呼び慣れた名前を意識して変えるというのは存外難しいものだ。
五月がそう思い知らされたのは風太郎と交際を始めて暫く経ってからだった。
彼と腕を組みながら食べ歩きをしたり、隣合せで座った時は前よりもずっと近くで肩を寄せ合ったり、回数は少ないが毎回デートの終わりには唇も重ねた。互いに鈍く恋愛素人の自分達にしては順調な滑り出しだと思っていたのだが、ある日気付いてしまったのだ。
──未だに彼の名前を呼んだ事がなかった事に。
『上杉君』と慣れ親しんだその呼び名は視界に彼が入れば自然と口にする。出会ってから何度も呼んだ愛おしい人の呼び名。
けれど『風太郎君』と呼んだ記憶が五月にはなかった。これではフェアではないと思った。
恋人同士である男女の関係は常に対等であるべきだ。彼は出会ってからずっと名前で呼んでくれているのに、自分はいつまで経っても苗字で呼んだままなんて。
自分達が五つ子だから彼は最初から名前で呼んでいるのだろうが、それでも真面目な五月は納得出来なかった。
もう他人ではないのだ、上杉風太郎という男性とは。本来ならば親友と位置付けした瞬間に既に名前で呼んでいてもおかしくはなかった。それが恋人という関係ならば尚更だ。もっと距離を詰めてもいい筈である。
思い立ったが吉日。五月はその日から彼を名前で呼ぼうと決意した。
……したのだが、実現できていないのが現状である。デートの際、何度も名前で呼んでみようと試みた。待ち合わせで風太郎に挨拶をした時、デート終わりの恒例のキスの後にさりげなく、だけど決まって言葉が詰まってしまう。その度に彼に怪訝そうに首を傾げられた。
これではダメだと一度は姉達にも相談してみたのだが、あまり理解を得られなかった。そもそも彼女達は最初から彼を名前で呼んでいたり途中で呼称を変えるのに何の躊躇もなかったりと参考にならない。こういう時に自分達五つ子は見た目は同じだが中身は違うのだとつくづく実感した。
悩みに悩んだ末、五月は最後の手段に打って出る事にした。一人で考えてもどうしようもない時、最後にはいつも手を差し伸べてくれる人に話そうと。
「で、俺に直接話した訳か」
「はい……お恥ずかしい話なのですが」
以前に一人で訪れて高い評価を付けたカフェに今日は風太郎を連れて二人で来ていた。
五月は看板メニューのケーキセットを、風太郎は砂糖が多めに入ったカフェオレをそれぞれ口にしながらテーブル席で向かい合って座る中、五月は胸の内に抱えていた悩みを彼に打ち明けた。
「……なんですか、その顔は」
ところが、話終えた後に五月を待ち受けていたのは片眉を吊り上げて呆れた様子を微塵も隠そうともしない彼の表情だった。
「いや、馬鹿真面目なお前らしい悩みだと思っただけだ」
なんだ、そんな事か。言葉には出ていないが彼の心の声が聞こえた気がした。風太郎の仕草や表情で大体何を考えているのか察する程度には長い付き合いだ。それくらいは分かる。
姉達もそうだが、どうやら彼も自分の悩みにいまいち理解を示してくれないらしい。五月は不機嫌そうに頬を膨らませながら、ストローで手元のカフェオレをかき混ぜる風太郎を睨み付けた。
「馬鹿真面目って何ですか! 私がどれだけ頭を悩ませたと思って……」
「お前があまりにも深刻そうな顔をして話すもんだから拍子抜けしたんだよ……どうにもお前は一人で抱え込みがちだからな」
「それは……」
きっと高校時代の出来事を指しているのだろう。確かに一人で抱え込んで、最終的には彼が手を差し伸べてくれた。その度に不器用な奴だな、と呆れるように笑われて……でも嬉しかった。
何だかんだ言いつつも彼は自分の事を心配してくれる。その気遣いは共に喧嘩して仲直りをした中間試験の勉強会から少しも変わってはいない。
「……でも、私にとっては深刻な問題です」
「俺は言われるまで呼び名なんて気にした事もなかったが」
「私が気になるんですよ」
「そういうものなのか?」
「そういうものなんです」
そうか、と顎に手を当てて一応は真剣に考えてくれる素振りを見せた恋人に五月はふと出会った当初の風太郎を思い出した。
以前の彼に呼び名で頭を悩ませたと零したらきっと下らないと鼻で笑って切り捨てただろう。そこでデリカシーのない彼を咎めて口喧嘩をする様が簡単に想像できる。
けれど、今は違う。恋愛の事や乙女心には疎い風太郎だが分からないなら分からないなりに考えてはくれるようにはなった。デートの行き先もそうだし、服装も二乃に相談して身なりを気にするようになったりと少しづつではあるが、変わりつつある。
大事な根幹は残しつつも着実に成長していく恋人を見て、やはり自分も変わらなければならないと五月は改めて思った。
「いや、考えてみればそもそも既に名前で呼んだ事があっただろ」
「えっ?」
「『零奈』の時だ」
「いえ、あれは何といいますか……変装だからノーカンという事で」
「……なんだそりゃ」
風太郎には呆れられたが五月からすれば複雑なのだあの『零奈』は。
あれは四葉に頼まれ変装した偽りの自分だ。五月ではなく京都で出会った女の子という役を演じて彼の名前を呼んだに過ぎない。
真に中野五月で呼んだ訳ではないのだと彼に説明したが、眉根を寄せて面倒くさそうに溜息を吐かれた。
仕方がない。こればかりは姉妹にしかわからない繊細な五つ子心なのだから。
「別に急いで呼び名を変える必要もないだろ。時間が経てば自然に慣れる」
「ですがいつまでも私だけ……」
とうとう風太郎も匙を投げたようで投げやりにそんな事を言い出した。当然、それで引き下がる五月ではない。
「それに、ほら、なんだ……」
「……?」
「……将来的には嫌でも苗字で呼べなくなるだろ」
「……っ!」
前髪を弄りながら視線を逸らす昔ながらの風太郎の癖。彼の言葉の仕草の意味は鈍い五月でも理解できた。
──ああ、やっぱりこの人の名前を自然に呼べるようになりたい。
そんなとある日常の午後の五女であった。