ロアナプラにてドレスコードを決めましょう   作:華原

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大変お待たせしました。
香港から帰った後の二人のお話です。








39 変わりゆく日常

――キキョウが香港へと発ってから四日後。

ロアナプラでは三合会の長たる張がいないことで、浮足立っている者が出始めていた。

 

そんな輩たちの好きにはさせまいと、火傷顔ことバラライカが遊撃隊を用いて事態の収拾についていた。

だが、流石の彼女たちであっても全てを丸く収めることはできず、街のどこかでまた銃声が鳴り響いている。

 

そんな街の様子に運び屋であるラグーン商会は巻き込まれないようちょっとした注意を払いつつ、いつも通り仕事をこなす日々を過ごしていた。

 

その日はたまたま依頼がなく、レヴィはどこかへと出かけ、ロックは事務処理、ベニーとダッチは事務所でゆったりするなど、各々好きなように動いていた。

 

何事もなく、平和に一日が終わろうとしている。

 

ロックはどこかで響いている銃声の音を聞きながら、自分が生きていることに少しだけ安堵した。

 

 

そんな彼の心中を知ってか知らずか、事務所のドアをノックもなく乱暴に開ける女が一人。

 

 

「よおダッチ、今戻ったぜ」

 

「おう。どうよ街の様子は」

 

「今日も姐御が大喜びで自分の部下に相棒(カラシニコフ)持たせて街歩いていたぜ。まるで軍隊行進みたいによ」

 

「そりゃ頼もしいな。俺達はその行進を傍から見ておくだけに留めておこう」

 

「誰も姐御の邪魔なんざできねえよ」

 

レヴィは事務所のソファにどかっと座り、ポケットから煙草を取り出し火を点けた。

 

「そういえばさっきよお、エダから面白そうな話を聞いた」

 

「ほう、そりゃ興味深いな」

 

「なんでも、アイツがやっと旦那の女になったってもっぱらの噂だ」

 

「……おいおい、そりゃ」

 

「そう、今まで何回もその噂はあったが、全部ただの噂で終わった。けどよダッチ、今回はちゃんと証拠があるらしいんだよ」

 

ロックとベニーは決して会話に入ろうとはしなかったが、繰り広げられる話に耳を傾けた。

ロックは一体誰の話だろうかと興味を示す。

 

レヴィはそんな期待に応えるかのように、話を続けた。

 

「旦那が香港にアイツを連れてってるんだとよ。ここに残ってる三合会の人間が話していたから確かな情報だって言ってたぜ」

 

「おいおいおい、あの二人いつの間にそんな関係になったんだ」

 

「さあね。けど、キキョウがいなくなったのと張の旦那が里帰りした時期は一致してる。これだけでも信憑性が」

 

「ええ!?」

 

レヴィがテンポよく話を続けていると、突然ロックが驚きの声を上げた。

その声に部屋にいる全員が、彼に視線を集中する。

 

「どうしたのロック。何をそんな驚いてるんだい」

 

「いや、えっと……」

 

「……あ! お前もしかして」

 

ロックの妙な態度にレヴィは何か気づいたのか、ニヤニヤしながら言葉を投げかける。

 

「キキョウと張の旦那の関係が気になんのか? なあそうだろ!」

 

「いや、その」

 

「へえ、前から思ってたが……やっぱりそうか、ふうん」

 

「レヴィ、こういうのはあまり茶化すもんじゃねえよ。ロックも男だ。女の一人や二人、気になる奴くらいいるだろう」

 

「……ダッチ、それフォローしてるつもりなのか?」

 

「さあな」

 

二人の自身を馬鹿にしたような口調に、ロックは面白くなさそうに眉根を寄せた。

だがこんな状況でも、浮かんでいた疑問を解消するべくロックは徐に口を開く。

 

「……なあレヴィ」

 

「あ?」

 

「さっき彼女が張さんの女になったって言ってたけど、どこにそういう証拠が」

 

「そりゃ、自分の故郷に連れ帰ったってことはそう言う事だろ。ただの女をわざわざあの旦那がエスコートして連れていくと思うか?」

 

「でも、キキョウさんが張さんとは何もないって最近まで言ってたじゃないか。なら、今回だってただの噂話の可能性が高いんじゃ」

 

