ゆるやかな山肌にはさまれてうねるように伸びる山道では、背のひくい草花たちがゆったりと体を揺らしながら、気持ちよさそうに陽の光を浴びていました。
うすい色をした空に堂々と浮かぶ大樹のおかげなのか、あたりには雪の名残りさえ見当たらず、ふもとに広がる雪原を忘れさせるかのようでした。
のどかな景色のなか、マヤはかるく息をはずませながら、山頂にむかって軽やかに歩みをすすめていました。
「マヤ、まだ昼にもなってないんだ。もっとゆっくりでいいぞ。山は息があがりやすいんだ、無理をするなよ」
心配そうにそう言った肩の上のハリネズミに、マヤは機嫌よく答えました。
「おう。でもだいじょうぶ。なんか楽しくてさ。天気がいいからかな」
「それならいいが。お前、体を動かすの好きだったんだな……待った、ちょっと止まってくれ」
マヤが言われたとおりに立ち止まると、ハリネズミは鼻をひくひくさせながら遠くをじっと見据えて、うーん、とうなりました。
「どうしたの兄貴。なにか見つけたか?」
「さっきから何度も魔物の気配がするんだが……どういうわけか逃げていくんだよな。不思議だ」
「そうなんだ。まあ、逃げていくならいいんじゃないの?」
「まあ、そういうことにしておくか。念のため、気をつけておく」
「たのむぜ。おれにはそういうの、全然わかんねえから」
マヤはハリネズミを指でかるくつつくと、腰のベルトからはずした皮の水筒に口をつけて何度かのどを鳴らし、ふうと大きくため息をついて、ふたたび歩きはじめました。
「でもさ、外を旅するひとたちって、魔物にであったらどうしてんの?」
「普通は隠れるか逃げるかだな。見境なく襲ってくるわけじゃねえから、気を付けていればそうそう危ない目には合わねえな」
「へえ。野犬とかクマなんかとおんなじようなもんか。それにしても」
マヤは片手でひさしを作り、空にうかぶ大樹ととおくの山々をまぶしそうにながめました。
「けっこう登ってきたけど、なんにも見えてこないぞ。まだ先なのか?こんな山の上に、ほんとに人なんか住んでるのか?」
「この調子なら、日が昇りきるころには着くと思う。オレも初めて行った時には驚いたな。マヤにはつまらない場所かもしれないが」
「ふーん。なんとなく想像はつくな。きっとボロボロの服を着たやつらが、おいのりしながらヘンな修行とかやってんだろ?」
「はは。まあ、着いてのお楽しみってヤツだ」
「なんだよくそ兄貴、もったいぶりやがって」
そう言ってマヤがハリネズミの鼻を指で軽くはじくと、かわいそうなハリネズミは甲高い声で悲鳴をあげ、マヤはけらけらと笑いました。
空のてっぺんにたどりついたお日さまがほんのすこし傾いたころ、山道の向こう側がすっとひらけて、連なる山のいただきのひとつと、雪をかぶったかのように真っ白ななにかが顔を出しました。
マヤがじっと目をこらすと、白いものはどうやら雪ではなく、石でできた屋根や長い階段であるようでした。
「あれか?」
「ああ、あれだ。おい、走るなよ」
ようやく山道のおわりにたどりついたマヤが、すこし足早に階段を上りきると、そこには石の柱にかこまれたまるい広場をとりまくかたちで、建物がすり鉢のように広がっていました。
広場の正面では、人の姿をしたおおきな石像が、里を抱くかのようにやさしく両手をひろげていました。
「すげえな。こんな山のうえに、いったいどうやってこんなもの作ったんだ?」
「ああ。おまけになんだかずいぶん古い時代からあるらしいぜ。なんにしても、おつかれさん。マヤ、よくがんばってくれた」
「へへ。ここで、セーニャって人をさがせばいいんだな……あっ兄貴、ちょっとだまってて」
里の者らしい、白にうすい紫をあしらった服をまとった人間と目があったので、マヤはハリネズミにそう注意して身構え、ふうと息を吐いて、すこしはずんだ呼吸を整えました。
口元にひげを生やしたすこし腰のまがった男性は、杖をつきながらゆっくりと歩みより、にっこりと目を細めてマヤに話しかけました。
「やあ、こんな山の深くまで、よくぞいらした。ご苦労様です。巡礼の方ですかな……」
老人は目をほそめたまま、マヤの背格好をよくたしかめると、ふたたびマヤと目を合わせてつづけました。
「ずいぶんとお若いようじゃが、おひとりで来なすったのかね?」
