そして、開幕の鐘は鳴らされた。
その目覚めは誰のものか。問う声は知らず、答えることもできず、されど一つだけ。
まず間違いなく、自分のものではないだろう。
開幕の鐘とは何か。何を以って開幕とするのか、それを知ることのない己のものでは。
目覚めはいつも唐突だった。
夢を見た感触なんて、もう覚えていない。
気がつけば通学路を歩いている。
頭痛は一歩進むごとに強くなっていき、その日、ついに警鐘へと変化したそれは、日常生活にすら支障をきたす、脳を犯す響きとなった。
あまりにも強い痺れは、平時より二分だけ早く
朝の通学路を歩く。
午前七時半、雲ひとつない晴天、けれどそこにあるべき記号はなく。
今日は何月? 何日? 一体春夏秋冬どの季節?
考えようとすると『お前は眠っていろ』と甘く囁く声が脳裏に響き、目眩がその思考を奪い去る。
気が抜けたなら最後、自分の中からその疑問は永久に消え、自分のこの平穏が永遠に続いていくと信じているような──。
……?
まるで、自分が過ごしている平穏は永遠には続かないような、そんな思考に、思わず自分の正気を疑ってしまう。
自分の日常は永遠に続いていく。
通学路を急ぎ足で歩くクラスメートたち。
進むにつれておしゃべりの声で賑わってくる通学路。
いつも通りの登校風景。
壊れることなんてあり得るはずもない、何一つとして変化はない平穏。
深く考えれば目眩で視界が真っ白になりかける、そんな光景。
今日は/今日も
校門の前は混み合っている。
登校してきた生徒たちが呼び止められているらしい。
何が起こっているのかを考えようとして、もう一度目眩が発生する。
刷り込まれるようにして、今の状況が何かを理解した。
校門の前に立っているのは黒い学生服の一人の生徒。
生徒会長である/と記憶している
自分の友人/という
そして、この初体験はすでにわかっている。
この検査が抜き打ちのものであるということではない。
この展開を、自分はすでに知っている。
一成は自分の視線に気がつくと、人波をかき分けてこちらにやってくる。
「おはよう! 今朝も気持ちのいい朝で大変結構!」
こちらに対して一切口を挟む暇を与えない。
「ん? どうした、そんなに驚いた顔をして」
彼は初めて開示する情報のように、そんな丁寧なチュートリアルを口にする。
こちらは、そんな情報を求めていないというのに。
「先週の朝礼で発表しただろう、今日から学内風紀強化月間に入ると」
知っていた。
知っている。
その情報は、この展開は、頭痛がするほどに、目眩がするほどに、幾度となく知らされた。
もう、この現実がおかしいことなど疑う必要がない。
目眩が、一日の始まりまで自分を
その濁流を、意識を噛み殺すことで耐えた。
そして、その瞬間。
──
何かの単語が、頭の中を駆け抜けた。
ああ、そうだ。自分は魔術師だった。
それを、なぜかすんなりと受け入れることができた。
魔術師とは何か、わかってはいない。
それでも、その単語を思い出してしまえばもう止まってはいられない。
友人/としての役割を与えられている一成を押しのけて先に進む。
「うむ、実に素晴らしい。どこから見ても文句のつけようのない、完璧な月海原学園の生徒の姿だ!」
誰もいない虚空に向かって高らかに独り言を続ける彼の姿に、誰一人として違和感を覚えない。
頭痛がする。
悪寒をのむ。
確信がある。
ここは決して、自分がいていいはずの場所ではない。
早く
そんな焦燥に駆られて、走り出す。
行かなければならない場所はわかっている。
けれど、ああ──
この目覚めには──いったい、どんな意味が──
気がつくための要素はこの学園生活の中に散りばめられていた。
《どこにも記載がない日付》《人が消える廊下》《人が消えているのに何事もなく続いていく学園生活》
目を背けるな。
ここは現実ではない。
自分たちの現実は、その廊下の先にきっとある。
人が消える廊下で真実に目を凝らせば、何の変哲も無いコンクリートの壁に扉ができていた。
迷うことなく扉の先へと向かう。
そこにはもうあの偽りの学園生活の世界観は残っていない。
異界の入り口とでも表現するべき場所にあったのは、つるりとした肌の
こちらに付き従うそれは何かを語ることはなく、何かを理解させることもない。
『ようこそ、新たなマスター候補よ』
その声は、どこからともなく響いた。
『それは、この先で君の剣となり、盾となる人形だ。命ずれば、その通り動くだろう』
その声は、こちらの脳裏にすっと入ってくる。
違和感すら抱けない。当然のものとして。
『さあ、進みたまえ。君の求める真実は、この先にある』
そして、何をすればいいのかだけは
この先にきっと、違和感に対する手がかりがあるのだろう。
都合四度、チュートリアルのような思考ルーチンを組まれたプログラムを人形で撃破した。
その果てにたどり着いた最奥、ここがゴールなのだと直感で理解した。
息苦しさすら感じる荘厳な空間。
失われて久しい、神が宿る場所。
そんな空間の端に、一つの
倒れ伏した生徒の姿は、一度たりとて見たことがない。
だが、土気色の顔と冷え切った肉体、そしてそばで崩れ落ちている
ここはゴールであり、同時に選別の場でもあるのだと。
カタカタと音を立てて、崩れ落ちている人形が立ち上がる。
まず間違いなく友好的な存在ではない。
四度の戦いは、これが
人形に指示を出す/人形が体を大きく振る
二つの人形が、死体と自分の間で激突した。
そして、一瞬で理解する。
この戦いに勝ち目などないということを。
こちらの考えを全て理解しているかのような相手の人形の動きは、自分では乗り越えることができない。
──このまま、終わるのか?
