ロアナプラにてドレスコードを決めましょう   作:華原

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40 変わりゆく日常Ⅱ

――張さんの頬を叩いてしまってから二週間。

 

あれから、彼からの連絡はない。

 

 

私からも何度か連絡を取ろうとしたのだが、謝れば許されるとは思えないし、逆に電話したところでまともに取り合ってくれないかもしれない。

 

 

こんなことは初めてでなんて言葉をかければいいのか分からず、電話することができなかった。

 

 

 

そんな不安な日々を送ろうと、依頼はこなさなければならない。

私情で仕事を放りだすのはよろしくない。

 

だから手を止めることはなかった。

 

だがいつにも増して手が重く、作業スピードが心なしか遅くなっている気がする。

それどころか集中が長く続かず、依頼人に届けられる日が遠くなってしまう。

今回は急ぎではないものだったことが幸いだった。

 

 

なんとか手を動かし続け、やっと今日依頼品がすべて完成した。

 

依頼品を丁寧に包装しながら、ふと思いに耽る。

 

 

 

 

 

――こんなこと、本当に初めてだ。

 

 

 

 

あの人が私を女として見ることはないはず。

今までの口説くような言葉はすべて冗談。

一回抱いたからといって、また抱くなんてありえない。

背中の痕を受け入れてくれるなんていくら彼でもできはしない。

 

 

そう、本気で思っていた。

 

 

だからこそ、あの日彼が押し倒してきた事実が私をどうしようもなく動揺させた。

 

 

それでも、まさか私が彼に手を上げる日が来るとは。

無理矢理犯されそうになったのなら手を上げても無理はないと思う事もできた。

 

だが、そう思えない程彼への恩がありすぎる。

 

だから、どうしていいか分からないのだ。

 

これから彼とどんな顔をして会えばいいのかも、このままの状態でいいのかよくないのかも、私はどうすればよかったのかも、胸が詰まるような感覚の抑え方もすべてが分からない。

 

 

 

 

 

……。

 

 

 

 

 

…………いや、今はそんなことよりも仕事をこなさなければ。

 

 

 

考えれば考えるほど複雑な心境へと追い込まれそうになる。

頭を振り、考えることをやめマダムの元へ届けようと紙袋を手にした。

 

 

 

瞬間、表のドアから来客を告げる音が鳴り響く。

 

 

 

一体誰だろうかといつものように声がかかるのを待っていると、向こうからとっくに聞き慣れた。だが今は聞きたくなかった声が飛んでくる。

 

 

 

「キキョウ、俺だ。いるなら開けてくれ」

 

 

 

……どうして、彼がここに。

 

一気に緊張感で体が固まってしまう。

 

 

そのせいですぐにドアを開けることができなかった。

それどころか、地に根が張ったように足を動かすことさえできない。

 

そんな状態であっても、問答無用で再び彼の声が聞こえてくる。

 

「キキョウ、いるんだろう」

 

「……」

 

「お前と話がしたい。開けてくれないか」

 

いつもと変わらない声音だった。

だが、動揺しすぐさま動くことができない。

 

……いや、よく考えればいい機会じゃないか。

 

このままでは、私にとって不利益でしかない。

なら、彼が折角来てくれたことで訪れたこのチャンスを無駄にするわけにはいかないだろう。

 

深く息を吐き、肺に空気を入れてから意を決しドアの方へ向かう。

 

ドアノブに手をかける時一瞬だけ躊躇ったが、迷いを振り払い思い切って鍵を開けドアノブを回す。

 

「よう」

 

ドアを開ければ、いつもと何も変わらない格好をした彼が立っていた。

少し違うのは、どこか重々しさを感じさせるその纏っている雰囲気だ。

 

「……どうぞ」

 

私の方は動揺していることを悟られまいと、精一杯冷静に振舞おうと努めた。

だが、目だけは合わせることができず顔を一瞬だけ見て中へと促す。

 

彼は私の誘導に躊躇いもなく部屋の中へと足を踏み入れた。

来客用の椅子を取り出そうとしたが、彼が冷淡に放った「いらん」の一言でそれは制された。

 

「……コーヒーは、いりますか?」

 

「くつろぐために来たと思うのか」

 

「……」

 

彼が放つ空気に耐えられず、思わずいつもの言葉を投げかけてしまう。

それもあっさり跳ね除けられ、最早何も言うことができず黙るしかできなくなる。

 

「……」

 

「……」

 