「え、えーと。おじいちゃん、こんにちは。えっとね……兄貴といっしょなんだ。ちょっと、ここの人に用があって」
「それはそれは。近ごろは、外の方が増えておりましてな。里はこんな有様じゃが、なにぶん里には若い人手が足りませんでな……」
老人はそう言いながら、しずかに首をふって、あたりを見まわしました。
マヤも真似をしてあたりを見まわすと、まるでシーツにインクをこぼしたように里のあちこちに黒い岩がころがり、そばの建物が崩れてしまっていることに気が付きました。
「うわあ……どこもおんなじだね。おれ、ふもとのクレイモランてとこから来たんだけど、おれたちの町も似たようなもんだよ。兄貴も、あちこち直すの手伝ってんだ」
「さようで……まったく、痛ましい出来事でしたなあ。わしは息子夫婦を亡くしましてな。恨んだところで仕方がないが、どうして生き残ったのが息子でなくわしだったのかと思うと、やりきれませんでな……」
そう言ってしょげる老人の肩を、マヤが見かねてぽんぽんと叩き、じっと手を当てると、老人は片手で目頭をおさえ、やがて顔をあげました。
「つまらん話を聞かせてしまって、すまんかった。お若いの、ちょうどいま、里では昼の炊き出しをやっておりましてな。ほらあそこ、女神さまのお膝元じゃ。よければ食べていかれよ」
「うん、行ってみるよ、ありがとう。おじいちゃん、元気出してね」
老人が力なく手をふってマヤに背をむけると、肩のハリネズミは感心したように口を開きました。
「マヤ、お前……」
なにかを言いかけたハリネズミを片手でおおって口をふさがせると、マヤはすこし照れたようすでつぶやきました。
「だまってろって言っただろ。炊き出しか、そういや腹がへってるな。ごちそうになるか」
マヤが里の奥へすすむと、女神像のあしもと、おおきな神殿らしき建物へとつづく階段に、おおぜいの人が座りこんでいるのが見えました。
さきほどの老人とおなじ、白い衣装をみにつけた者たちにまじって、ぼろぼろのマントをはおった者、里の雰囲気ににあわない屈強そうな男たちも目にとまりましたが、みな一様に湯気のたちのぼる木のスープ皿をかかえて、食事を楽しんでいるようでした。
神殿のまえでは、もくもくと煙をあげるストーブにかけた大鍋をかきまぜ、前にならぶ者たちにとりわける数人の女性たちのすがたが見えました。
マヤはおそるおそる鍋に近づくと、いちばん背の高い、緑のヘアバンドで髪をとめた金髪の女性におずおずと声をかけました。
「あの、こんにちは。これ、おれにも食べさせてもらえますか」
女はまっすぐにマヤの目を見つめて、にこっとほほえみました。
「もちろんです。ソバの実を煮たものですが、食べられますか?ときどき、苦手な方がおられますので」
「う、うん。だいじょうぶ、よく食べてるから」
マヤがそう答えると、女はおおきな鍋の底をかきまぜてお皿によそって、木のスプーンを刺しこむと、両手をそろえてマヤに手渡しました。
「熱いのですので、どうかお気をつけください……あら、はじめてお目にかかりますか?」
「あ、ありがと。そう、おれ、さっき着いたばっかりなんだ」
「まあ。こんな山の奥まで、大変でしたね。ようこそおいでくださいました」
女は祈るように両手を合わせ、かるく頭を下げましたが、マヤは慣れない物腰にすっかりたじろいでしまったようでした。
マヤは逃げ出すようにその場を立ち去ろうとしましたが、肩のハリネズミがなにか言いたげに背中のハリを首元に押しつけてくることに気がついて、すこしこわばった表情で女に向きなおりました。
「あ、あの。おれ、セーニャって人を探してるんだけど。お姉ちゃん、知らな……知りませんか」
「まあ。セーニャは私ですが……?」
「えっ。そ、そうなの」
ふしぎそうな顔で自分を見つめるセーニャの前で、不意をつかれたマヤはすっかり固まってしまいましたが、なんとか言葉をしぼりだしました。
「えーと……えっと。兄貴……兄貴のことで、ここまで来たんだけど……お姉ちゃん、カミュって人を知ってますか」
「ええ、よく存じていますわ。カミュさまがいったい……あっ」
セーニャはとつぜんなにかに気が付いたように声をあげると、目を丸くして続けました。
「もしかして、妹さまですか?カミュさまの?」
