ふたりで過ごす平凡ながらも幸せに満ちあふれた日々は、時間の感覚を忘れるほど足早に過ぎ去っていった。
「こんにちはー!」
「いらっしゃい、元気そうでなによりじゃ。……おや? 今日は紫苑は一緒じゃないのか?」
ひとりで店内に姿を見せた沙羅に、鍛冶屋の主は首を傾げた。
「いえ、一緒に来たんですけど……外で待ってるって」
沙羅が困った表情で肩をすくめると刀鍛冶は盛大に声をあげて笑う。
「はっはっは! あいつめ、なにを照れとるんだか」
「え……?」
「おまえさんたち、恋仲になったんじゃろう?」
「えぇっ! なんでそんな……っ」
途端に頬を赤らめて声を上擦らせる沙羅に刀鍛冶はますます笑みを深くした。
「わかるさ。おまえさんのその刀」
刀鍛冶が指差した沙羅の左の腰上には、先日紫苑に渡された真新しい刀がしっかりと括られている。
「……前回おまえさんたちが帰ったすぐあとじゃ。紫苑のやつ、ひとりで息を切らして戻ってきたかと思えば『急いで刀を打ってくれ』などと言いおってな」
刀鍛冶は店の傍らに置いてあった鋼の塊を手に取る。
「おまえさんも知っておるだろうが、通常刀をこの状態から打ち始めたら完成までに一月はかかる。それをあやつ、一週間で仕上げろなどと注文をつけてきおった」
一週間。それは数えてみればちょうどあの金曜日と重なった。
ふたりが想いを通わせ、紫苑が沙羅に刀を贈った、あの桜が美しく花開いた日に。
『じいさん、頼む。金ならいくらでも払う』
『そう言われてもなぁ……飾り用の刀を打てばいいわけではなかろう?』
『当然だ。実戦向きの最高の一振りを打ってほしい』
『最高を一週間で、か。ずいぶんと無茶な注文をつけるもんじゃ』
『刀匠の腕が鳴るだろう?』
『調子に乗りおって。第一おまえさんの刀は直してやったばかりじゃろうが』
『……俺が使うんじゃない』
『はて、では誰が?』
『……いいから打ってくれと言ってるんだ。これは正式な仕事の依頼だぞ』
そのときの紫苑の焦った表情を思いだし、刀鍛冶は目尻の皺を増やして微笑んだ。
「そうだったんですか……」
「ああ。まあ、十中八九おまえさんに贈るものだろうと思って握りを細めに打ったんだが、正解だったようじゃな」
「はい。今まで使っていた刀よりも握りやすくて驚きました。刀身も軽くて振っても全然疲れないし──こんな立派な刀を打ってくださってありがとうございます」
「なんの。礼を言うのはわしのほうじゃよ。久々にいい仕事ができた」
丁寧に頭をさげる沙羅に刀鍛冶は満足げに頷き、すぐに悪戯な笑みを浮かべる。
「それにあやつからはたっぷり報酬をふんだくってやったしのぅ」
「……あ、あの……この刀っておいくらぐらい……?」
「それはわしの口からは言えんな。ほれ、男の面子というもんがあるじゃろう? ……まあ粗末な家一軒くらいなら簡単に建てられるとでも言っておこうかのぅ」
「………………」
みるみる青褪めて閉口した沙羅をよそに、刀鍛冶はほっほっと相変わらずの悠長な語り口で続ける。
「値段は言えんが、ひとつ良いことを教えてやろう。『刀鍛冶の念込め』という言葉を知っておるか」
「はい。優れた刀匠が強い念を込めて刀を打つことで、できあがった刀にもその魂が宿るという──」
「その通り。ただのげん担ぎだと思う者も多いようじゃがわしは信じていてな。だから紫苑にも尋ねたんじゃ。この刀を打つとき、どんな念を込めようかと。──あやつはなんと答えたと思う?」