「おいおい、お前普段あの二人の何を見てきたんだよ。旦那が何も考えず自分のテリトリーに入れる訳がねえだろ。あの二人がお互い何を思っているかは知らねえが、帰ってきたら二人の関係は少なからず変わってると思うね」

 

「……そんなの、分からないじゃないか」

 

レヴィの話に、ロックは腑に落ちないと言ったような表情を浮かべていた。

そんなロックの言葉に、最初は面白そうに見ていたダッチの顔が段々と真剣なものへと変わる。

 

「たかが噂だろ。それに、それだけの情報であの二人がそういう関係になったって証拠には」

 

「おいロック。そこら辺にしとけ」

 

 

どこか不機嫌そうに話すロックの言葉を遮ったのは、ダッチの真剣な声だった。

 

 

「俺達の仕事に支障がなけりゃ別に女に入れ込むのは構わん。――だがなロック、あの女だけはやめておけ」

 

「な、なんだよダッチ。俺は別に」

 

「俺達の商いが上手くいっているのは、あの旦那との信頼関係があるのも一つ。そして、マフィアが女を囲うのは自分の敵か否かを見極めやすくするためでもある。キキョウ自身がどう思おうと、この街でアイツは既に“そういう役割”になってんだ」

 

「……」

 

「あの旦那がずっと飽きもせず手元に置いている女に手を出せばただじゃ済まねえ。例え“そういう関係”でなくてもな」

 

「……」

 

「だからもう一度言うぞ。“あの女だけはやめておけ”。地雷を踏んじまったらお前だけじゃなく俺達にも飛び火が来る」

 

「……俺は別に、何も考えてないよ」

 

ダッチの忠告に小さくそう返すと、ロックは腰を上げ足早にドアへと向かう。

そのまま何も言わず部屋を去っていった。

 

 

 

ロックがいなくなった後、三人はしばらくの間何も話さなかった。

 

 

 

変な空気を打ち破るかのように動き始めたのは、話を持ち出したレヴィだった。

 

 

 

「なあダッチ、あたしゃ割と冗談だと思ってたんだが……あれは」

 

「皆まで言うなレヴィ。……ったく、よりにもよってキキョウか」

 

「いやあ驚いたね。前から妙に彼女を気にかけていたとは思ってたけど、そういうことだったのか」

 

「……まあ、一応釘は差しといた。後は妙な気を起こさねえよう祈っておくしかねえ」

 

 

 

 

ダッチはそう呟いた後盛大なため息を吐き、近くの棚から私物の酒瓶を手に取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

香港から帰ってきて早一週間。

 

やはり少し経ったくらいでは劇的に何かが変わるわけでもなく、街はいつも通りのようだ。

私の方も帰ってからは何事もなくいつもの日常を送っている。

 

 

帰ってきた三日後くらいに久々にイエローフラッグへ出向きあの酒を飲み、バオさんが私がいなかった間の街の事を話してくれた。

 

張さんがいなかった間好き放題する人間もちらほらいたが、バラライカさんが持ち前の武力で抑えていたようで目立つような問題もなかったらしい。

彼女なら嬉々として動きそうだと思ったのは口に出さないでおこう。

 

 

そして、バオさんから「お前さんの方はどうだったんだ? 張の旦那と旅行に行ったんだろ」と好奇心を覗かせ聞いてきた。

私は誰にも彼と香港へ行くことを言っていなかったのだが、小さい街だからか噂がたつのは早いらしい。

 

彼は別に間違ったことは言っていないはずなのだが、何故か妙に引っかかる言い方だった。

だがあまり詳しいことを言う必要もないと思い否定はせず、「中々楽しかったですよ」とだけ返した。

 

バオさんも「そうか」とだけ言い、それ以上は何も言わずいつものように他愛ない話をして酒を飲んだ。

 

そのしばらく後、私が帰ってきたと聞いたマダムがドタドタと駆けてきて「お帰りなさいキキョウ!」と熱い抱擁を食らう。

「服を頼もうと思ったらアナタMr.張と海外旅行に行ったって聞いて、ずっと帰るのを待ってたのよお」と嬉しい事を言ってくれた。

 

 

そこからマダムのプライベートルームに移動し、どんな服が欲しいのかなど仕事の話をした。

依頼の話が終わると、マダムから「それで、Mr.張とは少し進展したの?」と、ニヤニヤした顔で切り出された。

 

 

その時のマダムのしつこさと言ったらとんでもなかった。

 