どうしても顔を見ることができず、私はずっと目を逸らしたまま。

だが、目の前の彼がサングラス越しにこちらを見据えていることは分かった。

 

それほどまでに彼の視線が痛い。

 

 

……彼がずっと黙っているのは、私から何か言うのを待っているという事なのだろうか。

 

 

このままお互い何も喋らず、という訳にもいかない。

 

ここは腹を括るしかないと、静かに息を吐き、意を決して口を開く。

 

「……張さん、その……申し訳ありませんでした」

 

「何がだ」

 

「頬を、叩いてしまって。……事故にせよ謝って許されるとは思っていません。ですが、私には謝る事しか」

 

「そんなもん気にしちゃいない」

 

「え?」

 

「俺が欲しいのはその言葉じゃない」

 

「……」

 

震えた声で謝罪の言葉を口にしていると、彼が冷たい声音で遮った。

張さんが言った内容に驚き、思わず顔を上げる。

 

真剣な表情でこちらを見ている彼の視線を浴びながら、必死に考える。

 

 

――頬を叩いたことを気にしてはいない?

 

 

 

彼が欲しい言葉?

 

 

一体なんだ。

 

 

そもそも謝罪を私に求めていないのか。

 

 

なら何を求められている。

 

どんなに考えても、彼が求めているモノが何なのか分からず不安で再び俯いてしまう。

 

「キキョウ、お前が俺に対しどう思っているのか。今日はそれを確かめに来た」

 

「……」

 

どう思っているか?

 

一体、どういう意味なのか。

 

彼の言っている意味が分からない。

 

 

 

「お前は今まで俺の言葉をすべて冗談だと流してきた。――だが、今回ばかりはそうはさせん」

 

 

 

低い声音で告げた後、張さんは徐に足を動かした。

 

 

 

「これまで、俺はお前に多くの言葉を捧げた」

 

 

 

そう言いながら一歩、また一歩とこちらへ歩み寄ってくる。

じりじりと詰められ、思わず後退る。

 

 

 

「お前を欲していること、そしてお前の全てを受け入れることも冗談ではない。なんならこの場で、嘘偽りでないことを神なんてものに誓ったっていい」

 

彼から発せられる言葉に耳を傾けながら、色々な思いが湧き上がる。

 

 

どうして、そんなことをそんな表情で言っている。

 

『神なんざ何の足しにもならん』と言っていた貴方が、神に誓うのか。

 

なんで、冗談だと流せないほど真剣な声音を出している。

 

 

 

 

胸が詰まる。

 

 

 

そんな私の心境を知ってか知らずか、彼の歩みは止まらない。

 

 

――とうとう壁際に追いやられ、逃げ場がなくなってしまう。

 

 

体が密着しそうなほどの近い距離でも俯く私に、張さんは低い声音で上からさらに言葉を降らせる。

 

「今一度言う。俺はお前の身も心も全て欲しい。背中の痕も、お前の過去に何があろうと何もかも受け入れられる。――あの日、俺はそれを証明してみせた。背中の痕を見ても尚、抱いたことが何よりの証拠だろう」

 

「……ッ」

 

「なあキキョウ、俺のこの言葉に対するお前の答えを聞かせろ」

 

私の、答え?

 

 

何か言わなければと、必死に頭を回転させる。

 

 

 

背中に刻まれた痕は、私にとって負の遺産。

 

アイツから貰った憎いものの一つ。

 

そんなもの、彼に触られたくなかったし触られると思っていなかった。

 

 

……絶対に、醜いと切り捨てられる。そう思っていたから。

 

 

そして、例え受け入れると言ったとしても今後切り捨てられることだって十分あり得る。

こんな醜いもの、彼が受け入れてメリットなんざ何もないのだから。

 

「……この背中の痕は、ある男からつけられたものです。その男は、とんでもないクソ野郎で、思い出すだけでも吐き気がします。……そんなクソみたいな男がつけたこの傷は、醜いものでしかありません」

 

「……」

 

「そんな醜い体、貴方に触れられたくなかった……今だって、触れられたくない……」

 

「……」

 

「貴方に醜いと、あの男と同じ言葉でいつか切り捨てられるくらいなら……こんな傷、一生隠した方がいいに決まって」

 

「俺とそのクソ野郎を一緒にするなキキョウ」

 

必死に言葉を紡いでいると、張さんが途端に低い声音で遮った。

腹の底まで響くその声に言葉が止まる。

 

「俺がいつお前を醜いと言った。……確かに背中の痕は酷いものだ。だが、醜いと言った覚えは一つもない」

 