「えっ……そ、そうだけど。どうして知ってるの?」
セーニャは腰をかがめてマヤの顔をじっとのぞきこむと、うれしそうに目を細めました。
「旅のあいだ、妹さまのことをよく話されていましたので……目元がよく似ていらっしゃいますわ。髪の色と、瞳の色も同じなんですね」
「そ、そうなんだ。それでえっと……兄貴のことなんだけど、ヘンな話なんだけど……」
「すこし、お待ちくださいね」
セーニャは話しづらそうにするマヤの言葉をさえぎって、大鍋のそばの女たちになにか声をかけると、自分のぶんの食事をお皿によそって、マヤの隣に歩みよりました。
「いっしょに食べながらお話ししましょう。どうぞこちらへ」
ふたりは神殿のわきの、りっぱな石柱が立ち並ぶ石台に、そっと並んで腰をおろしました。
すこし木陰にはいった石台はじんわりとあたたかく、目の前にひろがる石の水路にかこまれたちいさな草地では、にわとりたちがせわしなく何かをついばんでいました。
「お食事、冷めないうちに召し上がってください」
「うん。あっ、これずいぶん甘いね。うまい」
「ええ、甘めに煮てあるんですよ。甘いものは、元気が出ますからね。足りなかったら、まだありますから」
お皿を顔にちかづけて、そばがゆをもぐもぐと食べだしたマヤを見て、セーニャはすこし安心したように、自分もスプーンを口に運ながら、ゆっくりと切り出しました。
「こんな山の奥まで、おひとりで……はないですよね?カミュさまもご一緒ですか?」
「う、うん。たぶんそうかな、いちおう……でも兄貴、おれのこと他人に話してたんだね」
「それはもう。はじめのうちは話しづらそうでしたが」
セーニャは顔をあげ、とおい出来事を懐かしむように話しました。
「呪いが理由だったのですね。ある日、無事に助けることができたと打ち明けてくださって。それ以来は、よくお話をされていました。たいへん大切にされていることが、よくわかりましたよ」
「そ、そっか……」
「旅を終えたらしたいことなどを、うれしそうに話されていました。カミュさまご自身も、ずいぶん明るくなられたようで……お名前もよく口にされていましたわ、たしか、マヤさま?」
「そ、そう。合ってる」
セーニャはすっかりうつむいて耳を赤く染めるマヤの肩で、見慣れない生き物がくるんとまるくなっていることに気が付いて、興味深そうにたずねました。
「その、肩に乗せていらっしゃるのは生き物ですか?」
「うん。これ、ハリネズミっていうんだ。さわってみる?」
マヤが肩のハリネズミを指でつついて片手を差し出すと、ハリネズミはもぞもぞと手の上に乗り込みました。
セーニャがお皿をわきに置いて手をさしだすと、マヤはハリネズミをそっと乗せました。
ハリネズミはセーニャの手の上で、所在なさげに鼻をひくひくさせました。
「まあ、なんと愛らしい……それに、ずいぶん人に慣れていますね」
セーニャはハリネズミの背中をおそるおそるなでてから、指先でハリのするどさをたしかめました。
「ふふ。ハリの生えたネズミだから、ハリネズミなんですね。世界には、このような面白い生き物がいたのですね」
「ね。おれも、ぜんぜん知らなかった……あっ、顔はあぶないよ」
セーニャはハリネズミを口づけをするように鼻先に近付けると、なんどか鼻を鳴らして、においをたしかめているようでした。
「や、やめてくれ……」
ハリネズミが弱々しい声でうめくと、セーニャはなにかに気が付いたようにあたりをきょろきょろと見まわしました。
「におい……ハリネズミ、なんのにおいだった?」
マヤがふしぎそうにたずねると、セーニャは照れたように眉をひそめました。
「はしたない姿をお見せしてしまって……そうですね、ネズミのにおいはわかりませんが、生き物にはみな、独特のにおいがありますね。それと、汗のにおい。マヤさまのものでしょうか?」
「あはは。きのうは野宿だったし、おれ、たぶんクサいかも。山登りでずいぶん汗かいたし」
「ふふ。よろしければ、後ほどお湯をご用意します……ところで、いまカミュさまのお声がしませんでしたか?」
そういってあたりを見まわすセーニャを見ると、マヤはいじわるそうな笑顔を浮かべて、ハリネズミを指でつんつんとつつきました。
「こ、ここだ。セーニャ、ここだよ」
