日本編 六話目です。
「――今、なんて言った?」
『ですから、客の一人が商品を使用した後死んだみたいで。おまけにその客は友人に宣伝したらしくそこから銀座中に噂が広がった、という状態になってます。警察も動き出してるみたいですし、私達に辿り着くのは時間の問題でしょうね』
「そこじゃねえ、その前だ。てめえふざけたこと抜かしたよな?」
『よく分かりませんね。どの部分がお気に触ったんでしょうか?』
坂東が藤崎仁に呼び出される少し前。チャカは一人、寂れたバーで一人電話片手に英語で誰かと話していた。その顔は、いつになく不機嫌そうな表情を浮かべている。
チャカは苛々を隠さず、怒気を孕んだ声音を発する。
「“勝手に銀座でバラまいた”、てめえそう言ったよな? なんで俺に黙ってやがった」
『正確には銀座近くでですね。いやいや、やはり二、三か月じゃ地理をちゃんと把握するのは難し』
「てめえふざけんのも大概にしろよボケが!」
聞こえてきた呑気な声音にチャカは怒鳴り声を上げた。
電話の向こうにいる商売仲間に対し、どうしようもない怒りが湧き上がる。
――チャカはこれまで自分のやりたいようにやってきた。
女を抱いては捨て、気に入らない人間は傷つける。
極道になればより思ったように動けるものだと考え、鷲峰組組員となった。
だが、組に入ってからもそこまで以前と変わらない生活。
それどころか理解できない仁義だ筋だのというものに縛られるている人間が上にいるおかげで、自身もそんなつまらないものに付き合わされる始末。
“極道は意外とつまらねえな”と退屈にさえ思っていた時、一人の男と出会った。
その男は、百八十以上ある長身。金髪に碧眼。
妙に整った身なりをした外国人は、チャカが仕切っている店に現れ、オーナーであるチャカに拙い日本語で話しかけてきた。
『アナタガ“チャカ”さんデスか?』
不審に思ったが、外人の客かと英語で喋ると安心したのか流暢な英語で返された。
『――お楽しみのところお邪魔します。実はビジネスの話をしに来たんです』
『ビジネスゥ? 悪いけど、俺は知らねえ人間と手は組まねえんだわ。他当たんなよ』
急にやってきたかと思えばそんなつまらない話かとチャカは軽くあしらった。
だがそれで引きはせず、外国人は更に言葉を続ける。
『きっと、貴方にとっても悪い話じゃないですよ。上手くいけば、鷲峰組以上の権力と今以上の稼ぎが手に入ります』
『……へえ、言うじゃん』
その言葉に興味をそそられ言葉を交わせば、面白い話を聞かせてくれた。
自分は世界中を飛び回っている麻薬の売人で、仕事がしやすい日本に来てみたかったこと。
イタリアと香港で麻薬をバラまき、マフィアと警察を同時に相手取って今まで生き延びていること。
次から次へと出てくる男の話にチャカの興味は尽きなかった。
だが、信用するにはまだ足りない。
自分にとって有益なのか見極めるため、男が取引の為に持ってきていた麻薬を早速仲間で試してみた。
すると仲間はたちまち興奮し、“最高の気分だ”と言いながら恍惚な表情を浮かべていた。
次の日にはもう“あれがないと生きていけない”と言うほどに麻薬の虜になっていた。
その麻薬の効果に、男の言葉は過剰表現ではなかったことを確信する。
“鷲峰以上の権力と稼ぎが手に入る”。
つまらない日々を送っていたチャカにとって、男からの誘いは刺激的、かつ魅力的なもの。
最早断る理由がどこにもなかった。
そこからは二人で色んな場所で麻薬を売り捌いた。
鷲峰組に内緒で自分の利益を増やし、いつ組に歯向かっても損がないように。
これまで本当に順調だった。
――そう、ここまでは。
今日もいつも通り仕事の話をしようと予め決めていた集合場所であるバーで待っていた。
だが、いつもなら時間までに必ず来る男がいつまで経っても現れない。
