これでよかったんだ──
そう言い聞かせる理性とは裏腹に、頭は否応なしにあの日の映像を繰り返し再生した。
『ずるいよ……』
涙に濡れた濃紫の瞳が頭から離れない。
『ウルキオラ────っ!!』
彼女の哀しみに満ちた声も、嘆きも、なにもかもが頭から離れない。暴れだす悔恨の念を歯を食いしばって胸の内に押しとどめる。
仕方ない。仕方なかった。あのまま傍にいれば、俺はもっと彼女を傷つけた。
どれだけ深く心を通わせようと、所詮は破面と死神。その間にはどうあがいても越えようのない高い隔たりがある。
だから……これでよかったんだ。
しばらくソファーに身を預けて瞼を閉じていると、扉を隔てて同じ十刃である水浅葱の髪の男の声が響いた。
「おい。任務の時間だ」
「……ああ」
けだるい体を引きずり起こして、白の上着に袖を通した。
こうして俺は、今日もこの服を罪なき死神の血で赤く染めぬく。虚の本能に突き動かされるまま、意味のない殺戮を繰り返す。
沙羅──……
できることなら、いっそ全て忘れてほしい。遥か彼方の記憶など、そのまま失くしてしまって構わない。
そして『過去』の俺のことも、『今』の俺のことも、全て忘れて。おまえにはただ遠い異界の空の下で笑っていてほしい。
幸せになってほしい。
それだけが、二度の生を以てしてもおまえを傷つけることしか叶わなかった、俺の唯一の願いだから──
*
十日ぶりにその公園に足を踏みいれた瞬間、沙羅は息をのんだ。
「あ……」
ゆっくりと頭上を仰いで呆然と呟く。
「咲いちゃったんだ──」
見上げた桜の枝には薄桃色に色づく鮮やかな花が咲き乱れていた。
「……綺麗……」
幾重にも別れた巨大な桜の枝が一斉に花開くさまは圧巻で、思わずそうもらしたのは本心から。だがいくらその美しさを眺めても心は一向に弾まず、ただ言いようのない物哀しさだけがこみあげた。ほんの少し前まではあんなに開花するのを待ち侘びていたのに。
『──おまえとなら見ていて飽きないだろうな』
ちょうど沙羅が今立っている場所のすぐ隣で、一緒に桜を仰いでいた彼がふと告げた言葉が甦る。穏やかな眼差しと重なって、心がくすぐったくなったのを今でもはっきりと憶えている。
「約束は……もう無効かな」
ここで花見の約束をしたあの日がひどく昔のことのように思えた。あの頂上近くの太い幹、ふたり並んで腰かけて、他愛のない話で笑い合ったことも。
急に目頭が熱くなって沙羅は慌てて振り切った。
泣きにきたんじゃない、確かめにきたんだ。キッと顔をあげて桜の木へと歩み寄る。
初めてウルキオラに出逢った場所。
初めてあの夢を見た場所。
全てのきっかけはこの場所にあった。そしてそれはただの偶然じゃない。
ぺたりと桜の幹に手を触れてみる。そこに温もりがあるわけでもドクドクと脈打っているわけでもないけれど、不思議と心は安らいだ。
最初にこの場所を訪れたときに感じた懐かしさは気のせいなんかじゃなかったんだ。私はずっと前からこの場所を知っていた。
そして…………彼も。
夢の中、哀しそうに自分を呼んでいたあの声。
それはこの
ウルキオラ──私たちは遠い昔にも出逢ったことがある?
あなたは私を知っていたの?