一瞬、頭の中を弱い思考が巡った。
その思考に自らが気がつくよりも先に、この口は言葉を紡ぎ始めていた。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。降り立つ風には壁を」
言葉の意味なんて、自分にわかるはずもない。
けれど、その言葉は止まることはなかった。
「四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
こちらの動作の起こりすら叩き潰される。
「
魔術師ならば足りないものは他所から持ってくる。
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
この詠唱、その意味を自分でも理解していないのに、やらなければならないとだけ理解している。
「告げる」
だからこそこれは、自分の魂に根付いた、この状況を打開するにふさわしい何かなのだと理解した。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
体内で
久方ぶりの使用に体がついてこない。
それでも、言葉は止まらない。
「誓いを此処に。我は常世総ての善となる者。我は常世総ての悪を敷く者」
こちらの人形が破壊される。
むしろよく保ったものだと感心すらできるような結果だった。
そして、あの人形が次に狙うのはこの場にいるただ一人の生者たる自分。
けれど、もう遅い。こちらの詠唱はすでに最終段階にまで入っている。
「汝、三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ────っ!」
それは、自らの身を守る存在がいないこの状況で、迫り来る死を回避するための唯一の手段だった。
まず間違いなく成功すると思われたその詠唱は。
「え……?」
なぜか、何の事象も発生させることなく終焉を迎えた。
思考が真っ白になる。
なぜ、どうして。
そんな疑問が頭をよぎり、
答えを得るよりも先に、人形の腕がこちらの肉体を切り裂いていた。
『……君もダメか』
……遠く、声が聞こえる。
『そろそろ刻限だ。君を最後の候補とし、その落選をもって今回の予選を終了しよう』
声が告げるのは、終焉の証。
『──さらばだ。安らかに消滅したまえ』
声は、そう言い放った。
もう否定するだけの力も残っていないこの体では、ぼんやりと床を見つめることしかできない。
……このまま、死んでいくのだろうか。
自らの死を悟ったところで突然、霞んだ視界に先ほどまでは映ることのなかった土色の塊がいくつも浮かび上がってきた。
いや、もしかしたら今になって見えただけで、元からそこにあったものかもしれない。
夥しい死体の山。
それは、その塊は、今ならばわかる。
幾重にも重なり果てた月海原学園の生徒たち。
先ほどの彼だけではないのだ。
此処までたどり着き、しかしこの試練をどうにかすることができず、此処で果てていった者たちは。
そして間も無く、自分もその仲間入りをすることになる。
──このまま、目を閉じてしまおうか。
やれることはやった。
もう、終わりにしてもいいのかもしれない。
──あら、諦めてしまってもいいの?
