謎の少女の正体は?
答えは本編で。
週明けの朝の教室は喧騒に包まれている。
普段とはまるで変わらないようにも見える光景だけど、実際には普段とはまるで様子が違っている。そこかしこから聞こえてくる騒めきそのものに違いはなくとも、その話題の内容の大半が大凡ふたつのことに集中していたからだった。
まあ、僕自身はそんな朝から元気な教室の状況からは少しだけ距離を取って過ごしているのだけれど。と言うより、実際問題として寝不足を含めた何やかんやを抱えた状態で登校することになったので、現在は自分の席の机に突っ伏するような体勢でもって一人静かにへばっている状態だったりする。席が後ろの隅の方で良かった。
「みーなと、はようさん。んで、聞いたか? あの話を……っと、なんかメチャクチャ眠たそうだな。お前……目の下の隈がいつもよりも一段と酷いことになってるぞ」
「……眠い。すごく眠い。昨日の夜はいろいろとあってさ。もう、本気で完全完璧に寝不足状態。寝坊せずに登校したことを自分ながらに褒めたい状態。だから櫂人。お願い。せめて授業が始まるまでは静かに寝かせて欲しい」
前言撤回。後ろの席で寝ようと突っ伏していたとしても、世の中には問答無用で話しかけられることはある。
「あー、確かに昨日の夜はビックリしたよな。いきなり何の前触れもなくの停電だもんな。しかもこの辺り一帯全部がだろ? ほら、俺の家なんかは無駄に年季が入っている上に広いからさ。時間も時間だったからお手伝いさんとかも大わらわでさ、もう復旧させるのとかが本当に大変だったんだぜ。なんかちょっとテンションは上がったけどな」
「ああ、それは大変だったね。ご苦労様。でも、それならそっちも疲れてるんじゃない?」
「うんにゃ。全然。こう、突発的な非日常って結構楽しいよな。なんかゲリラライブ的なイベント感があって。って、それはまあ別にいいんだよ。それより、今はそんなことよりも別にもっと重要な話があるだろ」
傍から見ても疲れて眠そうにしているはずの僕の状況に気を遣い、空気を呼んでそっとしておくという選択肢など微塵もないのであろうか。気の良い友人であることに疑いはないけれど、それでもこの崎守 櫂人【さきもり かいと】と言う名の友人が持つ人間性と友情の在り様の片鱗を見た気がしながら、やけに興奮した様子の櫂人に僕はただ相槌を打つだけで応じることにする。
「クラスの連中でも耳の早い連中を中心にもうそこかしこで噂は飛び交ってるな。見た感じだと、真っ先に情報を入手できたのは部活の朝練で学校に来て朝一で職員室に行った奴等か」
「俺としたことが出遅れたな~」なんて言いながら教室内を見回している櫂人に釣られて教室内の様子を確認すれば、確かに昨晩の停電とは別の話をしているのは朝練の有る運動系クラブ所属のクラスメイトが中心だ。あと、噂好きの人達とか。
「おはよう、二人共。何? 何の話をしてるの?」
「ナル、おはよう」
「おう、久藤【くどう】。おはよさん。真面目で優等生の久藤にしては珍しく遅い時間での登校だな。そうそう、さっき出谷と望房に学校に来ているかどうか知らないかって聞かれたぜ? 返信が無いって言ってたぞ」
櫂人の背後から掛けられた声に反応して動いた視線が捉えたのは、少し眠たげな表情をしたナルの姿。スカート丈だけは若干短くして膝上丈にしていることを除けば学校指定のセーラー服をピシッと着こなした姿は見慣れたものだけど、どうにも眠たげな雰囲気も相俟って今日は微妙に活力的なものを感じられない気がする。
「逢と希ちゃんが? ……そっか。しまった。朝一のメッセージを既読だけで返信してなかったんだ。二人共教室には……居ないか。後で謝っとかないと」
「おいおい、なんだ? いつもきっちりしっかりがデフォルトな久藤 ナルさんにしては随分なボンヤリ具合だな。これは朝っぱらから何か疲れるようなことがあったと? ははぁ~ん。さてさてこれは、もしかしてもしなくとも幼馴染のみぃなぁとくぅ~ん絡みだと俺の第六感が告げたり……はしないな。この様子だと」
うん? 何が僕絡み? ってか、櫂人。人の名前を急に変な緩急付けて呼ばないでくれないかな。すごく気持ち悪いんだけど。
「どうしていきなり湊に絡むのよ。それに、湊の名前を変な感じで呼ばないで。なんだかとっても気持ち悪いから」
あ、ナルもそう思うんだ。ちょっと嬉しい。
「ああ、スマンスマン。悪かった。ちょっとしたノリだよ」
謝罪の体裁は一応取っているけど、櫂人まるで悪びれていないよね。ナルも「まあ、いいわ」って呆れ気味の顔をしてるけど。