首を傾げる沙羅に刀鍛冶ははっきりと放った。
『斬る刀ではなく、護る刀であるように』
ひたむきなまなざしでそう告げる紫苑が目に浮かぶようだった。
「よほどおまえさんのことが大切なんじゃろうな」
ふわりと目を細める刀鍛冶の言葉に胸が熱くなる。
「……きっとその意に沿えるような刀にしてみせます」
「ああ。紫苑も喜ぶじゃろう」
指の腹で愛おしむように鞘をなでた沙羅に、刀鍛冶は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「……して、わしからも聞きたいことがあるんじゃが──」
はい? と顔をあげた沙羅はなんとも好奇心に満ちた瞳とかちあった。
「紫苑のやつ、いったいなんと言っておまえさんを口説いたんじゃ?」
「な、なんでそんなこと聞くんですか!」
「いや、あの堅物がどう迫ったのか気になってのぅ」
「どうって……それは、ちょっと」
「いいじゃろう、減るもんでもなし。ほれ、ちょうど紫苑もいないしな」
「で、でも……」
刀鍛冶の容赦ない質問攻めは、痺れを切らした紫苑が店内に踏み込んでくるまで延々と続けられた。無論、そこですでに大半のなりゆきを聞きだしていた刀鍛冶に、その後紫苑が散々冷やかされたのは言うまでもない。
「……だから行きたくないと言ったんだ。だいたいおまえが余計なことをぺらぺらと喋るから……」
「ごめんってば~」
帰り道、仏頂面で先を歩く紫苑を追いかけながら、刀鍛冶にからかわれていたときの彼を思いだすとつい噴きだしてしまう沙羅であった。
──そう、平凡ながらも幸せに満ちあふれた日々は、あまりにも足早にふたりの時間を駆けぬけていった。
そしてその終焉となる運命の日の訪れも、あまりにも唐突に──……
*
詰所に血相を変えた萩谷が飛びこんできたのはそれからわずか三日後のことだった。
「大至急全隊員に招集をかけろ!」
切羽詰まった形相で命を下す部隊長にただならぬものを感じ、その場にいた隊員たちはすぐさま行動を起こした。
間を置かずして詰所の談義場に集められた第三部隊の隊員を前に、萩谷は険しい面持ちを浮かべ口を開く。
「過激派のやつらが暴動を起こした。相手の先頭部隊はすでに下町を突破し、王都に迫る勢いだ」
ざわっと隊員たちの間に動揺が走る。普段滅多なことでは表情を崩すことのない紫苑ですら、その報せには目を見開いた。
「下町を突破? ばかな、いくらなんでも早すぎる。町の自警団はなにをしてるんだ」
「自警団もすぐに出動したが半刻ともたなかった。いつもの暴動とは規模が違う。今は第一部隊が応戦中だ」
「第一部隊が……!?」
今度は紫苑の隣にいた沙羅が驚きの声をあげた。
これまでにも都の統治に反感を持つ党派が暴動を起こすことは幾度となくあったが、その鎮圧のために自分たちが出ることこそあっても第一部隊が出撃することなどまずなかった。
そもそも第一部隊は防衛軍の言わば主砲たる存在。他国の侵略や国を二分するほどの内乱でも起こらない限り、その主砲に先頭切って出撃命令が下ることなど過去に例を見ない。
「つまりはそれだけの緊急事態だということだ。防衛軍は総員第一級戦闘配備につくよう命じられた。我らが第三部隊もこれより小隊編成を行いただちに鎮圧に向かう」
隊員ひとりひとりの顔を見つめてそう告げてから、萩谷は部屋の中央に王都の見取り図を広げた。
