来ると、柔らかい微笑みを浮かべながら口を開く。
「どうしてもお見送りしたくて来てしまいました。何も言わずにすみません」
「お忙しいのにわざわざ。ありがとうございます」
「父は所用があってどうしても来れず、“最後まで見送れず申し訳ない”と言っていました」
「では、お気になさらずと彼に伝えてくださいますか?」
「相変わらずですね、キキョウさんは」
可愛らしい微笑みを携えながら話すその様は、あの街で話し相手となっていた時と何も変わらない。
彼女の表情につられ、自身の口の端も上がっているのを感じる。
今後、こんな風に話すことはしばらくないだろう。
いや、もしかしたらこれで最後かもしれない。
そう思うと少し寂しい気がするが、私には帰るべき場所がある。
「キキョウさん、私はもう謝りません」
突然、桜綾さんが真剣な表情でこちらを見据えながらはっきり告げてきた。
「優しい貴女があそこまで仰ったのであれば、謝罪は逆に失礼でしょう。ですが、お礼だけは言わせてください。――改めて、この度は本当にありがとうございました」
「……桜綾さ」
「きっと、貴女は気にしないでほしいと言うのでしょう。しかし貴女から受けた恩はあまりにも大きすぎて、気にしないなんてことはっきり言って無理です。このまま私個人から何も返さないのは、嫌なんです」
「……」
「だから今、私が差し出せるものを貴女に贈らせてください」
こちらが言おうとしていたことを先に封じられてしまい何も言えなくなる。
黙って彼女の話を聞いていると、桜綾さんが話を区切り後ろを振り向いた。
そんな桜綾さんの様子を訝し気に見ていると、後ろで控えていた部下らしき人が何やら白い紙袋を手にこちらへ近づいてくる。
彼女は小奇麗な紙袋を受け取り中へ手を伸ばした。
次の瞬間、目の前に白と淡いピンクでまとめられた小さな花束が姿を現した。
「招待した時から貴女へ渡そうと決めていました」
「え……?」
「このブーケはトルコキキョウという花で作ってもらいました。貴女の事を考えて、私が職人さんにこの花を使ってほしいと頼んだんです」
ブーケを渡す意味は、確か幸せのバトン……だったか。
正直、彼女からの素敵な贈り物を受け取るのは少し気が引けてしまう。
それに、今以上の幸せを望んではいないのだから尚更。
「桜綾さん、私にはそんな素敵なモノ勿体ないですよ」
「……花束なんか貰っても嬉しくありませんか?」
「そういうことじゃ」
「ならぜひ受け取っていただけませんか? ――貴女だから受け取ってほしいんです」
真剣な眼差しに何も言えなくなる。
昨日彼女に無理やり贈り物を押し付けたのもあり、強く拒否することもできない。
それに、これ以上押し問答を続けるのも張さん達に迷惑だろう。
完全に納得したわけではないが、ここは私が折れるしかないと諦め口を開く。
「私でよければ」
「貴女に更なる幸せが訪れることを、心から願っております」
嬉しそうに話しながら綺麗なブーケを目の前に差し出される。
返せる言葉が見つからず苦笑したままゆっくりと手を伸ばし、しっかりと受け取った。
「キキョウ、そろそろ」
「……ええ」
張さんの声掛けに一呼吸間をおいて返事をし、改めて桜綾さんを見やると少し寂しそうに微笑んでいた。
「キキョウさん、お元気で。張兄さんの事、これからもよろしくお願いします」
「張に嫌気がさしたらいつでもこっちへ来たらいい。歓迎するぞ」
「ありがとうございます、あなた方もお元気で」
夫婦となった二人の言葉に再び苦笑しつつ一言だけ返す。
近くで待っていてくれた彼の隣に行き、そのまま彼も足を動かし今度こそ飛行機の中へと進む。
本当に、この短い滞在期間で色々な事があった。
だが、あの街での日常を思い返せば大したことはない。
そんな喧騒な日常が待っている、彼が支配する悪徳の都へ帰る。
私の居場所であるあの街の雰囲気を思い返せば、自然と口の端が上がった。
――――――――――――――――――――――――――――
――光り輝いている海面の上に浮いている一隻の大型船。
多くの貨物と人間を運んでいるその船には、それぞれの目的地に着くまで休まるための部屋も存在する。
その一室で、煙草を吹かし窓から海を眺めている男が一人。
「アイツはもう死んでる頃か。ま、あんな馬鹿の事なんざもうどうでもいいが」
煙を吐き、灰皿に短くなった煙草を押し付ける。
黒髪の男は懐から一枚の写真を取り出し、眉根を寄せて眺めた。
再びすぐさま写真を収め、そのまま頭へと手を伸ばす。
髪を掴み下へと思い切り引っ張ると、茶色の髪が現れる。
先程まで被っていたウィッグよりも少し長い髪を搔き上げ口の端を上げる。
「次は、日本か。あそこは平和ボケした人間しかいねえから、楽に事を終えられるかもしれねえな」
Camelと書かれた箱を手に取り、新しい煙草を取り出す。
火を点け、煙を肺にいれた後ため息とともに吐き出した。
天井を仰いた瞬間男の顔は無表情へと変わり、徐に口が開かれた。
「――
イタリア語で小さく呟かれた言葉は、誰にも聞かれることなく外で響く波音に掻き消されていった。
<あとがき>
やっと……書き切りました。
令爱誘拐&香港編を始めた8月(!?)から18話(!!?)もかかってしまいました。
(予想ではもっと短くなるはずだったのに……)
まずは、長々なオリジナルのお話にお付き合いいただいた皆様に感謝を。
いつも以上にやりたいことを詰め込んだ話となりました。
そのおかげか、書いててとても楽しかったです。
また次回からあの街での生活に戻ります。
ですが、張さんとの関係は今まで通り……という訳にもいかないでしょう。
なので、二人の関係についてはもう少しだけ話が続きます。
「まだあんのか!」と思われるかもしれませんが、ご容赦を。
最後に、沢山の方に閲覧いただき日々とても嬉しい気持ちでいっぱいです。
今回の話も楽しんでいただけていたら幸いです。
改めて、キキョウのお話にお付き合いいただいている皆様に感謝を。
これからも、暖かい目で見守ってください。