Dear…【完結】   作:水音.

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第17話【100 years ago…Ⅴ】Fallen Cherry ―桜散り落つ―

 反乱軍の完全鎮圧を目指し南東へと進路を取る杉原と沙羅の軍に、斥候に出していた小隊が帰還し合流した。

 

「申しあげます! ここより南へ距離五百の地点にて、反乱軍と思われる陣営を確認いたしました。ですが……」

「なんだ」

 

 言いよどむ兵に杉原は先を促す。

 

「援軍が到着した模様で……当初より大幅に兵力が増加しています。その数──七百余り」

「七百だと? ばかな! 先程裏門へ攻めてきた部隊は三百にも満たなかったはずだろう」

「は……しかし」

 

 声を荒らげる杉原に、斥候兵はしどろもどろになりながらも報告に間違いはないことを伝えた。それを傍らで聞いていた沙羅もまた「そんなはず……」と訝しげなまなざしを向けていたが、ある考えに思い至ったとき唐突に息を呑んで立ちすくんだ。

 

「まさか……」

 

 ごくりと鳴らした喉を冷や汗が伝う。

 

「開戦直後の正門への派手な攻撃は……陽動?」

 

 その呟きに杉原は表情を一変させて歩みをとめた。

 

「なんだと?」

「反乱軍の狙いは最初から裏門を攻め落とすことで……防衛軍が正門側へ兵力を振り分けるのを待っていたのだとしたら──」

「そんなばかなことが」

「ですがそう仮定すれば、先の闘いでの引きの早さも説明がつきます。敵陣の兵力が急激に増加した理由も。だとしたらすぐに裏門へ戻って守備を固めなければ。今攻められたらひとたまりもありません!」

 

 振り仰いだ沙羅に対し、杉原は即座に首を横に振った。

 

「君が言っているのはただの憶測だろう。少し数が増えた程度で騒ぐな。予定通りこのまま進軍する」

「ですがもしもそれが現実になったらどうするんですか? 裏門には少数の守備兵を残しただけ……今反乱軍の本隊に攻めこまれたら一気に町中への侵攻を許すことになります!」

「君もわからない人だな。ここまできて退却などできるか!」

「杉原さん、落ちついて考えてみてください。このままでは──」

「司令官は私だ! たかが第三部隊の指揮官ごときが口出しするな!」

 

 言いすがる沙羅に杉原は怒気を含んだ声で言い放つ。そうして再び進軍の指揮を取りはじめた杉原に沙羅はぐっと拳を握りしめた。

 

 自分の杞憂ならそれでいい。

 でも……でもこの状況は余りにも──

 

 それから半刻ほど進軍を続けて敵陣を間近に捉えた杉原の軍に、とうとう沙羅の推測を決定づける(しら)せがもたらされた。

 

「司令官! 南西に出していた斥候が戻りました!」

「通せ」

 

 杉原の前に参じた兵は決死の形相で息を切らしながらも声高に告げた。

 

「申しあげます! 裏門本陣営より南西距離八百にて、正門側から迂回してきたと見られる反乱軍部隊を発見いたしました! 数は二千! まず間違いなく敵の本隊と思われます!」

「なんだと……!」

 

 驚愕の声をもらした杉原に続き、他の味方兵たちも皆同様に凍りついた。そんな中いち早く冷静さを取り戻した沙羅がすぐさま杉原を振り返る。

 

「杉原さん!」

「くそっ……。全軍に退却命令を出せ! ただちに裏門本陣へ帰還する!」

「はっ!」

 

 進路を真逆に取り、自軍に撤退を促しながら沙羅はぎゅっと胸元を握りしめた。

 

 お願い──どうか間に合って……

 

 進行方向が入れ替わったことにより軍の最後尾となった杉原へと視線を戻す。

 

「私たちも急ぎましょう」

「ああ……だがどうやらそうもいかないようだ」

「!」

 

 杉原の視線を辿って目を向けた先では、反乱軍の先兵らしき小隊がこちらへ向けて動きだしていた。

 

「数は二十といったところか……。この距離では逃げ切れまい。斬り崩すしかないな──」

 

 舌打ちして刀に手をかける杉原を、沙羅はゆっくりと首を振って制した。

 

「……ここは私が引き受けます」

「! なにを──」

「司令官がこんなところで足止めされては間に合いません。間もなく反乱軍は全軍で裏門を落としにかかるでしょう。門の突破を許せば防衛軍の敗北は必至。……時間がないんです」

 

 言いながら沙羅は腰の刀をすらりと抜刀した。その間にも、敵兵は付近まで迫っている。

 

「すぐに本陣へ引き返し、正門側の本隊が合流するまでどうか持ちこたえてください。この闘いの勝敗はあなたの指揮にかかっています」

「だが君は……!」

「この場をおさめたら私もすぐにあとを追います」

 

 なんでもない風にふわりとそう言って、沙羅は笑った。躊躇っている杉原に小さく頷き、背を向ける。

 

 ボワッ! 