ここに来ればなにかがわかると思っていたのに、ただ懐かしさがこみあげるばかりでどうしても思いだせない。あと少しで全てが繋がるのに。
胸を焼くもどかしさに耐えきれずすがるように桜の幹に手を回す。と、伸ばした指先にかすかな違和感を感じた。
「……?」
怪訝に思って覗きこむと、桜の樹皮がそこだけ綺麗にえぐられたような奇妙な跡が視界に映った。
えぐられた、というよりもなにかを深く突き立てられたと言ったほうが近いかもしれない。いつ残された傷跡なのか、パッと見た程度では十分に幹の木目として見なせるほど桜と一体化している。だから今の今までちっとも気づかなかった。
つきん、と刺すような痛みを覚えて左胸を押さえる。そしてもう一方の手をゆっくりと一番深くえぐられた部分に伸ばし、触れた。
「──っ!?」
その途端、触れた部分から熱がはしり沙羅は咄嗟に目を瞑った。すぐさま身構えると同時に開いた視界に見えたのは──白。
「な……なにこれ」
四方を見渡しても、見えるのはただ白い
『沙羅……』
「……え……?」
ふいにどこからか響いたのは、あの声。それと同時に理解した。そうだ、ここはあの夢の中の世界だ。
だがいつもとは決定的に違うことがひとつある。それは沙羅がはっきりと意識を保っているということ。
どれだけ目を凝らしても見えない声の主を求めて、沙羅は静かに彼の名を呼んだ。
「ウルキオラ……?」
『沙羅……』
一瞬声に応えてくれたのかと思ったが、次に続いた言葉ですぐにそうではないとわかった。
『死ぬな……沙羅……』
ああ……
また、あのときの──
鋭い痛みが胸を襲う。
「くっ……!」
心臓の辺りを押さえて呻いていると、がくんと体から力が抜けた。抗う術もなく後ろに倒れこむ。
だが覚悟していた衝撃は訪れなかった。瞼を開いて、自分が誰かの腕に抱きとめられていることに気づいた。
「あな、たは……」
白い世界が次第に色を取り戻していく。
光と影が舞い降りて、世界の輪郭を描いてゆく。
そしてその中で最も近くにあったその色に沙羅は目を奪われた。
それは
哀しそうに細められた
翡翠の瞳。
ああ そうだ
どうして忘れていたんだろう
こんなに大切な人だったのに
『また俺を……ひとりにするのか? 俺を置いて逝くのか……?』
「シオ……ンっ」
彼が自分に対して一番始めに名乗った名前を呼ぼうとして、うまく声が出ないことに気づいた。手を伸ばそうにも力が入らない。
『おまえと逢えて、やっと……やっと護るものができたのに……』
自分を抱く腕がかたかたと震えている。
……泣いているの?
ごめん。ごめんね。だけど今の私にはもう、その涙を拭ってあげることすらできない。
霞む視界にふわ、と桜の花びらが舞った。彼の背後に、沙羅が知っている姿よりも幾分背丈の低いあの桜の木が映る。
お願い、どうか哀しまないで。
もうあなたの傍にはいられないけど。あなたが好きだったこの桜の下に私は眠るよ。そしてどんなに厳しい寒さに襲われようとも、春が来ればまた綺麗な花を咲かせるから。
だから……またここで逢おうね。
『沙羅────っ!!』
視界は白く染まり、彼の叫びも遠く彼方へ消えていった。そうして静まり返った空間にたゆたう沙羅の意識の中に、記憶がまるで激流のように押し寄せてきた。
*
目を開いたとき沙羅は桜の幹にもたれて座り込んでいた。
自分の存在を確かめるように怖々と頬に触れ、そこで初めて泣いていることに気づく。置かれている状況を把握するのに多少の時間は要したものの、頭はやけにすっきりと冴えわたっていた。
「そっか……」
ともすれば風の音に消えそうな小さな声で、沙羅はぽつりと呟いた。
記憶の中、無数に散りばめられた欠片は今綺麗に繋ぎ合わされ一本の道筋を描いている。遠い過去から今この時までの、長い長い運命の螺旋を。
「そうだったんだ……」
全ての記憶を取り戻した沙羅が思うことはただひとつ。ウルキオラに会わなければ。会って、伝えなければならないことがある。
だけど、と拳を握りしめる。どうすれば会えるというのか。別れを告げて去ったウルキオラが、再びこの場所に現れるとは考えにくい。かと言ってここ以外に彼が向かいそうな場所など見当もつかなかった。
