■内藤 理子(ないとう りこ)
……日本人のヒュマン。天然な女子高生。沖縄生まれの、めがねっ子。
■斉藤 恵美(さいとう めぐみ)
……日本人のヒュマン。女子高生。合気道の達人で、理子の親友。
「さよならを言う権利はあたしにある。誰にも譲らない、それはあたしの仕事なの。あたしにしかできない、あたしにはそれしかできない――」
――斉藤恵美(さいとうめぐみ)。一七歳、女。心優しきヒュマンの合気家。
* * * * * * * *
「ねえ、めぐみちゃん」
「ん」
地面に転がり、呻き声を発するだけの男から視線を移し、理子を見た。黒縁眼鏡の奥で、愛すべき親友のつぶらな黒い瞳が不安げに泳いでいた。
「ちょっとやりすぎじゃない?」
「そうかな」
この子の吸い込まれるようなきれいな黒い瞳で真剣に言われると何だかかなりの罪悪感がわいてくる。やりすぎたかもしれない、とも思う。
少し乱れた髪をあたしは手櫛で直す。地毛の色が茶色っぽいので、汚れが目立つかもしれないな。短くしているのも汚したくないからという理由もあったのに。ああ、理子の黒髪が羨ましい。髪型こそ同じだけど、色が全く違う。あたしのは何か中途半端だ。
理子はあたしのことをまだ見ていた。バツが悪くなり、改めて視線を下に移す。転がっているのは、短く刈り上げた金髪にピアス、似合わないアロハシャツを着たヤンキー。ヤンキーと書かれた名札でもつけているんじゃないかってくらい、ヤンキーだった。
「でも、言いがかりつけて、気安く触ってきたのはコイツよね」
「そうかもしれないけどさあ、めぐみちゃん。合気道って、素人相手に使ったら犯罪でしょ? なんか聞いたことある」
「それはボクシングでしょ……合気道は受けのスタンス。相手が先に手を出さなきゃ、あたしは動かないわよ。つまり、正当防衛ってわけ」
半ば適当に言ったが、あながち間違いではない。理子は、そっかあ、と納得していた。多分この子はそれっぽいことを言われたら、すぐに騙されるんだろな。
「あ、雨」
理子がそう言うと同時に、あたしもアスファルトにポツポツ黒いシミができていくのに気づいた。
転がるヤンキーは置いといて。
「行こう、あたし傘持ってない」
「わたしは持ってるよ」
得意気に理子は、黒い傘を見せた。そういえば、ずっと持っていたっけ。花の女子高生には不似合いな大振りな黒い傘。
「ずっと思ってたけどさ。あんた、それ大きくない?」
「自分のと間違っちゃって。でもおかげで、入れたでしょ? よかったね」
言いながら傘を差し出す。ありがたいので、そのまま入れてもらうことにした。この傘の大きさがありがたい。
「これ、お父さんのだからさ。大きいんだ」
「あの英語バリバリの外資系イケメンパパか」
「イケメンなんて。そんなことないよ」
相合い傘をしながら、新宿の街の中を歩く。大都会の人混みをかき分けて。
理子のお父さんには一度会ったことがある。浅黒い肌が特徴の爽やかな人だったように思う。理子は沖縄に親戚が居ると言っていたことがあったので、てっきりお父さんの実家があるのだと思っていたら違っていて、お母さんが沖縄の血筋らしい。お父さんは単に顔が濃いだけのダイビング好きな人で、沖縄の海によく行っていたらしい。
「それに、英語はめぐみちゃんのほうが得意じゃん」
「まあ、いわゆる帰国子女ってやつだからね。当たり前よ」
日本語も英語も同じくらいにはわかる。理子は全くわからないのて、あたしによく、「なんで和訳せずに意味がわかるの?」なんて聞かれるけど、わかるのだから仕方がない。
「うらやましいなあ」
曲がり角を曲がりながら言う。あたしも傘からはみ出さないようにしっかりくっつく。
「そう? あたしは、あんたの美声のがうらやましいわ。沖縄の子独特の歌声っていうか、すごいじゃん? あと、楽器も弾けるし……なんだっけほら。あ、思い出した。サンピン?」