「……これのどこを、醜くないと……言うんですか……。何もできない私を嘲笑いながら、クズがつけたこの痕が、醜くないわけないでしょうッ」

 

「その痕が今のお前を作った。それがキキョウ(お前)という花を咲かせたのなら、その棘ごと手に取るさ。――だが、いつまでも蔓延る寄生虫の存在を許すつもりはない」

 

昂る感情を必死に抑えながら、途切れ途切れになる言葉をなんとか紡ぐ。

 

手を震わせ感情を露にした私を見据えながら、張さんは低い声音で話を続ける。

 

「キキョウ、いつまでそんなクソ野郎に囚われているつもりだ」

 

「……ッ!」

 

「お前がそのクソ野郎の何に怯えているのか知らん。だが何であろうと、俺とお前の間に寄生虫が入りこむことは許さん」

 

「……私は……」

 

「キキョウ、俺を見ろ」

 

言葉を返そうとしたとき、彼がそう言いながら私の頬に手を伸ばした。

 

とっくに慣れたはずなのに、今では違うものに感じてしまう。

 

だが、振り払う気は起きなかった。

抵抗せずにいると、そのまま半ば強引に顔を上げさせられた。

 

 

いつの間にかサングラスを外しており、至近距離で彼の黒い瞳と視線が交差する。

 

「お前が身も心も預けてくれるなら、背中の痕も、過去も、何もかも受け入れる。お前がクソ野郎から与えられた全てを忘れさせてやる」

 

「え……」

 

 

 

全てを、忘れる?

 

 

 

身を委ねれば、あの男から与えられた苦しみも、未だに残っている言葉の残滓も、すべて忘れることができると、そう言ったのか?

 

 

 

 

この人が、それを叶えてくれるというのか。

 

 

 

「……そんな、こと」

 

「できるさ。お前をこの街で一番知っている俺ならばな」

 

彼の言葉に、心が揺らぐ。

 

 

 

 

この街で一番信頼している悪人の言葉が、真剣な目線が私の調子を狂わせる。

 

 

 

 

「クソ野郎から与えられた恐怖も言葉も必要ない。お前自身の気持ちを、言葉を聞かせてくれ」

 

 

どうしたらいい。

 

彼の言葉を信じて預けるか、信じずに今までのように冗談だと流すのか。

 

だが、ここまで真剣に言ってくれた彼に後者の態度を取るのはあまりにも無礼だろう。

それに私にはこんな状況で冗談だと流せる気概はない。

 

 

 

なら、信じて預けるのか。

 

すんなりそうすることができたなら、どれほど楽だろうか。

 

だが心のどこかで、信じ切れていない自分もいる。

 

 

……いや違う、信じて捨てられるのが怖いんだ。

 

だけど、あのクソ野郎と張さんは違う。

それは頭では分かっている。

 

それでも、心の中で踏ん切りがつかない。

 

「ちょっと……待ってください……」

 

「……」

 

「どうすれば、いいのか……分からな」

 

「どうすればいいかじゃない。――お前はどうしたいんだ」

 

 

私が、どうしたいか。

 

 

その答えは、どうやって出したらいい。

 

 

 

彼を拒絶したいわけじゃない。

たが、すべてを信じるのはあまりにも怖い。

 

頭が混乱して、どうしたいのかさえ分からない。

 

「……わから、ない……です」

 

「……」

 

「今、いっぱいいっぱいで……どうしたいのかも……」

 

「分からないか。――なら、もう少しだけ待ってやろう」

 

「え……?」

 

張さんは私の頬を撫でながら、言葉を続ける。

 

「いきなり全てを預けろとは言わん。まずはその身を預けてもいいか考えろ。それで俺に身を預けてもいいと、俺に抱かれてもいいと少しでも思ったなら――三日後の夜、着飾った姿でイエローフラッグで待っていろ」

 

「三日……?」

 

「そう三日だ。それ以上は待てん」

 

頬を撫でるのをやめ、彼は私の耳元に顔を近づけた。

そしてそのまま口を開き、はっきり聞こえるように低い声音で告げる。

 

「俺の言葉を少しでも信じてくれることを心から願っている」

 

たった一言だけ告げ、やがて体が離れる。

 

「色よい返事を期待しているぞ」

 

彼は短くそう言うと、颯爽と踵を返しコートの裾を翻しながら部屋を去っていった。

 

 

 

 

 

――彼が去って一人残された後も、しばらく動けなかった。

 