……いいや、諦めていいはずがない。
諦めたくない、と心を燃やしている以上、此処まできて諦めたくはない。
もう、出口は見えているのだ。
そう思って、もう一度戦うために起き上がろうと力を入れる。
けれど、体を走る激痛はその動きを阻害して、こちらの体が動くことを許さない。
それならば、いや、例えそうだとしても──
──諦めて、たまるか
叫び、力を入れる。
声はかすれて、ほとんどか細い息が漏れたようにしか聞こえない。
それでも、心は確かに脈動を開始した。
このまま終わることは許されない。
全身を駆け巡る痛みは、すでに許容できる限界をぶっちぎっている。
あまりに痛すぎて、目から火が出るどころの話ではなく、痛みによって死にそうなのに痛みが意識を失わせないことに一役買ってすらいる。
語感が指先から裁断されていく感覚。
恐い。
痛みが恐い。感覚の消失が恐い。先ほど見た死体と同じになることが恐ろしい。
そして、何よりも──
無意味に消えることが、きっと一番恐ろしい。
此処で消えることはおかしいと意識が訴える。
此処で死ぬのはおかしいと心が訴える。
だって、此処で消えてしまうならば、あの頭痛は一体何のために。
だって、此処で消えてしまうならば、此処で倒れた彼らは一体何のために。
──立て。
心に喝を入れる。
立ち上がるために必要なのは、痛みを度外視する心だけだ。
恐怖に負けてしまえば、二度と立ち上がることができない。
だから──
恐いままでいい。
痛いままでいい。
その上で、もう一度立って戦うんだ。
今までの戦いとは違う、自分自身の戦いを。
だってこの手は、まだ一度も──
自分の意思で戦ってすらいないのだから──!
『ふふ……いいわ、なかなか面白そうね』
声が聞こえた。
その持ち主は一体どこにいるのかなんてわからない。
可憐で、蠱惑的で、そしてどこか恐怖を感じさせる声音。
天上から響く声は、どこか危うさを孕んだ少女のものだった。
『英雄になる素質、って言うのかしら。死を前にして、恐怖を前にして、それでも一歩前に踏み出せる。ええ、とっても懐かしいわ。まるで御伽噺の騎士様みたい。そんな騎士様がいるのなら、もちろんそれに手を貸す魔女も必要よね?』
ガラスが砕ける音がして。
共に、部屋に光が灯った。
軋む体をどうにか起こし、頭痛に耐えながら辺りを見回す。
教会のような見た目をしていたはずの場所は、0と1のデータによって形成された広大な電子の海を漂流する小さな箱舟に。
かつて部屋だった箱舟、その中央にはいつのまにかぼうっと何かが浮かび上がっていた。
それは、少女の姿をしていた。
無邪気を体現したかのような足取りでこちらに歩いてくるそれは、身に纏う覇気からして人間とははるかに違う。
此処までで出会った敵とは比べ物にならぬほどの人間を超越した力。
触れただけで蒸発しそうな圧倒的なまでの力の滾り。
それが彼女の内に渦巻いているのが嫌でも感じ取れる。
翠のフリルドレスで着飾ったその姿は、童話に出てくるお姫様のようで。
光を反射するプラチナブロンドのショートカットは彼女が歩くに連れてゆらゆらと揺れる。
こちらを見つめる蒼の瞳は、まるで人が人に向けるようなものではない。
それでも、美しかった。
広大な電子の海を泳ぐ中で、唯一の
そう思ってしまうような、人間離れした美しさ。
だからきっと、見惚れてしまったのはしょうがないことなのだろう。
「ちょっとだけ、見定めさせてもらったわ。うん、まあ合格をあげてもいいかしら。私の王子様にふさわしい程度にはあなたの勇気を見せてもらったもの」
幼さの中にある、確かな芯を持つ力強さ。
小さな子供が持つ残酷さ。
それを併せ持った少女が、自分の前に現れた。
「それじゃ、聞くまでもないけれど、改めて聞かせてもらうわ──あなたが、私の
言葉を、数瞬失っていた。
あまりにも美しいものを見た為に、何を口にすればいいのかわからなかった。
その言葉を自分の中で噛み砕いても、少女の放った言葉の意味も、意図も、何一つとして理解できたわけではない。
理解できるのは、この問いが重要なものであるということだけ。
だから、返す言葉に迷うことだけはしなかった。
「俺が……マスター、です」
「ええ、そうでしょうね。ここにいるのはあなただけだもの。だからこれはただの儀礼みたいなもの。あなたの宣誓によって、私とあなたの間には契約がなされたわ。あなた自身がそれを認めたのだから、もうクーリングオフはできないわよ」
クスクスと笑う少女に手を引かれて立ち上がる。