「カミュさま……?」
「ここだよ、ここ。お前の手の上だよ」
セーニャが手のひらの上のハリネズミと目を合わせると、ハリネズミはふたつの足で立ち上がって、片手を振ってみせました。
「よお、セーニャ。久しぶりだな」
ハリネズミがそう呼びかけると、セーニャは里じゅうに響きわたるような、大きな声をあげました。
「そうですか……お話はわかりました」
兄妹からだいたいの事情を聞かされて、セーニャはハリネズミをまじまじと見つめながら、そう言いました。
「そういうわけなんだ。お姉ちゃん、頼っちゃってわるいけど、なんとかできる?」「はい。上手くいくかは試してみないとわかりませんが、呪いを解く方法なら、私にもできるものがありますわ」
セーニャがそう伝えると、マヤはおおきなため息をついて、すっかり安心した顔でセーニャを見つめました。
「よかったあ……おれ、どうしようとおもって。自分のせいだけど、ずっと不安でさ」
「悪いなセーニャ、助かるよ」
「いいえ、頼っていただけてうれしいですわ。私にできることは、多くありませんので……ですが」
セーニャがハリネズミを乗せた手のひらを、自分の肩のあたりまで持ち上げると、ハリネズミはちょこちょこと肩に乗ってみせました。
セーニャはすこし首をかしげ、ハリネズミに向かってほほえむと、マヤに言いました。
「私、子供のころ好きだった本があるんです。物語の本なのですが」
「本?どんなおはなし?」
「ええ。ある冒険家が、肩に乗せた言葉を話す鳥と旅をするお話です。私、ずっとそのお話にあこがれていて」
「え……」
マヤはこまったような表情を浮かべましたが、セーニャは楽しそうに続けました。
「私の夢だったんですよ。お話のできる生き物を肩に乗せて……マヤさま、よろしければ、呪いはこのままにして、カミュさまを私にいただけませんか?代わりに、里でいっしょに暮らしましょう」
「い、いやだ……お姉ちゃん、兄貴をとらないで……」
マヤはすっかり凍り付いてしまい、いまにも泣き出しそうな顔のまま、なにも言葉が出なくなってしまいました。
ハリネズミは見かねたようすで、哀願するようにセーニャに声をかけました。
「お、おいセーニャ。冗談だろ?頼む、マヤをいじめるのはやめてくれ」
セーニャはハリネズミに腕を差しだし、手のひらの上にもどして見つめると、おかしそうにくすくすと笑いました。
「ええ、冗談ですわ。笑ってくださると思ったのですが……すみません、怖がらせてしまいましたね。下手な冗談でした」
「セーニャがその手の冗談を言うとは思わなかったな……なあ、マヤ……マヤ?」
顔をこわばらせたまま、おびえて立ちすくむマヤの肩に、セーニャはハリネズミをそっと戻し、ひざをついて顔を合わせました。
「ごめんなさい。意地のわるいことを言いました。お兄さまの呪い、私がなんとかしますから」
「う、うん……」
かぼそい声でそう答えるマヤを、セーニャはそっと抱きしめて、ぽんぽんと背中を叩きました。
「ごめんなさい。どうか、お許しください」
「うん。も、もういいよ……おれ、気にしてないから」
マヤも両腕をあげてセーニャの背中に手をまわし、かるく抱きしめると、セーニャはゆっくりと立ち上がり、そっと片手をとりました。
「では、私の部屋へまいりましょうか」
セーニャは広場のそばにあるじぶんの家にマヤを招き入れると、手を引いて階段をのぼって部屋に入り、ふたつ並んだベッドのかたほうに、マヤを座らせました。
ベッドの頭側の窓から日のさしこむ部屋は、左右にチェストや本棚がおなじようにならんでいましたが、マヤの座った側だけ、すこし不自然なほどに片付いていました。
「そちらのベッドは、主が旅に出ていますので、里にいるあいだはどうぞ自由にお使いくださいね。それでは、私は必要なものを集めてまいります。すぐに戻りますので」
セーニャがそう言いのこして部屋を出ると、マヤはベッドの枕元にハリネズミをそっとおろして、大きく息をつきながら、ごろんと横になりました。
「はあ。なんだか、どっと疲れた……」
「なにしろ二日のあいだ、歩き通しだったからな。マヤ、体力あるよなあ」
「ガキの頃からあんだけこき使われてりゃ、ただ歩くくらい、どうってことないよ。それにしてもさ、兄貴が山の上に住んでる賢者なんて言うから、おれはしわしわのおじいちゃんかと思ってたのに」