痺れを切らし、苛立ちつつ商売仲間へ電話をかける。何回かコール音が鳴り響いた後、相手がやっと通話に応じた。
『ああ、貴方ですか』
開口一番に聞こえてきたその言葉にチャカは舌打ちするが怒鳴ることはせず、すぐさまどこにいるのかと聞き出そうとした。
だが、その前に相手から予想だにしない話を聞かされた。
『丁度報告したいことがありまして。昨日、銀座周辺で商売をしましてね。そこから少し面倒なことに――』
その話にチャカは目を見開いた。
銀座はヤクザ者の頂点と言われる藤崎仁が仕切っている縄張り。藤崎仁は鷲峰組だけでなく、東京で一際目立っている香砂会も手が出せない程の大物。
近頃では珍しい、麻薬をとことん嫌っている事でも有名なヤクザ者。
その証拠に、これまで自分の縄張りで麻薬を捌いていた人間がどこの組員だろうが外人だろうが全て消されている。
裏社会に入って短いチャカは半信半疑ではあったが、念には念を入れようとまだ銀座にだけは踏み入ってなかった。
いつか手を出そうと思っていたが、銀座で動くなら必ず二人でやるべきだと判断しチャカは機会を伺っていた。
そのことを相手にも話していた。向こうも“分かりました”と笑顔で返事していた。
だというのに、何故か勝手に行動を起こした。
本当にここまで順調だったというのに、何もかもが台無しになった。
悪びれもせず軽く言ってのけるその口調にも腹が立つ。
――チャカは怒りを爆発させ、荒々しい口調で相手に言葉を浴びせる。
「俺言ったよなぁ!? 銀座に手を出すのは藤崎仁が帰ってくるまでの間! だがアイツは予定よりも早く帰ってきた、だから手を出す前にしばらく様子を見る! アンタも俺の話に頷いたよな!? あれはなんだったんだ! ああ!?」
『ええ、だから“銀座には”手を出していませんよ? それで問題ないと思ったんですがねえ』
「ふざけんなこのクソ外人野郎!! てめえ馬鹿か!? 近くでバラまきゃ広まるのは確実だろうが! んなもん子供でも分かるぞ! それでもプロかよ!」
『……』
「藤崎仁は根っからのヤク嫌いで有名だ! そんな堅物ジジイがみすみす俺達を見逃すと思うのか!? クソジジイが組を動かしちまえば俺達は消されるんだ!」
『……貴方はいつかその縄張りに手を出す気でいたんでしょう? それが早まっただけなのでは』
「アイツがいない間にな! テメエのせいで全部台無しだ! 縄張りにさえ入らなきゃまだなんとかなったってのによ!!」
『……』
どれほど怒鳴ろうと、チャカの怒りが収まることはない。
客が一人しかいない店内で怒鳴り散らしているチャカを、バーの店主がちらちらと様子を窺がっている。
チャカは言葉を途切り、酒を一気に飲み干す。
やがて盛大に息を吐いた後、ドスの利いた声音で話し出す。
「それで? 律儀に報告したってことは、俺に殺される覚悟はあるんだよな? いや、俺が殺さねえと気が済まねえ」
『……』
「なあ今どこにいんだよ? 教えてくれや、ジェイクさんよお」
『…………』
男――ジェイクはチャカの質問に答えない。
しばらく経っても返答が来ないことに、チャカは盛大な舌打ちする。
血管が切れる音と共に再び口を開く。
「てめえ、聞こえてんの」
『やれやれ、やっぱりただのチンピラと手を組むのは良くないな。前の
途端、ジェイクは呆れたような声音でチャカの話を遮った。
先程とはまるで真逆な話し方に、チャカは思わず言葉を止める。
『お前、本当に極道者か? にしてはレベルが低すぎるぞ。まるで道を踏み外すのがかっこいいと思っている思春期真っ盛りの子供のようだ。あ、もしかしてヤクザってのはお前みたいな奴ばかりなのか?』
「……は、それがテメエの本性ってわけか。丁度いい、俺もあの上っ面な喋り方は気に入らなかったんだ。だがよ、その舐めた言葉は今すぐやめろ。じゃねえと殺すだけじゃ済まねえぞ」
