ふたりが互いの記憶を重ね合わせた頃、辺りはすっかり夜闇に包まれていた。
地面に座りこんだままの沙羅との距離をゆっくりと詰めたウルキオラは、不意にその手を掴みあげて沙羅を立たせる。そのまま月明りの射す近くの岩場まで手を引き、そこに沙羅を腰かけさせると、ウルキオラは無言で彼女が先程のグリムジョーとの闘いで負った傷の手当てを始めた。
有無を言わせぬその行動にされるがままになりながら、沙羅はすぐ目の前で自分の右腕に霊圧を注いで止血しているウルキオラをぼんやりと眺める。
百年前、この光景を何度目にしたことだろう。
日課となっていた刀の稽古の際、沙羅が手傷を負うと紫苑は必ず終わってから入念な手当てを施した。それはもう、過剰とも言えるほどに。
『──大丈夫だって言ってるのに……』
『かすり傷だからと言って軽視するな。傷口が化膿すれば運動機能をも脅かしかねない』
『そうじゃなくて、手当てなら自分でもできるってこと。わざわざ紫苑がやってくれなくても平気よ』
苦笑を浮かべる沙羅に、紫苑は首を振って傷口に化膿止めを塗りこんだ。
『それはだめだ。……俺がつけた傷だからな』
『そんなこと気にしてるの? 刀の稽古なんだから怪我するのなんて当たり前じゃない。紫苑のせいじゃないでしょ』
むしろそこで気を遣って手加減されたほうが沙羅はよほど憤慨する。それをわかっているからこそ、紫苑もつい手傷を負わせてしまうほどの本気を出さざるをえないのだが。
『……とにかく手当ては俺がする』
そう言い張って頑として譲らない紫苑に、さすがの沙羅も折れた。心配性なんだから、と口を尖らせつつも自分の身を案じてくれるその気持ちが嬉しかった。
変わらない。
胸をくすぐられるような想いを抱きながらじっと見つめていたあの頃の光景と、なにも変わらない。
「本当に……紫苑なんだね」
沙羅がぽつりと呟くと、包帯を巻き終えて留め具をつけたウルキオラはそこでようやく顔をあげた。
視線が交わる。
大好きだった宝石の瞳が、まっすぐに沙羅の姿を映しだす。
「……沙羅……」
大好きだった声が、あの哀しい雨の日以来初めて沙羅の名を呼んだ。
弱々しい呼び声に沙羅は弾かれたように飛びだし、ウルキオラはそれを正面から受けとめた。
その腕の中で感じる温もりも、百年前となにも変わらなかった。
*
「人間だった頃の記憶など……とうに忘れたつもりでいた」
沙羅を腕の中に閉じ込めたまま、ウルキオラは渇いた声で語りだした。
「いや……本当に忘れていたんだ。おまえに逢うまでは」
あの日、あの公園で。
桜の下で無防備に眠る死神を見つけるまでは。
思えばその姿を目にした瞬間から惹かれていた。
発見したその場ですぐに殺さなかったのも
茂みに身を潜めてわざわざ目覚めるまで待ったのも
話がしてみたいと思ったから。
忘れていった報告書のファイルを拾ったのも
翌日に用もないのに再び公園を訪れたのも
また逢いたいと思ったから。
初めて名前を聞いたとき、頭を電撃で貫かれたような感覚が走ったのを憶えている。
しかしなぜそうなったのか、考えてみても理由がわからなかった。
だから気づかない振りをした。
その後も自分の中で上手く理由をつけて、どこかで沙羅に逢えることを期待しながら何度もあの公園に足を運んで。
それと同時に奇妙な夢を見るようになった。
そこに広がるのは、闇。
一条の光すら射し込まない漆黒の世界。
そのどこまでも続く虚無の空間の中でひとり
絶望的なまでの孤独に何度も意識を持っていかれそうになりながら、それでもその名を口にしているときだけは平静を保てるような気がしたから。
声が返らなくても
光が見えなくても
それだけが俺の希望だった。
それだけが俺の救いだった。
そうして何度目かの夢で、ついにウルキオラはその名を知ることになる。
奇しくもそれは彼が初めて彼女の名を呼び、あの桜の下で花見の約束を交わした夜のこと。
『沙羅──』
俺が呼び続けていたのは
出逢った瞬間から心を揺さぶってやまない、あの風変わりな死神の名だった。
なぜ?
なぜあいつの名前が出てくる?
胸に湧いた疑問は次第に確信に変わる。
知っているんだ。
俺はあいつのことを知っている。
遥か彼方の時から。
そう結論づけた途端、恐怖を感じた。
自分は破面
彼女は死神
相対する存在。
過去になにがあったとして、今それを知ってどうなる?
