古巣に戻る──帰る、という表現がある。
元々いた場所に戻ってくる、或いは、立ち位置そのものを示してそこに帰還することを示す言葉だ。
しかし思うに、自らの意志を以てして元居た場所とやらに戻る者はどれだけいるというのだろう。何か、自己以外の要素によって引き起こされる現象ではないだろうか。配属替えにしても、単に場所を表しての転居であったとしても、本当に元の居場所に戻ろうとする動きは自分の意志によるものではない。転居する必要があって、配属替えや転職といった要因から、「古巣に帰る」のである。
つまり現状誰一人としてこの基地に戻ってこないことは、過去所属していた人員の意志によるものではないということだ。
自分のせいだとすれば、という考えはとうに棄てていた。
放棄されたからといって特段敵に占拠されたということもなく、かといって味方陣営が援軍を寄こしてくれるわけでもない。
どうしろというのだ。
ひとまず壁の修復をしようとは思ったがそんな技術など明石でもなしに持ち合わせていない。資料室の本からやっとのことで修繕方法を探し出しても、レンガの
買い出しに行ってみたが、基地までの配送を頼もうとしたら断られた。なお、ホームセンターは徒歩で半時間はかかる。肉ならば氷を含めても大したものではないが、重い荷物を背負って帰るには無理のある距離だった。
そういったわけで、ネット通販に頼ってみてもよかったのだが、こういった作業は出鼻をくじかれると途端にやる気がうせてしまうというものだ。
地元の人間たちにとって、頼れる軍属ではなく廃墟に居座る妙な娘になってしまっていたということを自覚してしまった。
恨むまい。
所詮、敗軍などそんなものだ。勝っても負けてもお優しい人々から文句を言われる時代だ。のどかな田舎の離れ小島にやってきたやくざな連中など、元より歓迎したくなかったのだろう。
各種ライフラインを止められていないだけ感謝すべきなのだ。
少女はどうにか動くようにした洗濯機の上で、胡坐をかいてため息をついた。手に収められた文庫本は、ページに指を挟んではいるものの中々開かれる気配がない。
洗濯機の横に置いたアルミラックには、洗濯用品の代わりに食事らしきピーナッツバター・サンドとコーラが置かれていた。
動くようにしたといっても、配線をいじったわけではなかった。強引に竹を地下茎ごと引きちぎって、適当に置き場を変えて斜め45度のチョップを入れてから、コンセントを修復しただけだった。はんだごてなどは扱えないが、ドライバーで分解して似たような格好につなぎ直すだけならばどうにかなったらしい。
ただ、直ったとはいえ何か内部で妙な具合に壊れていたようで、右に左に跳ね回るので自ら重石代わりに乗っかっているのだった。
元から壊れていたのか、豪快な彼女のチョップによって壊れてしまったのか。
今となっては考えるだけ詮無き事である。
がったんごっとんと跳ね回るので、字を追っていると酔ってしまいそうだった。
船のくせに酔うとは、と思わないではないが、丘酔いしていると思わえば実に船乗りらしい。船乗りというか、艦船なのだが。
「あー、本当に酔ってきたじゃない」
こういう時にはコーラを飲めば直ると聞いたことがある。
どこかの国では酔い止めや簡単な悪寒にはコーラを応急処置的に飲ませるらしい。誰に聞いた雑学なのかも覚えていないが、
効くかどうかはともかくとして、よく冷えたコーラで気分が悪くなることなどあるまい。
蓋をひねった。
嫌な音がした。
何かしようとする前に噴き出す中身。甘い香りを放ちながら噴水のごとく溢れる黒い炭酸水。咄嗟に本を放り投げたまでは良かったものの、だらだらと流れ落ちる液体が胡坐をかいた足の隙間からこぼれていく様は正に無常。
見れば、氾濫──反乱を起こしたコーラは洗濯機の中にまで流れ込んでいた。
素晴らしい。芳香剤を入れ忘れた自分に対する神の配慮というものだ。多少べたつくぐらい気にしなければ──いや、最初に本ではなくボトルを投げていればよかったのでは?