『お前のような子供に捕まるほど俺は愚かでも馬鹿でもない。それと、そういう恫喝は自分より強い相手には意味を為さない。覚えておくんだな、坊や』
ジェイクの言葉にチャカの怒りは更に募っていく。
挑発しているかの言いぶりに、再び怒鳴り声をあげる。
「てめえふざけてんじゃねえぞ! 今すぐぶち殺してやる!」
『場所も分からないのにどうやって? はは、後先考えず物を言うとは本当に子供だな。――そんなお前を憐れんで、少しだけヒントを与えてやる』
ジェイクはチャカの怒号に怯むどころか鼻で笑いあしらう。
少しの間を空けて、携帯電話の向こうから船の汽笛の音が鳴り響いた。
『聞こえたか? 俺が今どこにいるのか、これで何となく分かるだろ』
「……港か」
『正解だ。お馬鹿さんでもこれは簡単だったかな』
あまりにも自身を見下している発言に、チャカはとうとうテーブルを叩く。
「くそったれが! てめえ逃げるつもりか!」
『元々俺の本当の目的は別にあったんだよ。麻薬で金を稼ぐのは単なるおまけ。その目的を果たした今、留まる理由はない。だからこの国を去るだけだ、逃げるわけじゃない』
淡々と言葉を投げた後、息を吐く音がする。
煙草を吸っているのかはたまた寒さのせいなのかは分からないが、それがため息にも聞こえチャカは更に苛々を募らせる。
だが、ジェイクはチャカが声を出すのを遮るようにすぐさま話を再開する。
『フジサキってのは麻薬が嫌いなんだろ? じゃあお前を放っておくわけがないな。俺の分まで麻薬をバラまいた張本人としてしっかり罰を受けてくれ』
「ふざけんな、なんで俺が! 大体てめえが持ち出した話だろ! 全部俺になすりつけようたってそうは」
『俺がこの国を去れば怒りの矛先は全てお前に向く。そういうもんだ。……残念だが時間だ。最期までせいぜい足掻いてみろ。ま、お前のようなガキはすぐ死ぬのがオチだろうがな』
「待て、まだ話は……!」
『
ジェイクはイタリア語で告げた後、チャカの言葉を待つことなく通話を切る。機械音が流れた後、チャカは乱暴な手つきですぐさまかけ直す。
『――お掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません』
舌打ちし、再び同じ番号にかける。
だが、何度かけ直しても同じアナウンスが流れるだけ。
チャカはわなわなと手を震わせ、テーブルを強く叩き、より一層声を荒げた。
「くそが! あのクソ外人野郎! 舐めた真似しやがってッ!!」
チャカの様子をずっと窺がっていた店主が、一番激しい怒号にびく、と肩を震わせた。
「ぜってえぶち殺してやる!!」
そう言って席を立ち、苛立ちをぶつけるように自身が座っていた椅子を蹴る。
舌打ちし、店のドアへと向かいそのまま外へと出ていった。
しん、と静まり返ったバーでは「お代……」と呟く店主が一人残された。
――――――――――――――――――――――――――――
「――面白いくらい同じことしか言わなかったなあの坊や。子供のまま大人になったってのを見事に体現してた」
汽笛が鳴り響く大型の客船の一室で、一人の男が窓から覗く夕焼けの海を眺めていた。
上着のポケットからCamelと書かれた箱を手に取り、一本の煙草を取り出す。
ライターで火を点け、煙を吐きながら傍らに置いてある黒いバッグへ手を伸ばす。
中から何枚かの紙を出し、書かれている文字を目に映す。
男が手にしている書類には、一人の女性の顔写真。
そしてその女性についての経歴が全て書かれていた。
男は文字を目で追いながら、上機嫌な声音で呟き始める。
「まさか、こんなことがあったなんてなあ。政治界の沽券とやらに関わってくる話だ。そりゃ隠したくもなる」
煙草の灰を灰皿に落とし、再び煙を吐き出す。