 

『――勿論、彼と熱い夜を過ごしたのよね? ねえ、そうなんでしょキキョウ』

 

『……まあ、確かにあの国も熱かったですね』

 

『とぼけようたって無駄よ。ね、どうなのよ』

 

『別に、いつもと変わらないですよ』

 

『嘘おっしゃい。“あの”Mr.張がアナタを旅行に連れてって手を出さなかったなんて絶対あり得ないんだから』

 

『嘘じゃありませんよ。なぜそうも断言するんですか』

 

『そりゃだって彼はアナタにぞっこんだもの。それに気づいていないのはこの街でアナタだけよ』

 

『そんなことないです。どこをどうみてそう解釈したんですか』

 

『彼が異様にアナタに執着していることくらい誰だって分かるわ。男が女に執着するのは、“手に入れたい”っていう欲望から来るものよ』

 

『よく分かりませんがこれだけは言わせてください。私と彼は何も変わりません。これまでもこれからも』

 

『にしては、少し雰囲気が変わったように思えるわね』

 

『え?』

 

『前よりも女らしさが滲み出てるわよ。まるで初めて男に抱かれた後の女の子みたいに、垢が抜けた感じがする』

 

『……気のせいですよ』

 

『ふうん。ま、今はそう言う事にしといてあげる。――だけどねキキョウ』

 

『……?』

 

『男の執着心を甘く見てたらいつか痛い目に合うわよ』

 

 

 

彼と何もなかったわけではない。だけど、何かが変わったわけでもない。

 

 

なら気にしたってしょうがない。

 

 

だからいつも通り振舞ったのだが、マダムの目には私の様子がいつもと少し違ったように見えたらしい。

 

彼女の言っている意味はよく分からなかったが、最後の言葉は何故か頭に強く残った。

 

 

私からそれ以上の話は聞けないと判断したのか、マダムは気を取り直したように別の話題を切り出し、それ以上彼との関係について聞いてくることはなかった。

 

 

 

 

 

――そんな彼女から依頼された服を仕上げようと、今日も今日とて手を動かす。

 

マダムが頼むのは決まって種類の違う数着のドレスだ。

急ぎではないようで特に何も言われなかったが、できるだけ早く届けてあげたい気持ちはあるので集中して作業する。

 

ふと時計を見れば、日が傾き始める夕方の時間帯となっており、外も夕焼けの色に染まっていた。

渇いた喉を潤そうと、裁縫道具を作業台の上に置き腰を上げる。

 

 

それと同時に、部屋中に機械音が鳴り響く。

 

 

唐突に鳴り響いた音の発信音である携帯を手に取り、耳に当てる。

 

 

『ようキキョウ、調子はどうだ?』

 

「良い方ですよ。またお忙しくなったと聞きましたが、貴方の方は?」

 

『やっと落ち着いたところだ。ったく、香港から帰ったばかりだってのに俺の周りは休ませてくれんらしい』

 

「お疲れ様です」

 

名乗りもしないその相手は、聞き慣れた低い声で誰だか一瞬で分かった。

この街の支配者たる彼は、香港にいる間溜まっていた仕事を片付けるのに忙しいとリンさんから聞いた。

 

何日も働き詰めだったのであれば、流石の彼も疲れるのは無理もない。

 

 

そんな彼が、私にわざわざ電話をかけてきた理由は一体何なのか。

 

 

「それでどうされましたか張さん。もしかして、また服に穴を空けたりしたんですか?」

 

『今のところそれはないから安心しろ。にしてもつれねえな。何か用がなきゃお前の声を聞くことも許されねえのか?』

 

「別にそういう事じゃありませんが、お忙しい貴方がそんなことでかけてくるとは考えられないので何かあったのかなと」

 

『そんな大層な事じゃねえ。俺はただ、一人の女と夜を共に過ごしたいと思っているだけさ』

 

彼の冗談をいつものように流し用件を聞き出すとそんなことを言ってきた。

何故そんな言い回しで誘ってきたのか気になるところではあるが、深堀することでもないだろう。

 

依頼は終わってはいないが、急ぎではないのでパトロンである彼の誘いを受けても問題ないと判断し、口を開く。

 

「分かりました。今夜も貴方の部屋で?」

 

『ああ』

 

「では、今から向かいますがよろしいですか? それとももう少し時間をおいてからがいいでしょうか」

 

