沙羅が第三部隊に転属になってから二週間が過ぎた。
「おはようございます!
部隊長の萩谷が詰所の戸を開くと、他の隊員らと掃除をしていた沙羅が笑顔で出迎えた。
それに「おはよう」と笑顔で返しながら、萩谷は嬉しそうに沙羅を見つめる。
「やっぱり隊に女性がいると華やかでいいなぁ。どうだ沙羅? 隊にはもう慣れたか?」
「はい。他の皆さんも親切で楽しい方ばかりで」
「そりゃ良かった。うちの連中は口は悪いが気のいいやつらばかりだからな。唯一打ち解けがたいとすれば……紫苑ぐらいか」
「? いえ、紫苑とはもう──」
言いかけた沙羅の背後で、鍛錬場へと通じる引き戸がガラリと開いた。そこから姿を現したのはまさに今ふたりの話題にのぼっていた人物。
「あ、おはよう紫苑」
「ああ」
なんの躊躇いもなく紫苑に声をかけた沙羅に萩谷は少々の驚きを覚えた。──が、本当に驚いたのはこの直後。
「……だから『ああ』じゃないって言ってるでしょっ!」
そう言いながら、沙羅が紫苑をどつき倒したのだ。
「…………え?」
唖然とする萩谷以下他の隊員たちを尻目に、沙羅は紫苑に指を突きつけて剣幕を強める。
「何回言わせれば気が済むのよ! 人が挨拶してるのに『ああ』はないでしょ!」
「お、おい。沙羅」
「おはようって言われたらおはよう! こんにちはにはこんにちは! 子供だってできることだからね!」
制止に入ろうとする萩谷にはお構いなしに紫苑に詰め寄る沙羅。そして床に尻もちをついている紫苑と同じ目線までしゃがみこむと、その翡翠の瞳をじっと覗きこんで言った。
「はい、おはよう紫苑!」
「……おはよう、沙羅」
萩谷も、隊員たちも、完全に凍った。
だが当の沙羅はそんな空気に気づく様子もなくにこりと笑う。
「やればできるじゃない」
「言わないとおまえがうるさくて敵わないからな」
「可愛くないなぁ」
そんな他愛もないやりとりのあと、紫苑はゆっくりと腰をあげて沙羅に向き直った。
「沙羅。時間があるなら手合わせしてやるがどうする?」
「本当? やる!」
途端にぱっと顔を輝かせ、紫苑のあとを追って鍛錬場へ出ていく沙羅。
そんなふたりの姿が完全に見えなくなったところで隊員のひとりがぼそりと声をあげた。
「……萩谷さん」
「なんだ」
「あれ……紫苑ですよね?」
「ああ……。…………多分」
*
「だいぶ剣閃が冴えてきたな」
沙羅が頭上から振りおろした一閃を受けとめながら紫苑は告げた。そのまま弾き返された沙羅は紫苑との間合いを取り、呼吸を整える。
「そう?」
「ああ。打ちこみの動きにも無駄がなくなってきた。次は防御の間合いだ」
言うなり一気に距離を詰め下段からの薙ぎ払いの体制を取った紫苑に、沙羅は即座に身を反転させ刀の軌道から逃れる。
「──それだ。おまえは反応速度が良すぎる」
ブン、と刀を大振りした紫苑はその隙を狙って沙羅が放った剣撃を易々と受けとめた。
「いけないの?」
「いけないわけじゃない。危機察知能力は特に乱戦となる戦場では絶対的に必要だ。ただおまえはそれが早すぎる」
「?」
いまいち呑みこめない表情の沙羅に、紫苑は一旦足をとめて刀をおろした。
「いいか、相手の攻撃をいち早く察知するということは、それだけ余裕を持ってかわせるということだ。そこに長けているおまえは、実際今の俺の攻撃に対してもかなりの距離を取って避けることができた。だが、それは同時に弱みにもなる」
「……距離を取るということは、それだけ反撃に転じる時間を要する」
「そういうことだ」
先の自分の一撃があっさりと捉えられた光景を思いだし、沙羅は合点がいったように頷いた。
「だからといってただ紙一重でかわせばいいというわけでもない。相手に連続攻撃の好機を与えることにもなりかねないからな。相手の攻撃をかわしつつ、いかにして次の一手を封じ、自分が攻めに転じることができるか──それを制した者が戦場でも生き残る」
そこまで告げると紫苑は再び刀を向けて身構えた。
「こればかりは身体で覚えるしかない。行くぞ」
「はい!」
そうして鍛錬場にはその後もしばらく刀のぶつかり合う音が響いた。
*
「なあ沙羅。ここんとこ紫苑と毎日朝稽古してるって本当か?」
普段から言葉を交わす機会の多い隊員のひとりが恐る恐る尋ねてきた問いに、沙羅はなに食わぬ顔で頷いた。