 直後、沙羅の足元からおびただしい白煙が立ち昇った。

 

「ぐっ、げほっ!」

「煙幕か……逃すな!」

 

 敵兵が視界を失って往生する中、刀を構えた沙羅は単身その群れの中へ斬りこんでいった。

 

「煙で見失ったか……すぐに追うぞ!」

「はっ! ぐぁっ……」

 

 ようやく明瞭になり始めた視界の中、指揮官らしき男がそう指示を出すと同時に鈍い悲鳴があがった。

 

「そうはさせない」

 

 すぐさま首を巡らせたその先には、防衛軍の隊服に身を包んだ女がひとり、血ぬれた刀を片手に立っている。その足元にはすでに数人の兵が戦闘不能な状態となりうずくまっていた。

 

「……足止めのつもりか? ──かかれ!」

 

 指揮官の声を皮切りに一斉に斬りかかってきた反乱軍兵を前に、沙羅は静かに腰を落とした。真新しい刀身が光を帯びて煌めく。

 

『斬る刀ではなく、護る刀であるように』

 

 そう願ってくれた彼のためにも、ここを譲るわけにはいかない。

 この町を、隊の仲間を、そして紫苑を。

 私はこの刀で護りたい。

 息を吸いこんで渾身の力をこめて刀を振りおろした。

 

 

 *

 

 反乱軍の狙いを悟り正門側から急いで小隊を率いて引き返した紫苑は、がらんと静まり返った裏門に呆気に取られていた。

 

「なんだこれは……別動隊はどこへ行った? 門の防衛を放棄してなにを──」

 

 辺りを見渡す紫苑に、見張りとして残っていた番兵がおずおずと声をかける。

 

「恐れながら……杉原司令官の部隊は、反乱軍の本拠を叩くために二刻ほど前に出陣されました」

「なんだと? これから反乱軍の本隊が攻めこんでくるんだぞ!」

 

 思わず番兵の胸倉を掴みかけたそのとき、裏門の屋上から南の遠方に砂煙があがっているのを見咎めて紫苑は動きをとめた。

 こちらへ向かって真っすぐに進軍してくる無数の部隊に敵襲かと身構えるも、目を凝らしてみれば掲げているのが自軍の旗印だとわかり、ほっと安堵の息をもらす。

 

「引き返してきたんだな。これで守備体制を固められる」

 

 陣営を整えながら自軍の到着を待った紫苑だったが、彼が異変に気づくのに時間はかからなかった。

 

「おまえたち、無事だったか。──沙羅はどこだ?」

 

 帰還した第三部隊の面々を出迎えた紫苑は、すぐさま指揮官である恋人の姿を捜した。だがそれを問われた隊員たちの表情は暗かった。

 

「それが……」

「……どうした」

 

 隊員たちの様子に不穏な気配を感じ、紫苑は声色を変えて問う。それでもなかなか口を開こうとしない隊員に苛立ちを覚え、問いただそうと身を乗りだしたそのとき、背後で杉原の声が響いた。

 

「彼女はここにはいない」

「……どういう意味だ?」

 

 振り返った紫苑に杉原は淡々と続けた。

 

「反乱軍の狙いを知り全軍に退却命令を出した直後、敵の先兵と接触した。……彼女は足止めのためその場に残った」

「残った? 沙羅ひとりでか?」

「ああ」

「……相手は何人いたんだ」

「ざっと見た限りで二十。だが敵の本陣のすぐ傍だったからな。そこから更に増えることも十分に考えられる」

「……それを知ってて……置いてきたのか」

 

 俯き加減の紫苑の口からもれる声はわずかに震えている。だがそれを杉原はあっさりと肯定した。

 

「そうだ。軍の進軍を考えれば当然の判断だ」

「貴様……っ!」

 