「いいか、現在主戦場となっているのはこの辺りだ。都の正門だけあって守りは堅いが、逆に言えばここを落とされたら一気に町中への侵攻を許すことになる。絶対に死守しなければならない」
萩谷は見取り図の一点に赤で×印をつけながら口早に説明を続ける。
「よって十二小隊のうち八小隊をこの正門側に振り分ける。乱戦が想定されるから各自防衛軍の腕章は目立つように装着しておけ。残りの四小隊は別動隊として都の裏門へ回ってもらう。こちらは今のところ第一部隊が守備を固めていて目立った被害はないが、正門が突破できないとなれば裏門に兵力を割いてくる可能性もあるからな」
そこまで言うと、萩谷は一旦視線をあげて横に移した。
「紫苑、沙羅。別動隊の指揮はおまえたちに任せてもいいか」
「ああ」
「わかりました」
次期部隊長候補と称される紫苑はもちろんのこと、このときすでにそれに次ぐほどの実力を有していた沙羅もまた、萩谷や他の隊員たちから絶大な信頼を得ていた。力強い返事を返したふたりに頷き、萩谷は声高に号令を掲げる。
「総員戦闘準備! ただちに出撃だ!」
*
紫苑と沙羅が駆けつけたとき、都の裏門の守備についていた第一部隊はすでに反乱軍と一戦交えているところだった。
「第三部隊四小隊、援護に参りました! 司令官はどなたですか?」
敵の先兵を一刀のもとに斬り伏せた沙羅は、近くにいた第一部隊の隊員に尋ねる。
「すまない、助かる。司令官はまだ到着していないんだ。それまで代理として私が指揮を執っている」
「ではあなたの指揮に従います。我々のことは自由に動かしてください」
「ありがとう。早速で悪いが右翼部隊のサポートに回ってほしい」
「了解しました。──紫苑! 右翼へ!」
早くも数人の反乱軍の兵を退けていた紫苑はその声に短く頷くと、小隊を右側へ展開させ自らも斬りこんでいった。それに追随して敵の刃を受けとめながら、沙羅はぐっと唇を噛む。
相手は正当な戦闘訓練を受けた兵ではないだけに個々の技量は劣るが、それにしても人数が多い。まだ戦闘が本格化していないはずの裏門でこの状態なら、主戦場と化している正門付近ではいったいどれだけの血が流れているのかと考えるとぞっとした。被害を食いとめるためにも一刻も早く鎮静化しなければならない。
「くっ」
振りおろされた刀を弾き返し、沙羅は相手の脇腹を突き刺した。
崩れおちる敵兵が誰かの名前を呟くのが聞こえて、どうか一命は取りとめるようにと願う。思想は違えど、この男にも大切に想う存在がいるのだ。
間を置かずして斬りかかってきた新手に打ち返しながら、沙羅は前方で敵兵三人を相手にしている恋人に思いを馳せた。
戦で家族を失ったという紫苑。口にこそ出さないが、その哀しみが今も彼の胸に渦巻いているのは見てとれた。
無口で、無愛想で、でも本当はとても優しい人。
本当は、誰より争いを嫌っている人。
これ以上──彼と同じ境遇の子供を産みだしてはいけない。
太腿を薙ぎはらうと打ち合っていた敵兵はなすすべなく膝をついた。小さく肩で息をしながら呼吸を整えて、前方へ視線を送る、と。
「紫……」
紫苑の後方に一体の影が見えた。やや距離を置いた場所から彼に向けて矢を構える、弓兵の姿が。
三人からの一斉の打ちこみを
ぞわり、と臓腑を鷲掴みにされたかのような悪寒が駆けぬけた。
「紫苑──!」
*
刀と刀が擦れる金属音の合間に、沙羅が自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
ザンッ!