「他の皆もそうでしょうけど、昨日の夜の停電の影響があったの。それに、それとは別に朝に少しだけ用事があっただけよ。バタバタしているうちに遅くなっちゃったわ。しかも、結局はいろいろと予定も狂っちゃったし」
「そりゃまたなんとも……ご苦労さん?」
「どうして疑問形なのよ?」
「そりゃまあ、俺は久藤がどれだけ苦労したかなんて正直わかんないからねぇ。雰囲気から予想と推測するくらいはできるけどな。そんな俺っちの勝手な想像だけで苦労したと決めつけるのはよくないんじゃないかと思ってね」
「いや、何なの? その無駄に相手の状況と空気を深読みした気遣い」
「まったくだわ」
「意外と出来る男の子――崎守 櫂人の持つ隠された一面ってやつだよ」
僕とナルの微妙な表情でのツッコミをスルーする“意外と出来る男の子”らしい友人の姿に疲労感が一段増した気がする。でも、そのおかげか眠気が多少解消されたけどね。……まさかそれを狙っての一連の遣り取りだなんてことはないよね?
「それはそうとしてだ。俺と湊が何を話してたってことだけど、そりゃもうたったひとつに決まってる。今さっき登校したばかりの久藤は初耳だろ? 初耳だよな?」
「一体なんのこと?」
「転校生だよ。とぅえんくぉうすぇい。つまりは別の学校から俺達の学校へと所属替えする奴。そんな俺達の見知らぬどこかの誰かが来るらしい。しかも今日。このクラスに」
ドヤ顔の上に転校生についてのめんどくさい言い回しをわざわざした理由は不明だけど、それでも櫂人や他の噂話をしているクラスメイト達のテンションが上がる理由としては納得出来る内容ではある。
気のせいかナルの微妙そうな表情が深まった気がするけど。……あ、ナルは取り敢えず通学カバンを自分の席に置きに行くみたいだ。
「転校生ねぇ。だけど、どうして今? 何でこの時期? もう三年生になってから2ヶ月近く過ぎちゃってるけど。あと1年と経たずに卒業になるのにさ」
「別に変ってことはないだろ。いや、俺自身は転校した経験なんてものがないから実際のとこは知らないけどな。とは言え、家の事情はいろいろあるんだろうし。それに、まだこの時期からなら修学旅行とかのイベントまでも多少は時間があるからな。参加するまでに学校に馴染む期間としては十分とは言わなくてもギリギリセーフなんじゃね? もっとも、転校してくる奴がどんな奴かにもよるけど」
「それにしても皆のテンションが無駄に高過ぎるような気が……」
「出ていくならともかく、こんな田舎に引っ越してくる奴は珍しいからな」
確かに。田舎だから進学とか就職とかで出ていく人はそれなりにいる反面、わざわざ引っ越してくる人は基本的に極少数なのが普通だよね。実際、僕も昨日の夜まではそう思ってたし。
「受験もあるのにねぇ」
「あ~、まあ、それもまだ余裕だろ。どっか都会の進学校とかを志望するって話なら別だけど、そうじゃなければ受験に本腰を入れるのは夏休み明けの修学旅行が終了した後くらいだろうしな。てか、うちの学校の奴なら大半は近くの西高に行くのがほとんどじゃないのか? もしくは上のレベルを目指している奴だと大学進学率が高い県立くらいか? 私立の学校に行くとしたらどこが近かったっけ?」
「どこだろう? どのみち私立なんてこの辺りの近場には無いよね」
我が家の教育方針は基本的に放任主義だから親はあんまり進路についての話はしてこないし、僕自身もまだそこまで真剣に考えていないからその手の話を振られても困るんだけど。……でも、流石に夏休み中にはある程度は決めとかないといけないよなぁ。
「ちょっと、大丈夫なの? 自分のことなのにそんな適当な感じで。言っとくけど、受験直前になってから慌てた挙句に、何でもいいからとりあえず行けそうな学校に行くことにしました――なんて、そんなのは絶対にダメよ」
「う~ん。まあ、わかってはいるんだけどね。とりあえず僕のことは置いといて、ナル自身は進路どうするつもり? 二年の学期末試験の成績だけなら学校内でも上位だったし、普通に県立とかも目指せるよね?」
「どうかしらね。どこに行くかはちょっとまだ決めかねていると言うか。……やっぱり。でも……ねぇ。正直なところだと、いろいろと考え中の模索中って言うのが現状だけど」
「ええっ!? 今さっき僕に言ってたことと違うじゃん。……にしても、意外だ。ナルはその辺は結構すぐに決めてしまって、さっさと進路に向けて準備をしていると思ってたのに。もしかして、どこかの私立とかも考えてたりする?」
「…………まだ、分からないわよ」
あれ? なんだ?