 沙羅が自ら志願してその場に残ったのであろうことは聞かなくとも想像がつく。それが戦局を重んじる軍の一員として最善の選択であることも。

 だがその彼女を平然と見捨てて帰還し、それを当然だと言い放つ目の前の男をどうして赦せようか。

 

「──よせ、紫苑!」

 

 殴りかかろうとした紫苑の肩を掴んでとめたのは萩谷だった。

 

「萩谷さん!」

「無事だったんですか!」

 

 包帯にまみれた部隊長の姿に第三部隊の隊員が口々に叫ぶ。その彼らに短く頷きを返して、萩谷は激昂する紫苑を無理矢理さがらせ杉原と対面した。

 

「杉原司令官へ本隊より伝言だ。防衛軍本隊は正門へ駐留させた十部隊を除き、全軍中央街道を南下中。もう半刻ほどで裏門陣営に集結する故、それを見込んだうえで布陣準備を整えられたし──とのことだ」

「……敵襲には十分に間に合いそうだな。対応が早くて助かった」

「こいつの機転が利いてたもんでね」

 

 萩谷が得意げに後ろの紫苑を親指で指しながらそう言えば、杉原は苦々しく「そうか」と吐き捨てた。

 

「とにかくこれで反乱軍の一斉攻撃に対抗する備えはできた。我々第三部隊は貴殿の指揮下から外させてもらう」

「なんだと? そんな勝手が許されると思うのか。司令官は私だぞ」

「文句は自分の失態の後始末をしてから言ってもらおうか」

 

 鋭い言葉尻で言い放った萩谷に杉原はぐっと黙りこむ。そうして彼の表情から反抗の意が消えたのを見て取って、萩谷は即座に紫苑を振り返った。

 

「行け、紫苑!」

 

 沙羅の身を案じる想いは、第三部隊の者なら皆同じ。

 

「……ああ!」

 

 萩谷に力強い頷きを返し、紫苑は隊員たちとともに自軍の陣営を飛びだした。

 

 

 *

 

 キィンッ! 

 鋭い金属音を響かせて刀を弾き返し、相手が体勢を立て直す前に沙羅はその腹を薙ぎはらった。

 

「はぁっ……はっ……」

 

 音もなく崩れ落ちる敵兵を前に、沙羅は肩で息をしながら後方へと身を翻す。

 森の地形を利用してうまく逃げこみじりじりと相手の数を減らしてはいるものの、所詮多勢に無勢。ひとりでは限界がある。

 徐々に削がれていく体力は太刀筋を鈍らせ、沙羅は確実に追いつめられていた。

 

「なにをしている、相手は女ひとりだぞ! 回りこんでとどめをさせ!」

「っ……」

 

 二人からの打ちこみを(さば)いている間に、背後からもう一人が迫る。

 

 挟まれたら終わる。

 仕方ない──

 

 身を低く屈めて沙羅は最後の煙幕を使った。

 

「くそっ……そう何度も同じ手を!」

 

 顔を覆って煙を払う敵兵の間をすりぬけ、囲いを切りぬける。鉛のように重く感じる脚を引きずり、足場の悪い森の中をただひたすらに走った。

 

 もう本隊は裏門に帰還する頃合い。十分に時間稼ぎはできたはずだ。

 ともすればそこで満足感に浸って諦めそうになる心を、幾度となく奮い立たせたのは彼の言葉。

 

『……必ず帰ってくる』

 

 そう約束した。私がこんなところで倒れるわけにはいかないんだ。

 帰ってきた紫苑を一番に出迎えて、笑顔にしてあげるのは私の役目なんだから……

 

 肺に空気が入っていないんじゃないかと思えるぐらいの苦しさに襲われるも、背後から迫る追手の声に駆り立てられて足を休めることもできない。踏みしめた大地にぱたぱたと血の跡が残った。

 もう……どこが痛いのかもわからない。

 

 一体どれだけの距離を走ったのか。

 長い森を抜け、唐突に開けた視界に沙羅が目を見開くと、見慣れた景色が飛びこんできた。

 

 切り開かれた平原にそびえ立つ一本の巨大な木。

 薄桃色に色づいた鮮やかな花弁は、その場の状況を忘れてしまいそうなほどに美しくて。もう何度も紫苑と一緒に見上げたはずの桜に改めて見惚れながら、沙羅は我知らず笑った。

 

 まさか無意識のうちにこんなところまで走っていたなんて。それだけここは自分にとって大切な場所だったんだ。

 紫苑と初めて想いを通わせたその場所で、とうとう沙羅の足は動きをとめた。

 