「ちがうよ。サンシンだよ。三つの線って書いて、サンシンって読むの……ひっ」
遠くで雷が光った。続けて、大きく鳴り響く。近い。
「雷こわいね」
あたしにひっついて、理子は目をぎゅっと閉じていた。
「あんたねえ……そこまで怯えなくても、ほら前――」
――瞬間、誰かの叫ぶ声が響いた。
「トラック!!」
慌てて、視界を遮っていた黒い傘をずらし、前方に視線を送ると、眼前にはトラック以外の景色は広がっていなかった。あたしは咄嗟に理子の身体を抱えて、転がるようにしてトラックを避けようとした。しかし、間に合わない――思った瞬間、まばゆい光に包まれた。同時に大きな音が響く。それが雷の音なのか車体の衝撃音なのかわからなかった。ただただ、暖かくて、優しくて、なんだか不思議な感覚に包まれながら、あたしは意識を失った。
※
鳥の鳴く声がして、あたしは目を開けた。
視界いっぱいに青空が広がっていた。続けて右手に理子の体温を感じ、目をやると理子は気持ち良さそうに寝ていた。
柔らかな感触を背中に感じながら身を起こすと、どうやら砂浜の上で寝転んでいるようだった。海が一面に広がっている。
「……あれ?」
あたしは思わず、間の抜けた声をあげた。
風は気持ちいいし、空気はおいしい。海はきれい。だけど。
「……だけど、さっきまで新宿にいたじゃん」
そう、それなのに今、あたしは海のど真ん中に浮かぶ小さな島にいた。
どういうことが起きたら、こんなロビンソンクルーソーのようなことになると言うのだろう。
「わたし、もう食べられないよぅ……」
「理子、ねえ」
起きないので脇をくすぐると、悶絶しながら目を覚ました理子は慌てた様子で辺りを見回した。
「えっ、もう朝?」
理子は短く切り揃えた髪をさっと整え、分厚いレンズの眼鏡をかけ直すと、「めぐみちゃん、おはよう」と笑った。
「あんたに聞いても無駄でしょうけど、これ見て何も思わないの?」
あたしが顎で周りの海をさすと、理子は改めて辺りをきょろきょろと観察して、声を張りあげた。
「……な、なんじゃ、こりゃあーっ!」
「理子、あたしたち寝ぼけてるかも。でも、やっぱり、ちっちゃな島の上にいる。間違いない?」
何度確認しても、やっぱり、あたしたちは大洋に浮かぶちっぽけな無人島の上にいる。
「うん。そんなの見ればわかるじゃん。めぐみちゃん、バカだなあ」
「そういうこと言ってるんじゃないの! さっきまで街中にいたのよ? おかしいと思わない!?」
「確かにおかしいねえ、あはは」
理子は笑った。とても高校二年生とは思えない屈託のない笑みだった。
何がむかつくって、その笑みが、その性格が作り物でないことがむかつく。理子はいわゆるブリッコではなく、いわゆる天然であった。さらに輪をかけてむかつくのは、それがまた彼女に似合っていることだった。理子の母親は沖縄の人で、そのためか理子はぱっちりとした愛敬のある大きな目をしていた。
理子は可愛い。ださい眼鏡さえ外せばすごく可愛いと思う。だけど、あたしは絶対に言ってやらない。
「めぐみちゃん?」
「あ、うん。考えごとしてた。そうそう、たしか、晴れてたけど、急に大雨が降り出したのよ」
「天気予報でも午後から雨が降るって言ってたよ。あと、寒くなるって。それなのに、めぐみちゃん、傘持って来ないなんてバカだねぇ」
「う、うるさい」
そのとおり。あたしは理子の傘に入れてもらったんだ。悪天候で視界が悪くて、雷も鳴っていた。交差点を渡ろうとしたとき、あたしたちは……。
「トラックにはねられたんだ」
理子も思い出したようだった。
あたしはあのとき、理子を抱きかかえて跳んだ。護身術として習っていた合気道の受け身が初めて役に立ったと思ったけど、誰かを抱えての受け身なんて、あたしくらいの腕じゃ成功するはずもなく――。
「気づけば、ここにいるってわけか」
理子はこくこく、と頷いた。