明朗快活タイプのナルにしては珍しく意思表示の曖昧な態度。どういうことだろうか?もしかしてナルは都会の私立の学校とかに進学するつもりなのだとか? もしそうなってナルの家から通うとしたらかなりの遠距離通学になるんじゃあ……。それとも、学生寮とかにでも入るつもりなのだろうか?
「おいおい、話が脱線しちまってるじゃないか。進路についてはまた今度でもいいだろ。それよりも今は転校生のことの方が重要だろ?」
「進路のことは重要でしょ。それにこうやって話している間にもホームルームになるんだから、すぐに答えが出るような噂話をしている意味なんてないと思うんだけど?」
「確かに。ナルの言うとおりだ。あと数分もすればどんな子が転校してくるのかの答えが一発で出るよね」
「わかってない。わかってないな~。湊も久藤も二人揃いも揃って全然わかってないぞ。確かにこんな風に言い合っていようがいまいが関係なく転校生の正体は判明するだろうさ。でも、今はまだ何もわからないだろ? だからこそ、その答えが知れてしまうまでの僅かな時間にいろんなことをあれやこれやと想像するのが楽しんだよ」
「心底無意味な上に暇ねぇ。それに、あんまり良い趣味をしてるとも思えないわよ」
うわぁ、珍しくナルが毒舌だ。しかも結構キレも鋭い。
「何言ってんだい。趣味なんてものは傍から見たらいつだって無意味で暇なもんだろ。なあ、湊さんや?」
「いや、どうだろう」
「……ねぇ。私の気のせいかしら? もしかして崎守って、湊に喧嘩を売っているのかしら?」
あ、あれ? 何故かナルの機嫌がいきなり悪くなってる。櫂人を見る若干冷たい目とか正面で組んだ両腕とか、ナルの全身から怒りのオーラが滲み出ているような気がする。
どうして……って、これ、もしかしなくても僕のことで怒ってる?
確かに僕の趣味は絵とかイラストを描くことだから、興味の無い人から見れば根暗なインドア人間の暇人野郎にしか見えないだろうけど。他人様に見せられるような凄いものでも描ければまた話は違ってくるんだろうけどね。ぶっちゃけ、下手の横好きレベルを自覚しているようなシロモノだしね。
「ちげーから。俺の言い方が悪かったな。要するに楽しみ方も好きも嫌いも人それぞれって話。それに俺は湊の描く絵は嫌いじゃないし。もっとも、奏の描く絵を久藤がどう思ってるのかは知らないけどな」
「…………」
あ、あれ? 何故かナルが僕に向けてくる視線がおかしい。奥歯に物が挟まったみたいな表情とか急に髪を弄り出した右手とか、ナルの全身からもの凄く答え辛そうなオーラが滲み出ている気がする。
「素直な勇気って大事だよな」
「何その台詞? 悪いけど、櫂人の言いたいことが何なのか時々本当にわかんなくなる」
「気にすんな。俺も特に意味もなく適当に言ってみてるだけだから。――って、予鈴が鳴っちまったじゃないか」
何だか上手い具合にはぐらかされた気もするけど、予鈴が鳴った以上はこれまでかな。結局、何だかんだで転校生については殆ど話が出来なかったけど。
「おはようございます。朝のホールルームを始めますので、皆さん席に着いてください」
予鈴を聞いて戻ってきていた何人かのクラスメイト達に声を掛けながら登場したクラス担任の姿を見た櫂人は早々に自分の席へと戻っていく。その後ろ姿は妙にウキウキした様子だけど、あれはきっとこれから転校生の紹介があるからだろう。
「あれ? ナルは席に戻らないの?」
ナルの席は教室の入り口側の中間。列最後尾の窓際横隣りである僕の席からは距離があるのに、何故まだ移動していないのだろう?