やがて、力が抜けたようにその場に座り込む。

 

 

『お前はどうしたいんだ』

 

 

 

その言葉が頭の中で響き、胸が詰まる。

 

 

私は、どうしたいのか。

 

できることなら、後悔しない方を選択したい。

 

だがどの選択肢を取ったら後悔しないと言い切れるのか、今では答えがだせない。

それほどまでに、彼がもたらした言葉はどうしようもなく私を揺るがせた。

 

あの場ではすぐ答えが出せないと、彼は分かっていたのだろう。

だから“三日”という猶予を与えてくれた。

 

 

 

――三日。

 

三日後までに答えを出さなくてはならない。

 

 

こんな状態で考えたところで答えが出せるのか?

 

 

……もう、分からない。

何もかも、分からない。

 

不安でしょうがない。

 

 

胸がさらに詰まる感覚を感じながら、溜まっていた息を吐く。

何回か深呼吸を繰り返し、ふと目の端にあるものが留まる。

 

それは、マダムへ届ける依頼品。

おかげで、やるべきことがあったのを思い出す。

 

 

こんな状態であっても、仕事を放りだすわけにはいかない。

 

 

この依頼品を届けて、三日間は依頼を受けないようにしよう。

 

そうでもしなければ、仕事に支障を来すに決まっている。

仕事で気を紛らわすこともできるだろうが、そんなことはしたくない。

 

再び息を吐き、気を取り直すように勢いよく立つ。

 

 

紙袋を手に取り、まずは仕事を終わらせようと家を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

「――営業前に失礼します。バオさん、マダムは今いらっしゃいますか?」

 

「よおキキョ……おいおい、お前どうした」

 

「え?」

 

「んなしけた面、初めて見たぞ」

 

「……何でもありません、お気になさらず。それで、マダムは?」

 

「ん? ああ、フローラはいつもの部屋にいるぜ」

 

「ありがとうございます」

 

イエローフラッグまでの道も考えながら歩いていれば、いつも以上に足取りが遅くなった。

張さんの言葉への返答。そう短時間で出る訳もなく、とぼとぼと歩いていればあっという間にイエローフラッグの看板が見えてくる。

 

気を取り直し仕事をこなそうと、CLOSEの表がかけられたドアを押して中へと入る。

 

できるだけいつも通りの調子で声をかけたのだが、バオさんは私の顔を見た途端驚いた表情を見せた。

それほどひどい顔をしていただろうかと思ったが、早く帰りたい気持ちが勝りすぐさまマダムの居場所を聞き出す。

 

バオさんからの返答を聞き、仕事を終わらせようと足を動かし階段を上る。

少し長い廊下をひたすらまっすぐ歩き、一番奥の部屋の前で止まる。

 

そのまま躊躇いなくノックをし声をかければ、中から「はーい」と明るい声が聞こえてきた。しばらく待っていると、こちらに近づいてくる足音が聞こえ、すぐさまドアが開かれた。

 

「いらっしゃいキキョウ! 待ってたわあ」

 

「お待たせいたしましたマダム。もしかして、今お忙しかったですか?」

 

「大丈夫よお。今日は特に問題ないし、ゆっくりしてたところよ。……それにしてもキキョウ、アナタ酷い顔してるわよ。何かあったの?」

 

「……いえ、特に何も」

 

「ふうん。……ま、とりあえず入って頂戴。報酬も渡さないといけないし」

 

「失礼します」

 

心配そうにかけてくれた言葉に一つ間を空けて返せば、マダムは何やら納得してなさそうな声を出した。

私はそれを気にかけることなく、マダムの誘導に従い部屋の中へと歩みを進めた。

 

 

 

 

 

 

「――はい、これが今回の依頼料」

 

「確認しても?」

 

「どうぞ」

 

いつものように向かい合うように座り、マダムから差し出された封筒を手に取る。

今回は特に多くも少なくもない妥当な金額であることを確認し、ニコニコと笑顔を浮かべている彼女へ声をかける。

 

「確かに受け取りました。不備があればいつでも言ってください。すぐに直しますので」

 

「分かったわ。でも、アナタに頼んで不備なんてあったことないけどね」

 

「念のためですよ。……ではマダム、すみませんが私はこれで」

 

「待ちなさいキキョウ」

 

仕事はこれで終わった。

だから一刻も早く帰ろうと思い腰を上げようとした瞬間、マダムが私の行動を制するように声をかけてきた。

 

「ちょっとアナタと話したいことがあるの。付き合ってくれない?」

 