「おかげで警官にまで扮装する羽目になったが、これは確実にあの女を地獄に落とすためのカードになる。手間をかけた甲斐があった」
男は写真に写っている女性の顔を見つめ、ニヤリと口の端を上げる。
「次はとうとうあの街だ。――待ち遠しいな」
男の呟きは、出航を告げる汽笛に掻き消されていった。
――――――――――――――――――――――――――――
――とある地下駐車場。多くの車が停まっている場所に、三人の人影があった。
坂東とバラライカ。そして通訳で連れてこられたロック。
坂東は真剣な面持ちで目の前のロシアンマフィアを見据えていた。
そんな坂東へ余裕そうな笑みを浮かべながらバラライカは声をかける。
「さしの会談にしては面白い場所を選んだものですね。それで、方針とやらはお決めになって?」
「……」
極道者である二人はお互い一切目を逸らさない。二人が生み出している異様な雰囲気にロックは固唾を飲んで様子を見守るしかできなかった。
沈黙が少し流れた後、やがて徐に坂東は口を開く。
「姐さん、今いっぺん聞きまっせ。肩ァ並べて、一緒にやってく気はおまへんのか」
「それは私に問う事ではありません。あなた方が問われること。“全ての決定権はこちらにある”こと、お忘れですか?」
「……そうか。そう言う事なら、もう手を組むことはできへんな」
すかさず冷淡な声音で返ってきた言葉に、坂東は眉一つ動かさずただ一言そう呟いた。
「残念です。今暫く続いていれば、こちらも気が楽だったのですが。まあ些細な事だ。気にしたところで仕方ない」
「残念、か」
途端、坂東はふっ、と初めて笑みを見せた。
「最初から
「……さあ、何のことでしょう」
鼻で笑いながら言われた言葉に、バラライカは笑みを消す。
「今更とぼけんでもええわ。――あんたらの狙いは藤崎の親っさんただ一人。あん人はあんたら外人にとって邪魔な存在に外ならん。だが潰すにはあまりにも大きすぎる。だから真っ向から潰すよりも協力関係にこぎつけることを選んだ。儂らや香砂会はその土台に過ぎん」
「……」
「あんたらのこれまでの動きを見返せば考えつくわ。……親っさんが動き始めた今、儂らはお払い箱。元々、肩を並べるどころか切り捨てるつもりやった。そうやろ?」
坂東は間を空けることなく次々と言葉を投げかけた。
ロックは戸惑いながらもバラライカへ坂東の言葉を伝える。
ロックの通訳を聞き終えた後、バラライカは鋭い視線を向けた。
そんなバラライカの視線を浴びても尚、坂東は笑みを浮かべたまま話を続ける。
「あんたら、本気であん人に取り入ろうとしとるんか? なら短い間であろうと手を組んだ仲や。教えといたるわ」
坂東はコートのポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
煙を吐きながら、口の端を上げたまま話を続ける。
「あん人は外人をとことん毛嫌いしとる。ちっとやそっとじゃあんたらの思い通りにはならへんで」
「……ご忠告どうも。もう話は終わりかしら?」
「まだや。――まだ始末が残っとる」
低い声音で言い放ち、吸い始めたばかりの煙草を地面に落とす。
同時に坂東の懐から出てきたのは――白鞘の短刀。
鞘から刃を抜き、殺意をバラライカへ向ける。
バラライカを射貫くその視線は、刃に劣らなない鋭いもの。
「儂は……儂らは親っさんに恩がある。このままアンタを、みすみす放っておく訳にはいかんのやッ!!」
坂東はそう叫ぶと勢いよく駆け出した。怒りを刃先に込め、一気に距離を縮ませバラライカの体へ突き刺そうとする。
だが、相手はかつて第三次世界大戦を迎えるために鍛えられた元軍人。殺し合いにおいてこの場で彼女の右に出るものはいない。
バラライカは真っすぐ突っ込んできた坂東の顔を肘で殴る。衝撃で意識を失いかけた短い時間の中で、坂東の左腕から鈍い音が響く。