これだけ考えてみても、あたしたちがなぜ海の上にいるのかは結局わからなかった。
「めぐみちゃん。わたし、少し覚えてるよ。大きな雷が鳴ったよね」
理子は真剣な顔をしていた。この子は事故の瞬間をちゃんと覚えていた。天然そうに見えて意外と強いところもあるんだと、あたしは少し見直した。
「わたしとめぐみちゃんは雷に撃たれて……、その瞬間、辺りがまっしろになって、気づいたら」
「……気づいたらここにいたわけね」
つまりここは、天国なのか。それとも夢か。
「夢……にしちゃリアルよね」
「うん。お腹も空くし。それに気温も感じられるよ」
――気温。
東京はたしか冷え込んでいた。だけどここは暖かい。
東京湾から流れて、南半球へ来てしまったのかもしれない。海を眺めてみると、遠くに何か見えるし、あれはきっとオーストラリアに違いない。
オーストラリアがだんだんとこちらに近づいてきているようだった。思いのほか近くにあったのか。
「め、め、めめめめぐみちゃん! あれ、あれ!」
理子が声を震わせた先に見えたのは、オーストラリアでも何でもなく――巨大なタコだった。
「タコ、よね。どこからどう見ても……」
しかし、あたしの記憶にこんな特徴を持つタコは存在しない。記憶どころか、こんな大きなタコは地球上のどこを探しても存在しないだろうと思う。
「めぐみちゃん」
理子が恐る恐る、といった様子で口を開いた。
「あのタコ、もしかして……こっち来てないかなぁ」
「来てるわね」
「この島にあがって来ないよね?」
「さあ……」
あたしには、タコの知識ましてや大ダコに関する知識なんてない。
「ねぇ、めぐみちゃんっ! どんどん近づいてくるっ!」
「か、隠れる場所……」
あたしは慌てて周囲を見渡したけど、木が数本とごつごつした大きな石がいくつかしか見当たらない。
身体を隠せそうな場所なんてなかった。
「ひ、ひぇー、来ないでー!」
理子は近くにあった石を片っ端から海に投げた。小さな石から大きな石まで、投げて投げて投げまくった。そして、とどめとばかりに、あたしの頭の倍くらいありそうな石を思いっきり投げつけた。
「あ、ありゃ?」
投げた理子が間の抜けた声を出す。冷静に考えて理子が持ち上げられる大きさではないのだ。それに、距離的にも届きそうもないのに石はタコに到達し、おそらく眼であろう部分に当たった。
タコは驚いたのか水中に潜り、それっきり現れなかった。
「理子……、あんたいつの間にそんな馬鹿力になったのよ」
理子は、わかんない、と首を傾げた。
「うぅー、よしっ」
小さな石をひとつ拾うと、理子は水切りの要領で海に向かって投げた。
石は一回跳ね、二回跳ね、三回跳ね……。五十を越えたところで肉眼では確認できなくなった。
「めぐみちゃん」
茫然とするあたしに理子は嬉しそうに言った。
「あたし、最高記録出しちゃった」
この子はどこまでが本気なのだろう、と考えると頭が痛くなった。
※
しかし完全な無人島である。
あたしは理子と手分けして、島に何か無いか探すことにした。とは言え、視界にすべて入るような小さな島だから、半ば諦めてはいる。だけど探さないことには始まらない。水や食べるものが無ければあたしと理子は死ぬしかないのだ。浜辺に貝の一つや二つあるだけでも少しは何か変わるかもしれない。幸いなことに、あたしたちには火種があるんだ。
理子がヤンキーが落としたライターを持っていた。なぜ理子が持ち出していたのかも不思議だったが、理子曰く、「どっかのお店の名前が書いてたから、後で何かあったときに、ヤンキーの身元を特定するのに使えるかもしれないと思ったから」だそうだ。 確かに、ライターには『night a star』と書かれていた。意外と抜け目ないんだなと感心した。ともかく、お陰で当面は火の心配はいらない。
「しかし……あの子は耐えられるかな」
