親愛なる貴方へ。
長い長い冬が明け、
溢れる新緑にはいくつもの蕾が芽吹き、もうじき色鮮やかな花を咲かせるでしょう。
貴方が好きだと言ったあの花も、きっと。
ねえ、貴方は憶えていますか?
町外れの公園。
一本だけ高く伸びた桜の木。
木の葉を揺らす春風。
私は今でも鮮明に憶えているよ。
貴方と出逢ったあの日のことを、まるで昨日のことのように、はっきりと──
*
「十三番隊第七席
その中枢に位置する隊首室の前で沙羅が声を上げると、部屋の主である十三番隊隊長──浮竹十四郎は笑顔で彼女を迎え入れた。
「ああ、おかえり沙羅。急な任務で悪かったな。大丈夫だったか?」
「はい。東四十八地区の暴動は完全に鎮圧されました。怪我人は数名出ましたがいずれも軽傷ですし、管理区の者には今後の管理体制について十分に指導しました。当面は再発の懸念もないと思われます」
「そうか、ご苦労さん」
浮竹に一通りの報告を終えたところで、沙羅は気遣わしげな視線で上官を見上げる。
「それより隊長。横になっていなくて大丈夫なんですか? 身体に障るんじゃ──」
「心配ないさ。今日は調子がいいんだ。それにたまには身体を動かさないとかえって不健康だしな」
そう言って肩をグルグルと振り回してみせる浮竹にも、沙羅は硬い面持ちを浮かべたまま。
「そんなこと言ってこの前みたいに突然倒れたりしないでくださいね」
「ははは、手厳しいな沙羅は」
「笑いごとじゃないですよ! こっちはビックリして心臓止まるかと思ったんですから!」
「実際心臓が止まりそうだったのは俺だけどなぁ、なーんて……冗談だよ、そんなに怖い顔するなって」
苦笑いする浮竹を一瞥して沙羅はそっぽを向いた。
まったく、この隊長ときたら。周りがどれだけ心配しているかわかっているのだろうか。
数週間前に突然隊舎で倒れたときだって、それこそ瀞霊廷中がひっくり返るくらいの大騒動になったというのに。(結局はただの寝不足によるものだということが判明し、その後一週間浮竹は寝室から出ることを認められなかった)
「スマンスマン、悪かったよ。これでも食って機嫌直してくれ」
「……子供ですか私は」
「ん? 嫌いか?」
茶菓子の詰めこまれた籠を差しだして首を傾げる浮竹。
頭は切れるくせにこういう緩いところもあるのが、この隊長の憎めないところでもあったりする。
そしてそれが、彼が多くの隊士たちから慕われる理由のひとつでもあるのだけれど。
「……好きです。ここのお饅頭、おいしいし」
まだ少し膨れつつも饅頭を手に取った沙羅に、浮竹は嬉しそうに頬を緩ませた。
「ところで沙羅。おまえを見込んでひとつ頼みがあるんだが」
ちょうど沙羅が饅頭の最後の一口を平らげたところで、じっと窓の外を眺めていた浮竹が切りだした。
「まあ遠回しに言っても仕方がないな。副隊長への昇格の件だ」
「…………」
しばし黙りこんでから、沙羅は手の中の湯呑みを茶托の上に置いて顔を上げる。
「その話ならもう何度もお断りさせていただいたはずです」
「そう言うなよ。副隊長に相応しいのはおまえしかいないんだ」
「いるじゃないですか、私の上に何人も。七席の私なんかがいきなり副隊長になったら、それこそ暴動が起きますよ」
「おまえが副隊長になって文句を言う者なんてひとりもいないさ。むしろなぜおまえを上位席官につけないのかと上から怒られるくらいだ」
肩をすくめておどけてはいるものの、浮竹が決して冗談で言っているわけじゃないことくらいはわかっている。けれど──
「……買い被りすぎです」
「そういうおまえは自分を過小評価しすぎなんじゃないのか?」
「そんなこと──」
首を横に振って、俯く。
その様子に浮竹は表情を和らげた。
「そんな顔をするな。別に困らせたくて言ってるわけじゃない。ただ俺は──海燕の跡を継げるのはおまえしかいないと思ってる。それだけだ」
「隊長……」
「俺もこんな身体だし、沙羅が副官になってくれれば安心できるんだけどな?」
にこ、と悪びれのない笑顔を向けられてしまってはそれ以上言葉を返せない。
本当にこの人は。人の心を惹きつけるのがうますぎて、困る。
「少し……時間をもらってもいいですか?」
「もちろんだ、返事はいつでも構わない。ゆっくり考えてくれ」
優しい声音で頷いた浮竹に頭をさげて、沙羅は隊首室をあとにした。
*