マヤはそう言ってにやりと笑い、ハリネズミを指でつっつきました。
「まさか、きれいなお姉ちゃんとはね。兄貴がだまってた理由がわかったぜ」
「まあな。きっとそういう事を言うだろうと思って、言わなかったんだよ」
「そういうことにしといてやるよ、くそ兄貴。でもさ、せっかくの金髪なのに、なんだってあんなに短くしてるんだ?」
ハリネズミはうーん、とうなり、すこし考えこんでから、すこし言いづらそうに口を開きました。
「ちょっとな……事情があるんだ。触れないでやってくれるか」
「ふーん。どうしよっかな。おれも、いじわるされたからな」
「おい、マヤ……」
「あはは。冗談だよ、冗談」
兄妹が他愛もない話をしていると、やがて部屋の外からセーニャがなにかを呼びかける声が聞こえました。
「すみません、手がふさがっていますので、扉を開けていただけますか」
マヤが小走りにドアに駆けより、いそいで扉を開けると、セーニャは両手で抱えた木箱を、部屋のテーブルの上にそっと置きました。
「マヤさま、ありがとうございます。必要なものを集めてまいりましたので、準備を手伝っていただけますか?」
「うん。おれ、なにをすればいい?」
セーニャはテーブルに広げた布の上に、持ってきた本を見ながら、丸いかたちに並んだふしぎな模様を羽根ペンで書き写し、塩を指でつまんでぱらぱらと振りかけました。
油で満たした銀色のちいさなお皿を模様のまわりに三つならべ、ひたした灯心に指先でぽっと火をともすと、マヤはおおっと歓声をあげました。
「すごい。いまのって、魔法?おれ、はじめて見た」
「はい。あとは……マヤさま、すみませんが、すこしだけ髪をいただいても?
」
「いいけど、髪の毛?なんで?」
「髪には強い力が宿っているんです。おふたりは兄妹ですから、そういった意味でも」
「わかった。ねえお姉ちゃん、みつあみを結える?これ、ほどくと自分でやるの大変なんだ」
「ええ、できますよ。マヤさまの三つ編みは、いつもカミュさまが結われていたのですね」
セーニャがそう言ってマヤの肩に乗ったハリネズミにほほえみかけると、ハリネズミはくるんと丸まって顔を隠しました。
「へへ。都合がわるいとすぐそれだ。便利だなハリネズミ」
マヤが赤いリボンをとって三つ編みをほどき、髪をおろすと、セーニャは立ち上がってうしろにまわり、すこしだけ指でつまんで、ナイフで切りとりました。
「ありがとうございます。後ほど、とかしてさしあげますわ。では、カミュさまを模様の真ん中へ」
マヤがハリネズミを肩からおろすと、セーニャは切り取った髪を、ハリネズミの首のあたりにくるくると結びつけました。
「これで、準備ができました。それでは……私が言葉をとなえますので、マヤさまもいっしょに祈っていただけますか?」
「えーと。おれ、なにを祈ったらいい?」
「普段のお祈りと同じで良いですよ。カミュさまのご無事を、祈ってさしあげてください」
「うん、わかった。兄貴もじぶんで祈っとけよ」
「ああ。オレには祈ることしかできないが、頼むぜ」
「それでは、始めましょう」
セーニャが胸のまえで両手を組み、目をとじてぶつぶつと祈りの言葉を唱えはじめると、マヤもおなじように両手を組んで、じっとハリネズミを見つめ、祈りました。
部屋にセーニャの声がしずかに響きはじめてから、なにも起こらないまま、しばらくの時が流れました。
マヤの心に不安が満ちてきたころ、銀の小皿にともした小さな炎が、突然おおきくゆらめきはじめました。
炎に釣られるかのように、布に描かれた模様もちかちかと光をはなち、やがてハリネズミはあわい光に包まれました。
かがやきはどんどんと増していき、マヤがたまらず目をとじると、ぽん、という小さな音が耳を打ちました。
音におどろいたマヤとセーニャがゆっくりと目をひらくと、ともしびの消えた小皿にかこまれて、ハリネズミがきょとんとしていました。
「あ、あれ……ダメだった……?」
「まあ……すみません、どこか間違えてしまったのでしょうか……」
「うーん、オレにはなにもわからんが……すまん、確かめてみてもらえるか」
セーニャは本と布の模様をなんどもたしかめ、祈りの言葉を声にだして読みあげると、うーん、と首をかしげました。
