前回のお話より、一、二年未来のお話。
「ねえ、吹雪。今日がなんの日か、知ってるかい?」
執務の合間、ふと司令官はそんなことを言いました。
秋晴れの空。執務室に差す昼前の光線。その中でこちらを見つめる司令官を、わたしは振り返ります。書き終わった書類に判を押しながら、司令官はいつも通りに、微笑んでいました。
「今日ですか?」
「そう、今日。十一月十五日」
言われて、わたしは頭の中の予定帳をめくります。秘書艦として、司令官の業務を補佐するようになって、半年ほど。艦隊の予定は、大抵、頭の中に入っています。
ですが、今日はこれといって、特筆することはなかったはずです。午後に本の納入があるくらいでしょうか。
それとも何か、会議とか、わたしが見落としていることがあるのでしょうか。
「いえ……今日は特に、何もないはずですけど……」
「そっかぁ」
わたしの返答に、司令官は意味ありげな相槌を寄越します。
「何かありましたか?」
「ああ、うん、少しね。――ところで吹雪」
今度こそ、ペンを走らせる手を止めて、司令官はわたしを見ました。何か大事な話があると見て、わたしも書類整理の手を止めます。ニコニコと微笑んだ司令官は、ゆっくり口を開きました。
「今夜なんだけど。少し付き合ってもらってもいいかな」
「?はい、いいですけど……時間外業務ですか?」
秋刀魚漁支援と大規模攻勢前の準備で、書類の量はいつもの一・五倍くらいになっています。夜、わたしが業務を上がった時も、執務室に電気が灯っていることもあります。決まって、司令官が中で書類仕事をしていました。
今日もそうした類でしょうか。
「ああ、うん、そうじゃなくてね。たまには、一緒に外出しないかな?」
司令官の微笑は、少し照れたような、はにかみにかわります。
「いいレストランをね、予約したんだ。二人で」
それが……デートのお誘いなんだと、ようやくわかりました。
最近、少しずつ、わかってきたことではありますけど。飄々としているように見えて、司令官は存外に照れ屋です。あまり自分の感情を、表に出したがらない性格。だから、こうして、時たま見せる本音は、いつもはにかみと共にあります。
さっきの質問は、もしかして、わたしの予定を確認していたんでしょうか。
「そう、ですね」
司令官が、急にわたしを誘った理由は、わかりません。それに、外出で、いいレストラン、なんて。
心躍るのも、無理からぬこと、というものです。
「……いいお洋服、出しますね。司令官も、ばっちり決めてきてくださいよ」
作業に戻りながら、返事をします。「うん、わかった」という返事に、自然と、わたしの頬が綻びました。
「いい場所、ですね」
大きな窓から見える海を眺めて、わたしは率直な感想を口にします。
鎮守府からほど近い、海に浮かぶイタリアンのレストラン。運ばれてきたピッツァを取り分けつつ、わたしはずっと、窓の景色に心奪われていました。緑と赤、船の航海灯が、夜の海に行き交っているのです。
「気に入ってくれたようで、何よりだよ」
わたしを見つめる司令官は、嬉しそうににこにことしています。
ここのレストランのことは、実は少し前から、気になっていました。何しろ、海に浮かぶレストランです。出撃する際に近くを航行することもあって、わたしの鎮守府で知らない艦娘はいません。
時折、香ばしいお料理の匂いが漂ってきたり、レストランの方が手を振ってくれたり。そんなこともありました。
「いつか来たいなって、思ってたんです」
わたしはそう言って、もう一切れ、ピッツァに手を付けます。焼き立ての生地を引き寄せると、まるで漫画で見たみたいに、チーズが伸びました。司令官と揃って、小さく笑います。
「すごく伸びますね」
「焼き立てだからね。どこまでも伸びるよ」
ピッツァを口に運びます。途端、香ばしい小麦とトマトの香りに、濃厚なチーズの香りが合わさって、鼻腔をくすぐります。何枚食べても、この香りだけで、胃袋が刺激されてなりません。我慢できずにかじると、やはり同じようにチーズが伸びて、慌ててからめ取りました。
「んー、おいしい」
「ああ、うん、本当に、おいしい」
そういう司令官は、ピッツァを食べるわたしを眺めて、笑っているだけです。
きれいに半分ずつを平らげて、パスタがやって来るのを待ちます。ふと、司令官はわたしの服に目を遣りました。
「そのワンピース、お気に入りなんだね。似合ってるよ」
わたしが今日着ているのは、前に司令官に買ってもらった、お洒落なワンピースです。それから、髪にもアイロンを少し。海軍の正装で決めている司令官と、釣り合うようにと、短い時間ながら頑張ってお洒落をしたつもりです。