その小柄な肉体のどこにあるのかと問いたくなるような力強さを発揮した彼女は、けれど同時にその力を完璧に使いこなしている。
そうでもなければきっと、自分の手は握りつぶされていただろう。
「……っ」
握られた左手に、わずかな発熱と鈍い痛み。
思わず視線をそこに向けると、三つの模様が組み合わさった紋章にも見える奇妙な印があった。
それは刺青のように皮膚に染み込んでいる。
呆気にとられてその模様と目の前の少女を交互に見る。
何が起こったのかさっぱりわからない。
それでも、ここで行わなければならないことは全てが終わった、ということだけは確信を持つことができた。
どこに向かえばいいのかわからないが、ここに留まっていても仕方がない。
行きましょう、と促す彼女に手を引かれその場を後にしようとした途端、半ば背景と同化していた人形が再起動を果たす。
この短い人生の中で唯一殺意を持って襲ってきた自分の恐怖の象徴が現れたことに、思考に恐怖が混ざり始める。
「あら、ちょうどいいガラクタね」
しかし、それを少女はガラクタと言い切る。
自分と人形の間にするりと入り込んだ少女は、人形をそもそも相手として見ていない。
こちらが恐れたからこそ、それを認識しているだけなのだろう。
「ねえ、どうするのマスター?」
小首を傾げてこちらに問う少女。
もう、迷っている暇はない。向こうは今すぐにでもこちらへと距離を詰めてきそうだ。
「あいつを、倒してくれ……!」
「ええ、わかったわ」
自分が叫んだ瞬間、少女の影が蠢きだす。
それは漆黒の触手となって斬撃を放ち、人形の四肢を紙屑を引き裂くようにして分割する。
それが、現実世界には存在しない虚ろなものだというのは、きっと誰が見てもわかったことだろう。
立ち上がるための足も、害するための腕も切り捨てられた人形は機能を停止して、すぐに塵となって霧散していく。
死への恐怖という緊張状態を抜けて、ようやく左手に刻まれた紋章の発熱が強くなっていることに気がついた。
それは今や耐え難いほどの激痛へと変貌し、意識を白く焼き焦がす。
この痛みこそは生ある証、と言えれば話は簡単だったのだが、そこまで簡単なことではない。
少女はこちらを眺めているだけで、特別に問題視しているようには見えない。
そんな中、突如として自らに終焉を伝えたあの声が天より聞こえてくる。
『手に刻まれたそれは令呪。サーヴァントの主人となった証だ』
”
それが言葉通りの意味ではないことはわかるが、一体どういう存在を示す言葉なのかまではわからない。
ただ、この紋章が出現するに至った経緯と、現れた少女の放ったマスターという単語からある程度のあたりはつけられる。
『使い方によってはサーヴァントの力を高め、あるいは束縛する、三つの絶対命令権。まあ、使い捨ての強化装置とでも思えばいい。ただし、それは同時に聖杯戦争本戦の参加証でもある。令呪を全て失えば君からはマスターとしての権利は消滅し、死ぬ。注意することだ』
淡々と告げる声。
その声が一切の嘘をついていないとするならばこれは三回限りの命令権でありながら使用を許されているのは二回だけなのだという。
三度目はつまり死を示す。
『困惑していることだろう。しかし、まずは……』
そこで、一度言葉を区切った謎の声は。
『おめでとう。傷つき、迷い、辿り着いた者よ。主の名の下に休息を与えよう。とりあえずは、ここがゴールということになる』
そんな、祝うような言葉を。
さっきまでの発言からして、そんなことをする知能があるとは思わなかったから、少しだけ意表を突かれた。
ただ、この声は未だ終わりを告げていない。
この偽りの
『随分と未熟な行軍だったが、だからこそ見応えあふれるものだった。誇りたまえ。君の意思は、未熟ではあれど確かな輝きを放つ原石だった』
発熱は未だに止まらない。
痛みは、際限なく上昇していく。
ここに至るまでの行軍は、今の自分には重荷だったと言っても過言ではない。
その代価を支払う時が来たのだ。
『では、洗礼を始めよう。君にはその資格がある。変わらずに繰り返し、飽くなき回り続ける日常。その
──ああ、もうダメだ。
耐えられない。
限界が追いついて、思考がホワイトアウトしていく。
そのまま気を失う一瞬前に、あの声の最後の言葉が聞こえて来た。
『君の決断はすでに見せてもらった。もはや疑うまい。その決意を代価とし、聖杯戦争への扉を開こう』
──では、これより聖杯戦争を始めよう
──いかなる時代、いかなる歳月が流れようと、戦いをもって頂点を決するのは人の摂理
──月に招かれた電子の世界の魔術師たちよ
──汝、自らを以て最強を証明せよ