「とくに間違いはなかったはずなのですが……もう一度、試してみましょうか」
セーニャはそう言って、小皿に火をともすと、目をとじて両手を組み、祈りの言葉を唱えました。
しばらくのあいだなにも起こりませんでしたが、炎がふたたび大きくゆらめくと、模様がまたちかちかとまたたきはじめ、ハリネズミが光に包まれました。
二人が目をとじると、先ほどより大きな、なにかが破裂するような音が響きました。
セーニャが目をひらいてそっとたしかめると、こんどはハリネズミをかこむ模様が、きれいに消え去ってしまっていました。
「変ですね……私、何度か里に来られた方の呪いを解いてさしあげた事があるのですが、こんなことは初めてですわ。この方法では及ばない、強い呪いということでしょうか……すみません……」
「お姉ちゃんは悪くないよ。でも、どうしようか……」
「他のアテ、オレにはちょっと思いあたらねえな。ううむ……」
二人と一匹は、すっかり肩を落とし、うつむいたままだまりこんでしまいました。
「ひとつ、思いついたことがあるのですが」
すっかりおもたい空気につつまれてしまった部屋で、セーニャが沈黙をやぶってぽつりとつぶやきました。
「呪いとは、魔法の種類のひとつですよね?」
「おれにはわかんないけど、兄貴もおんなじこといってたな、たしか」
「ああ。オレには、どっちも同じようなものに見えたんだ。炎を出すのも、傷を癒すのも、魔法ってことでは同じだろ?」
ハリネズミの言葉に、セーニャはええ、とうなずきました。
「もしかして、ですが……強い魔力をお持ちで、呪いをあやつる方なら、呪いを解く方法にも明るいかもしれませんね?」
「たしかに、ワナや仕掛けだったらそういう理屈になるな。だが、強い魔力と呪い……ああ、そうか」
「ええ。力を貸していただけるかは、おたずねしてみないとわかりませんが」
「呪いをあやつる?兄貴とお姉ちゃん、そんな危なそうなひとと、いっしょに旅をしてたの?」
マヤが心配そうにそう言うと、セーニャはほほえみを浮かべて答えました。
「いえ、ご一緒したわけではないですわ。なんと言いますか、ご縁がありまして。魔女と呼ばれる方です」
「魔女?魔女ってほんとにいたんだ……」
「ああ。しかも、オレたちが住んでるクレイモランで城暮らしをしてんだ」
「えー……クレイモランって、そんなヤバい国だったの?」
不安そうなマヤを横目に、セーニャとハリネズミは目を合わせて笑いました。
「なんて言うんだろうな。悪い魔女だったんだが、いまは良い魔女?になったんだ。」
「ええ。王女さまとお力をあわせて、国を治めるお手伝いをされているんですよ」
「そうなんだ。なんか不安だけど……ほかにアテもないもんな。じゃあ兄貴、クレイモランにもどるか」
「ああ、そうしよう。セーニャ、世話になったな。助かったぜ」
「いいえ、お礼にはまだはやいですわ。私もご一緒します」
セーニャがきっぱりとそう告げると、マヤとハリネズミは困ったように顔を見合わせました。
「い、いや。気持ちはうれしいが、セーニャにそこまでしてもらう義理なんて、オレたちには……」
「そっ、そうだよ。だって、悪いのはおれだし……兄貴といっしょなら、なんとかなるよ」
申し出をそろって断ろうとする兄妹に、セーニャは目を細めて、にこやかに笑いました。
「やはり、ごきょうだい……いえ。カミュさまが人の姿でしたら、簡単だと思いますが、マヤさまおひとりでは、お城に通していただけないのでは?」
「まあ、そうかもしれないが……」
「私が行けばすぐですわ、きっと。ね、お役に立たせてください」
ハリネズミが意見をもとめるようにマヤに目をやると、マヤは渋い表情を浮かべながら、つぶやくように言いました。
「うん。お姉ちゃんの言うとおりだとおもう……でも、ほんとに良いの?」
「もちろんですわ。そうと決まれば、さっそく……そうでした、マヤさま、ここまでの旅でお疲れなのでは?何日か休まれてからにしましょうか?」
「だいじょうぶ。町にもどるなら、くだりの道だから」
「わかりました。もし気が変わりましたら、言ってくださいね。それでは、したくをしてまいります」
セーニャはそう言っておじぎをすると、しずかに扉をしめて、部屋をでていきました。