打ちかかってきた一人を斬り伏せ、他の二人が怯んだその隙に声が響いた方向へ目をやる。
見慣れた小柄な背中がすぐ傍に立っていた。その細い肩には鋭い矢が深々と突き刺さっていて。
「……っ!?」
紫苑が息を呑んだその直後に、彼女の背中はざっと前方へ走りこむ。そして自分を射抜いた弓兵を一太刀で斬り崩すと、彼女は苦痛に歪んだ表情で左肩に突き刺さる矢を抜きさった。
「沙羅!」
「大丈夫、かすっただけ!」
咄嗟に叫んだ紫苑に首を振ってそう返すと、沙羅は再び他の兵へと刀を向ける。
その間に好機とばかりに斬りかかってきた二人を紫苑は刀の一振りで討ち伏せ、すぐさま沙羅と打ち合っていた敵兵を背後から斬り捨てた。
「それのどこがかすり傷だ。おまえは一旦さがれ!」
「利き腕じゃないもの、大丈夫! それにもう少し押せば相手も一旦退くはず。今さがるわけにはいかないわ。紫苑ならわかるでしょ?」
落ち着いた面差しで告げる沙羅に紫苑はギリリと唇を噛んだ。
先程の矢が誰に向けて放たれたものなのかは明らかだった。彼女は自分を庇って矢を受けたのだ。
だが、手当を促す紫苑の指示を無視して、沙羅は傷を負っているとは思えない身のこなしで刀を振るう。
「くそっ」
焦燥しつつも紫苑は確実に敵の兵力を削いだ。
ああなった沙羅はなにを言っても聞き入れない。大人しく手当を受けさせるには一刻も早く闘いを鎮めるほかない。
当初拮抗状態を続けていた戦線は、沙羅や紫苑ら第三部隊の活躍もあり次第に防衛軍が優勢に傾き始めた。やがてそれらの形勢も目に見えてきた頃、反乱軍部隊の指揮官らしき男は早々と退却の声をあげた。
「一旦退くぞ! 撤退だ!」
「撤退していく……? 早めに退いてくれて良かった」
自陣にさがっていく反乱軍を見届け、沙羅はふぅっと張りつめていた息を吐きだす。
「みんな、怪我はない? 負傷者は順番に救護班へ──」
辺りの隊員に声をかける沙羅の腕は背後からがっしりと掴まれた。
「おまえこそ負傷者だろうが。……行くぞ」
ため息まじりにそう告げながら、紫苑は沙羅を救護班の待機所へと引っ張っていった。
*
「……どうだ?」
「かなり深い傷ですが、筋肉組織に損傷は見受けられません。不幸中の幸いでしょうね」
沙羅の傷口を縫合する救護班の女性の言葉に、紫苑はほっと肩をおろした。
「だから大丈夫だって言ったでしょう? 心配性なんだから」
「ですが、神経の一部が切断されています。痛みどめを打つまでかなり痛んだんじゃないですか?」
心配そうに顔をあげた女性に、沙羅はすぐ横から突き刺さるような視線を感じつつも「いえ」と首を振って否定した。そのさまに紫苑はまざまざと息をこぼす。
「……だから無理をするなと言ってるだろう」
「無理じゃないよ。まだ闘えるもの」
悪びれもせずにからりと言ってのける沙羅に胸が痛んだ。利き腕でないとはいえ、これだけの傷を負って平気なはずがないのに。刀を振るう度に激痛に苛まれているはずなのに。
それでも笑顔を浮かべる沙羅に己の無力さを嫌というほど痛感させられた。
「……紫苑?」
優しく労わるような声音で沙羅が呼ぶ。
命を懸けても護ると誓ったのに
その彼女が自分のせいで傷つくことなど、あってはならない。
俯き黙りこんでいると、白くなるほど握りしめられた拳の上にそっとあたたかい手が重ねられた。
そこでようやく目を合わせると、途端に嬉しそうに顔を綻ばせる沙羅がたまらなく愛しかった。
護りたい。
今度こそ、絶対に護り抜く。
ぎゅっと沙羅の手を握りしめた紫苑の背後で、救護室の扉が遠慮がちに開かれた。先程沙羅が言葉を交わした第一部隊の司令官代理を名乗った男が顔を覗かせる。
「……治療中にすまない。傷の具合はどうだい?」
「問題ありません。ご心配なく」