「ああ、ああ……なんてこと。何なの、これは。わたしがやることなすこと駄目にしたいの? 頑張ったのよ、これでも」
肩を落とす少女を慰めるものはどこにもいなかった。
ついでにコーラを乱暴に扱っていたのは彼女自身であって、仮に洗濯機の修理に半日を浪費していたにしても、ある種の自業自得なのである。
しかし哀れなことは、遂に着る服がなくなってしまったので重い腰を上げて作業を行ったというのに、ある種一張羅ともいえるしょぼくれたスウェットが甘ったるい液体をよく吸い取ってしまったことだった。
元々スウェット・パンツという衣服は、その名の通り吸汗性に優れた構造だ。防寒性にも優れ、その特性から一般的に寝巻に用いられることもある。
その特性が仇となった。拭くまでもなく水気を吸い込んだ布地は、最早不快以外の何物でもない。
嘆息を一度、頭を抱えて首を振り、もう一度大きく息を吐きだして、少女は潔くズボンを脱ぎ棄てて洗濯槽にぶち込んだ。
季節からすれば、風邪をひくことはあるまい。
見た目はもう、取り返しのつかないくらいに様々なものをかなぐり捨てているが、気色の悪い感触に比べればまだマシだ。
大体、他に誰が見ているわけでもないのだ。ファッションなどというものは、結局観衆がいることで意味を持つものであるからして、自分としても全く気に入らないが気にしないことにする。
人が来ない、人と会う予定もない。人が来る予定がなければ、服なんてどうだっていい。
むしろ下着一丁の何が悪いというのだ。
根本的な発想がいけない。
服というのは機能が第一である。防寒上の問題がないのであれば、次に問題とすべきは単純な防護性だ。そこは艦船である自分には不要であるので、とすれば礼儀作法の範囲になるが、礼を示す相手がいないのだから思慮の外に置いてもよい。
とすると、洗剤を無駄に使用することなく、最小限の水資源で再利用が可能で、干すのも楽な下着というのは正解といえるのではないだろうか。
言い訳でもしなければやっていけないのだ。
酷い格好で、そういう気分だった。
「もういいわ……勝手に揺れてなさい、もう」
別れのあいさつに洗濯機を一度どついておいて、散歩にでも出ることにした。
サンドイッチをつまみながら辺りを見回してみる。何の変哲もない、廃墟だった。
いいところで修理をしていかなくてはいけないのだが、これまで冬も越せているのでいざやろうという気がなかなか起きない。
前述の理由もあって、材料を仕入れるだけで一苦労なのだ。
「意外とイケるわね、これ。ユニオンの連中がよく作っていたけれど、確かに悪くないじゃない」
作るのも楽だ。
久々に外に出てみると、こういう食事を作って歩き回るのも悪くはないかもしれないと思えてくる。
実際には、やる直前に面倒になってしまうのだろうけども。
燦燦と太陽が照らす崩れた建造物は、不思議と悪くなかった。
その建物の端から見える水平線は、忌々しいが。
船のくせに海が嫌いというのは笑えない。しかし、あれこれとあって一人ぼっちで暮らしている今となっては、海の上を行くのは好きなのに海が嫌いという変な具合になってしまっていた。
海岸もまた、少女にとっては代り映えのしない風景だった。
コンクリートで舗装された港には、小舟が浮かんでいるだけで軍艦の一隻も繋がれていない。フジツボが好き勝手に張り付いて、乾燥して風に飛ばされる海藻の残骸が、人っ子一人寄り付かないこの港の現状を露わにしていた。
そんな桟橋に、下着姿の女が自棄に堂々とした姿で仁王立ちしている。夜の砂浜であれば熱の入った男女が遊んだ後と考えられるかもしれないが、無論のこと現在は日中真っ只中である。
傍目には正気の沙汰ではない光景だった。
「来たはいいけれども、特にやることもないわねえ。今度釣りでもしてみよう、ん?」
視界の端、というよりも堤防の陰にちらりと何かが見えた気がした。
どうでもいいのだが、面倒事もごめんなのだが、明らかに海藻や魚ではなかった。
確かめておかないと、いざという時に困るのだ。夜中に砲撃の音でたたき起こされるのは何より嫌なことだった。
赤い何かだ。血ではない。
プリーツスカートの裾だった。海水に浮かんでいるのは、どこかで見たようなスカートに、その持ち主である少女。
「な、嘘でしょう!? ちょっと、何で!」