 *

 

 桜の幹に背をもたれると自分でも不思議なほど心が穏やかに静まり返った。

 あれほどせわしなく途切れていた呼吸も、ここへきて僅かに規則性を取り戻す。

 

 うん、大丈夫。まだ……闘える。

 

 あとを追ってきた敵兵が数名、森を抜けてこちらへ向かってくるのが見えた。

 

「ずいぶん引っ張り回してくれたが──ここまでだな」

「……それはどうでしょうね」

 

 渇いた声を喉から絞りだして、間近に迫る敵兵に刀を構えた。こうして桜と背中合わせに構えれば後ろを取られることもない。

 

「戯言も終わりだ」

 

 敵兵の一人が刀を掲げて突っこんでくる。

 

 思い出せ。

 

『相手の攻撃をかわしつつ、いかにして次の一手を封じ、自分が攻めに転じることができるか──』

 

 研ぎ澄ませ。

 

 自分に向けて振りおろされる刀がスローモーションのようにゆっくりと弧を描いていた。

 

 わかるよ、紫苑。あなたが告げた言葉の意味が、その刀の一振りの意味が、今なら手に取るようにわかる。

 そう言えばあなたは「おまえなどまだまだだ」と笑うのかな。

 それでもいい。それでもいいから、逢いたいよ。

 

 銀色に光る刀の切っ先がすぐ眼前を通過していった。はらりと一房の髪が刃に奪われて舞い落ちる。

 その髪が桜の根元に落ちるより早く、沙羅は刀を突きだした。ズン、という鈍い感覚とともに呻き声があがる。

 

 まだ死ねない。

 死ぬわけにはいかないの。

 

 足元に沈んだ兵の後ろでいきり立つ敵兵が刀を振りかざした。刃を返してそれを迎え撃つ。

 

 

「────」

 

 

 声が

 

 声が聞こえた気がした。

 

 斬り返した敵兵の遥か後方に覗く影。

 黒い髪が風に揺れる。

 

 ああ……よかった。

 

 また逢えた──……

 

「紫苑……」

 

「沙羅──!」

 

 紫苑は沙羅の姿を見とめるなり声を張りあげ、桜の前にたむろする敵兵の注意を引きつけた。

 即座に斬りかかってくる兵を鮮やかな剣捌きで一刀し、そのまま二人、三人と流れるように斬り崩していく。その彼のあとを追って駆け寄ってきた面々も、全て見慣れた顔ばかりだった。

 

「みんなも……来てくれたんだ……」

 

 喜びに顔を綻ばせた沙羅は、そこである違和感に気がついた。

 左胸を突き抜ける、冷たい感覚に。

 

 *

 

 杉原が置いてきたと言い放った場所にはもう沙羅の姿はなく、ただ幾人もの敵兵が苦しそうに横たわっているだけだった。

 反撃を避けるためにも一撃で急所を突けと何度も教えたはずなのに、沙羅はそれを頑として受け入れない。

 

『生かして捉えれば捕虜になる。捕虜が多ければ戦後の交渉を有利に進められる』

 

 沙羅がそう告げたのはそれに気づいた萩谷から指摘を受けたときだ。

 そのときは「戦況に余裕がある場合にとどめる」などともっともらしいことを付け加えて萩谷を無理矢理納得させたものの、その後沙羅は紫苑にだけこうもらしていた。

 

『敵兵ひとりひとりにも、家族がいるの』

 

 泣きそうな顔でそう話す沙羅を否定することなどできなかった。だから「自分の身の安全を最優先すること」を条件として渋々了承した。それだけは遵守するようにとしつこく言い聞かせたのに。

 案の定と言うべきか、その場に倒れている敵兵のほとんどは重傷を負いつつも一命は取りとめていた。

 

「……おまえはこんな状況に追いこまれてもまだ敵の身を案じるのか……?」

 

 森の奥へと続く真新しい血痕といくつもの足跡を追いながらギリリと奥歯を噛む。

 いくらなんでも無頓着すぎる。今度ばかりはきつく灸を据えてやらないと。言いたいことは山ほどあるのだ。

 

 だから。だから死ぬことは赦さない、絶対に。

 

「間に合ってくれ……!」

 

 祈りにも似た呟きをもらして辿り着いたその場所は、紫苑にとってあまりにも縁深い地だった。

 あの桜の木を囲むようにして刀を構える敵兵の姿が見える。そして、その間に。

 

