瞼を上げると知らない天井が広がっていた。
ピッ、ピッ、とテンポよくリズムを刻む電子音が耳に入って来る。
「ここは――」
「病院だ」
すぐに答えが返って来た。
身体が思うように動かないので視線だけ声の主へと向ける。
「翔……」
「無理するな。左腕全部と右脚6割、左脚2割欠損したんだ。今は大人しく休んでろ」
「――――ハッキリと言うのね」
「お前には嘘をつきたくなし、そう言った方がお前もいいだろ」
ぶっきらぼうに淡々と伝える彼だったが、その言葉の節々にやり場のない怒りがこもっていた。
もっとも彼の怒りは至極当然のものだ。自身が留守にしている間に愛する妻が目も当てられない程の傷を負ったのだから。
ただ――――彼の言葉に含まれている感情は怒りだけではない。
「錬錆くんは――――」
「――――」
その問いには長い、長い沈黙が要した。
その沈黙こそが彼の、今の彼を支配するもう一つの感情だろう。
ただ、ただ沈黙が続く――――
それを晴らす
------------------------------------------------------------------------------
――――30時間前
その戦いは錬錆が圧倒的に劣勢であった。
未来を捕食した神喰は彼女の個性を模倣し、錬錆の一挙一動を完全に見切っている。
それだけでも十分に脅威である。が、本当の理由は別にあった。
「ひっ!?」
「ぎゃぁぁぁ!!」
人面相、とでも言うべきか。
神喰の個性は捕食再現――――
その名の通り、食べた者の特性を再現すること。この個性の唯一無二の制約、それは人間以外は捕食対象にならないこと――――
倫理から真っ向から反する個性だが、それ故か強力であった。
なにせ数週間という制限付きではあるものの、口にした相手の個性を自分のものにできる。いわば個性複数持ちとも言える状態になれるのだ。
だが彼は他人の個性を使うのは、個性側に振り回される僅かな時間だけ。
であれば食した人々の性質をどう活用するのか?
それが人面相――――神喰に捕食された犠牲者たちの顔を自らの身体中に浮かび上がらせ、その上で彼らの生前の記憶や性格を読み取り、ただただ「生きたかった」「死にたくなかった」と
相当悪趣味な所業であるが、故に一般人の感性を持つ錬錆に対しての効果は絶大であった。
例え死んでいたとしても、罪なき人々の嘆きの声が耳に刺激する。理性が攻撃するなと働きかける。故に動きに遅れが出て、反撃する事も叶わず一方的に甚振られ続けた。
中庭での戦闘が始まって10分――――その中で錬錆がまともに攻撃を与えられたのは一度ぐらいだ。だがその一度の代償に、左上腕は大きく抉られ、それ以外にも打撲、裂傷が多数……蓄積されたダメージもあり既に錬錆の膝は地についていた。
「これ以上の痛めつけは鮮度が落ちる……そろそろ〆とさせてもらうぜ」
そういうと神喰の顎が外れ、口が大きく、大きく、この世のものとは思えない程、開かれた。
それを目にした瞬間、悪寒が走る――
もしここで動けなかったら、自分の半身が貪り食われ、息絶え、残った血肉の塊も一片残さず喰われる――――そんな未来が頭を過る。
動け――動け――――
頭では分かっていた。今動かないと自分が死ぬと。
しかし頭で理解していても、身体は言う事を聞かない。
死の恐怖で縛られた足はピタリと動きを止め、地を蹴る事も、膝を上げる事も叶わなかった。
動け、動け、動け――――
刻々と迫って来る死の恐怖。
それは僅か1秒の時間ですら無限にも思える程、延々とした世界。
こんなところで、こんなところで俺の人生は終わってしまうのか。
走馬灯など無い。ただただ受け入れられない死という現実が錬錆の心身の動き停止させていた。
だが皮肉にも――――
「お兄ちゃん、殺して!!」
錬錆を死の恐怖から救ったのは――――
「私達はもう死んだ!! もう死んでるの!!」
既に死んだ者たちの声だった――――
「だから私達ごと、こいつを殺して!!」
その言葉を聞いた瞬間、世界が割れて見えた――――
まるで今まで目にしてきた現実が虚ろな夢だったかのように、目に映るものすべての色彩が消えていく。
鳥のさえずりも、都会の環境音も、何もかもが無にかえった。
ひび割れた世界――――そこから垣間見えるある光景――――
それは4歳ぐらいの少女を守るかのように立つ、血塗れになった同じ年頃の少年の姿――――
ああっ、すべてを思い出した――――
ドシュッ!!
