「フーくんっ」
自分を『フー君』なんて奇妙奇天烈な渾名で呼ぶのは風太郎が知る中で、少なくとも一人しか該当しない筈だった。
その物好きの彼女ですら最近はその呼び方を自重し、ごく普通に名前で呼ぶのが日常となっていたのだが、染み付いた癖というのはふとした瞬間に出てしまうらしい。
数年振りに耳にしたその奇妙な渾名。きっと彼女も意図して口にした訳ではなく、また風太郎自身も無意識に返事をしてしまったので、きっと仕方ない事なのだろう。
だが、その学生時代のやり取りを二人きりの時ではなく第三者がいる前で行ってしまったのは迂闊としか言いようがなかった。
「こら、その呼び方はやめなさい」
「フーくんっ!」
「……」
仔猫のような可愛らしい声で膝元に抱きついてきた小動物に風太郎は思わず嘆息した。
普段なら愛くるしい姿に口元が緩むのだが、今回ばかりは困惑が混じった苦笑を浮かべるしか出来なかった。
子どもというのは日に日に変化していくものだ。昨日まではパパと呼んでいた子が朝起きたら『フー君』などという奇妙な呼び名に変わっているのだから。
心当たりはある。昨日の妻とのやり取りだ。いつになく仕事で疲労して帰ってきた自分を玄関で出迎えてくれた妻が『お疲れ様、フー君』と久しく呼ばれていなかった渾名で労りの言葉を掛けてくれたのだ。
いつまでも渾名呼びだと夫婦らしくないからと、彼女自らが封じるようになった呼び名。彼女だけが呼ぶその名前に懐かしさと覚えて、らしくないと思いつつも迎えてくれた愛おしい妻の頬に口付けをして応えた。
───壁際からひょっこりと顔を出して覗き見していた愛娘の視線に気付かぬまま。
「……二乃からも何とか言ってくれ」
これは駄目だと妻に援護を求めた。子どもに関してはどうにもあまり強く叱れない。妹を溺愛したように、どうしても娘も同じくように甘い態度を取ってしまう。
その点で言えば妻の方が信頼が出来る。同じく娘を愛してるが彼女はキチンと叱れる。何だかんだ言ってあの五つ子姉妹の中でもしっかりと姉をしていただけの事はある。
頼みの綱である彼女に視線を向けると膝元の娘も同時に母の顔を伺った。
「あら、別にいいじゃない。ねー?」
「ねー」
予想に反して妻が娘に激アマ判定をして風太郎の立場が一転した。まさか最愛の妻が裏切るとは。
何故だ、と文句を含んだ視線を送るが彼女はそんな事など知ったことかと、どこ吹く風で娘を撫でた。
母に頭を撫でられ嬉しそうに目を細める娘に風太郎は半場諦めながらも妻に抗議した。
「流石に娘からその呼び名で呼ばれるのは止めて欲しいんだが」
「私が呼ばなくなったんだから代わりにこの子が使ってもいいでしょ?」
「代わりにって……服のお下がりじゃねえんだぞ」
「もう、相変わらず恥ずかしがり屋ね"フー君"は」
「お、お前……」
「ほら、パパに聞いてみて? "フー君"は嫌って?」
「ひ、卑怯だぞ二乃!」
「フーくんはいや?」
悲しそうに首を傾げる娘。したり顔で笑みを浮かべる妻。
愛妻と愛娘の最恐タッグに屈してとうとう風太郎は白旗を挙げた。
彼女が強かな女だと改めて思い知らされた。女二人に男一人の環境だ。これからも孤立無援の戦いを強いられるに違いない。
けれど、それもきっと悪くはないのだろう。しょうがないかと、嘆息しながらも最後には自分も笑って受け入れてしまうのだから。