「……すみません、今日は」

 

「少しでいいの。そんな長い話じゃないから」

 

相変わらず微笑みながら話すその声音は、いつもとは少し違うものだった。

そこに「お願い」と言われれば、普段よくしてもらっている相手を無下にできるわけがない。

 

渋々と再び椅子に座り、黙って彼女からの話を待つ。

 

「ありがと。……ねえ、キキョウ。今日のアナタ本当に酷い顔してるわよ。一体何があったの」

 

「……何もありませんよ。お気になさらず」

 

「下手な嘘はやめなさい。そんな顔して何もないだなんて、アナタなら絶対あり得ないんだから」

 

「……どうしてそう言い切れるんですか」

 

「アナタ嘘つくの下手くそだもの。こんなに素直な女の子はこの街じゃアナタ以外に見たことないわ。素直さは時に毒にもなるから」

 

マダムは微笑みながらこちらを見据えてくる。

その視線に何もかも見透かされそうで、思わず目を逸らしてしまう。

 

 

そんな私の態度を気に留めることなく彼女は話を続ける。

 

 

「自分だけじゃ解決しそうにない時は誰かに話すのも一つの手よ。全部じゃなくても、少し話すだけで何かが変わるかもしれないし」

 

「……」

 

「いつまでもそんなしけた面したくないでしょ?」

 

彼女の言葉に目を見開く。

どうして何も話してないのにそこまで分かるのだろうか。

 

一人で悩んでいることも、そしてそれが解決しそうにないということも見透かされた。

やはり、娼館のオーナーだから人の表情から読み取ることは得意なのだろうか。

 

「……貴女には何もかもお見通しですか」

 

「オンナの勘よ。ま、ここまで分かりやすいと勘を働かせるまでもないけどね」

 

「そんなにひどい顔でしたか?」

 

「ええ。そんな顔、美人なアナタには似合わないわよ」

 

 

マダムの軽い口調に心なしか口の端が上がる。

 

 

 

本当、この人は優しい女性だ。

 

従業員でもない私の事なんか放っておけばいいものを、こうして気にかけてくれる。

 

 

これは私一人の問題だ。私が決めなくてはならない。

だが、考えたところで結論が出るとは到底思えない。

 

 

……彼女の言葉通り、少し話せば何か変わるのだろうか。

 

 

苦笑にも似た表情を浮かべ、しばらく間を空け口を開く。

 

「……では、お言葉に甘えて少しだけ話を聞いてもらってもいいですか」

 

「勿論」

 

「ありがとうございます」

 

マダムの柔らかい声音と表情に、どことなく安堵を抱く。

拳に力が入るのを感じながら、静かに口を再び開く。

 

「私は後悔するくらいなら死んだ方がマシだと思っています。後悔しないとはっきり言えればそれでいい。……だけど今は、それが分からないんです」

 

「……」

 

「今までは例え人が殺されようと、私自身がどうなろうと割り切ることができました。それが、たった一つの答えを出すのにここまで乱されたのは初めてで……どうしたいかも、どうすればいいかも分からない」

 

 

私は後悔したくない。しないためにこの街に来た。

後悔せず死ねるならなんだっていい。

 

 

だが、彼に抱かれたいか。抱かれても後悔しないか。

 

 

これだけは、どうしても分からない。

 

 

「――ある人が冗談で言っていたと思っていた言葉が、本気だと知りました。今までそんな素振り一つも見せなかったのに……全てを受け入れるから身を預けてほしいと。身を預けてもいいと思っているかの答えが欲しいと、そう言われました。……そんなこと急に言われても、すぐに答えなんか出せる訳がない」

 

 

今までは冗談だと流せてきた。だが、それができない今私には為す術がない。

 

拳と声が震える。

 

みっともないと思いながらもこうして話を続けられるのは、マダムが何も言わず聞いてくれるおかげなのだろう。

 

 

胸が詰まる感覚を抱きながら、自身の気持ちを口に出す。

 

 

 

「――怖いんです。身を委ねた後に切り捨てられるのも、どうしたらいいか分からないこの現状も……こんなこと初めてで……」

 

 

 

溜まっていた不安を表すような言葉に、我ながら情けないと自嘲する。

きっと傍から見れば笑う人間もいるだろうみっともない自分の有様に、たまらなく嫌気が差す。

 

「そんな泣きそうな顔しないの。美人が台無しよ」

 

私の話を聞いたマダムが、しばらくした後柔らかい声音のままそう言った。

 

