西園道留が早坂愛とピザを食べたのは土曜日のことだった。したがって翌日は日曜日。その日、道留は午前中を寝て過ごした。お昼ごろに尿意で起きる。熱くて濃いコーヒーを飲んで頭を立ち上がらせた。彼は味にあまりこだわりがないので安物のインスタントだ。おいしくはないがまずくもないのでこればかり飲んでいる。食欲はあまりなかったのだが、何日か前に宅配されたピザの残りを食べた。
道留は一人暮らしだ。七階建ての高級マンションの七階に住んでいる。七階へはエレベーターのカードスキャナにカードを通さないと止まらない。つまり最上階は道留のためだけの空間だった。3LDKだが、基本的にリビングで生活しているので他の部屋には埃がたまっている。三か月に一回業者を呼んで掃除してもらっていた。
このマンションは父親の資産だったが、いまは道留のものになっている。ほかの部屋は他人に貸し与えているので、それだけでもかなりの収入になる。
ソファーにどっぷりと座って煙草を吸う。不健康極まりない生活だが、健康を気にしてばかりいる人間よりはマシだ。健康ではないが健康的であることは間違いない。
早坂との縁が切れかけている。首無しニックみたいに皮一枚でどうにかつながっている。そう例えてはみたもののニックは死んでいるので例えとしては不適当だと思った。彼はハリーポッターが好きなのでニックを使ってみたかったのである。ハリーポッターの全巻を読破したとき、母がとてもよく褒めてくれたことを覚えている。死んでしまって残念だ、と思う。彼が残念だと心から思うことは珍しい。
縁を切ってしまっても、何も問題はない。彼はいくつかのシュミレーションを行ってからそう結論付けた。早坂愛はショートケーキに乗ってるミントの葉みたいに、ほとんど取るに足らない存在だ。無くては寂しい、という程度の存在。つまり装飾。本質ではない。
困ったな、と思う。頭ではそう理解しているが居た方が面白いだろう、とあまり合理的ではない危険な思考を行っている自分がいて、どちらかというと彼のほうが優勢らしい。ミステリとしては必要だが、犯人からしてみると、探偵は必須の存在ではない。本質は殺人であって探偵はエンターテインメント性を付与するための存在だ。
しかし晴れ舞台を誰か、理解してくれる人間に見てほしいという欲求は、あらゆる行動の動機の一部であることはどうやら確かであり、犯人にとっての探偵の存在価値を否定してしまうことは短絡的に思える。
実際のところ早坂愛を切り捨てたところで探偵は山ほどいる。というか、本職の刑事が大人数動員されることになる。その中には早坂よりも高度な頭脳を持つ人物も、たぶんいる。それでも早坂愛にこだわるのは、やはり自分の作る物語に最も適当な探偵となり得る人間だからだろう。西園道留に対して持っている興味。それが彼女の価値。
「まあ、俺は多少修復した方がいいと思う。お互いのためにね」
道留が独り呟くと、頭の中は静かになった。議決したのだ。普通、人間は、何人もの人格が液体のように溶けて混ざり合って一つの人格を作り上げている。道留はそれがもっと流動性がない、粘性のあるような形で混ざり合っていて、物事について深く考えたいときに個別の人格がそれぞれ形を成すのである。
さて、どうしたものかと道留は考える。必要だったら彼女のところへフォローをしに行かなくてはならない。あまりに関係が悪化したら、探偵役を買って出てもらえなくなる。それは望ましくない。しかし、もし買って出てもらえなくとも、大勢には影響がない。だから、失敗しようとも別に構わない。でもわざわざ彼女に対して「ある程度のことをしてやろう」と気にかけている。自分はこんなにバカだったろうか、と思った。
〇
早坂愛は憂鬱な気分で通学路を歩いていた。西園道留の顔を見るのが嫌だった。それはどちらかといえば、どういう顔をすればいいかわからないから見ない方が楽である、といった気持ちであって、明確な嫌悪のような強いエネルギーを持ってはいない。
彼は一切話しかけてこないかもしれない。あるいは何事もなかったように話しかけてくるかもしれないし、もしかしたら謝ってくるかもしれない。それらすべての可能性が、早坂にとってはどうもむずがゆく、腑に落ちないのだ。
いいじゃないか、話しかけてこないなら。自分は彼が嫌いなのだからもう縁が切れてもいいんだ。