体格は自分とそう変わらない。傷ついてはいるが、装備の様式からするにロイヤルの艦船だろうか。
見れば見る程見事なまでのドザエモン。生きている可能性は低い。何と言っても顔面から突っ伏す形で浮かんでいる。
ゆらゆらと水に浮かんだ薄紫の髪は、深海にでも住むクラゲの一種に似ていて若干不謹慎な笑いが出そうになる。
そんなことを考えている暇では──間違いなく──ない。
「ああもう! 何で、よりにもよって、ここに打ち上げられるのよ! 手、届かないし!」
ぼやきながらも小舟に乗り込む辺り、真っ当に助けるつもりはあるようだ。
砂浜に打ち上げられなさいよ、と意識のない相手に悪態をついてはいるが。
乱暴にオールを操り、何度もボートから落ちそうになりながらも、死体かもしれない要救助者を船上に引き上げた。
今の暮らしが気に入らないにしても、不満があるにしても、文句が多いわりにお人好しな行動である。
「重い! 全く、わたしと大して違わない癖に! 呼吸は……一応あるのね。波でひっくり返ったのかしら?」
顔は見覚えがあるような、無いような、微妙なラインだった。色白の肌などそこまで同類の中では珍しくもない。髪の毛も、珍しいといえばそうだが思い当たるものはなかった。
まだこの基地がまともに動いていた時期でも碌に顔を合わせたことがないか、所属すらしていなかった艦船だろう。
そのことが分かったので、僅かに胸をなでおろした。
かつての同僚だったら、どうしようかと思っていた。
だから、少し安心した自分に腹が立った。
医務室のベッドはとっくに黴にやられていた。運ぶ先としては自室しかないだろうが、このままベッドに放り込めば自分の寝床が酷い有様になってしまう。
ドイッチュラントは少女を背負って、再び洗濯機のある場所にやってきた。
幸い機械は彼女が上に乗っていなくとも、行儀よくその場に居た。そう、全く動作音もなく。
つまり、エラーで停止していた。やっとのことで画面表示を確認すると、デジタル文字でよく分からない記号が点滅している。
こういった文字列は、大抵蓋の裏や説明書などにメッセージ表が記載されているものだが、今の彼女にそんなものを読み込む余裕はない。
「は、あれ? 止まって……もういいわ」
腹立ちまぎれにローキックを入れておいて、背中の小娘の服を引っぺがす作業に移る。
息をしているのはいいとして、風邪でもひかれると困る。
薬も碌にないので最悪近場の集落まで運んでやる必要があった。
意外と小さい。これは優越感に浸れる──どうでもいい。
どこかに引っかかって服が嫌な音を立てた気もするが、コンセントを差し直して洗濯機に放り込む。最初に入れておいた服の山を、若干減らしておくことも忘れなかった。
もう一度小娘を背負い直し、ベッドに放り込んでやるつもりで寝かせてやると、なんとなく呼吸が落ち着いたように見えた。
命に別状はない。おそらく。医師ではないし、整備もできないので断言はできないが。
ようやっと息をついて、ベッド脇のソファで服を脱がすついでに回収してきた文庫本を開く。
どこまで読んでいたのか忘れてしまったので、最初から読み直すことにした。
何時間経っただろうか。
ドイッチュラントが文庫本一冊を読み終えたころ、布団の中から微かなうめき声が上がった。
「あら、お目覚め?」
「ここは──?」
少女は赤い瞳を眩しげに細め、天井を見上げている。
質問に質問で返すとは礼儀のなっていない小娘だが、寛大な心で許すことにした。
「ここはわたしの部屋。この施設はとっくの昔に放棄された基地よ」
「そう、ですか……私はどうして?」
「流れ着いていたのよ。よかったわねえ、わたしが見つけていなかったら死んでいたよ」
娘は身を起そうとして、自分の服がすっかり剥ぎ取られていることに気付いて慌てて布団を引き寄せた。
着替えがなかったのだ。
仕方がないのだ。
自分ですら下着姿なのだから、我慢してほしい。
「私はエイジャックスと申しますわ。それであなたは────痴女?」
──妙なことをいう娘だ。
成程。確かに、だ。
客観的に見て、目を覚ませば全裸に剥かれており、見守っていたやつが下着姿なのだ。
仕方がない。
そう、これも仕方がないことだ。
一秒と待たずドイッチュラントの額に欠陥が浮き上がった。
当然、次の瞬間にはドザエモン対ヒキコモリの取っ組み合いが始まっていた。