——朝の目覚めは最悪の部類だった。
泡立つ肌に、身の毛のよだつ悪夢の残滓が見て取れる。爽快な朝7時の景色には、全く不釣り合いな少女の仏頂面がそこにあった。
じっとりと寝汗で張り付くシーツが気色悪い。汗をかくことなど、誰かに勧められて時々走っているときを除いてはそうあることではなかった。
単なる生理現象だ。
本来は生命維持活動の一部たる、由緒正しき身体機能。
時折私は思うのである——こんな方法よりも、もっと効率の良い放熱方法があったのではないか。
進化の中で獲得した能力が、くだらない原始的な水冷法であると知っていれば、ホモ・サピエンスとてもう少し遺伝子に細工をしたに違いない。
まして、と少女は白い肌にべたつく汗を、脱いだまま放り投げたシャツで拭って肩を竦める。
「ああ、嫌だわ」
高貴な自分がなんと無作法な、という感覚はとうに捨てていた。大体、高貴でも何でもない。戦うものに必要なのは武力であって、権力ではない。
砲火の中に生来の気品だのなんだのは無力なのだ。
嫌なのは、顔をぬぐったその布が少し臭ったことだった。
何日洗濯をせずに放っておいたのだったか。見れば、ベッドサイドに着古しの軍服やへたれたプリーツスカートが山をなしていた。誰かが処理しない限り、朽ちるまでその山は鎮座し続けることだろう。
誰がやる。自分しかいない。
ため息。みしりと音を立てるベッドに別れを告げて、衣服を手ごろな籠に詰め込む。洗濯機はまだ壊れていなかったはずだ。先月、食器洗い機が壊れたのでそろそろ寿命かもしれないが。
部屋の外は、やはり変わりなかった。
軍部の廊下として平均的な装飾のある、見慣れた風景だった。いつも通りに窓が割れていて、いつも通り端の方に埃が積もっている。
掃除は誰がやっていただろうか。ロイヤルのメイドどもだったろうか。それとも当番制。どちらにせよ、誰もいないのだから自分がやるほかはない。
据えたカビの匂いの中に懐かしさを感じているあたり、腐れてきているのはそもそも自分の方なのだろう。
何せ、このカビが来ているということはそろそろ夏も終わりか、などと考えているのだ。黴博士になったつもりはなかった。ここ数年の生活のなせる業であった。
少女の眉間に皺が寄る。可憐といっても差し支えのない容貌であったが、険のある表情が染み付いているようだ。
朝の挨拶がなくなって何年になっただろう。最初の方は何も問題ないと思っていたが、こうしてみると物寂しいものだ。誰もいない、故に答えるものは居ない。当然のことだが、無聊を慰めるものすらないのでは救いがない。
植物でも育ててみようかしら。
柄にもないことを思い始め、そう時間のかからないうちに使い古された洗い場に辿り着き、その有様を目にした瞬間即刻その考えを破棄することに決めていた。
「竹? ササ? どちらでもいいけどね……」
何故か大きく傾いた洗濯機に、その下ですくすくと育ったらしい筍が顔を出していた。竹の成長速度は凄まじい。筍など、一週間も見ていないのなら容易にこのような事態を引き起こす。
問題は、経年劣化により極限まで耐久性の下がった電源ケーブルが、これによってどうやら断線してしまっていることだった。
何度も電源ボタンを押し込んだが、反応はない。
差込口を適当に拭ってプラグを差し直したが、それでも反応はない。
部屋の電灯は点くのでブレーカーは生きている。即ち、この憎たらしいイネ科植物が自分の決意を打ち砕いてくれたということを意味する。
まさか手で洗うというのか。
「この量を? まさか……いや、そんなのって」
洗濯機を使うことすら避けていたのだ。況や、手洗いなど選択肢としてすら有り得るだろうか?
誰がやるものか。
便利な侍従は一人もいないが、それでも都合よく何らかの要素でこの問題は解決されることだろう。例えば、明日になれば気分がとてもよくなって、鼻歌交じりに掃除と洗濯と料理とベッドメイクと日々のあれこれをやりたくなるといった、うまい話だってあるかもしれないのだ。
諦めてはならない。人は可能性にあふれたものだ。明日の自分に期待をしておけば、めぐりめぐって今の自分への信頼と自信につながる。
ひょいと一枚のシャツをつまみ上げ、少女は首を振った。やる気など出るはずがない。
よくよく心が折れてしまって、籠ごと放り投げてしまった。
やってしまったことばかりだが、衣装棚に下着一つ仕舞うことすらままならないこの身の上だ。こんな下らない駄洒落に勝手に面白くなっている酷さだ。
今更洗濯物がなんだというのだ。気になった時にでもやればいい。
今日と明日がだめだとしたら、一月後の自分に期待するのだ。
妹が見れば何と言うか? 妹はいないので問題ない。
以上Q.E.D——少女は特徴的なメッシュの前髪を描き上げて、楽しそうにつま先を食堂に向けた。
責任放棄の快感は将来への不安に勝るものだ。
その先に待つのがさらなる不幸だとして、見なければ無いものと同じ。痛い傷には絆創膏、臭いものにはふたをして、洗濯物は洗わない。
見目麗しい少女だから許される行いだが、客観的には駄目人間のやることだった。
さて、そのような娘だが、果たして厨房に立って何ができるというのか。
これが意外にも、包丁さばきは滑らかで、火加減にはよく気を配っていた。
「肉がないわねぇ……買い出しに行かないといけないのかしら? うん」
何しろ、骨身にしみた出不精だ。なんとなく使い始めた通販でもよいが、新鮮な方が肉は美味い。
野菜などは付け合わせなので、通販でも冷凍でもレトルトでも、何なら乾燥わかめでも文句はないが肉は駄目だ。
以前冷凍の鶏肉を買ってみたが、量はともかく冷えてぼそぼそになった出来損ないのスポンジのような食感は忘れがたいし忘れたい。
なので、肉は肉屋で直接買うべきなのだ。特に、朝からステーキを食べたくなる季節には。
要約すれば肉が食べたい娘だった。
肉の筋斬りだけには慣れていて、かつ火の通し方に好みがあるので火加減には慎重になっているのだった。
しかし、それ故肉を焼くという行為だけは失敗しない。
「ああ、やっぱり肉はレアね。レアに限るわ」
最初の頃は格好をつけて火を全く通さず腹を壊していたが、彼女が思い出すことはないだろう。
行儀よくナイフを扱い、きれいに皿を平らげながら、少女はまたも一人で愚痴をこぼした。
「本当に美味しいのに、何でしょうねえ。この虚しさ」
よい材質の机に、落ち着いたデザインの椅子。古びているとはいえ、クッションは死んでいないものだ。
食器は廉価品の詰まらないものだが、料理は良い。
何より、景色が素晴らしかった。中庭まで全く遮るものもなく見渡せる最高のシチュエーション。窓は半分以上割れて吹き飛び、壁は爆撃でも受けたかのように崩れてごみと化している。
よく分からない部品群は彼女が、それでも多少はやる気を出して片付けた跡であった。
娘の名はドイッチュラント。
とっくの昔に敗れて落ちた海軍施設に残る、唯一の艦船だった。