「え? ああ、うん、戻るわよ」
急にどうしたんだナルは? 人の顔を見ながらボンヤリして。
「そうだ、湊。昨日の夜に話すつもりだったことだけど、お昼休みにでも話すから。また寝過ごしてすっぽかすなんて真似はやめてよね」
「了解です。気をつけます」
足早に自分の席に戻っていったナルだけど、置き土産的な感じで放たれた皮肉気な台詞が僕の心を容赦なく叩きのめしている。昨日の夜の件は僕が全面的に悪いからね、文句のひとつすら言い様もないんだけど。
「……さ~て。転校生か」
クラスの皆は全員席に着いてはいるけれど、教室内の騒めきは全然止む気配なんてない。勿論、あからさまに騒がしいわけじゃなくて、隣近所の席同士でのヒソヒソ話とかで教室内のボルテージが上がっている感じ。
それにしても、既に転校生が来るって情報はクラスの人間全員に行き渡っているみたいだけど、それで勝手に盛り上がった挙句にこんな意味もなく高い期待値をかけられた状態というのはどうなんだろう? 僕が転校生側だったら絶対に嫌なんだけど。
「すでに知っている人達もいるような様子ですが、本日は転校生が来ています」
因みに、僕達のクラスの担任は若い。大学を出て教師になってから確かまだ今年で2年目。そんな若い女性教師ということもあってか、どうにも普段から生徒達からの距離感も近い。本人もそのことを自覚しているからか、どうにも意識的に教師らしく振舞おうとしている部分がある人だ。
明らかに普段とは違う雰囲気の教室。そんな雰囲気に若干気圧されているのか、何故か時折目を泳がせながらも口を開く担任に教室中の視線が一気に集中する。
「どうぞ、入ってきてください」
入室を促す声に応じるように開いた扉。そこから現れた転入生の姿を見た瞬間、教室中にざわめきが奔った。
ついでに、僕自身にも衝撃が奔った。
「うわっ、綺麗な子……」「ヤバくね? めっちゃ美人じゃん」「ちょっ、レベル高過ぎだろ」「何で制服違うの? ってか、なにあの髪? あの色って地毛?」
うちの学校のセーラー服とは異なる黒のベスト付きの制服に身を包んだ女の子。綺麗なポニーテールにした髪は昨日見た時も思ったことだけど、本当に地毛なのかと疑いたくなる色をしている。
教室のそこかしこで飛び交う言葉は聞こえているだろうに、そんなクラスの反応などまるでお構いなしなのか、ある意味で無表情に近いような静かな顔のまま担任の傍まで進むと、その子はそのまま眉ひとつ動かさずにクラス全体を睥睨するように正面を向く。
実は転校生が来ると聞いた時から秘かに予想していた部分はあった。それでも、実際にこうして現実として直面するとなるとやっぱりそれなりの動揺はあったりする。否が応でもフラッシュバックしてくる昨晩の出来事とか、いろんな意味で気まずい。
「ええっと、この子が今日からこのクラスの一員となります」
背筋をピシッと伸ばした不動の姿勢で屹立する姿が何だか軍人染みていて、しかもにこやかな雰囲気の欠片もない転校生の様子に戸惑いながらも口を開く担任の姿には思わず同情すら感じてしまう。よく耳にする話だけど、“教師”って職業は本当に苦労が多そうだ。
「では、自己紹介をお願いしますね。やつ――」
「不知火です」
透き通るように響く声。それは、恐ろしい程に冷やかだった。
「……え? し、しらぬい? あ、あの……なんですかそれは? あなたの名前は“やつし――」
「知りません。不知火は不知火です。それ以上の紹介は必要ありません。――何か問題でも?」
“問答無用”“言語道断”――正しくそんな四文字熟語が浮かんでくる感じ。
動揺する担任の言葉を遮るように発せられた言葉は鋭くて、それに加えて向けられた視線は言葉以上に鋭かった。