倒れる寸前の坂東の背後へと回り、コートの襟を持ち上げ無理矢理立たせる。
そのまま流れるように首を絞め、苦痛の表情を浮かべている坂東を見据えた。
「白兵戦は久々だが、体は覚えているものだ。――ロック、私の言葉を訳せ。なるべく強い言葉でな」
一連の流れを驚きと困惑で黙って見ていたロックは、バラライカの言葉に狼狽える。
「し、しかし……ッ」
「訳せ」
有無を言わせない声音と視線に、ロックは冷や汗をかく。その様を一瞥し、バラライカは徐に口を開いた。
「今夜は特別だ。本当の事を話してやろう」
坂東は血で濡れた顔のまま目だけをバラライカの方へ向けた。
ロックは二人の様子を眺めながら、少し震えた声で通訳に務める。
「貴様が先程言った通り、鷲峰組や香砂会は我々にとってどうでもいい。藤崎組と対等な立場となれば全て丸く収まる。そこまで分かっていたことは褒めてやろう。――だが、一つ貴様は勘違いをしている」
バラライカは口元を歪め、愉しんでいるような声音で話を続ける。
「私が望んでいるのは破壊と制圧。どこまで地獄の釜底で踊れるのか、それ以外に興味がない。例え貴様が心酔しているあの藤崎仁であろうと必要とあらば全力で叩き潰す。相手にとって不足はないだろう」
その言葉に坂東は目を見開いたのと同時に確信した。
“この女はイカレている”のだと。
ここまでイカレている人間は己が生きてきた極道の世界でも見たことがなかった。
「それでは時間もない。またいずれ」
冷淡にそう言い放つと、バラライカは思い切り坂東の首をへし折った。
鈍い音と共に坂東は息絶え、そのまま地面へ倒れる。
坂東の死体を口の端を上げて眺めるバラライカの様子を、ロックは再び黙って見ることしかできなかった。
「――さて」
しばらく沈黙が流れた後、バラライカは徐に口を開く。
言葉を区切り、横たわっている死体から前方にある柱の方へ目線を移す。
「そんな所に隠れてないでそろそろ出てきたらどうかしら。それとも、盗み聞きするのがご趣味で?」
その言葉にロックは驚きながらバラライカの目線の先へ勢いよく顔を向けた。
異様な空気が漂う中、やがて柱の陰からゆっくりと一人の男が現れる。
革靴の音を鳴り響かせながら近づいてくる男を目に映すと、バラライカは「あら」と目を見開いた。
「貴方は確か――」
――――――――――――――――――――――――――――
坂東とバラライカの会談が終わってしばらく後。
大きな日本家屋である藤崎組本邸、その一室にある広い畳の部屋では藤崎仁が茶を啜っている。
一見ゆったりした時間を過ごしているかのような風景。だがその顔は穏やかさとは離れており、真剣な表情が浮かんでいた。
湯呑みの中にある茶を半分まで飲んだところで、廊下からこちらへ近づく足音が聞こえてくる。
座卓の上にこと、と湯呑を置いたのと同時に襖の向こうから藤崎組若頭補佐。高橋の声が飛んできた。
「親父、ただいま戻りました」
「入れ」
「失礼します」
その言葉を聞きすぐさま高橋は襖を開ける。そのまま部屋の中を進み、仁の前で正座する。
「意外と早かったな。もう少しかかるかと思ったんだが」
「相手はただのチンピラです。俺達の相手じゃありません」
「そうか。して、もう一人は?」
「それが、現在は行方が掴めていません。しかも変装してやがったのか俺達が知っている容姿をした男は誰も見ておらず」
「……そうか」
「チンピラの話だと二時間前には港にいたらしいんですが、恐らく船で大海原へ出た後かもしれません。……すんません、もっと早くそいつを追っていれば」
「まあ、この国からいなくなったのであればそれはそれでいい。儂らの本命はあくまでもそのチャカとかいうチンピラだ。逃げた外人なんざ今更気にすることはない」