「沙羅ー!」
隊舎を出たところで響いた声に振り返ると、よく見知った顔が手を振りながら駆けよってくるところだった。
「今から休憩? ね、それじゃご飯食べに行かない? 繁華街においしい定食屋さんができたんだって!」
十番隊副隊長、そして無二の親友でもある松本乱菊の誘いを断る理由もなく、沙羅はふたつ返事で頷いた。
「いいじゃない、引き受けちゃえば。浮竹隊長じきじきの推薦なんでしょ?」
「そういうわけにはいかないよ」
目の前に運ばれてきた御膳に箸を伸ばしながら、乱菊は「あら」と顔を上げた。
「どうして? 副隊長はいいわよ~。面倒な雑用は全部下っ端に押しつけちゃえばいいんだし、自分じゃ手に負えそうになかったら隊長任せにすればいいんだから!」
さばの味噌煮にかじりつきながら言う乱菊に、十番隊の隊長と隊士たちはさぞや大変だろうな、と内心で苦笑をもらす。
「私には無理だよ」
「なにをそんなにしぶってるわけ?」
「しぶってるっていうか自信がないの。まだ七席の身なのにいきなり副隊長だなんて」
「それだけ沙羅の能力を買ってくれてるってことじゃない。自信を持つべきところよ、それは」
「うん、ありがたいとは思う。けど……私は海燕先輩のようにはなれないし」
その名を口にして脳裏に鮮明に蘇るのは、屈託のない笑顔。
正義感が強く、面倒見がよくて、十三番隊の隊士を一手にまとめあげていた敬愛する元副隊長。
「──バカね。誰も志波副隊長のようになれなんて言ってないわよ」
「うん……それもわかってる」
「だったらうだうだ悩んでないでさっさと決めちゃいなさいよ。あんたはあんたらしく! それが一番でしょ?」
カラリとした笑顔で言い切る乱菊。
彼女の言葉を借りるとすれば、こういうところが「乱菊らしい」と思う。彼女ならではの美徳のひとつだ。
「……そうだね。ありがと乱菊。もうちょっと考えてみる」
向かい合わせに座る親友に笑顔を返して、沙羅も自身の生姜焼き定食に箸を伸ばした。
「あ、そうそう。今度の任務の話聞いた?」
「ううん。なに?」
食後のお茶をすすりながら見上げると、乱菊はニンマリと笑みを浮かべた。
「ふふ~。実はね、今度の任務はうちの十番隊とあんたんとこの十三番隊との共同任務なのよ。──で、なんと沙羅とあたしは一緒の班!」
「えっそうなの! 乱菊と一緒に組むのなんてずいぶん久しぶりじゃない?」
「そうよぉ。まだあんたが平隊士だった頃に組んだのが最後だったかしらね」
「任務内容は?」
「なんてことないわ。現世での偵察任務。出発は三日後の正午、
「了解!」
穿界門か──
現世に降りるのはいつ以来だろう。
込みあげる懐かしさに沙羅は自然と顔を綻ばせていた。
*
「──以上、十番隊副隊長松本乱菊、十三番隊第七席草薙沙羅より報告……っと。きゃー! 終わった終わったー!」
最後の報告書を懐にしまって歓声を上げる乱菊。その隣で沙羅もほっと肩の力を抜いた。
「お疲れ様。予定よりだいぶ早く終わったね」
「終わったんじゃなくて終わらせたのよ。さっ、早く行きましょ!」
「え?」
どこに、と問いかける沙羅に乱菊は「はぁ?」と片眉をつりあげる。
「ばっかねぇ。街に決まってるでしょ! 現世にはおしゃれなショップがいっぱいあるし、うるさい監視の目はないし、遊び放題じゃない!」
「……乱菊。今回の任務、やけに張りきってると思ったらそのせい?」
「なによ今さら。あったりまえでしょ」
ひとかけらの迷いも見せずに頷く乱菊に沙羅はガクリとうなだれた。
いつになく真剣な様子で任務に取りくむ彼女を見て、「ああ、やっぱり副隊長だな」とひそかに感心していたのに。
「あのね。私たちが必要以上に現世に干渉することは禁じられてるでしょ」
「あーもう、だからあんたは固いって言ってんのよ。いーい沙羅? 人生楽しんだもん勝ちよ。黙って待ってたって楽しいことなんて起こりゃしないんだから」
「そういう問題じゃ……」
「とーにーかーく! あたしは適当に回ってくるから、またあとで合流しましょ。三時間後にここに集合よ、いいわね?」
「ら」
呼びとめる間もなく乱菊の姿は消えていた。
「──ったくもう」
やれやれと息をついて、辺りを見回す。
さて、今から三時間。どうしよう。
さすがに乱菊のように義骸に入って街へ繰りだそうという気にはなれない。