『別に今からでも構わん。俺も早くお前と会えなかった時間を埋めたいんでな』

 

 

 

……なんか、いつもより冗談が多いのは気のせいだろうか。

 

 

だが一々真剣に相手にしてはキリがないので、今回もまた気にせず必要最低限の返事をする。

 

「すぐ向かいます。また後程」

 

『ああ、待っている』

 

短くそう言葉を交わし、通話を終わらせる。

そのまま散乱している道具を片し、鍵を持って足を動かす。

 

彼の誘いに応じるべく、夕焼けの色に包まれている道を歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――ようキキョウ、待ってたぞ」

 

「お待たせしました」

 

「ほら、こっち来い」

 

「失礼します」

 

自宅から数十分歩き、ようやく熱河電影公司ビルへと辿り着く。

 

最早顔馴染みとなっている受付の人に話しかければ、「張さんがお待ちしてますよ」といつも通り何も言わず通してくれた。

 

すれ違う三合会の人たち何人かに声をかけられては言葉を返しつつ、彼の自室へと向かう。

その時にどこからか「いつもと同じだぞ?」「もしかしてアイツ分かってないんじゃ」と何やらひそひそと話し声が聞こえたが、何のことか分からなかったので気にしないことにした。

 

 

そんなこんなで辿り着いた社長室のドアを叩けば、これもまたいつも通り口の端を上げた張さんが出迎えてくれた。

 

 

彼の誘導に従って中へ入り、更に奥にある彼の自室へと進む。

綺麗に整えられた部屋の真ん中には、既に酒とグラスが二つと氷が用意されていた。

 

 

彼が高級ソファへと腰かけたのを見てから、一言断りを入れてから隣に座る。

 

 

「お前とここで酒を飲むのも久々な気がするな」

 

「そうですね。実際、前にお邪魔した時から一か月以上経ってますから」

 

「早いもんだ」

 

言葉を交わしながら、二つのグラスに氷を入れてから酒瓶を手に取り中へ酒を注いでいく。

 

パトロンである彼を動かすわけにもいかず、彼と飲む時これは私の役目となっている。

慣れた手つきで酒を氷を半分浸からせるまで注ぎ、先に彼へと手渡す。

彼がグラスを受け取った後、自身のグラスにも酒を入れ手に取る。

 

 

「乾杯」

 

 

ほぼ同時に言葉を発しグラスを軽くぶつけた。

心地の良い音が響いた後、お互いそれぞれのグラスに口をつけ、喉に酒を通す。

 

 

やっぱり、彼もいつも通りだ。

 

 

マダムや周りの人たちは何を勘違いしていたのやら。

 

 

ため息が出そうになるのを堪え、再び酒に口をつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――それから数十分は経っただろうか。

お互い話と酒が進み、三、四杯目に行こうとしていた。

 

 

ふと、張さんが私の顔をじっと見たかと思えば、徐に口を開く。

 

 

「やはりお前との酒は格別だな。どの女と飲むより美味い」

 

「……嬉しい言葉ですが、美人さんにお酌された酒の方がもっと美味しいと思いますよ」

 

「お前だから酒が美味いんだ」

 

唐突に投げかけられた言葉に一瞬間をおいてから返答すると、張さんはいつもの癖を出してきた。

今ではとっくに慣れた、指先が頬の上を滑る感触を受け入れながらサングラスで隠れている彼の目を見つめる。

 

 

「気高く、どこまでも真っすぐで、気丈なお前が注ぐ酒だからどんな安い酒も美酒だと思える。だが、俺が今最も欲しいのはそれじゃない」

 

「え?」

 

グラスを机に置き、流れるようにサングラスを外すとあの黒い瞳でこちらを見据えてくる。

 

 

やがて大きくて武骨な手が、頬を包んだ。

 

 

彼の表情は、機嫌がよさそうだったものから真剣なものへと変わっていた。

 

 

どこかいつもと雰囲気が違うことに、少なからず動揺する。

 

 

「なあキキョウ、俺が何故お前をこの部屋に呼んでいるか分かるか?」

 

「……酒を飲むためでしょう」

 

「それだけじゃない。――やはり、お前は何も分かっていないようだ」

 

 

低い声で呟いた後、頬に触れていた手が私のグラスへと伸ばされ思わずそのまま渡してしまった。

 

 