 

「沙羅──ッ!」

 

 

 その声にぎょっとして振り返った敵兵の一人を容赦なく薙ぎはらった。すかさず標的を変えて斬りかかってくる他の兵は後続の仲間に任せ、真っ直ぐに沙羅の元へ向かう。

 たちまちのうちに数人を斬り伏せ、桜の木の下まで来たときにはもう敵兵は沙羅と組み合っていた男一人を残すのみとなっていた。

 

「どけっ!」

 

 背後から刀を振りかざす──と、それよりも早く男の体がぐらりと傾げ、桜の根元に伏した。

 

「紫苑……」

 

 倒れた男の鮮血にぬれた刀を力なくおろした沙羅に駆け寄り、ほっと笑顔を向ける。

 

「もう大丈夫だ。よく頑張った──」

 

 言いながら手を伸ばして、その頬に触れようとして。そして──止まった。

 銀色に光る刀が沙羅の胸に突き立てられていた。

 

 鋭い刃は沙羅の胸を貫通し、背後の桜の幹へ及ぶほど深々と突き刺さっていた。

 呆然と立ちすくむ紫苑の目の前で、沙羅はゆっくりと刀の柄に手をかけ、顔を苦痛に歪めながらそれを抜き去る。押さえを失った傷口から血飛沫が散った。

 

「……紫苑」

 

 清らかな声音で恋人の名を呼ぶ。

 それでも息を呑んだままの紫苑に沙羅はふわりと笑って

 そして彼の腕の中に崩れ落ちた。

 

「…………っ! 沙羅……沙羅!」

 

 我に返った紫苑はその身体を受けとめ、傷口からとめどなくあふれる赤い液体に目を瞠る。

 

「待ってろ。今止血を──」

 

 桜の根元に沙羅の身体を横たえて傷口に布をあてようとする紫苑の腕を、白く震える手がそっと掴んだ。

 

「……紫苑、正門は……陽動だったの。反乱軍の狙いは……」

「わかってる。それ以上喋るな」

「間に、合ったの……?」

「防衛軍は全部隊を裏門に回し守備を固めた。あとは反乱軍を迎え撃つだけだ」

「そう……よかっ……」

 

 息を吐いた沙羅の口からごぽっと鮮血があふれる。

 

「紫苑……、あのね……」

「沙羅……もう喋らないでくれ……!」

 

 不規則に上下する胸から流れでる血がとまらない。自身の衣を割いて必死に傷口を押さえながら懇願する紫苑に、沙羅はそれでも言葉を紡ぐことをやめなかった。

 

「ごめんね……。約束、したのに……」

 

 紫苑の背後に映る大きな桜の木。数日前に満開を迎えたその桜は、今やつむじ風ひとつでその花弁を散らすようになっていた。

 そう、この鮮やかな花が開花したあの日。まさにこの場所でふたりは誓いを立てた。

 

「紫苑の笑顔を……護るって。言ったのにね……」

 

 泣き笑いのような表情で沙羅はもう一度告げた。ごめんね、と。

 

「違う……」

 

 震える声で、紫苑は首を横に振る。

 

「おまえのせいじゃない。俺がおまえを裏門に残らせたから──」

 

 正門の本隊からの救援要請を聞きつけた際、紫苑は負傷した沙羅の身を案じ、彼女が同行したがっているのを知りながらも半ば強引に裏門に残した。正門側で戦闘が激化することを鑑みれば、裏門に残ったほうが遥かに安全だろうと見越して。

 あのとき一緒に連れて行けば、こんなことにはならなかったのに。本当に護りたいと願うのなら、片時も離さずに傍に置いておくべきだったのに。

 全て──自分の浅はかな決断が招いた結果だ。

 

「約束を破ったのは俺のほうだ……。護ると誓ったのに、おまえの傍から離れた。俺が……おまえを……」

 

 傷口を押さえる手が震えていた。その上に自分の手を重ね合わせて、沙羅は紫苑を見上げる。

 

「……そんなことない。紫苑は、ちゃんと約束守ってくれたじゃない……」

 

 杉原に囮になることを申しでたとき、もう逢えないかもしれないと思った。足がもつれて、全身が軋みをあげて、いっそもう楽になってしまおうかと何度も思った。それでも走り続けたのは、約束があったから。

 

『……必ず帰ってくる』

 

