トントントン、と小気味のいい音が鼓膜を揺らす。
包丁とまな板が奏でる等間隔の音を聞きながら微睡んでいた意識がゆっくりと覚醒していく。
目覚まし時計のような騒々しいものでもないのに、この小さくて優しい音は不思議と目が覚める。そこに不快感など微塵もなくて、あるのは心地良い目覚めと胸に宿る仄かな熱。起こされたのではなく、自然に起きるんだ。これを耳にすると。
眠りについて、目覚める時に聞く最初の音がこの包丁の音だと安堵を覚える。それはきっと『誰か』が傍にいてくれているんだという証明だからかもしれない。
幼い頃は母さんがこの『音』を鳴らしていた。お袋の作る飯が好きで、毎朝お袋が作ってくれた朝食を食べて一日が始まるのが『当たり前の日常』だった。
『当たり前』が崩れ去ってから、今度はらいはがその『音』を鳴らすようになった。
何か自分も家事を手伝いたいと料理を始めたのがきっかけだった。最初は今のように手際よく包丁を切る事が出来なくて、何度も指を切りその度に俺と親父は大騒ぎしてきたのは今でもよく覚えている。
だが不器用で不格好でまばらな包丁の音はいつしか日を重ねるごとに母さんの奏でていた『音』に近付いていた。俺もいつの間にからいはの奏でる『音』に心配よりも安堵するようになり、昔のように包丁の音で目覚めるようになっていた。
───そして今は。
「おはよう。三玖」
「おはよう。フータロー」
台所でエプソン姿の三玖の背に声を掛ける。すると三玖は律儀に包丁を切る手を止め振り返って俺の顔を見て微笑みながら挨拶を返してきた。
「起こしちゃった?」
「いや、ちょうど起きた」
恒例となった問いにいつも通りの返答をする。休日の朝はいつもこうだ。
休みの日くらいはゆっくりと寝ていて欲しいとは彼女の弁だ。ありがたい気遣いだが、無駄に惰眠を貪るよりもこうして普段通りに起きて三玖を眺めている方が遥かに疲れも取れる。
……流石にそんな歯の浮くような台詞は本人の前で言ってない。言ってないが、言葉にしなくても伝わる程度には長い付き合いで、彼女はさっきのように嬉しそうに笑みを向けてくる。
「何か手伝える事はないか?」
「いいよ。フータローは待ってて」
「だが」
「これは私の仕事」
「……分かった。だが後片付けは俺にやらせてくれ」
「うん」
これも恒例となったやり取りだ。いつも料理を手伝おうと申し出てみるのだが毎回やんわりと断られてしまう。上杉家ではこと料理という分野に関しては彼女の領分で、ほぼ一切の手出しを許されていない。
それは俺が出会った過去の三玖並みに不器用だから、という訳ではないらしい。
『フータローに食べてもらうのが好きだから』
だから料理は全て自分で作りたい。愛する人にそう言われてしまったら何も言い返す事なで出来はしない。つくづく自分が幸せ者だと思い知らされた。
再び包丁の音を奏で始めた三玖の背を眺めながら、目を瞑って耳を澄ませた。
トントントンと等間隔で鳴る優しい音。それは俺にとっては『家族』を象徴する音。
(生徒でも、友達でも、恋人でもない……)
───俺と三玖は家族なんだな。
そんな当たり前の事を思いながら当たり前となった日常を嚙み締めた。