男の口から出た名前に目を見開く。
──香港三合会。
この街の情勢に疎い私でも知っている。
ロアナプラでも一段と存在感のあるマフィア組織の一つ。この街では張維新を頭としてここ最近また勢いを増していると聞いた。
そんなマフィアのボスに普通の女が銃を向けられたり、尋問されるなど誰が思う。
「……なんで、貴方がこんなことを」
「俺の縄張りで不可解なことが起きているのに俺が何も知らないなんてお笑い種だろう?」
「……」
「俺は気になったらとことんまで追求しないと気が済まない質なもんでね。こういうことは、直接話をするに限る」
最悪だ。本当に最悪だ。
マフィアのボスに目をつけられた。
もう逃げることはできないだろう。
よっぽどの奇跡が起きない限り、もう二度とあの平穏な日常を過ごすことはできない。
この後私がどうなるかは、この男の手に委ねられている。今でも銃を突きつけられている気分だ。
「さて、本題といこうか洋裁屋」
男は壁に手をついたままその場から離れようとはせず話し始めた。
何を言われるのかと体に緊張が走る。
「俺と取引しないか」
「……はい?」
「取引?」
「そうだ」
この男は何を言い出すんだ。
さっぱり意味が分からない。
「話してみて分かったことだが、君は自分の腕前を自覚してなさすぎる。価値がないと思っているものでも、君が生み出したものは自然と“高級品”になるんだ」
「……」
「そんな高級品を燃やすなんて、実にもったいないと思わないか?」
この男は以前も私が作ったものを言葉では“高評価”していた。
普通の女が作った普通の服だ。
それを一級品だとか高級品だとかいうその根拠が分からない。
確かに、以前私は洋裁屋としてそこそこ稼いではいた。
だがそれは普通の街での話だ。
世界には私以上にすごいものを作る人がたくさんいる。
このくらいの技術は誰だって習得できるものだ。
それをこのマフィアはあまりにも馬鹿げた評価をつけている。
だからこそ、何を考えているのか全く理解できなかった。
「そして、また高級品をタダで渡すことは俺としても遠慮願いたい。──そこでだ。殺さない代わりにここで洋裁屋として商売を始めてほしい」
「……」
「君は殺されないで済むし、合理的に作業に勤しめる。ちゃんと商売さえしてくれれば俺も一安心だ」
「……」
──なんとなく分かった気がする。
この男が言っているのは「店」を出せということだ。
店を出した暁には「みかじめ料」を払わなければいけない。
結局は金か。
「……洋裁屋として商売をすれば、殺さないんですか?」
「そうだ」
この男の言うことに頷けば命は助かる。
──だが、私にはここに来た時に決めたルールがある。
それは、どんなことがあっても破ってはいけない。例え殺されようともこれだけは譲れない。
意を決し、目の前の男を見据え口を開く。
「お断りします」
「……おっと、聞き間違いかな。もう一回言ってくれるか」
「貴方との取引には応じません」
私が決めたルール。
それは、“洋裁屋として商売をしない”こと。
商売をしてしまえば、金を稼ぐために服を作らなくてはならなくなる。
服を作るのが『義務』となってしまう。
ただただ無作為に服を作り続けるのは何の意味もない。
──だから私は洋裁屋をやめた。
自由気ままに服を作る。
それは、いつもの日常よりも守るべきもの。それを譲ってしまえば一生後悔する。
ならばここで殺されたほうがマシだ。
「困ったな。まさか断るとは」
「私にも譲れないものがあります」
目を逸らすな。
こんな時だからこそ、しっかり相手の目を見て話せ。
「命よりも大事なものか、それは」
「はい」
例え殺されるとしてもここだけは譲らない。
「──残念だ。本当に」
男は壁から手を放し、腰にある銃を構えあの時のように私の額に向け銃口を向ける。
「一つ聞いておこうか」
「なんでしょうか」
「命よりも大事なそれはなんだ」
「“作りたいときに作り、私の作品を捧げたい人がいない限りは作らない”。それが命よりも 大事な私のルールです」
ある人の言葉が脳裏に浮かぶ。
『──服を、服作りが好きだっていう気持ちは、忘れないでね』
決して忘れてはいけない最後の教え。
絶対に曲げたりするものか。
「要するに、『金のためには作りたくない』。そういうことか」
「そうとってもらって構いません」
「……」
男はただ私を見つめている。
そしてしばらくすると、男の手が震えていた。
「……ふっ」
また何か言われるのだろうか。
殺すならさっさとしてほしい。
「はっはっはっはっは!!」
男が急に笑い出す。
呆気にとられ、男が笑っている様を呆然と見ているしかなかった。
しばらくしてやっと落ち着いたところで、男が話し始める。
「いやいや、参った。何を言うかと思えば『ルールがあるから』か。まさかそんなもののために命を懸けるとは、恐れ入ったよ」
「はあ」
「だが、そんなもののために命を捨てるにはもったいない。それに、君ほどの腕を持ってる者を俺としてもあまり殺したくはない」
なんなんだ。
殺したいのか殺したくないのかはっきりしてほしい。
「店は出さなくていい。ただ、服を渡すなら相応の報酬を受け取ってほしい。それだけだ」
「……子供が相手の場合は」
「“タダ”でやらなけばそれでいいさ」
「……つまり、金じゃなくても服と何かを交換すればいい。ということですか?」
「そういうことだ。その時に君が作りたくない気分なら断ればいい」
とにかく、なにかを渡したいなら見返りを求めろ。ということか。
「君のいうルールには適っていると思うが?」
確かに、私のルールには問題ない。
だが、この男にとっての利益がわからない。
「……私がその行動をとったとしても、あなたには何の利益もないのでは?」
「言っただろう。俺の縄張りで不可解なことが起きていることが問題だと。その不可解なことが収まってくれさえすればいいのさ」
「お金が目的なのでは?」
「金なんかいくらでも作れる」
マフィアのボスが考えていることは、私には分からない。
まして、今までの言葉が本当なのかさえ。
だけど、この男の条件をのめば「義務」として服を作ることもない。
相手に見返りさえもらえば、少なくてもこの男には殺されない。
ルールと命、両方とも守れる。
「それと、あともう一つ」
「なんでしょうか?」
「作った服を燃やすな」
「……でも服を収める場所が」
「それはこちらで手配しよう。──収納場所と命の保証をする代わりに、“タダ”で作品を渡さないこと。
これでも不満かな?」
ルールと命、おまけに収納場所まで付いてきた。
少し美味すぎる話な気もするが、私が納得しない理由はどこにもなかった。
「……分かりました」
「よかった。これでも納得しなかったら頭を抱えるところだった」
「……本当に、殺さないんですか」
「ああ、取引に応じてもらった以上殺す必要はないからな」
その言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた気がする。
銃を突きつけられつつもしっかりと受け答えで来た自分を褒めてほしい。
「ああ、そうだ。まだ名前を聞いてなかったな。なんと呼べば?」
私の名前。
この街に来てから、未だ誰にも名乗っていない名前。
少しの間を空け、若干強張った声で発する。
「──桔梗です」
「いい名前だ。ではこれからよろしく、Ms.キキョウ」