つくづく自分はあの人のことをなにも理解していなかったのだと思い知らされる。思えばいつも話を聞いてもらうばかりだった。沙羅がどんなにくだらない悩みや相談をぶつけても、ウルキオラはただ黙ってそれを受けとめてくれた。
嘘じゃなかった。
あの優しさも、あの微笑みも、あの温もりも。全て嘘なんかじゃなかったのに。
私はなにひとつとして気づけなかった。
『おまえ、前世ではどんな人間だったんだ?』
そう問いかけたときの彼のかすかな期待も。
『おまえは……本当になにも覚えていないのだな……』
そう告げたときの彼の哀しみも。
『沙羅』
『……よかったな』
『知らないほうがいいこともある』
『俺を殺せ』
『すまない……』
これまで共に過ごしてきた多くの時間の中で、彼がたったひとり過去の呵責を背負い続けてきたのだということも──
胸が押し潰されそうに軋んだ。
もっと早くその苦しみに気づいていれば。もっと早く思い出していれば──そう悲観に暮れるのは容易い。けれどそれでなにが変わるというのか。
沙羅はおもむろに桜の根元から立ちあがり、死覇装に付着した土を払った。涙の跡を拭い、顔をあげる。
ウルキオラとの接点を見つけだすとすればこの現世をおいてほかにない。以前語り合ったときにも、最近は特にここ空座町での任務が多いという話をしていた。強い霊圧をしらみ潰しに捜していけば運が良ければ巡り会えるかもしれない。
例えそれがどんなにわずかな可能性だとしても、このまま諦めるわけにはいかない。彼を諦めることなんてできない。
口の端を固く結んで沙羅は公園から跳び立った。
逢いたい。
ウルキオラに逢いたい。
ただその想いだけを抱えて高濃度の霊圧反応を探るも、見つかるものと言ったら怨念に取り憑かれて善良なる魂魄を襲う虚ばかり。
その日何度目かになる虚の昇華を終え、斬魄刀を鞘に戻しながら沙羅は人知れず溜め息をもらした。
「なにやってるんだろ、私……」
相手は異界の住人、そう簡単に逢えるはずもない。頭ではわかっていても太陽が西に傾くほど落胆は深まった。
次の場所でも見つからなかったら、今日はもう帰ろう。茜色に染まる街並みを遠目にそう思った矢先、不意に巨大な霊圧の波動を感じた。
「……っ!」
空気がビリビリと震える。肌を刺すようなその感覚に背中を冷や汗が伝う。
まさか
まさか──
祈るように跳んだその先で、眩しい白が風に舞った。
*
空座町の西方、夕焼けに染まる森を背景に、そこだけがまるで切り取られたかのように白く浮かびあがっていた。
これまでに幾度となく目にした純白の衣。
「ウル──……!」
少し距離を残して着地し、その後ろ姿に向かって声をあげたところで沙羅は硬直した。
「……あァ?」
振り返りざまに風に揺れたその髪は、黒ではなく、空の色。
そして完全に自分の姿を捉えて細められた瞳も、翡翠ではなく、髪と同じ色。
「てめえ……死神か」
鋭い眼光を光らせたその男に沙羅の脳内で一斉に警鐘が鳴り響いた。それは闘いの中に身を置く者のいわば本能的な警告。
険しい面持ちで後ずさった沙羅に、男はニヤリと口元を歪めた。
「……はっ。懲りねえやつらだな、死神ってのも。またこの前の連中みたいに殺されたいのかよ?」
男が発した言葉に沙羅の動きがとまる。
「……この前?」
甦る惨劇の場。駆けつけたときいまだあの場に色濃く残されていた禍々しい霊圧と、今目の前の男から感じる霊圧は異様なほどに酷似していた。
「お仲間は教えてくれなかったか? 自分たちを殺した相手がどんなやつだったか」
一歩、また一歩と距離を詰めながら男は嘲笑を浮かべて沙羅を見つめる。
「もっとも、しゃべる口があったらの話だけどな」
「十刃……」
「ああ、わかってんじゃねえか」
感心したように口角を吊りあげた男は、残り数mへと迫った沙羅に向けて掌をかざした。
「
言い終わると同時に男の手の中に莫大な熱量が集っていく。
そうして一点に凝縮された熱の塊は、ギュオッと音を立ててはじけると紅い光弾となって沙羅に降りそそいだ──
***
《Remember…甦る記憶》
凶刃が迫る。