彼が私のグラスを机に置いた次の瞬間、両肩をすぐさま掴まれ強い力で押される。

 

 

 

 

何が起きているのか分からないまま、背中に感じた衝撃で目を瞑る。

 

 

 

 

 

――目を開いた時には、彼の顔が目の前に。

 

 

 

 

押し倒されているのだと理解したのはそのすぐ後。

 

頭が混乱し動揺している中、何か言わなければと口を開く。

 

 

「なに、して」

 

「一度抱かれた男の部屋にこうも易々と転がり込むとは。お前の警戒心の無さは考えもんだな」

 

「何言って」

 

「さっきの話の続きだ。……いいかキキョウ。男が女を部屋に呼び二人きりになるのは、たった一つの目的でしかない」

 

 

混乱している私を余所に彼は話を続ける。

 

 

「その女を抱くため、誰にも邪魔されない空間に引き入れる。――ここまで言えばわかるだろう」

 

「……分かり、ませんよ。今までだってこの部屋に来た時、貴方は、そんなそぶり一つも見せなかったじゃ、ないですか」

 

「それもお前を手に入れるための計画だとしたら?」

 

「え……?」

 

「お前は誰よりも自分を卑下し、それが自分の価値だと信じて疑っていない。そんな女の全てを手に入れるには、長い時間をかける必要があった」

 

 

彼が何を言っているのか分からない。

 

 

こんなこと今までなかった。

 

 

なのに、なぜ急に……

 

 

「ただ抱くならいつでもできた。それをしなかったのは、お前の身も心も全て欲しているからだ。――だがあの日、どこぞのクソによって全てが狂わされた」

 

「……」

 

「俺が長年我慢し続けてきた甲斐も、計画も、何もかもが台無しとなった。そんな今となって、一度抱いた女に何を遠慮することがある?」

 

「なに、言って」

 

「お前は何も変わらないと思っていたんだろうが、一度交わった男女が元の関係に戻れるはずがない」

 

 

この人が何を言っているのか分からない。

 

 

気にしなければ、何も変わらない。変わらないはずじゃないのか。

 

 

 

張さんは真剣な表情のまま、再び私の頬へと触れる。

 

 

その感触に体がびく、と震えた。

 

やがて更に顔を近づけ、低い声音で呟く。

 

「俺はなキキョウ。今でもお前の全てを、心から欲している」

 

 

 

 

――次の瞬間、唇に柔らかい感触が落ちた。

 

 

 

 

また何が起きているのか分からず、頭が真っ白になる。

 

 

 

次第に触れているのが彼の唇だと理解し、離れようと抵抗する。

 

「んっ……! んー!」

 

「……は……」

 

 

 

やっとのことで唇が離れ、必死に言葉を紡ぐ。

 

 

 

「はあ……っ、なに、してるんですか……! なんでこんなっ」

 

「言ったろ、男が女を部屋に呼ぶのは抱くためだってな。なら、俺とお前がすることもたった一つだ」

 

「そんなの、知りません! 私なんか抱いたって」

 

「面白くない、か? それとも、痕があるから抱く価値がないとでも言うつもりか」

 

必死に抵抗しながら、なんとか言葉を紡ぐ。

だが遮られた声に思わず何も言えなくなった。

 

 

彼はそう言うと私の耳元へ口を寄せ、低い声で言葉を発する。

 

 

「俺は一度お前を抱いた。今更そんな言い分が通用すると思うな」

 

「ひっ……!」

 

そう言うと、そのまま唇を耳につけてきた。

 

 

その感覚に思わず声が出る。

 

「やめて、くださ……! 張さんッ!」

 

「やめろ? 抱かれた男の部屋にのこのこ上がっといてよく言えたもんだ」

 

「貴方が、誘ったんじゃないですか! 酒を飲むって、いつもみたいに!」

 

「誰がいつ酒を飲むと言った? 俺は“夜を共に過ごしたい”と言ったんだぜ」

 

「な……! そんなの」

 

「卑怯だってか? んなもん知らねえな」

 

「や、め……ッ!」

 

「――俺の執着心を甘く見たお前が悪い。諦めろ」

 

 

 

そんなの知らない。

 

 

彼が私をそんな理由で部屋に呼んでいたことも、私を抱こうとしていたことも、全部知らない。

 

 

 

知るはずがない。

 

「ん……!」

 