包帯で固定された肩を見せて笑顔を返した沙羅に、男は心底安心した様子でよかったと頷いた。
「君たちが来てくれて本当に助かったよ。それでな、つい先程うちの司令官が到着したんだが、ぜひ挨拶がしたいそうだ。今後の戦略を練る都合もあるし、治療が終わったら隊員を連れて本陣まで来てくれないか?」
「わかった、すぐに向かおう。沙羅、おまえはここで体を休めて──」
言いながら振り返ると、沙羅はすでにいそいそと身支度を整えていた。
「……俺の話を聞いているか?」
「だめ、私も行く。私だって萩谷さんから小隊を任されてるんだから」
凛とした表情で言いきった沙羅に、紫苑は再びため息をこぼしてうなだれた。
*
本陣の奥に通されて対面したのはもう十分に見知った顔だった。
「第三部隊と聞いてまさかとは思ったが、やはり君たちだったか」
襟元に司令官の記章を付けた杉原龍之介は、天幕をくぐって本陣に入ってきた紫苑と沙羅を目にとめて肩をすくめた。
「うちの隊の者が世話になったらしいな、礼を言う。どうも私がいないと満足に指揮も取れないようでね」
「……自慢することじゃないわよ。そもそも司令官が遅れてくること自体ありえないのに……」
隣でぼそりと小声で悪態をつく沙羅をなだめつつ、紫苑は表情ひとつ変えずに問いかける。
「戦況はどうなっている?」
「斥候部隊の話では反乱軍はここからかなり離れて陣形を立て直しているようだ。次に本格的に攻めこむ準備が整うまでにはまだ時間を要するだろう」
「そうか……」
時間的な余裕があるなら沙羅を一旦戦線から引かせて休ませることも十分可能だろう。紫苑が人知れず安堵の息をもらすも束の間、その場に慌ただしく第一部隊の隊員が入ってきた。
「お話し中失礼いたします! 本隊より伝令が到着しました。司令官へ火急の報せとのことです」
「やれやれ、息つく暇もないな。──通せ」
「はっ」
間もなくして天幕に姿を見せた伝令は、杉原に対して短い挨拶を述べると口早に伝達内容を告げた。
「現在本隊は正門前にて反乱軍と交戦中。戦線は維持しているものの相手の兵数が多く戦況は
「本隊がそこまで苦戦するとはな……。被害状況はどうなっている?」
「都内部への被害は食いとめているものの、防衛軍側の死傷者数は百名を超えました。また第三部隊の隊長が負傷し、部隊の指揮系統が乱れているとの情報も入っています」
「──!」
伝令が最後に告げた内容に紫苑と沙羅は同時に息を呑んだ。
「萩谷さんが……!」
「部隊長の負傷は部隊の動揺を招く。それが統率の甘い部隊であれば尚更だ。第三部隊程度ではやむをえないだろうな」
こともなげに言い放つ杉原を沙羅はキッと睨みつける。その沙羅を背後に庇い、一歩前に踏みだして紫苑は杉原を仰いだ。
「杉原、戯言を言っている暇はないはずだ。救援には俺が行こう」
「……いいだろう。幸いこちらは敵軍も退却したばかりだしな。伝令、速やかに本隊へ戻って伝えろ。別動隊は第一・第三部隊より各二小隊ずつを援軍として派兵するとな」
「はっ。了解いたしました」
伝令は杉原に向けて敬礼すると、すぐに踵を返して本陣の天幕をあとにした。
それに続いて天幕を出た第三部隊の一向は萩谷負傷の知らせに揺れていた。
「まさか萩谷さんがやられるなんて……」
「無事なんだろうか──」
口々に言いたてる隊員を紫苑は落ち着きはらった声で一喝する。
「心配するのはあとにしろ。ここで気を揉んでいる暇はない。一番・二番小隊はただちに救援へ向かう準備を整えるんだ」
「あ、ああ」
「わかった!」
冷静さを取り戻した隊員たちがめいめいに動きだす中、沙羅は紫苑の隣にとどまり彼を見上げた。
「……私も行く」
「だめだ」
「もう手当はすんだもの。私だって闘える」