思わず口に出して、しまった、と辺りをうかがう。
理子は鼻唄を歌いながら、何やら遠くの、木々の茂るあたりにある岩のあたりを木の枝でほじったりしている。あたしの独白は聞いていなかったみたいだ。よかった。あの子はまだ事の重大さに気づいていない。だからリゾート気分で鼻歌なんて歌っていられるんだ。
しかし、あたしは違う。巨大タコを追い払った後、死ぬかもしれないと既に覚悟は決めている。無人島。未知の生物。水も食糧もない。死ぬしかないじゃん。もちろん、今も恐怖はある。漠然としか感じられないが、死は確かに近くにいるから。
あたしも理子も都会に生まれて都会に育った。あたしは道場で鍛えられて、同世代の女の子と比べて精神的にタフな方だと思う。だけど理子は違う。近づきつつある死に、理子が気づいたときのことを思うと、あたしは不憫で仕方がなかった。
「あれが取れれば……」
この島は驚くほどに何もなかった。だけど、あたしは、途方もない高さに木の実を見つけていた。島に四本あるヤシの木。そこに実がいくつかなっているのだ。
どうにかして、あの実を落とせないだろうか。周りを探しても、石しか落ちていない。あたしは考えた。考えて考え抜いた。バナナを高いところにぶら下げられた猿の気持ちが少しだけわかった気がした。
「石をぶつける……?」
いやいや、あんな高さまで届くわけがない。そう考えて、はっとする。 思い出したのだ。理子がタコを追い払ったときのことを。
「まさかね」
あたしは自分の考えに自嘲しながら、石をひとつ拾い上げ、木の実めがけて放り投げ――外れた。
もうひとつ、投げる。今度は石は木の実をかすめ、あらぬ方向へ飛んでいった。いや、やっぱりおかしい。あたしの腕力でこれだけ飛ばせるなんて、どう考えてもおかしい。あたしは自分の体力、筋力はよく知っているつもりだ。その認識の上で合気道を習っている。力を相手にぶつけるんじゃなくて、相手の力を流すのが合気道だからだ。
あたしのような、か弱い女の子には合気道はぴったりだと思う。
「……か弱い、はずなんだけど」
あたしは足下に落ちている石を拾う。そして投げ、外す。それをひたすら繰り返す。三十を越えたあたりから数える気をなくしたが、さらに挑戦を続け、ようやくヒットさせた。
「や、やった!」
落ちて転がる。あたしは木の実を拾って、理子のもとへと走った。早く見せてやりたかった。
「理子、見てこれ!」
理子は大きな岩の影にしゃがみこんでいた。悲痛な表情を浮かべて。
「どうしたの、理子?」
「めぐみちゃん、この人……」
岩の影で見えにくかったけど、理子の傍らには人がいた。いや、かつては人だったものが。
「ミイラ……?」
それは、性別の判断すらできないほど完全に干からびていた。窪んだ眼窩は恨めしそうに空を見つめている。
気持ち悪い、不気味だと感じた。怖くて泣き出したかった。一刻も早くこの場を去りたかった。
「なんで……?」
理子は涙をこぼした。それは恐怖からくるものではなくて、もっと別のの感情のようだった。ミイラの手を握る。崩れ落ちない様に、そっと。
「なんで、あなたは死ななきゃいけなかったの?」
理子の目からこぼれ落ちた涙が、ミイラの干からびた皮膚に吸い込まれていく。だけど、それでミイラが生き返るはずがない。 理子は泣いた。
あたしはただそれを見ていることしかできなかった。
※
その夜、あたしと理子はひとつのヤシの実をはんぶんこした。
石で叩いたら拍子抜けするほどあっさりと割れた。やっぱり、おかしい。あまり力を込めたつもりもないのに、この結果だ。
「めぐみちゃん?」
「あ、ごめん。はいどうぞ」
理子に一つ渡し、あたしも一ついただく。食べる部分はなかったけど、喉は潤った。 理子もようやく落ち着きを取り戻した。
「めぐみちゃん、ありがとう」
あたしは、ううん、と首を横に振った。あたしは……何もしてない。何もできない。