それを褒めてもらえるのは、悪い気はしません。なんと言っても、司令官に見てもらいたくて、わたしはこの服を着てるんですから。
「はい。わたしの一番大切なもの、です」
とても恥ずかしいことを口にしている気がします。でも、頬を染めて笑う司令官の表情を見ると、言葉にしてよかったなと、思うのです。
「それで、司令官」
運ばれてきたカルボナーラを巻き取りながら、わたしは疑問に思っていたことを、司令官に尋ねます。
「今日はどうして、急に外出なんて、言い出したんですか?」
金曜日とはいえ平日。いつも休日にデートのお誘いをしてくる司令官にしては、珍しいです。
「ほんとにわからない?」
「……はい」
ごまかしても仕方がないので、素直に答えます。午前中の司令官の言葉から考えれば、何か理由があって、今日、わたしを誘ってくれていると思うのですが……。
わたしには、とんと、見当がつきません。さっきネットで調べたら、きものの日とか、昆布の日とか、そんな記念日は出てきましたけど。何か重大なことは、無いようでした。
「吹雪。今日は――君の、進水日じゃないか」
「――あっ」
言われて、初めて思い出しました。そう、そうです。今日、十一月十五日という日は、〔吹雪〕という駆逐艦が、進水した日です。軍艦としてのわたしが、初めてその身を海に浮かべた日です。
でも。それはそれで、また新しい疑問が。
「でも、あの……それで、なぜレストランに?」
「進水日って、誕生日みたいなものでしょう?だったら、お祝いしないとね」
司令官の言葉に、うまく合点がいかず、わたしはさらに首を傾げてしまいます。
それは、船の進水というのは、必ずお祝いするものなのでしょうけど。でもそれは、あくまで進水したことをお祝いするのであって、進水日自体には何も意味がないはず。
「意味はあるよ」
わたしの考えを読んだように、司令官がぽそりと、それでいてはっきりと、そう言います。
「私はね、吹雪。君に会えたことが、この上なく嬉しいよ」
はたと、わたしはパスタを巻く手を止めます。司令官はいつものように笑って――でもいつもよりさらに、慈しむような目で、私を見ています。
「艦娘が生まれたことに、意味はある。君たちが少女だったことに、理由はあるよ。だったら、一年に一度くらい、君たちが生まれてきたことを祝福する日が、あってもいいじゃないか。――ううん、絶対に、あるべきだよ」
……生まれてきたことを、祝福する日。
そんな日が、あってもいいのですか。それはわたしが、今まで知ろうともしなかったことです。
「産まれてくれたことに、感謝するよ。これからの道行きを、祝福するよ。幸多からんことを、願っているよ。――だから今日は、君の、記念日だ」
司令官はそう言って、それまでよりさらに、笑みを深めます。
わたしの記念日。司令官の言葉を噛み締めます。いつものように、胸に手を当て、一言一言を噛み砕くように。言の葉をゆっくりと咀嚼するように。
「わたしの、記念日」
「そうそう。だから、ね。今日は、吹雪、君はゲストだよ。だからたくさん、わたしから祝われること」
口元を目一杯に引き伸ばして、最高の笑顔を見せた司令官は、そのまま巻き取ったペスカトーレを口にします。そうして、
「吹雪、こっちもおいしいよ」
と、お皿を差し出してきました。
一口分をフォークへ巻き付けて、口へ運びます。卵とチーズが濃厚だったカルボナーラ。それとは一味違う、爽やかなトマトの香り。微かに混じる潮の香り。それらを一緒に、楽しみます。
幸せの味が、した気がしました。今まで食べたものとは、全く違う。わたしへの、祝福の味。
ふと目を向けた厨房で、一人のシェフと目が合います。こちらの視線に気づいたのか、華麗にウィンクを決めるシェフ。それから、親指をぐっと、こちらへ突き出します。
「――おいしいです。とってもおいしいです、司令官」
そう答えてから、わたしは入れ替わりに、自分のお皿を差し出します。半分ほどを食べたカルボナーラ。卵とチーズの絡んだスパゲッティに、グアンチャーレが彩を添えています。
「こっちもおいしいですよ」
「そう?じゃあ、いただきます」
今度は逆に、司令官が、わたしのカルボナーラへ手を伸ばします。
祝福の味。幸福の味。それがここにあるのなら。
祝福されたわたしから、ほんの少し、ささやかですけど、
「――ん、ほんとだ、すごくおいしい」
幸せのお裾分けです。
吹雪ちゃんにはおいしいご飯たくさん食べて欲しいんだ……
手作りもいいけど、外食もね。特別感あっていいですよね