「おまえはここに残れ」
「紫苑!」
険しい面持ちで声高に名を呼ぶ沙羅に紫苑は頑なに首を横に振る。
「……おまえの怪我を心配して言っているだけじゃない。ここに残る三番・四番小隊を指揮する者がいなくなるからだ。指揮官が揃って離れるわけにはいかないだろう?」
我ながらずるいやり口だと思いながらも紫苑は告げた。案の定沙羅はぐっと喉を詰まらせて唇を噛んでいる。
……すまない。
だがもうこれ以上、おまえが傷つく姿を見たくはないんだ。
「残りの小隊の指揮はおまえに任せる。一度退いたとはいえ、いつ攻めてこないとも限らない。布陣を組んで警戒は怠るな」
沙羅に口を挟む隙すら与えずに矢継ぎ早に告げながら紫苑は防具を装着した。視線は逸らしているものの、視界の隅で沙羅が肩を震わせているのがわかる。
この場合、沙羅にとって最も恐れるべきは争いが激化する戦場に駆りだされることよりも、紫苑と引き離されることだった。ただでさえ生死の危険がつきまとうこの戦時下で、相手の安否が掴めなくなることほど不安なことはない。
その気持ちは紫苑とて十分にわかっている。
それを知りながらも、せめて沙羅にだけは安全な場所にいてほしいと願ってしまうのは、それで彼女を護ったつもりになろうという己のエゴだろうか。
「……気をつけて」
どれだけの不安と葛藤を胸に押しこめて、その台詞を口にしているのか。
顔をあげた沙羅は気丈な笑顔を浮かべてみせた。戦場へ向かう戦士を見送るに相応しい、力強い瞳で。
……ああ、でもおまえはきっと
俺を見送った後にひとりで涙を流すのだろうな──
護るべきは沙羅の身か、それとも心か。
相反する答えに疑問を抱きつつ、そっと頬に手を添えた。
「……必ず帰ってくる」
震える唇を指先でなぞりながら、精一杯の想いをこめてそう告げる。
「……絶対よ?」
「ああ。約束する」
「うん……信じてる」
ぎゅっと瞼を閉じた沙羅に最後に深い口づけを落として、紫苑は仲間たちと共に裏門の本陣をあとにした。
不思議なほど穏やかに凪ぐ春風に胸騒ぎを覚えつつ、沙羅はその後ろ姿が見えなくなるまで本陣の屋上から見送っていた。
*
紫苑たちが出陣してから半刻と経たずして、沙羅が残った裏門の陣営では動きが起こった。否、正確には動きを起こした。
「攻めるって──どういうことですか?」
杉原により本陣の天幕へ呼びだされた沙羅は、そこで説明を受けた作戦に瞠目していた。
「どうもこうもそのままの意味だよ。ここから南東へ半里ほど進んだところで、先程退却した反乱軍が仮陣営を構えているのを突きとめた。今ならまだ反撃体制を整えきれていない。そこを一気に叩く」
「待ってください。我々は現在小隊の半数を正門側へ振り分けています。いくら隙をつくとは言っても、この兵力で深追いするのは危険です」
沙羅は杉原の前に歩みでて直訴する。
「そもそも先の戦闘でも兵力に劣っていた我々が優位に闘えたのは、守りに適したこの城門を本拠に構えていたからです。それをわざわざ放棄してまで敵陣に攻めこむというのはあまりにリスクが高すぎます。ならばこの機会に守りを固めるほうが有効ではないでしょうか」
「守れ守れというが、それじゃあ戦には勝てないんだよ、お嬢さん」
杉原の返答は冷やかなものだった。
「確かに君の言うことも一理あるが、それは相手も考えればすぐにわかることだ。ならばその裏をかいたほうがこういう大規模な闘いにおいては遥かに有効なんだよ。……まあ後方部隊での経験が長い君には理解しがたいかもしれないがね」
あからさまに見下した口調でそう言い放った杉原は悠然と身を翻した。
「いずれにしろこれは決定事項だ。作戦に恐れをなしたなら第三部隊はここに残ってくれても構わないよ。かえって足手まといになりかねない」
