私は、ひたすら走った。
故郷であるこのエーギル島から早く離れねばならなかった。世界を救い、我が愛すべき子を殺すことになる神器と共に私は歴史の表舞台から消えねばならない。
この広い世界ファルネースに我が一族が存在している意味は理解しているつもりだったし、ずっとその為に生きてきた。
そう、最愛の我が子を産むまでは。
母なる海が我らを産んだように、私もまた愛すべき赤子を産み落とした。初めてその温もりをこの身に感じたとき、この子のためなら自分の生命など投げ捨てられると思った。
砂浜を走り続けていると、浜辺にそれが見えた――辿り着いた。これにさえ乗れば、この島からも出られる。
忌まわしき神器を抱えた私は走り、待機させていた巨大な亀へと駆け上った。古亀(エンシェントタートル)という。今はまだ白帆船くらいの大きさしかないが、成長すれば小島ほどにもなる。一度海に出て永い眠りにつけば、いずれ立派な島ができるだろう。
海に浮かぶ島のひとつにでもなれば、時間稼ぎにでもなる。せめて、今のこの戦禍を超えることができれば。
覚悟を決めねばならない。
ただ隠すだけでは意味がない。百の封をするのだ。我が母がかつて住んいた異世界の力ある唄で。
「チュラサ」
抱えていた神器――布に包まれている、三弦の楽器サンシェンから、私の名を呼ぶ声がする。
「今ならまだ取り返しがつく。戻るがいい。世界はまだ救える」
――世界。ファルネース。
「お前の一時期の迷い程度、何とかなろう。お前と血を分けた妹ウチナーも待っておる。さあ戻るのだ」
サンシェンに添えられた赤い撥(バチ)が仄かに光り、言葉が思念のような形で脳に刻み込まれてくる。次第に声の主の輪郭が浮かんでくる感覚があった。白い体毛に覆われたそれが思い浮かぶ前に、私は声をあげた。
「黙れ! 世界が何だと言うのか。私にとっての世界はあの子だ。あの子がファルネースだ!」
愛しい我が子に。世界一だと感じた我が子に。私は世界の名を冠した。
――ファルネース。この広い世界の名、愛する我が子の名――そして、世界に災厄をもたらす大魔王の名。
「世界が滅びても、貴方が生きているならそれでいい」
赤い撥を見つめ、意を決し、自分自身の胸に突き刺す。血を通じて、我がマナが呪縛となり、サンシェンを包み込む。風はできた。これで良い。
刺さった箇所から赤い血と、大気中にはマナがこぼれだす。これでいいのだと思った。万物はマナで出来ていて、マナへと還るのだ。巡り巡って、マナとなった私はいずれまたあなたと逢える。
ただ願うなら。生まれ変わりとかではなく、今――あなたに会いたかった。
※ ※ ※
神とあがめられたそれは思案した。
百の想いを受け止める確率はどの程度だろうか。それが成し遂げられる期間は千年か万年か、あるいは億――いや、永久にないかもしれない。
また、果たして自分はマナから隔離されたまま、存在し続けることは可能なのだろうか。
全知全能の神など、いない。
いるとすれば、この世界を覆うマナそのものかもしれない。そういう意味で考えると、彼奴は大魔王などではなく神そのものであるのかもしれない。
無が迫ってきた。少しでもマナの消耗を抑えるため、それは永き眠りにつくことに決めた。存在を維持する必要最低限のマナのみを残して。
願わくば、次に目覚める未来は争いがないことを。