その鋭さは急展開に困惑するクラスの皆に対して向けられた一瞬の一瞥、ただそれだけで教室内に充満していたざわめきを瞬時に黙らせてしまうレベル。転校生が女子だったことでテンションが上がっていた一部の意気軒高な男子連中ですら問答無用で黙らせてしまうのだから、もはやある種の対人用兵器と言ってもいいんじゃないかって思う。
「何か問題でも?」
「え、え~と。じゃあ、そういうことで。え~、あ~、し、不知火……さん? どうやら今の彼女は緊張しているみたいですし、彼女に何か質問とかがある場合はクラスの皆さんが各自でしてくださいね。そ、それじゃあ、今日の朝のホームルームはこれで終了します。一時限目は山川先生の数学ですから、ちゃんと授業の準備をしていてくださいね。それと、先週に連絡はしていましたけど、今日の午後の授業予定が変更されていますのでそれにも注意してください。それで……し、不知火さんは……と、とりあえずは席に着いていてください。あの一番奥の窓際の席が空いていますから。隣の席の鳩羽【はとば】君、彼女のことをよろしくお願いしますね!」
淡々と繰り返された言葉と相反するような鋭く射殺すような視線。自分よりも遥かに年齢が下の筈の女の子が放つ謎の圧倒的に迫力に気圧されたのか、顔をかなり引き攣らせた担任は口を開くと矢継ぎ早に言葉を発してホームルームを終わらせると、最後の最後で何故か僕にその後の対応を全て丸投げにするような台詞を放ってきた。
「マジですか?」
思わず呟きが出る。確かに席は隣だよ。でも、幾らなんでも適当過ぎるというか、担任としても教師としてもあまりにも無責任過ぎる気がするのだけれど。
幾ら教員生活2年目のまだまだ新米に毛が生えた程度の身の上で突如降って湧いてきた厄介な生徒への応対に窮したのは分かるよ。でも、曲がりなりにも生徒を導く立場である教職に就く人間がそれでいいのだろうかと思います。
そそくさと教室を出ていった担任の姿を尻目に、教室中から注がれる好奇とか戸惑いとか若干の恐怖とかの視線を一身に受けながらもまるで自分には一切関係ないとばかりな様子で教室を縦断してゆく転校生。
横を通り過ぎる瞬間に思わず身を引いてしまっている何人かのクラスメイト達の様子を見ていると、彼女のこれからの学校生活は相当以上に前途多難なものになるんじゃないのかと心配を募らせずにはいられない。
黒板前から教室の一番奥である列最後尾窓際の席までに至る移動時間は十数秒。その僅かな時間が僕に心の準備を済ませるまでに与えられた猶予期間。ハッキリ言って全然足らないけれども、それでもどうにか踏ん切りと覚悟は決める。たとえ本当のところは決まっていなくても、決まったことにしておく。だってほら、もう彼女はすぐそこに来ている。タイムオーバーだ。
「……………………」
うあああ、見てる。見てるよ。
もしかしたら教室に入って着た時点から気付いていたのかもしれない。でも、間近に近付いたことで確実に認識したであろう僕の顔を鋭くて冷たい視線が刺し貫いてくる。
教室にいるのは見知らぬ顔ぶれだらけで、その中で見知った顔に出逢ったのだから何かしらのリアクションがあってもいいと思うのに、鉄面皮な表情には変化の兆しが一切見受けられない。
綺麗で美人ではあるけど。
女の子だけど、“容姿端麗”と言うよりは“眉目秀麗”と言う四文字熟語が当て嵌まる子だけど。
漂わせている空気に“愛嬌”とか“親しみ”とかって言葉が一切当て嵌まらない子だけど。
終始無言を貫いて僕の横を通り過ぎ、指定された席に着いた彼女。前の席に座っている少し気の弱いところのある中村さんなんかは転校生の一挙一動で何度か肩を跳ねさせる反応をしている。大丈夫だろうか?