そう思ってはいるのだが、どういうわけか気が重い。自分がどうしたいのかも、どうしてほしいのかもよくわからない。昨日は近侍としての仕事に没頭することで考えることをやめられていたが、いまはただ歩きなれた通学路を機械的になぞるだけである。どうしても、考えずにはいられなかった。
学校につくと校門の前で友達であるアヤネと合流した。彼女と話していると気がまぎれたので助かった。暗いどんよりとした感情をうまく隠せるほどには、気持ちが安定している。
教室に二人で入る。教室の中央で男子がいつも通り固まって話している。彼の声もそこから聞こえてきた。彼の表情にいつもと違う点を見つけたくて、早坂は彼の方に目をやる。彼はいつもと何も変わらない笑顔を浮かべていた。
やはり何も気にしていないのか。いや、気にしていたとしてもあの男子生徒たちにそれが悟られるようなそぶりを、彼は見せないか。そう思った矢先、彼の目線と自分のそれが交差した。早坂は一瞬緊張する。瞬きでごまかして視線をずらした。彼の笑い声が聞こえる。別に離脱していたわけではないのだが、会話に戻ったらしい。その笑い声が、早坂にとっては不快だった。
授業が始まる。現代文だ。先週からカミュの異邦人が題材になっている。有名な作品だし、この学園のことだから、この本を読んだことのない生徒などいないだろうに、それでも教師はこれを扱っている。たぶん、教える側の趣味なのだ。
もちろん早坂もこれを読んだことがあったので退屈な授業だった。黒板に書かれた文字を写すという、ただの作業をする。何の意味もない作業だ。無駄に資源を使う分、より悪い。ぼんやりと授業をただ聞いているだけの方がいくらかましに思えた。しかしノートをとることが成績をつけるうえでの判断材料となる以上、生徒たちは必死に手を動かす。授業とは別のことを考えていない生徒が、果たしてこの教室にいるのだろうか、と早坂は思う。教師から指名されることもないので、自分の世界に没頭していてもリスクはゼロだ。
以前から道留とは、学校で話すような仲ではなかった。人付き合いの良い、ギャルの早坂愛とチャラチャラした女たらしの西園道留はただのクラスメイトだ。遊びに誘われることは当然ないし、話しかけられることだって珍しかった。早坂自身その関係を気にしていなかった。話しかけられないのが普通で、むしろ、話しかけられたときは少し身構えてしまった。
それがどういうわけか、今自分は彼が声をかけてくれるのを期待しているようだった。理解できない感情だ。理屈ではないのだろう。無理やり論理を用いて説明しようとすればできるだろうが、敬遠された。
自分はこんなに弱い人間だっただろうか。メリーゴーラウンドみたいに思考が循環している。見える景色は変わらない。あの日からずっとそうだ。時間が解決するだろうけれど、そのめどが立たない。状況を解決には時間がいる。
彼を嫌いに、完全に嫌いになれたらどんなに楽だろうか。ずっとそればかり考えている。けれど......。
彼女は思考を放棄したかった。都合の良いことに目の前にはつまらない文章が並んでいる。早坂は縋りつくようにそれに没頭した。
〇
二人が仲たがいして、六日が過ぎた。その間、特に何もなかった。早坂は何か行動を起こそうかと色々と考えたのだが、結局できずじまいだった。かつて道留から週に二度はかかってきた電話は、いまや全くかかってこず、LINEも途絶えた。それをちゃんと認識しているあたり、彼を慕っていたのだろうと思う。そのことに気づくと、もっとやりきれない気分になるのだった。
六日間、彼女はずっと答えのない問題について考えていた。無論、考えたくてそうしていたわけではない。彼女は疲弊していた。そもそも四宮家に仕えること自体が激務であり、疲れの原因なのだが、道留との人間関係がさらに重荷になっている。
今日は金曜日。もう今日の生徒会活動は終わり、早坂は主人と共に黒塗りの高級車の後部座席に乗り込む。
「今日の来客はありません。先月のパーティでかぐや様と二言三言言葉を交わした、出版社の社長の奥様から些末な内容の手紙が届いていました。改めてご挨拶を申し上げます、とのことです。返信内容の草案はこちらになります」早坂はスマホの画面を見せた。かぐやのところにはこうしたご機嫌伺いの手紙がよく届く。
「ああ、あの派手好きな方ですか」かぐやは目を走らせて、このままでいいわと告げる。「この方は媚びを売るのが好きなのかしら。ご苦労なものね」
「媚びることしか能がないのでしょう」
「それもそうね」かぐやはにこりともせずに言った。