マヤはセーニャを見送ると、だまったままテーブルの上のハリネズミをとりあげ、ベッドの枕元にそっとおろして、ごろんと横になりました。
すっかりかたむいたお日さまが、山の合間から里を夕焼けにそめるころ、セーニャはじぶんの部屋の扉をかるく叩いて、そっと中へ入りました。
「マヤさま、お食事をお持ちしました……まあ」
ほのかに窓からさしこむ夕焼けが、ベッドで眠りこむマヤを、やさしく浮かび上がらせていました。
セーニャが食事をのせたトレイをテーブルにおいて、ゆっくりとベッドに近づくと、マヤの頭のそばでハリネズミが立ちあがり、見つけてほしそうに両手をふっていました。
セーニャはハリネズミをそっと抱きあげて、音を立てないように自分のベッドに腰をおろしました。
「マヤさま、やはり疲れていらっしゃったのですね」
「ああ。町の外に出たこともねえのに、元気なフリしてここまで歩いてきたんだ。たいしたヤツだよ」
「ええ、本当に」
すなおに妹をねぎらうハリネズミに、セーニャがふふっと笑いかけると、ハリネズミは手のひらの上であわてて顔をそむけました。
「ああ、いや……なあ、本当にいっしょに来てもらっていいのか?セーニャが里をあけると、誰か困るんじゃないか」
「いいえ。私が里にいて、どなたか困ることもないでしょうが……今のところは、私にしかできない仕事もありませんので。私が力持ちの男性でしたら、良かったのですが」
「そうか……はは。オレが人の姿に戻ったら、ここで力仕事でもやって、借りを返すとするか」
「ふふ。きっと、里のみんなも喜びますわ。ですが……どうかお気になさらないでください。カミュさまは、大切な友人ですから」
自分をじっとみつめてそう話すセーニャに、ハリネズミはすっかり困ってしまって、きょろきょろと頭をふって言葉をさがすと、なんとか声をしぼりだしました。
「……ありがとな。じゃあ、迷惑ついでに頼む。マヤのヤツ、ちょっと足が痛そうにしてたんだ。マメでもできてるかもしれない、ちょっと見てやってくれるか。オレが言っても、嫌がるんでな」
「ええ、わかりました。食事はどうしましょうか、このまま眠らせてさしあげたほうが?」
「いや、たぶん腹が減ってると思う。起こしてやってもらえるか?」
「わかりました。それでは」
セーニャはハリネズミをマヤの枕元にそっともどすと、やさしく頭をなでながら、マヤさま、と呼びかけました。
夜のとばりがおりて、里がすっかり静かになったころ、ちいさなランプのともしびが揺れるテーブルについて、マヤとセーニャは旅のしたくを進めていました。
セーニャは旅に出ていたころの荷物を、袋にいれたまま残していましたが、こんどは長い旅に出るわけではないので、いらないものをよりわけて、できるだけ荷物を少なくしているのでした。
「持ち出すものは、こんなところでしょうか。あとは食べ物ですが……すみません、外で食べられそうなものが、えん麦くらいで。マヤさま、食べられますか?」
そう言ってセーニャがすまなそうに皮の袋をさしだすと、マヤはごそごそと中をたしかめて、ししっと笑いました。
「食べられるもなにも、おれたち、こればっかり食わされて育ったから。お、すごい。干した果物が入ってるやつだ」
「甘いやつはなかなか食えなかったよな。おまけにミルクじゃなく、水で戻したのばっかりで」
「まあ、そうでしたか。旅ではほとんど目にしなかったので、外の世界の方は、あまり口にされないものかと思っていましたわ」
セーニャが感心したようにそう言うと、ハリネズミはおおげさに笑って、おどけてみせました。
「旅ではあんまり食わないようにしてたんだよ、これ。一人ならともかく、仲間にこれを食わせたら、気分が下がるだろうと思ってな。セーニャたちも同じだったんだな」
「ふふ。私たち、同じことを考えていたんですね。私にとっては故郷の味ですが……いっしょに食べていただくのは、なんだか気が引けて」
「べつに、きらいじゃないんだけどね。でもおれ、帰りの食べ物のこと、ぜんぜん考えてなかった。お姉ちゃん、ありがとね」
「いいえ、私も安心しました。あとは、着替えですね」
セーニャはじぶんのベッドの側のチェストの引き出しをあけて、一着の衣装をとりだすと、ていねいにひろげて、胸元にあてて見せました。