「うん。稽古つけてもらってるって言ったほうが正しいけど」
まだまだ紫苑には敵わないよ、と額を掻いて苦笑をもらす沙羅に隊員の男は目を丸くする。
「そうか、本当なのか! いや~世の中信じられねぇことも起こるもんだ。あの紫苑がなぁ!」
「俺がなんだって?」
「うおおぉっ紫苑!? いるなら言えよ!」
「今戻ったんだ」
詰所の入口に立っている紫苑は動揺する隊員に平然と返し、視線をその隣に向けた。
「沙羅。このあと予定はあるか?」
「ううん。今日の仕事は全部終わったけど」
「今から刀鍛冶の店へ行く。暇なら付き合え」
「あっちょうど良かった! 私も研磨剤が切れてたんだ」
笑顔で立ちあがった沙羅はてきぱきと帰りの身支度を済ませる。
「じゃあお先にー!」
「あ、ああ。お疲れ……」
連れだって詰所を出ていくふたりの背中を見送って、隊員の男は腕組みしてしみじみとぼやいた。
「いや~。本当にあの紫苑がなぁ……」
*
「行きつけの店を紹介する」と言う紫苑とともに町外れまで出た沙羅は、そこで一見普通の民家にしか見えないさびれた一軒家の前に立っていた。
「知らなかった。こんなところに鍛冶屋があったなんて……」
驚きの表情を隠さずに見上げる沙羅に、紫苑はふっと顔を綻ばせて戸に手をかける。
「知ってる者の中じゃ町一番の刀匠と呼ばれている男の店だ。腕は確かなんだが表に出ることを嫌っててな」
「どうして?」
「名が売れて依頼が殺到したら、満足な仕事ができなくなるからだそうだ」
「なるほど……」
その刀匠の仕事にかける熱意に感銘を受けながら店の中へ入っていく紫苑のあとを追って暖簾をくぐると、乱雑な店内の奥で初老の男性が刀を打っている姿が目に入った。
ふたりの気配に気づいた男性は、鉄槌を振りおろしていた手を休めて汗を拭う。
「おやおや、珍しく客が来たかと思えば──こんな綺麗なお嬢さんを連れてどうした? ここはデートスポットには向かんぞ」
よっと腰をあげると、男性は人の良い皺くちゃの笑顔を浮かべて紫苑の前までやってくる。
「相変わらず口がよく回るじいさんだな。……うちの部隊の仲間だ」
「初めまして。草薙沙羅です」
呆れ顔の紫苑に次いで沙羅が丁寧に頭をさげると、刀鍛冶の老人は更に笑みを深くした。
「なんじゃ恋人ではないのか、そりゃあ残念。まァいずれにしても紫苑がここに誰かを連れてきたのは初めてじゃ。なにもないがゆっくりして行きなされ」
「ありがとうございます。町一番の刀匠さんにお会いできて光栄です」
「ははは! 面白い子じゃ。こりゃあ益々紫苑の連れ合いじゃないのが惜しまれるのう。どうだねお嬢さん? こいつは堅物じゃが顔は悪くないと思うんだが──」
「え?」
「じいさん! くだらないことを言ってる暇があったら少しは手を動かしたらどうだ」
心なしか慌てた様子の紫苑がふたりの会話に割りこむと、刀鍛冶は声をあげて笑った。
「そういうおまえさんもずいぶん生意気な口を叩くようになったもんじゃ。言われんでも手は動かしとるわい。ほれ。修理依頼を受けた刀、できておるぞ」
そう言って彼が顎でしゃくった先には、冷やかな銀色の光を放つ刀が壁にかけられていた。
「……それを先に言えよ」
罰の悪そうな顔で壁の刀を手に取り、その握りを確かめる紫苑。
刃こぼれしていたはずの刀身は見事に磨きあげられ、皮が巻き直された柄の握り具合も申し分ない。その刀の元の状態を知らない沙羅の目から見れば、それは完全に新品そのものだった。
「すごい……」
「ああ。見ての通り腕だけは確かなじいさんだ」
「失礼なやつじゃのう。そんなことを言ってると後押ししてやらんぞ」
「……なんの話だ」
途端にしかめっ面になって顔を逸らす紫苑の横顔を、沙羅は意外そうに見つめる。
いつも冷静沈着な彼が、この刀鍛冶の老人の前ではまるで小さな子供のように見えて。そして彼のそんな一面を垣間見れたことを嬉しいと感じている自分を、沙羅は胸の内に確かに感じていた。
*
「あー楽しかった!」
刀鍛冶の店からの帰り道、紫苑とともに田んぼのあぜ道を歩きながら沙羅はおおいにはしゃいでいた。
「なかなかいい仕事をする鍛冶屋だろう?」
「うん! 他の作品も見せてもらったけど、どれも
「気に入ったのならおまえも一本打ってもらえばいい。精度は高いし、なにより耐久性が違う。その辺の刀の倍は使えるぞ」
