『これからは私がお母さんになります』
呪いにも似た誓いを立てたあの日の事は、きっと生涯忘れる事はないだろう。あの誓いは五月にとって人生における確かな分岐点の一つであったのだから。
思い返してみれば、あれは五月にとってただの逃避だった。大好きだった母の死を受け入れたくなくて、大事な姉達の涙を少しでも止めたいと思って。だから代わりに成ろうとした。自分が母の代替になる事で喪失の痛みを誤魔化そうとしたのだ。
口調を真似て母のように振る舞い、ただ形だけでも必死に『母』という外郭を形成してそれを纏った。不格好でも無様でも構わない。子どものままごとだと自覚している。けれど、そうでもしないと耐えれなかった。
そんな漠然と掲げた母になるという目標に明確な着地点など最初からなく、いつしか周りの見えない暗闇へと入り込んでいて、それに気付いたのは家庭教師である彼の事で二乃と喧嘩をした時だった。
やっぱり自分は母の代わりになど成れなくて、それを思わず彼の前で零してしまった。それを何時もみたいに笑って馬鹿にしてくれたら良かったのに。
「全く、どうしてあなたは」
眠る彼の頬にそっと手を添える。掌から伝わる温もりに五月はクスリと笑みを浮かべた。
彼と『こういう』関係になって『こういった』事をするようになってからの恒例行事。一緒のベッドで眠る彼より先に起きてその寝顔を眺めながら思い出に耽るこの時間が五月は堪らなく好きだった。
頬に添えていた手を前髪を撫でながら額に移す。こうしてペタペタを彼の体を触るのが好きなのだが、起きている時は嫌がって中々にガードが硬いのだ。隣り合わせで座っている時は空いた手で隙あらば髪を撫でてくる癖に、風太郎自身は触れるのを嫌がるのだ。不公平だと頬を膨らませたら、渋々触らせてはくれるのだが。
思えば、随分と変わったものだ。彼も、もちろん自分も。五月にとって上杉風太郎との関係性は変化の連続だった。
初対面の印象は気に食わない同級生、次の日からは信頼のできない家庭教師。共に過ごしていく内に少しは認めてもいいパートナーから信用のできる大事な友人に。そして遂には恋心を抱くようになった愛おしき人へ。
代わり映えする季節のように移り変わる関係と感情。あの日、食堂で出会った時はまさか彼とこんな関係になるとは夢に思わなかった筈だ。
「───母さん」
「……っ」
ぽつりと、寝ている筈の彼の唇から漏れた言葉に五月は目を見開いて撫でていた手を止めた。
聞き間違い、ではない。確かに耳にした。切なそうに母を呼び求める、幼子のような声を。
風太郎の母の事を五月はあまり知らされていない。
彼は意識してそうしているのか分からないが五月の前で自身の母の事について語る事は滅多にない。自分達姉妹と同じく、そして自分達よりも幼い時に亡くなったと聞いたくらいだ。
だから、こうして彼が寝言で母を口にしたのにどういった理由があったのか分からない。意味なく口から出た言葉だったのかかもしれないし、頭を撫でた事で亡き母との思い出が夢の中で蘇ったのかもしれない。
「風太郎」
五月は、そんな事を考える前に自然と唇が動いていた。
普段は意識して風太郎君と呼んでいて、気を抜けば昔のように上杉君と呼んだ筈なのに、この時は何故か彼の事を自然と飾り付けなく名前で呼ぶ事が出来た。
「……風太郎」
そんな自分に驚きながら、今度はしっかりと嚙み締めるようにその名を口にする。
額を指で撫でながら、泣き止まない子をあやす母のように。
気のせいか、そうする事で風太郎の寝息が先程よりも安らかになったように思えた。
五月は、ふとあの満月の夜を五月は思い出していた。
父になると言ってくれた彼に、自分は父以上に甘えてしまった。
なら、少しは恩返しをするべきだろう。母の真似をやめろと彼は言ったけど、真似事でないない問題ない筈だ。
───たまには、私がお母さんになってあげるね。風太郎。
その日から、五月は彼の事を自然と名前で呼ぶ事が出来るようになった。