大人しく待つにしても、いくら霊体とはいえ霊力がある人間には気づかれないとも限らない。
そう思うと、自然足は
*
空座町の外れの森の奥にある公園には、樹齢数百年はあろうかと思わせる巨大な桜の木がひっそりとそびえ立っていた。
枝にはちらほらと蕾が芽生えていて、開花の時期が近づいていることを知らせている。この桜の蕾が満開となる日もそう遠くはないだろう。
別にこの場所を選んで来たわけじゃなかった。
ただなんとなく。どこに身を隠そうかと高台から辺りを見渡したときに、ふと目に止まったのがこの一本だけとびぬけた桜の木で。
そこからはなかば無意識のうちに足を運んでいた。
「ここなら誰も来ないよね」
辺りに人の気配がないのを確認して、太い幹の根元にゆっくりと腰をおろす。
下から見上げるともう頂上は確認できないほどの高さで、本当に大きな木なんだ、と思いながら沙羅はふと違和感を覚えた。
……なぜだろう。
初めて訪れた場所なのに、どこか懐かしい。
まるでずっと前からこの場所を知っていたかのような──そんな感覚。
不思議な感覚に身を委ねて瞼を閉じると、葉と葉の間から射しこむ木洩れ日が心地良くて眠気を誘った。
さわさわと木の葉を揺らす風に吹かれているうちに、気づけば沙羅はまどろみの中に落ちていた──……
夢を見た。
誰かの声が聞こえる。
それはひどく哀しい声。
必死に私の名を呼んでいる。
応えようと口を開いても、声が出ない。
どんなに喉に力をこめても、音にならない。
その間も声は私を呼びつづけている。
大丈夫、私はここにいるよ。
あなたの声はちゃんと私に届いてるよ。
だからお願い。
そんなに哀しそうな声で
私を呼ばないで──
薄く開いた視界の中、さらりと黒い髪が風に舞った。
覚醒していく意識とともにその姿は次第にあらわになる。
「え……」
喉からかすれた声がもれた。
やっと声が出た、と驚くよりも先に目の前に映しだされた姿に釘づけになる。
白い装束に、割れた仮面。首元に覗く孔。
それは
ヒトであって
ヒトでないもの
「
「こんなところで昼寝とはな。ずいぶん気の抜けた死神もいるものだ」
静かに響いた低音に、今度こそはっきりと目が覚めた。
どうやらもう夢ではないらしい。
「……本物?」
「偽物などいるのか」
放たれた声に抑揚はなく。独特の白装束に身を包んだその男は、虚を思わせる仮面の下から冷ややかな
──本物だ。本物の破面だ。
故に尸魂界からは滅却すべき魂として位置づけられている──言わば宿敵。
「敵を前にして斬魄刀も構えないのか」
呆然と立ちすくむ姿はよほど隙だらけだったのか、破面の男が問いかけてきた。
至極もっともな問いだと思う。が。
「構えたほうがいいの?」
沙羅は真顔で聞き返した。
なぜならこの破面の男からは全くと言っていいほど殺気が感じられなかったから。
そもそも目の前で寝こけていた時点で死んだも同然だ。
相手がその気なら、沙羅はあのまま一度も目覚めることなく消滅していたに違いない。
それを思えば今さら斬魄刀を構えたところで意味はない、そう考えていた。
どうやら本当に戦意がないらしい破面に、沙羅は内心でほっと息をつく。
なんにせよ、無駄な争いを避けるに越したことはない。
「破面がどうして現世にいるの?」
「答える必要はない」
「……それもそうね」
と一度は頷いたものの沙羅はすぐに「あ」と声を上げて。
「せめてここになにしに来たのかだけでも教えてくれない?」
「知ってどうする?」
「だって、ほら。ひょっとして私、捕まえられちゃうのかなって思って……」
頬をかきつつ見上げれば破面の男は疲れたように嘆息した。
「こんな場所で昼寝をするような死神を捕らえたところでなんの利もない。かえって荷物になるだけだ」
「……そんな言い方しなくても」
「言い足りないか?」
「十分です」
むっと眉をしかめてそう言ってから、いつのまにか緊張を解いている自身に気づく。
破面と呼ばれる存在と直接対峙したのは初めてだが、抱いていた人物像とは全くかけ離れていた。
まさかこんな風にまともな会話が成り立つ相手とは思ってもみなかった。
だからかもしれない。
初対面の、しかも立場上は敵として位置づけられている相手を前に、こんなにも気が緩んでしまうのは。
そこまで納得しかけて、ふと引っかかった。
……本当に、それだけ?