「ん? ああ、うん。そうだね」
紫苑の提案に沙羅は少々歯切れの悪い返事を返して笑った。
あれほど精巧な作りの刀を間近で見て欲しくならないわけがない。しかしその刀に付いていた値札を見たとき、沙羅は思わず叫びそうになるのを必死にこらえてそろそろと刀を棚に戻した。
……無理。絶対に無理。
少なくともあと数ヶ月は給料を貯めないと買えないな、と沙羅がこっそり肩を落としていたことを紫苑は知らなかった。
「でも本当に行って良かった。刀の手入れの仕方なんかもすごく勉強になったし、それに──」
言いかけて、ちらりと隣の紫苑を見上げる。
「……? なんだ?」
「なんでもない」
くすくすと笑みをこぼして先を歩く。あの刀鍛冶と話している紫苑が子供のようで可愛かった、などと口にすればどんな仏頂面になるかわかったもんじゃない。
それはそれで見てみたい気もするが、とりあえず今は胸の内にしまっておこうと沙羅は笑いを噛み殺した。
その後もふたり取りとめのない会話を交わしながら町の中心部へと続く大通りに出たところで、背後で唐突に声が響いた。
「これはこれは。第三部隊の桐宮殿ではないか」
畏まった口調で近づいてきた男に沙羅は面識はなかったが、身なりからして自分たちと同じ王都防衛軍に所属している者であることは窺えた。
「……杉原か」
一瞬前までとはがらりと声音を変えて無機質に呟いた紫苑をそっと見上げる。
お世辞にも親しい間柄とは言えないであろう紫苑の反応に、沙羅は気まずさを感じながらも相手の男にぺこりと小さく会釈した。
「あれ、君は──先月第九部隊から転属になった子かい?」
「はい。草薙沙羅と申します」
名乗ることに若干の抵抗を感じつつもそう告げると、男は大仰に頷いた。
「やはりそうか。私は第一部隊の杉原龍之介だ」
第一部隊の、という部分を強調して名乗った男に沙羅は小さく息を飲む。
第一部隊──別名エリート部隊。
それは二十もの部隊を擁する王都防衛軍の中でも特に武術に秀でる者が属する隊とされ、他の部隊とは一線を画す組織であった。
戦時には最前線に立ち、まさに王都を護る第一面となる英雄の集まり。
「……貴部隊のご活躍はかねがね拝聴しております」
「ははは、そんなに恐縮しなくていいよ。面をあげてくれ」
深く
「相変わらず第三部隊でくすぶっているようだけど、最近調子はどうだい?」
「……悪くはない」
「へえ。それじゃあうちの部隊への転属も近いのかな?」
「…………」
黙りこむ紫苑に杉原は嘲笑を浮かべる。
「不思議だな。君ほどの実力があればうちの部隊に召集がかかってもおかしくはないはずだが。まあ女にうつつを抜かしているようではそれもやむなし──か」
まるで値踏みするかのような視線で見据えてきた杉原に、沙羅は全身がぞわりと総毛立つのを感じた。
「桐宮、私はまた君と肩を並べて闘いたいんだよ。どうかその期待を裏切らないでほしいものだね」
「勝手な期待を寄せられても迷惑だ」
「そういうところは昔とちっとも変わらないな。まあいいさ、精々下級部隊で名をあげてくれ。──それじゃあ。邪魔して悪かったね」
最後ににこりと沙羅に笑顔を向けて杉原は去っていった。
*
「……なによあの言い方……偉そうにふんぞり返っちゃって……」
「沙羅」
「第一部隊がなによ……一体何様のつもり? あれで格好良いとでも思ってるの?」
「……沙羅」
「そもそも最前線はなりふり構わず斬りこんでいけばいいかもしれないけど、後方部隊は敵の反撃も対処しなきゃいけないし、前線のサポートもしなきゃいけないし、第一部隊よりずっとずっと大変なんだから! それも知らないで大きな口叩くんじゃないわよ!」
「沙羅……少し落ち着け」
すっかり頭に血が昇っている沙羅を、紫苑は呆れた様子でたしなめる。しかしそれはこの場合火に油を注いだに過ぎなかった。
「なんで紫苑はそんなに落ち着いてるの!? 私じゃなくて紫苑が怒るところでしょ!」
「だからおまえが怒ることないだろう」
「紫苑が怒らないから怒ってるの! あの人、紫苑が第三部隊だからって馬鹿にして! 第一部隊がなによ!」
放っておけば今にも杉原を追いかけて食ってかかりそうな沙羅に、紫苑はふっと吐息をもらす。
「落ち着けと言ってるだろ。……第一部隊への転属の打診は前から来ている」
「…………え?」
その言葉に沙羅ははたと動きをとめ、目を瞬いた。