 その声がずっと胸にあったから。

 最後に斬りかかってきた敵兵の刀を避ける体力など、もうどこにも残っていなかった。それでも沙羅は闘うことを諦めなかった。

 

 逢いたい。

 もう一度、紫苑に逢いたい。

 

 足が動かなくても

 冷たい刃がその身に迫っても

 沙羅は刀を突きだす手をとめなかった。

 そして──

 

「こうして、私の元に帰ってきてくれた……」

 

 紫苑の声が聞こえた。

 刺し違えた目の前の男がゆっくりと崩れ、その後ろから翡翠の瞳が現れた。

 

 ……嬉しかった。

 左胸を貫く刃の痛みなど気にならないほど、ただ逢えたことが嬉しかった。

 

「ありがとう……」

 

 血にぬれた大きな手を握りしめれば、紫苑は唇を噛んで首を振った。胸からあふれる血は、未だとまらない。赤く染め抜かれていく紫苑の隊服とは対称的に、沙羅の頬からは次第に血の気が引いていく。

 

「死ぬな……沙羅……」

 

 哀しげに目を細める沙羅に、紫苑は肩を震わせて続ける。

 

「また俺を……ひとりにするのか? 俺を置いて逝くのか……?」

 

 翡翠の宝石がきらりと光る。

 

「おまえと逢えて、やっと……やっと護るものができたのに……」

 

 宝石からこぼれた雫は、頬を伝ってぽたりと沙羅の頬に落ちた。

 

 戦で家族を失った紫苑。護るものなどないと話していた彼が、あの日この場所で自分を護ると誓ってくれた。

 

 だけどね、紫苑。それは違うよ。

 あなたは今までもたくさんのものを護ってきた。

 この都を、都に住まう人々の暮らしを、部隊の仲間を。その刀で護ってきたんだよ。

 ただ自分ではそれに気づいていなかっただけ。

 

「泣か……ない、で……」

「沙羅……」

 

 こぼれる涙を拭ってあげたくて手を伸ばそうとしたけど、もう力が入らなかった。その手を紫苑の大きな手がぐっと包みこむ。

 

 あったかい。

 大好きな大好きな紫苑の手。

 

「……紫、苑……」

 

 ああ、もう声も上手く出せないや。

 

 でも、でもね。私、今すごく幸せだよ。

 紫苑の腕の中で、優しい温もりに包まれて。こんな最期を迎えられるなんて、私は本当に幸せ。

 唯一の心残りは、最期なのに紫苑の笑顔が見られないことかな。

 約束……破って、ごめんね。

 

 私はもう傍にはいられないけれど、紫苑のことを必要としている人は大勢いる。

 だから今度は、その人たちのことを護ってあげて。

 

 願いをこめて紫苑を見上げると、ふわふわと舞う桜の花びらが視界に映った。

 

 綺麗だね。

 できることなら、来年もふたりでこの花を見たかったけど。

 もうこれ以上は……無理みたい。

 

 だけどどうか哀しまないで。

 私はこの桜の下に眠って、ずっとあなたを見守っているから。

 

「…………っ──」

 

 紫苑。

 

 紫苑。

 

 まだまだ言いたいことはたくさんあるのに、声が出ないよ。

 目の前が白く霞んでいく。

 

 ねぇ、最後にこれだけは。

 

 

「あり……が…………」

 

 

 喉から絞りだした声は、ちゃんと彼に届いただろうか。

 徐々に色彩を失っていく視界の中、焼きつけられるのは輝く翡翠。

 思えば私は、一目見たときからこの宝石のような瞳に惹かれていたんだ。

 

 

『愛してる……』

 

 

 最後に呟いた言葉はもはや音をなしていなかった。

 薄れていく視界の中心にあった翡翠の宝石は、白く塗りつぶされ、そして消えた。

 

 

 

「沙羅…………?」

 

 

 ゆっくりと瞼を閉じた沙羅の頬に、ふわりと桜の花弁が舞い降りた。だが彼女が目を覚ます気配はない。

 

「嘘だ……」

 

 風が吹き、緑がさざめき、花が舞う。

 生の喜びに満ちあふれたこの桜の下で、ただ沙羅の時間だけがとまっていた。

 

 

「沙羅────っ!!」

 

 

 紫苑の絶叫が遠く木霊して

 

 沙羅の身体は温もりを失って

 

 そうしてふたりの運命は別たれた──

 

 

 ***




《Fallen Cherry…桜散り落つ》

 そして百年後、ふたつの運命は再びひとつに重なる。


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