「……はい」
藤崎組の目的は自分たちの縄張りに麻薬をばら撒いた愚か者を炙り出し、捕らえること。
それが成し遂げられた以上、逃げた人間を気にする必要はない。
仁のその言い分を理解しているからこそ、高橋は眉間に皺を寄せながらも短く返事をする。
「で、そいつは今どうしてる」
「“俺じゃない”とか色々喚いて煩かったのでしばらく殴って強引に眠らせました。今は車のトランクで夢の中です。いつでも連れていけます」
「気を失うまで殴ったのか。相変わらずだなお前は」
高橋の報告を聞いた仁は呆れつつも嬉しそうに少し口の端を上げた。
「お前の事だ。堅気の目に映らないところでやったんだろ?」
「勿論」
「上出来だ。――よくやった、高橋」
微笑を浮かべながら放たれた激励の言葉に、高橋は自然と頬が上がるのを感じた。
その緩んだ表情を見られまいと、頭を下げる。
「勿体ない、お言葉です」
「こういう時照れるのは相変わらずだな」
「からかわないでください親父」
「はっはっは」
軽快な笑い声を響かせた後、一呼吸間を空け左手首にある腕時計を見やる。
「あっちももういい頃合いだな。高橋、佐伯からまだ連絡はないのか」
「今はまだ。俺の方から連絡を取ることはできますが……」
「やめておけ。あいつの最後のけじめの場に水を差すのはあんまりだろう」
そう言って、再び湯呑を手に取り温くなったお茶を飲み始める。
ずず、と仁が茶を啜る音だけが響く。
湯呑みの中身が無くなったらしい様子を目にし、高橋はすぐさま立ち上がり仁の隣へと移動する。急須を手に取り、手慣れた動作で空になった湯呑へ茶を注ぐ。
丁度急須の中身もなくなり、新たなお茶を作ろうと手を動かそうとする。
その瞬間、高橋のポケットから携帯の着信音が鳴り響いた。
高橋は仁に無言で伺いを立て、携帯電話を取り出し通話に応じる。
「俺だ……ああ、少し待ってくれ。――親父、佐伯からです。変わりましょうか?」
「ああ」
待ちに待った相手からの連絡。一番結果が気になっているであろう仁が最初に話を聞くべきだと判断し、高橋は仁へ携帯を手渡した。
「儂だ、随分と時間かかってたな。……謝る事じゃない。それで結果は? ……そうか。……いや、これでいい。お前の役目は見届けることでもある、これでいいんだ」
淡々と紡がれる人の言葉で高橋は全てを理解する。今起こっている事実に少しだけ拳に力が入った。
「遺体は? ……よし、向こうにはまだ伝えるな。そのまま病院に運んで保管してもらえ。話は通してあるから手間取らないはずだ……ああ、そうだ。儂の言葉はちゃんと伝えたか? ……上出来だ。病院まで運んだらなるべく早くこっちに戻れ、いいな? ……ああ、じゃあまた後でな」
その言葉を最後に仁と佐伯の通話は終了した。
仁は硬い表情を浮かべている高橋へ声をかける。
「佐伯が戻ったらすぐ動く。皆にもそう伝えろ」
「はい」
仁の命令に高橋は腰を上げる。
そのまま廊下へと向かい、「すぐ戻ります」と言い残し襖を閉めた。
しん、と静まり返った部屋の中で仁は湯呑を手に取り残りの茶を啜った。
――――――――――――――――――――――――――――
「――そいつは本当ですかい」
「ああ……」
「何時から」
「昨日の夕方からや。銀公、お前若頭と一緒におったんやろ? 何か言ってなかったんか」
「いや」
「そうか……くそっ、ロシア人とも連絡つかんし、一体何がどうなっとるんや」
鷲峰組本邸。広間では焦燥の色を浮かべている吉田と眉間に皺を寄せている銀次が話をしていた。縁側では二人の話を雪緒が黙って聞いている。
二人が固い表情をしている原因は、坂東が鷲峰組の本邸に顔を出してから組員の誰とも連絡が取れなくなったことにある。
それどころか定期的に連絡を取っていたバラライカらも音沙汰がなく、ラプチェフも彼女の居所が分からないらしい。