肩口のふくらんだ白いドレスに、ヘアバンドと同じ緑色の袖のないコートを重ねたようなその服は、セーニャがかつての旅で身につけていたものでした。
「旅の衣装は、これ一着しか持っていないんです。なんだか、懐かしいですね」
「おれ、てっきり白い服で旅に出るのかとおもってた。そっちの服なら、クレイモランでもあんまり目立たないね」
「はい。外の世界で人目を引かないように、仕立てていただいたんです。明日の朝に落ち付いて出発できるよう、いま着替えてしまいましょうか」
セーニャはチェストから取りだしたドレスをベッドにかけると、ラムダの衣装の袖を腕からゆっくりとはずして、ていねいにベッドにならべました。
両腕をうなじにまわし、首元にかかるヒモをほどいて背中をあらわにすると、マヤはあっと声をあげ、ハリネズミをつかんであわてて部屋の外に飛び出し、いそいで扉をしめました。
マヤは大きなため息をついて、指でハリネズミの鼻をぐりぐりと押しながら、眉を釣りあげて怒ったように言いました。
「このくそ兄貴。黙ってみてるんじゃねえよ」
「い、いや……言い出す間がなくてな……」
「ふーん。おれがいなかったら、あのままずっとながめてたってことか」
「お前だって、黙って見てただろ……」
「そのいいわけ、お姉ちゃんの前でもしてみるか?」
「いや、すまん……」
「おれにあやまってもしょうがねえだろ」
マヤの罵倒はとぎれることなくいつまでもつづきましたが、やがて扉がひらき、セーニャがすこし照れたような表情で、マヤを部屋に招きいれました。
「すみません、お見苦しいものを目にかけてしまって……」
「お姉ちゃんがあやまることないよ。ほら、くそ兄貴、あやまれよ」
「悪かった、セーニャ。許してくれ」
「いえ、もう良いんです。それより、この服を確かめてもらえませんか?だいぶ傷んでいるので……変なところはありませんか?」
セーニャにうながされて、マヤが衣装をよくたしかめると、ランプのたよりない明かりの元でも継ぎのあとが目立ち、すそもあちこち擦り切れてしまっているようでした。
「うーん……穴とかやぶれてるとこはないかな。でも、けっこうボロボロだね」
「ええ。傷みにはそれぞれ旅の思い出が詰まっているので、直さずにそのままにしていたんですよ。もう、袖を通す事はないと思っていましたので」
「そっか。でもさ、おれのマントがわりのボロ毛布よりは、よっぽどいいと思うよ」
マヤがそう言ってししっと笑うと、セーニャも安心したように表情をゆるめました。
「でしたら、大丈夫ですね。では、そろそろ休みましょうか」
セーニャの寝息だけがかすかに聞こえる、闇につつまれたしずかな部屋のなか、ハリネズミはなにかに触れられる感覚で目をさましました。
あたりを見まわすと、暗闇のなかで背中をなでるマヤと目があいました。
「どうした、眠れないのか?」
「なんか、不安でさ……おれ、なんにもできないね」
「そんなことないだろ。ここまで連れてきてくれたじゃないか」
「そういうことじゃなくてさ」
マヤは指でハリネズミをなでながら、ひとりごとのように続けました。
「兄貴が動いてしゃべれるから、兄貴にたよって、お姉ちゃんにたよって。でもさ、もし、おれの時みたいに金の塊にでもなってたら……おれ、ただ泣いてただけかもね」
「マヤ……」
「兄貴も、おれが動けないあいだ、こんなふうに不安だったのか?」
マヤはそうつぶやいて、だまりこんでしまいました。
ハリネズミはながいあいだ考え込んだあと、ははっと笑いました。
「マヤ、起きてるか?」
「うん」
「お前のくそ兄貴はもっとヒドいぞ。オレはな、諦めてお前を死んだことにしちまった。諦めて、死んだお前に報いるにはどうしたらいいかなんて、そんなことを考えてたんだ。ヒドい兄貴だろ」
「最悪だな」
マヤはくすくすと笑いました。
「だから、オレがマヤに求められることなんか、何もねえんだ。マヤが元気でいるなら、オレのことなんか、どうだっていい。ずっとハリネズミのままだろうが」
「やっぱり、くそ兄貴だな……」
マヤは寝返りをうって、ハリネズミに背をむけました。
「そうじゃないだろ……」
マヤはそう言ったきりだまりこみ、やがてすうすうと寝息をたてはじめました。