「やめてと言いながらも随分反応がいいみたいだな。耳舐めただけだってのに」

 

「い、や……っ、そんな、違っ」

 

「何が違う」

 

「ひッ」

 

「あの時も口では嫌と言いながら、触れるたび体を震わせ俺を求めていたな」

 

「ッ……!」

 

 

 

耳に舌先が触れ、あの時程ではないが体に熱が巡る。

覆いかぶさっている彼の体を押しのけるには女の力では役不足で、どんなに抵抗しても離れることができない。

 

虚しい抵抗を続けていると、やがて彼の手が服の中に入ってきた。

 

 

その事に思わず声を上げ、更に激しく抵抗する。

 

「やめてくださ……っ、張さん!」

 

「断る」

 

 

言葉で懇願しても聞きいれてくれるわけもない。

 

 

だがそれでも対抗せずにはいられなかった。

 

 

 

それほどまでに、彼が私にしている行動は受け入れがたいもの。

 

 

「いい加減に……してくださいッ!!」

 

「ッ……!」

 

 

 

その言葉と一緒に、彼の体を思い切り押そうとした。

 

 

 

だが、私の手が何か別の物に当たったのと同時に乾いた音が響く。

 

 

 

 

 

驚いて見上げれば、彼が頬を手で押えていた。

 

 

 

 

瞬時に、私の手が彼の胸板ではなく勢いあまって頬へ当たってしまったのだと理解する。

 

 

 

 

――次第に、自分が犯したことの重大さに青ざめていく。

 

少なくても今の時点では手をあげるつもりは全くなかった。

普段お世話になっている人に事故とはいえとんでもないことをしてしまった。

 

 

 

私の頭から押し倒されていた事は抜け、今のこの状況にどうしようもなく混乱する。

 

 

 

「ご、ごめんなさ……こんな、つもりじゃ」

 

「……」

 

 

沈黙が落ちる。

 

 

 

どうしよう。

 

 

どう詫びればいい。

 

 

いや、言葉でいくら謝ったってこんなことして許されるはずもない。

 

 

 

動揺してる中でも、彼が冷たく鋭利な視線を向けていることは感じ取ってしまう。

 

 

この部屋の空気が一気に冷めたものへと変わったのは嫌でも分かった。

 

「……」

 

「……」

 

お互い無言の状態がしばらく続いた。

 

そんな中で先に動いたのは張さんだった。

 

徐に私の体から離れソファへ深く腰掛ける。

そして、何事もなかったかのようにグラスを持ちこちらを見ずに口を開く。

 

「今夜はもう帰れ」

 

「……あの、張さ」

 

「聞こえなかったか。帰れと言ったんだ」

 

有無を言わせない声音に何も言えなくなる。

こうなってしまっては、これ以上何かを言ったとしても寧ろ逆効果だろう。

 

 

私にできるのは、彼の言葉に従う事だけ。

 

 

体を起こし、そのまま腰を上げて口を開く。

 

「失礼、します」

 

思った以上の震えた声音で短く告げ、逃げるように彼の部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――まさか、あいつからビンタを貰う羽目になるとは」

 

 

一人となった部屋で、張はじんじんと痛む頬を撫でながら呟いた。

 

その顔は、感情など一切ない無表情。

 

 

 

だが次の瞬間、その口元は楽しそうに弧を描いた。

 

 

 

「は、はは……はははははッ! やっぱアイツは最高だな!」

 

 

 

堰を切ったように高らかに笑い、部屋中に笑い声を響かせた。

 

 

 

「まさか、あそこまでされたってのにただの事故でああも謝るとはなあ。これじゃ、俺に気を許したと言っているのと同じだぞ」

 

 

 

くくっ、とまた一つ笑い、張は再び自身の頬を撫でた。

愛おしいものへ触れるように、何度も何度も撫でながら内心で舌なめずりする。

 

 

 

「仕込みは終えた。残すは仕上げのみ、か」

 

 

 

 

そう呟いた張の瞳は、獲物狙う獣の如く鋭いものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 





二人の関係性がこれまでとは違うものになる大事なお話のため、書くのに少し時間がかかってしまいました・・・。
あとロックがキキョウさんにどういう感情を抱いているのかも、これから徐々に掘り下げていく予定です。



これから更新のペースが若干遅くなるかもしれませんが、温かい目で見守ってください。
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