「キキョウ、アナタは本当に恵まれてるわね」

 

「え?」

 

「それはこの街の女からしたら贅沢なことよ。詳しいことは分からないけど、それってアナタの気持ちの整理がつくまでは手を出さないってことでしょ。アタシからしたら、そんな紳士な人の申し出を断る理由がどこにあるのか分からないわ」

 

「……すみません、嫌な思いをさせたなら」

 

「そんなこと言ってないわ。ただ、ちょっと羨ましいと思っただけよ」

 

柔和な表情でマダムはそう呟いた。

彼女の話の全てを理解できないが、とりあえず不機嫌ではないことは分かり少し安堵する。

 

「ねえキキョウ。少し考えてみてほしいんだけど、もしアナタに迫った男が別の男だったとしましょ。そしたらアナタはどうしてたの?」

 

「え?」

 

「身近で言うとしたら……まあ、バオでいいわ。もしバオがアナタにその人と同じことを言って来たらどうするの?」

 

「……バオさんがですか?」

 

「例えばの話よ。で、どうするの」

 

バオさんが張さんと同じことを言うなんて想像できないんですが……。

そう思いながらも、マダムの質問にとりあえず考えてみる。

 

もし、バオさんや他の人が彼と同じことを言って来たら――

 

「その場で断ります、かね」

 

「もしそれが本気だとしても?」

 

「ええ」

 

「なら、他の男だったらここまで悩んでない。そういうことになるわよね?」

 

「……そう、かもしれませんね」

 

「それが答えよ、キキョウ」

 

マダムの言葉に思わず言葉が止まった。

 

 

 

それが答え?

 

 

今のどこに答えがあったのだろうか。

 

「今のアナタはその人だからここまで悩んでる。それって少なからず、その人に心が揺らいでる証拠よ」

 

「え……?」

 

「抱かれたくないと思ってる相手なら普通ここまで悩む必要はないわ。特にアナタはそこらへん気持ちの線引きしっかりしてるから、悩むことなんてありえない。でも今アナタが悩んでいるってことは、ほんの少しでも抱かれてもいいと思っているからよ」

 

「……」

 

「自覚してなくても、アナタの行動がすべてを物語ってるわ」

 

瞬間、何かの衝撃が来たかのように息が止まった。

 

 

 

 

――こんなに悩んで苦しいのは、彼だから?

 

 

 

こんなに不安な気持ちになるのは、彼以外にありえないと。

あの人の言葉だから、こんなに乱される。

 

 

マダムはそれを、“抱かれてもいい”と思っているからなのだと、確かにそう言った。

 

 

「ねえキキョウ、一度でいいから後悔するとかしないとか抜きに考えてみなさい。アナタはその人に抱かれるのは嫌なの?」

 

「……嫌、というより……怖いです。やっぱり切り捨てられたら」

 

「そういうのは置いといての話よ。嫌か嫌じゃないかだけで考えなさい」

 

「……」

 

後悔とか、切り捨てられるとか、そういうのを忘れて……彼に抱かれてもいいか?

 

 

もし、本当に切り捨てられないのだとしたら。

もし、後悔しないのだとしたら。

 

 

――もし、彼が本当に醜い物すべてを受け入れてくれたら。

 

「……よく、分かりません」

 

「……」

 

「でも、そういうのを全て抜きにして考えるなら……私は……」

 

「そこから先は、アタシじゃなくてその人に一番最初に言ってあげなさいね。――とにかく、それがアナタの答えよ」

 

答えを言おうとした私の言葉をマダムは途中で遮った。

にっこりと、いつものニコやかな笑顔で。

 

 

自分の気持ちを自覚することはなんとかできた。

だが、それでもやはり大きな不安を取り除くことはできない。

 

 

その気持ちを露にするように、自然と顔が下へと俯いてしまう。

 

 

マダムがそれを察したのか、すぐさま声をかけられる。

 

「ねえキキョウ。それでも不安なんだったら、一つアタシからアドバイスしてあげる」

 

「え……?」

 

「フフッ」

 

 

首を傾げる私を見て、マダムはニコニコした表情を崩さずに話を続けた。








今回はキキョウさんの核心もついた話になりました。

「いつまでクソ野郎に囚われているつもりなのか」

今まで書いててずっとキキョウさんに言ってあげてほしかった言葉です。
そして、自覚してなくても誰かに言ってもらいたかったはず。
それを他の誰でもない張さんが言う事で、より心が揺さぶられたのかな……とか思ったり。
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