かぐやはこの後、御琴の稽古がある。抱えている多くの習い事の一つだ。来客がある日はかぐやも早坂も非常に忙しい夜となるが幸運なことに今日はそれがない。早坂は過度に気を回して食事のセッティングに口を出す必要もないのだ。
「早坂」かぐやが早坂の顔を見て言う。
「なんでしょう」
「あなた最近、どうしたの?」
「何が、でしょう」心当たりはあったが、ポーカーフェイスを張り付けて対応する。
「元気、無いように見えるのだけれど」
「いつものことです」
「そう。いつも通りならいいわ」
会話は終了した。早坂はとぼけて見せていたが実のところは、もっと、根掘り葉掘り追及してきてほしかった。もちろん心の中でその気持ちを明確に言語化していたわけではない。しかし、残念だと思う気持ちが、もやもやとしたものが生じて、残る。思えば、自分の悩みを他人に打ち明けたことはなかったかもしれない。自分の受け答えを少し後悔する。
「言ったかしら。私、表情からその人の抱えている感情をある程度察知できるの」かぐやが言った。早坂はかぐやの顔を見る。すぐに目が合った。かぐやはずっと早坂の顔を見ていたらしい。かぐやの眼が優しく笑った。「後悔が期待に変わったかしら?」
ああ、そういえば、この人は天才だったなと早坂は思う。そして嬉しかった。主人に相談するのは立場上問題があるかもしれない。しかし同時に、かぐやは友達なのだ。それなら何の問題もない。
「ここでは都合が悪いので、夕食後にかぐや様の部屋にお邪魔しても?」
「もちろん」かぐやはかすかにほほ笑んだ。
〇
「それで?西園君がどうしたの?」かぐやは早坂が部屋に入ってくるなり聞いた。
早坂の心臓が一拍だけ極端に大きく音を鳴らした。どうやらもうほとんどお見通しらしい。
かぐやはベッドに腰かけていた。隣に空いたスペースを二回軽くたたいて早坂に示す。早坂はそれに従ってかぐやの隣に座った。
「喧嘩しました」事の経緯をどう説明してよいかわからなかったので、とりあえず、いまの状況だけを簡素に伝える。「一週間、連絡が来ません」
膝の上で組んだ手に視線をじっと見つめる。こういう話をするとき、どんな表情をしていればよいかわからない。
「好きなの?」かぐやが問うた。
またしても早坂の心臓が跳ねる。
「どうしてそうなるんですか」心なしか、強い口調になった。
「だって、殿方から連絡が来ずに一週間も悩んでいるのよ?仕事の連絡を待っているわけでもないし、他の可能性を考える方が不自然だわ」
ごもっともである。早坂だって、自分の気持ちが一体どうなっているのか、あらかたの目星はついていた。だが認めたくない。
「好意なんて、抱いてません。彼になんか」できるだけ不機嫌さを表に出して、そう言った。「どうしてあんなクズに......」
「そうね、ごめんなさい」かぐやはすぐに引き下がる。「でも、嫌いでもないんでしょう?」
早坂は、言葉に詰まった。その一瞬が、肯定を意味することを数秒遅れて理解し、軽く唇を噛む。かぐやの言葉を待つが、かぐやは何も言わない。自分に言わせようとしているのだと、早坂は察した。
「彼は、わたしに似ていると思ってました」早坂はできるだけ手短に言った。かぐやの頭脳ならば、それをきっかけに彼に興味を持ったことも、彼が素晴らしい人間であると期待していたこともすぐに理解できるだろうから。
「そう。裏切られたのね」
勝手に、と早坂は付け加えた。彼はただ彼らしくあっただけだ。「もう、よくわからないんです。彼に対する感情にどう名前を付ければいいのか」
「名前を?本当はもうわかってるのでしょう?」かぐやが言う。先ほどから痛いところを突いてくる。「認めたくないだけよ。さあ、好きか嫌いかの二つ。でも嫌いではない」
「三つめがあります。そのどちらでもない、が三つめです」
「いいえ。その択を今のあなたは取れない。自分でもわかっているはずよ?そんな心の余裕はないって。だから、二択」
自分の心が疲弊し切っているのは分かっていた。早く認めてしまった方がいいことも。しかし、怖かった。怖くて仕方なかった。初めての感情なのだから、どう処理していいかわからない。相手も問題だった。どうしていいかわからない。
早坂は、その気持ちをかぐやに伝えた。
「もし許されるなら、嫌いになりたい?」かぐやが尋ねた。
ややあって、早坂はうなづく。
「その方が楽だものね?」
「......はい」
「正直、彼を嫌いになるための理由はたくさんあるし、デメリットはない。どうして、嫌ってしまわないの?」