「は、鳩羽 湊です。どうぞよろしく」
何はともあれど、まずは挨拶だ。
僕自身が一番当り障りのない思われる表情を精一杯顔面に浮かべ、可能な限り穏やかでにこやかな感じのニュアンスを込めて挨拶をしてみる。
子供が愛敬笑いを振りまくようなことに眉を顰める人もいるらしいけれど、僕的には問題が起こらず人間関係が円滑に進むのならば愛敬笑いもゴマ擦り太鼓持ちもドーンと持ってこいだと思う。現実問題として、中学生くらいにもなると人間関係ってやつは非常に複雑で面倒臭くなるし。特に女の子相手は。
「……………………」
――ヤバいっ!! 何がヤバいって? 圧力! 僕を見詰めての無言の圧力が重い! とんでもなく重い!! そして、それ以上に向けられる視線が重い。いや、正確には怖い! 何をどう言っても怖い!! なんかもう、視線とかじゃなくて……眼光? そう、眼光の鋭さとかが半端じゃない! さっき担任とかクラスの皆とかに向けていたものとは比較にならないくらい!! 少なくとも、普通の中学生の女の子が放てるようなレベルの眼光じゃないよこれ!!
「名前……不知火さん? で、いいんだよね? 合ってるよね?」
僕はインドア派ではあっても別にコミュ障とかではないと思っている。でも、気の弱い人間なら瞬時に射殺せるレベルの、それこそ魔王級とか戦艦級とかって感じの人の手ではどうにもならないレベルの眼光を向けられ続けて平然としていられる程に鋼の精神を持った人間でもない。その上、リアクションをまったく返してくれないような相手ともなれば対処の難易度が高過ぎる。
「あっ、僕の名前は鳩羽 湊って言うんだけど」
「知ってます。先程聞きました」
嫌な汗が背中を伝う僕に対して、ようやく返って来た反応。その第一声は予想通りの冷たさ。機械的で無感情な平坦とした音程の声。強烈な意思を感じさせる眼光とはある意味で真逆だ。
「隣の席だし、何か困ったことがあれば言ってよ。僕に出来ることなら協力するから」
既に今の状況からではどう転んでも不知火さんが僕に助けを求めてくるなんてことは絶対にないような気もするけど、それでも同じクラスで隣の席となった誼で親切にすることだけは伝えておく。勢いで「先生にも頼まれたし」と言葉を続けかけて、口に出す寸前で止める。流石にこの台詞は失礼だろう。
教室中からの様々な種類の視線が集中している中、どうにも道化染みた役割を演じている気分だった。そして、残念ながら助けの手を差し伸べてくれる人間は今のところいそうにない。一限目が生徒に厳しめの数学の山川先生による授業だからその準備もしておかなければならない中途半端なこの瞬間、クラスの全員が下手に行動せずに様子見に徹している。成程、僕は道化じゃなくて生贄であり試金石でありモルモットだったのか。
近しい友人達に救いの視線を向けてみれば、櫂人の方は何か非常に楽しげ且つ興味深げな表情で頷くだけ。ナルの方は意外にもあんまり興味がなさそうな顔で時折こちらに視線を送ってくる程度。
……あれ? 何だろう? 今、一瞬だけ険しい顔をしていたような……。でも、どちらかと言うとナルの視線は僕じゃなくて不知火さんの方を向いていた?
不知火さんの方に視線を戻すと、既に教科書を机の上に開き終えていた。転校初日でまだ教科書やらを用意してなくて、横の席の人間が見せるって感じのよくマンガとかであるような展開もないわけか。
周囲や僕からの視線なんてお構いなしなのだろう。彼女は窓の外へと顔を向けていた。微かに覗く鋭い眼光はそのままだけど、それでも五月晴れの青空をバックにした横顔はすぐにでも絵のモデルにしたくなる程に綺麗なものだった。
つい昨日までは平穏な学生生活を送っていた筈なのに、ほんの数時間で劇的に変化しそうな状況と近い将来に穴が開くかもしれない自分の胃の運命を思って小さく溜息を吐く。
本鈴のチャイムが響く中、数学教諭の山川先生が教室の扉を開いて現れる。今日の日直による号令と挨拶の後はすぐに始まる授業。山川先生の授業中には無駄話をしない姿勢は賛否が分かれるところではあるけど、今日のこの時ばかりは少しだけ感謝。
黒板に休みなく羅列されていく数式の数々は相変わらず数学が苦手な僕には難解で、今日から隣の席に座ることになった彼女もきっと僕には難解なんだろう。
僕の言葉に耳を傾けているのかすらまったくもって不明ではあるけれど、それでも聞き流す程度のことはしていると信じて言葉を掛けることにする。
「何はともあれ、よろしく」
本当にね。よろしくできればいいと思う。
山あり谷ありが人生。
これより主人公の受難(主に胃への)が始まります。