「ぎっ……がぁぁ…ぁぁっ……」
一体何が起こったのか?
神喰は今起きた状況を理解できずにいた。
それもそうだろう。彼からすれば、錬錆は反撃することもなく無抵抗なまま貪り食われる。そう見ていた。見えていたのだ。
だがその未来は真っ向から裏切られる形となった。
それも、腹を貫かれ、自らの個性の中核とも言っていい
ごぽっ、ごぽっ、と音を立てながら滴り落ちる血液。
それこそ腹に穴が開いたという抗いようのない
「いいいいいいやぁぁぁぁあああああっ!! 俺の……俺の身体に、何してくれてんだぁ!!」
その中で少年、金術錬錆はただ。
ただただ、同じ言葉を繰り返す事しかできなかった。
「――ゴメンナサイ」
――と。
少年が腕を引き抜くのと同時に、血が、まるでメントスを入れられた炭酸飲料かのように止めどなく噴出し、血の雨となって降り注いだ。
こうして錬錆の職業体験は全日程を迎える事なく終わりを告げた。
この5分後、現場に到着した夜上翔は「また間に合わなかった」とこぼす事となった。
その時の錬錆はただただ「ゴメンナサイ」と繰り返していた。
敵から剥ぎ取ったと思わしき犠牲者の人面相を前にして。
そこに勝者は無く、敗者も無かった。
在ったのは、
------------------------------------------------------------------------------
赤、赤、赤――――
赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫――――――
見慣れてしまった臓物で塗りたくられたかのように一面が赤く染まった世界――――
声を出しても、ただただ反響するだけ――――
自分の声以外何も返って来ない――――
ぽつり、ぽつりと人影が見える――――
しかしてそれは人に非ず――――
触れた瞬間、血肉が弾け飛ぶ――――
魂など無い、ただただ不快感だけを放つ物言わぬ肉塊――――
ぺちゃり、ぺちゃりと飛び散る血しぶきと肉片で
肉もなく、骨もなく、ただただ救えなかった人々の
世界にいるのは
ただの人殺しが一人、ただ一人――――――――
------------------------------------------------------------------------------
「――――――ッ」
意識が現実へと帰還する。
二年前から空洞と化した右目には何も映らない。
残された左目で今一度自身の手を見つめる。
なんて変哲もない、いつも通り、血の跡も欠片もない普通の手――――
しかし錬錆には全く異なってそれは映っていた。
赤、赤、赤――――
赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫赫――――――
離れる事のない血の温かさと臓物の感触――――
そして何よりも――――
「――――――ぁぁ、――――あああああぁああぁぁああああぁあぁあああぁあっ!!」
人を殺めてしまった――実際は死んでいないが、その事実を知らぬ錬錆は殺意を向けた上で手にかけてしまった現実に、そして救えなかった命がある事実に、彼の心は完全に押し潰されようとしていた。
そして彼は思い出した――――
12年前、個性に覚醒したその日に人を殺めた事を――――
言葉にならない声が身体の内側から吐き出てくる。
どれだけ涙が溢れようと、どれだけ嘆こうと、一度過ぎた時間は戻る事はない。
ヒーローを志していた金術錬錆の心は、この時確かに壊れてかけていた。
打ち切りバッドエンドみたいなタイトルと締めですが、まだまだ続きます。
あと次回、ようやくヒロイン回です