「そんなの、私が知りたいですよ」
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。互いに信頼しあっていないと耐えられない雰囲気だった。
「ねぇ早坂」やがて、ゆっくりとかぐやが言う。「そんなに悩んでいる時点で……」
「わかってます。わかってますけど......」
「踏み出せば傷つくことは目に見えているわ。けどね、早坂。あなた、いつまでそこにいるつもりなの?」
早坂は目を瞑った。どういうわけか、目の奥が熱い。そっとかぐやにもたれる。やっと用意が整った。かぐやの誘導が無ければ、きっとここまでは来られなかっただろう。妙な安心感がある。こわばっていたものが緩む。これでいいのかもしれない、いや、きっとそうだ。そう思う。
「やめてくださいよ、かぐや様。必死に覆い隠していたんですから、引きずり出さないでくださいよ」早坂は諦めたように言った。「どうして、こじれちゃったのかなぁ」
「彼が異常だったからでしょうね」かぐやは早坂の頭を撫でた。「普通の人を好きになっていたら、こう苦労はしなかったでしょうに」
好き、の二文字が頭に沈んでいった。帰り道に握った彼の手を思い出す。感触を、暖かさを。
涙がこぼれてきた。自分がこうしている間にも、彼は自分の知らない女と体を重ねているかもしれない。そう思うと、切なく、やりきれず、吐き気がした。彼女が自分の気持ちを認めたくなかった理由の一つが、このように傷つくからだった。
「ちょっと、何泣いてるの」かぐやは驚いて、それから柔らかく微笑み、早坂の頭を抱き寄せる。
「一週間連絡来ないんですけど」早坂が涙交じりに言う。彼と電話で話すのは、楽しかった。
「だって、頬を叩いたのでしょう?」
「そんなこと、気にしますかね。彼」
「男性は案外繊細だと聞いたことがあります」
「西園道留がですか?」
「まぁ、そうね」
「てかなんで私がビンタしたこと知ってるんですか?」
「尋問したの」
「彼を?」早坂はかぐやの腕の中から頭だけ起こした。「どういうことです?」
「あなた、土曜日泣いて帰ってきたでしょう?たぶん西園君の身辺調査の帰りだなと思って。彼があなたに何かやらかしたんじゃないかと」
早坂は主人の行動力に呆然としていた。自分のことを心配してくれていたのを嬉しくも思う。
「......何か、言ってました?」
「口説こうと思ったらまさかの早坂でビビった、って言ってましたね。ビンタは強烈だった、とも」
「ああ、そうですか」早坂が知りたいのはそこではない。「他に何か、言ってました?」
「仲直りする気はないのか聞いたのですが、あなたの出る幕ではない、と言われてしまいました。そこからはあまり突っ込んだことは聞けずじまい。うまく逃げられましたね」
早坂は目を伏せた。付き合えるかどうか以前に、関係を修復できるかどうかがまず問題になっている。
「熱海、あなたも来るんでしょう?」
「やっぱ、そうなりますよね」普段の関係がただのクラスメイトである以上、熱海旅行だけがチャンスであると言える。
「うまく誘導するわ、二人になれるように」
「あのですね、人のこと手伝ってる場合ですか?」早坂はかぐやにも素直になってもらうことにした。不公平だからである。「さっきから思ってましたけどね、いつまでそこにいるつもりなのー?とか、どの口が言ってるんですか」
「どういうことかしら」かぐやはとぼけて見せる。
「会長と書記ちゃん、くっつくように仕向けますよ?」
常軌を逸した速さでかぐやは早坂の顔を見た。正気か、と言いたげな顔をして目を丸くしている。白銀が絡むとすぐに天才らしからぬ反応を見せるかぐやが、早坂は好きだ。
「かぐや様も素直になりましょうよ」
「なんの、ことでしょう」声は震えている。
「ズルいですよ、かぐや様。あなただけ隠し通そうとするなんて」
かぐやはだいぶごねたが、最終的には困った顔をして「わかったわよ」と頬を赤らめた。
二人の恋愛相談は夜遅くまで続いた。明日が休日であることが二人の気を緩めたのだろう。結局、二人は並んで同じベッドで眠りについた。
凡人が頭いい人たちを書こうとすると、むっちゃ時間かかるんだなって。
「ここにセリフあって」ここに地の文ある。「そしてここにセリフが続くというのを改行なしで書く私のやり方は読みにくい?」
-
読みにくい
-
少し気になる
-
別に気にしない
-
むしろ読みやすい