「めぐみちゃん」
「なに?」
「あたしたち、どうなるのかな」
この島にはあたしたちが生きていけるだけの食糧はない。その上、海にはありえない大きさの化け物タコがいる。
……そして、かつてこの島で死んだ人間がいる。それが何よりも怖かった。新宿でヤンキーに絡まれたときも、こんな感情はなかった。
無言のあたしを見て、理子はにこっと笑った。
「そうだ、あの人の供養をしてあげよ?」
気が進まなかったけれど、あの人だって好んで死んだわけじゃないだろうし、それに、明日は我が身かもしれないのだ。誰にも供養されることなく野ざらしになるなんて、そんなの可哀想すぎる。
あたしは理子と共にミイラのもとへと向かった。
昼間と変わらない場所に、それはあった。いや、場所を変わられていても困るんだけど、いっそ見間違いならどれだけ良かっただろうとは思う。
少し汚れた制服を着た女子高生が二人、ミイラを見下ろしている。そんな光景、絵になるんだろうか。
「穴、掘れないね」
不思議なことにある程度掘ったところで、何か硬いセメントのようなものがあり、それ以上は理子は爪先でかつかつ突いたが、地面は固く軽く表面を削るにとどまった。
「海に還してあげよう」
何だかそれが良いような気がして、あたしは言ってみた。理子は一瞬ぽかんとしたが頷いた。
あたしは理子と、軽くなったかつての人間を海へと運んだ。浜辺にミイラを置こうとすると、ミイラが抱えていた布袋が落ちた。地面に落ちたときに朽ちた布は崩れ落ち、弦楽器が姿を見せた。不思議なことにそれは驚くほど、綺麗な状態だった。一緒についていたのか、赤い爪のような形のものも落ちた。
「これ……沖縄の」
理子はきょとんとした顔で楽器を手にした。
「サンシン?」
「少し材質は違う気はするけど……」
理子は楽器を弾いてみせた。
「弾き方や音階は一緒みたい」
綺麗な、優しい音色だった。理子は歌い始めた。綺麗で、優しい声だった。あたしはミイラをそっと海に浮かべた。生きていた頃とは違って軽くなっただろうそれは、波に揺られて海の向こうへと消えて行った。
波の音と、理子の声だけが響いていた。あたしもここで朽ちるときが来るなら、理子の唄に送られたいと思う。
※
それから何日も、理子の歌を聞いて過ごした。ヤシの木はついに、その実をすべて失った。
「ねえ、めぐみちゃん」
「ん。どうしたの?」
「歌。もうネタギレだよ」
理子は沖縄人である母から習った歌を弾き語っていた。その数はあまりに多くて、いつまでも尽きることが無いと思っていたくらいだった。
「次で、ちょうど百かな。お母さんの生まれた島の唄、歌うね。言葉はよくわからないけど、人魚と呼ばれた女性の最期を歌ってるの」
理子はそう前置きをすると、口を開いた。
あたしは目を瞑って耳を澄ませた。
「……理子っ! ちょっと待って」
聞こえる。
かすかな波音が聞こえる。だけどそれは助けではない。
「……やっぱり、生きてたのね」
速さを落とさず、遠くから迫り来る巨大なタコを見て、あたしは最期を悟った。こいつは多分、陸にあがることもできる。その証拠にタコは怯まず、ぐんぐんと近づいてくる。
手頃な石を探した。ほとんど投げ尽くしてしまったのか、すぐには見つからない。
「石、石」
あたしは慌てて探すが、見当たらない。
その間にも、タコは近づいて来る。そして、浜辺に到達した。
凄まじい音がした。見えない岩礁にでもぶつかったのだろう。島が揺れた。隣で理子が小さく悲鳴をあげた。
理子を一瞥して、タコは潰れていない右目を細めてかすかに笑ったように見えた。
こいつは理子を狙っている。理子を恨んでいる――。
させるもんか。あたしはようやく見つけた手頃な石をひとつ掴むと、理子から離れた。
「おい、タコ!!」
タコに耳があるのか、そんなことはあたしにわからない。
だけどタコはあたしを見つめた。しめた!