「……いえ。この人数で兵力を割いても意味がありません。わかりました、司令官がそこまで仰るのなら従います。……ただちに出撃しましょう」
ここにいるのが萩谷であったなら。そして隣に紫苑がいたのなら。
決して杉原の言う通りにはさせなかったはずなのに。
己の力不足を噛みしめながら沙羅は頷いた。決定が覆されない以上、杉原に従うしかない。
「十分後に出発する。各自戦闘準備につけ!」
杉原の号令が天幕内に響いた。
*
一方、正門側の本隊に合流した紫苑は救護室を訪れていた。
「紫苑!? おまえなぜここに……」
「あんたが負傷したって聞いたから助けに来てやったんだ。……大丈夫なのか」
口では平然と言いながらも気遣わしげにベッドの横に腰かけた紫苑に、萩谷はふっと表情を和らげて。
「ああ。これでも悪運は強いもんでね。後ろからざっくりやられたんだが急所は綺麗に外れていたそうだ」
それを聞いて小さく息を吐きだした紫苑は、続けて戦況を訊ねる。
「伝令の話じゃずいぶん押されていたようだが、そんなに苦戦するほどの数なのか」
「ああ、だが……どうも様子がおかしいんだ」
そこまで言うと萩谷は急に表情を曇らせた。
「確かに相手の兵力は圧倒的だ。最初に攻めこんできた数だけでも軽くこちらの倍はありそうだったからな。それで本隊も慌てて救援要請を出したんだが──ここへ来て急に攻撃の手が緩んできた」
「戦闘に慣れない寄せ集め兵だから指揮が低下してきたのか」
「いや、そうじゃない。兵力差に圧倒されて押されていたのは俺たちだ。向こうはかなり勢いづいていたはず。なのに途中から戦線をさげて、かと言って退却するでもなくチョロチョロと波状攻撃してきやがる。持久戦になれば圧倒的にこちらが有利になるのがわからないわけはないだろうに──なぜ一斉攻撃をしかけてこない? こちらが援軍を呼んだのを知って様子を見ているのか?」
萩谷の話に黙って耳を傾けていた紫苑は、そこまで聞くとぴくりと顔をあげた。
「反乱軍が退いたのは援軍が合流してからなのか?」
「ああ。普通敵に援軍が現れたら、これ以上増える前にと一気に片をつけようとするもんだが。……紫苑? どうした?」
目を見開いたまま固まっている紫苑の横顔に異変を感じ萩谷が問いかけると、ぽつりと渇いた返答が寄こされた。
「違う……」
「なに?」
訝しげに目を細める萩谷にはそれ以上なにも答えずに、紫苑は凍りつく脳内を急回転させて記憶を辿る。
ほんの数刻前に裏門前で退けた敵軍。やけに引き際が良いものだと感心した。
そのときはただ、相手の指揮官が素早く劣勢を判断し撤退を命じたのだろうと思ったが。
……そうじゃなかったとしたら?
もし、先の闘いが「裏門の兵力を把握するため」のものだとして。あれが不利を悟っての退却ではなく、目的を果たしたから引き返したに過ぎなかったのだとしたら?
つまり、相手の狙いは最初から──
「開戦直後に一気に攻めこんで本隊を怯ませ、防衛軍が正門に戦力を集中させるのを待ってから、守りの薄くなった後方を全力で叩く……」
紫苑の呟きに、みるみる萩谷の表情がこわばっていく。
「……息を潜めているんじゃない。兵数が多かったのは最初だけで、あとは第一線の部隊を残して裏門へ回らせていたんだ。波状攻撃をしかけているのはそれを悟らせないための目くらましと、単なる時間稼ぎ……」
仮定が確信に変わり、紫苑はガタンと椅子を倒して立ちあがった。
「やつらの狙いは最初から裏門だったんだ──」
『……信じてる』
そう告げた彼女が必死に不安を覆い隠しながらも浮かべた微笑みが脳裏に蘇る。
裏門に残してきた沙羅の、今にも消え入りそうな笑顔が。
***
《Front & Back…表裏》
長かった過去編も次話でラストです。