「──おい」
「……えっ! あ、ごめんなさい、なに?」
「おまえは散々邪魔をしておいてまだ居座るつもりか?」
「え?」
言われた意味がわからずぱちぱちと目を瞬く。
「いい加減俺の場所を返せと言っている」
「俺の場所?」
男は白い手ですっと上方を指差した。
その先を目で追うと、桜の大木のほぼ頂上近くに、ちょうど人ひとり分横になれそうなくらいの太い幹が見えた。
「……この辺りで一番高い場所だ。町全体を一望できる」
なるほど、あの高さならさぞ眺めも良さそうだ。
つまりはそこが「彼の場所」──なのだろう。
と、いうことは。
「もしかして、私……すごく邪魔してた?」
「ああ」
取りつく島もない返事をさらりとよこした男に、沙羅は小さくなって首を引っこめた。
「ごめんね。それならそうと言ってくれればよかったのに」
桜の根元から
「全くだな。まさかここまで起きないとは思わなかった」
「え……いつからいたの?」
「三時間は経ったか」
「三時間っ!?」
素っ頓狂な声を上げて沙羅はすぐさま時計を確認した。
公園の時計台が指し示している時間は──六時。
「やだっ! 約束の時間とっくに過ぎてるじゃない! 黙って見てないで起こしてくれればよかったのに!」
「おまえな……」
元の表情よりも更に仏頂面になっている男には目もくれず、わたわたと身支度を整える。と、そこに。
「……見つけたわよ……」
「ひええぇっ!」
肩を震わせて振り返れば、両手に買い物袋を引っさげた乱菊が公園の入り口に仁王立ちしているのが視界に入った。
「今何時だと思ってんのよ! 探したんだからね!」
「ごめんごめん。実はその──」
凄みのある形相で詰めよる乱菊に気圧されて、仕方なしにチラリと背後を見やる。すると。
「……あれ?」
桜の木の下には誰もいなかった。ほんの一時前まで誰かが存在していたなんて嘘のように、跡形もなく。
「ちょっと。聞いてるの? こんなところでなにしてたのよ」
「あ、えーと。……昼寝?」
「はあ!? 信じらんない、せっかく現世で羽を伸ばす機会だったっていうのに」
「十分伸ばせたよ。久々にゆっくり眠れたし」
うーんと大きく背伸びをして笑ってみせると、乱菊は呆れ顔で肩をすくめた。
「ったくあんたって子は……。ま、いいわ。時間がないから早く戻りましょ!」
「うん──」
穿界門をくぐる乱菊のあとを追いながら、最後にもう一度振り返る。
夕闇が迫る町外れの公園には、やはり人の気配は感じられなかったけれど。
門が閉じる最後の瞬間、桜の大木の頂上にふわりと白が舞った──そんな気がした。
「…………変わった人」
尸魂界へと繋がる道を歩みながらくすりと笑みをもらす。
いや、正確には「人」ではない。
「人」ではないが、少なくとも沙羅が想像していた「破面」とも違った。
できることなら──
「ちょっとー沙羅! 置いてくわよ!」
「はーい、今行く!」
前方から乱菊の甲高い声が響いて、沙羅は慌てて駆けだした。
できることなら、もう一度逢いたい。
逢って話をしてみたい。
不思議とそんな気にさせる相手だった。
それが沙羅と彼──ウルキオラとの出逢いだった。
***
《Under the Cherry…桜の下で》
長い長い物語の幕開け。