「ほらほら」
声をあげて、あたしは浜辺へと駆けていく。足がひんやり冷たかったけど、あたしはそれを我慢して足踏みしてみせた。水がぱしゃぱしゃとはねた。
タコはもう、完全にあたしのことしか見ていない。だけど、まだ遠い。
ひとつしかない石を無駄にするわけにはいかない。ひとつしかない眼に当てることができれば、タコは視力を完全に失うだろう。
タコは巨大な脚を伸ばした。それはあたしの自由を奪い、引き寄せた。目前に巨大な吸盤が見えた。
左手は身体と一緒に、巨大な脚に縛りつけられている。だけどあたしの右手はまだ、自由だ。
右手に力を込め、思いっきり振るう。渾身の一撃は、外れることなくタコの眼に直撃した。
「や、やった――」
タコが身をよじって暴れだした。水面下では岩礁に身体を打ちつけた。その度、島が揺れた。
タコは暴れるのをやめようとしなかった。激痛にもだえ、身をよじり、吠えた。
同時に、島が吠えた。
浜辺が盛り上がり、大きな岩礁が現れる。いや、岩礁じゃなかった。巨大な頭だ。続けて、手が、足が、尻尾が現れた。
「か、亀……」
肺からかすれた声が漏れた。タコの足に締めつけられて、うまく声が出ないのだ。だけど目前の光景を見ておきながら、驚くなという方が無理な相談だった。
あたしたちのいた島は巨大な亀の甲羅だった。
亀はこちらを向くと、大きな口を開けた。そして、耳をつんざく爆音と共に激しい水流を吐き出した。
噴射された水は直線上にタコを吹き飛ばし、跳ね返ったいくつもの飛沫はタコの身体を貫いた。その一撃でタコはもだえるのをやめ、海面に伏した。
島――いや、亀が遠く見えた。理子があたしを呼ぶ声が遠く聞こえた。
……よかった。あの子は無事だった。
タコはあたしを強く締めつけたまま、海の底へと沈んでいく。水面に光がきらきらと反射しているのが見えた。綺麗だ、と思った。
水面の光が遠くなるにつれて、息が苦しくなった。なんだか寒かった。意識が暗闇へと沈んでいく。
理子は、あたしのために百番目の歌を歌ってくれるかな。歌って、あたしのために泣いてくれるといいな、と思った。
* * * * * * * *
少女の泣く声が聴こえた。めぐみちゃん、と彼女は泣いた。
懐かしい歌が聞こえた。懐かしい楽器の音色が聞こえた。待ち望んだ百番目のメロディが聞こえた。
それは、ぴくりと動いた。久々に感じた感覚だった。
自我は無くしていた。記憶は失われていた。大事な人も喪っていた。だけど、大切なものはまだ無くしていない。
それは一声、鳴いた。白い喉を震わせて、哭いた。
両手を拡げてみた。どこまでも飛んでいけるような気がした。
――だから。
だから彼は一声、叫んだ。
「クォティィイィィ!」