この異常事態に落ち着いていられる訳がなかった。
「組のモン全員に伝わるのも時間の問題や。このままやと組全体が混乱するで」
「ああ。それを防ぐためにもまず総会を開きやしょう。――こんなこと言いたくねえが、若頭が戻らなかった場合の対処も考えねえといけねえ」
「……そうなったら、この先わしらどうなるんや」
「…………」
吉田は拳を握り、少し震えた声音で呟いた。
銀次はその言葉に何も返せず、部屋には沈黙が落ちる。
「もしこのまま若頭が戻らんかったら組を引っ張る者がおらん。ロシア人の暴走を止めようにも頭がおらな始まらん」
「……」
「それに香砂にこのことが伝わったら確実にそこを突いてくる。そうなったらわしらにできることはあらへん」
「……だとしても、何もしねえってのは違うだろ吉田」
坂東の消息が絶たれた事により不安は募っていくばかり。それは吉田だけではなく銀次にも言えることだった。
だが、嘆くだけというのはあまりにも無様すぎる。
銀次はサングラスで隠れた瞳を真っすぐ吉田へ向ける。
「若頭がいねえ今だからこそ、俺らがしっかり組を守らねえといけねえ。ここが正念場だ」
「……ああ、そうやな。すまん銀公」
銀次は己の言葉を自身にも言い聞かせ、襲い来る不安の波を打ち消した。
二人の会話を一部始終聞いた雪緒は、しんしんと降る雪を眺めながら徐に口を開く。
「銀さん、吉田さん」
唐突に呼ばれ、二人はほんの少し驚きながら雪緒の方へ顔を向ける。
「私、考えたんです。坂東さんがいなくなった今、すぐに代わりの人を立てなければならない。それも組員だけでなく、香砂も認めるような人材を」
「……お嬢?」
淡々と紡がれる言葉に、銀次は訝し気な表情を浮かべた。それと同時に先程とは別の不安が生まれる。
「お二人とも覚えていますか? 香砂会の取り決め――私であれば対等の条件で引き立てるという、あの件を」
「お嬢、そいつは……!」
「あんなもん香砂のちんぴらの因縁だ、真に受けちゃいけやせん。それにお嬢は何も関係ねえんです」
銀次と吉田はそこで雪緒が何を言おうとしているのか理解しすぐさま言葉を返す。
今は亡き鷲峰組組長の一人娘であってもただの堅気。普通でしかない少女を荒事に巻き込ませるわけにはいかない。
「私がこのまま陽のあたる路を歩む代わりに、組のために尽くしてきた百十余名が冥い野辺を彷徨うことになる。……私はあなた達と共に生きてきた。だから、そこから逃げるわけにはいかないんです」
「――お嬢、あっしはそれだけは認められねえ。俺は、お嬢にはまっとうな幸せを掴んでいただく、それだけが願いなんだ。誰もお嬢がこちら側に来ることを望んちゃいねえんです……ここでお嬢を巻き込んだら俺は、俺達はあの世で親父に合わす顔がねえ……!」
「でも、他にはないのでしょう?」
「ッそれ、は……」
「組を存続させるための道標が私だけなのであれば、それはもう仕方ない事なんですよ」
「……」
「……」
銀次と吉田は思わず言葉を詰まらせた。
確かに、雪緒が組長となれば今の状況を打破できる可能性がある。
しかし、その道は苦しく険しいもの。
そんなものを一人の少女に背負わせるのは、あまりに酷すぎる。
だが、それ以外に鷲峰組が生き残る道がないことも二人は理解していた。
理解しているからこそ、何もできない自分に腹立たしさを覚える。
「銀次さん、吉田さん」
雪緒はそこで初めて二人に顔を向ける。
再び名を呼ばれ、銀次と吉田は俯いていた顔を上げた。
「お二人の命を、私に預けていただけますか」
つい先日まで普通の女子高生だった少女が向けるのは、覚悟を決めた瞳。
自分たちヤクザ者のために命を投げ打とうとしている彼女に、もはや肯定以外の言葉を出すことができなかった。
ここが折り返し地点……かも……?