「……そうなの?」
「ああ」
「だったらなんでさっきそれを──」
「とっくに断った」
「えええっ!?」
一際大きな声をあげて沙羅は目を見開いた。
「断ったって……どうして? あのエリート部隊への誘いでしょ?」
先程までとは打って変わった沙羅に苦笑をこぼし、紫苑は黄昏色に染まった空を仰いだ。
「……別に俺は自分の腕をひけらかしたいわけじゃない。おまえも言っただろう、最前線だけが戦場じゃない。俺たちにしかできないこともある」
そこまで言うと紫苑は沙羅を振り返り、薄く笑ってみせた。
「それに俺は──第三部隊を気に入ってる」
紫苑のまともな笑顔を見たのはそれが初めてのような気がした。
「そっか……。うん、そうよね」
部隊の仲間たちの顔を思い出して、そしてそれを気に入っていると言いきった紫苑が嬉しくて、沙羅もまた笑った。
願わくはその「お気に入り」の中に自分も入っているといいなと思いながら。
「でも不思議。どうして紫苑ってそんなに冷静でいられるの?」
「どうしてと言われてもな……。いちいち怒る気にもならないだけだ」
彼に言わせれば沙羅こそどうしてそんなに感情を剥きだしにできるのかと聞きたいところだが、そうするとまたやかましいことになるのは目に見えているのでやめておいた。
「本当に? なにを言われても腹立たない?」
「ことと次第による」
「ふぅん……。紫苑のバカ。アホ。冷血漢」
「…………」
「カタブツ。無愛想。朴念仁。人でなし」
「……おまえな」
「悔しかったらちょっとは言い返してよ。そこで黙ってるから相手がつけあがるんじゃない」
「別に悔しくはないんだが」
「いいから! なにか言い返してみて!」
腰に手を当てて険しい形相を浮かべる沙羅。
ここで逆らえばまた油を注ぐことになる、と判断した紫苑は急いで脳内の単語帳をめくった。つまり、なにか反論になるような言葉を、と。
「ババ沙羅」
「……バ……っ」
一瞬沙羅が固まったのを見て、紫苑は成功したと思った。これで沙羅の気も済んだに違いないと。
無論、大失敗だった。
「ババ!? ババって言った今!? 紫苑に言われたくないわよ! そっちのほうが年上じゃない! オヤジ! 中年! ヨボヨボ!」
「おまえが言い返せと言ったんだろ……」
「だからってそんなこと普通言わないでしょ! なんでよりによってババ!? 信じられない! 紫苑のバカ! アホ! 人でなしー!」
「わかった……俺が悪かった。頼むからそれ以上叫ぶな……」
通りすがる町の住人たちの視線を一身に浴び、紫苑はそれから逃れるようにうなだれた。
杉原と会ったことで胸中に渦巻いていた憤りは、沙羅と話しているうちにどこか遠くへ吹き飛んでいった。
*
ようやく怒りが治まったらしい沙羅を自宅へと送る道すがら、なにかを目に留めたらしく急に歩みをとめた彼女に紫苑は後ろを振り返った。
「どうした?」
右に逸らされている視線の先を辿ると、町外れの切り開かれた平原の中に立つ一本の巨大な木に行きあたる。
「立派だね──あんなに大きいの初めて見た」
「なんの木だ?」
「見てわからないの? 桜の木!」
呆れる素振りを見せた沙羅に「そうか」と頷きつつ、紫苑は確かに立派な木だなと感心した。辺りを見回してみても、その桜よりも背丈の高い木や建造物は見当たらない。
「あの様子だと開花までもう少しよね。きっと綺麗なんだろうな」
ふたりが視線を向ける桜の枝には無数の蕾が芽吹き、少し春風が吹けば今にも咲きこぼれそうなほどだった。そのさまを思い浮かべているのか、それを見つめる沙羅の横顔は楽しそうに綻んでいる。
ならば見せてやりたいと、単純にそう思った。
「じゃあ開花したらここで花見でもするか」
なんとなしに言ったつもりが、返事を期待している自分自身に紫苑は焦った。沙羅が小さく息をのんでこちらを向いたのが気配で伝わって、余計に動揺を煽る。
だがすぐに「うん!」と屈託のない笑顔で頷いた沙羅に一気に緊張が解れ、代わりに笑みがこぼれた。
「約束ね」
「ああ」
ふわりと笑った沙羅を眩しそうに眺めて、紫苑は再び前を向いて歩きだした。
降りそそぐ春の陽気が一日も早く桜の蕾を膨らませるようにと願いながら。
***
《Tiny Wishes…ささやかな願い》
ウルキオラの「ババ」はここで生まれたのでした。