これ以上の深入りは避けねばならない。
だから──ああ言ったのに。
『知らないほうがいいこともある』
そう告げたウルキオラに、沙羅はひたむきな眼差しでこう答えた。
『もっと知りたい……ウルキオラのこと』
どうして平気でそんなことを口にするのか。
距離を置くべきだ、と頭はそう訴えかけているのに。その決意すら易々と覆してしまう。
それと同時にかすかな期待すら……呼び起こしてしまう。
もしかしたら──
『おまえ、前世ではどんな人間だったんだ?』
もしかしたら、彼女も自分のことを憶えているのではないだろうか、と。
だがその期待はすぐに打ち砕かれた。
『……わからない。前世のことなんて憶えてないもの』
『ウルキオラは憶えてるの? 人間だった頃のこと』
憶えているわけがない、か。
こみあげる落胆を隠しつつ、沙羅の問いに返す言葉を探した。
『……いや。だが虚に堕ちるような人間だ。さぞやろくでもない奴だったろうな』
半分の偽りと、半分の本音。
かすかにではあるが、沙羅と言葉を交わすうちに前世の記憶は甦り始めていた。
その生の中で自分が彼女を特別に想っていたのであろうことも。
だが……きっとそれだけではない。
抜け落ちている記憶の中に秘められているのは、決して幸せな思い出だけではないはずだ。
そして自分の本能はそれを受け入れることを拒絶している。これ以上暴くべきではないと警鐘を鳴らしている。
なのに、彼女の笑顔がその本能をも捻じ曲げようとする。
『敵だから悪だなんて決めつけたくないだけ』
そう笑う沙羅のことをもっと知りたい──そう駆り立てる。
その衝動は彼女が穿界門をくぐって姿を消しても尚治まらなかった。
『沙羅──……』
その名を口にするだけで、4の数字が刻まれた場所の内側が軋みをあげる。
なにを忘れている?
なにを恐れている?
桜の枝から飛び降りたところでぐらりと眩暈に襲われ、思わず幹に手をついた。
指先に触れた、違和感。訝しげに巡らせた視界に映ったのは樹皮が深くえぐられた跡。
えぐられた? 違う。
突き立てられたんだ。
なにを?
刀を。
誰が?
……誰が?
──沙羅、が。
瞬間、脳天に火花が散った。ストロボのような光と共に次々と浮かびあがる映像。
この桜の下で約束した。
この桜の下で誓い合った。
この桜の下で、俺は──
突き立てられた刀。鮮血が舞う。
崩れ落ちた細い身体をただ抱きとめることしかできなかった。
いくら呼んでも、もう声は返らない。
春風に舞いあがった桜の花弁が、ふわりと沙羅の頬にとまる。
もう……声は返らない。
『沙羅────っ!!』
最も大切な人を、俺は
この桜の下で、失った。
*
「……ずっと」
喉から押しだされるように呟かれたウルキオラの声を、沙羅はじっとその胸に抱かれながら聞いていた。
「ずっと……おまえに言いたかった」
月明りに照らされる姿はどこか朧げで。響いた声は、今にも泣きだしそうな声。
「…………すまない」
頭上でぽつりと紡がれた言葉に沙羅はおもむろに顔をあげた。
「……どうして?」
「俺は誓いを果たせなかった。おまえを……護ってやれなかった」
「護ってくれたよ」
静かに顔を綻ばせて、沙羅はウルキオラの言葉をやんわりと否定した。
「紫苑は最後まで私を護ってくれた」
「なにを護った? おまえは……おまえは俺の腕の中で死んだんだ──!」
思わず語気を強めて、ウルキオラは沙羅を正面から見据える。
いつも自分を見つめていてくれた大きな瞳が閉ざされて
いつも優しく包みこんでくれていた温もりが消えて
そして、あの桜の下で沙羅の時間はとまった。
そこにはもうなにもなかった。
沙羅を失った紫苑に残されたのは、黒く淀んだ絶望だけ。
結局、俺はなにも護れなかったんだ。
「……ううん。護ってくれた」
苦々しく瞳を伏せたウルキオラに、もう一度沙羅は繰り返した。
そっと手を伸ばし、彼の頬に触れる。
そうして再び自分に向けられた翡翠の瞳をまっすぐに捉えて、沙羅は微笑んだ。
「私の心を」
その手には、一度は失われたはずの温もりが確かにあった。
「……心?」
「うん」
戸惑いの色を浮かべるウルキオラに沙羅は笑って頷く。
「もう逢えないかもしれないと思ったの」
あのとき。敵に囲まれ、ろくに刀を振るう力も残っていないあの状況下では、そう覚悟を固めざるをえなかった。
「でも紫苑は帰ってきてくれた」
必ず帰る、という約束を守り通して。あの場所へ彼は現れた。
「ずっと手を握っていてくれた。……ずっと傍にいてくれた」
死の恐怖に迫られていたはずの心が、紫苑の温もりに包まれると不思議と安らいだ。
私は今、紫苑の腕の中にいる。そう思うだけであらゆる不安はかき消えた。
「紫苑は最期の瞬間まで、私の心を護ってくれたんだよ」
痛みも、恐れも、苦しみも
なにもかもが薄れて、肌越しに伝わる温もりと瞳に映る姿にただ愛しさがあふれた。
こんなにも誰かを愛するなんて
こんなにも誰かに愛されるなんて
そしてその人が、最期の最期までずっと傍にいてくれるなんて
「私、本当に幸せだった」
嘘偽りのない、沙羅の本音だった。
「……俺を恨んでいないのか?」
揺れ惑う翡翠の瞳に思わず噴きだす。
「恨むわけないじゃない」
紫苑に感謝することこそ山ほどあるが、恨むことなんて間違ってもない。
謝られることだって、ひとつもない。
「だからもう謝らないで。私がそんな言葉を望んでると思うの?」
茶目っ気を含んだ沙羅の勝気な瞳はあの頃と同じ。その裏に隠された、包みこむような優しさも。
「……いや」
それに首を振って返しながら、それなら沙羅が望む言葉とはなんなのか、とウルキオラは考えた。
考えるまでもなかった。今の自分が本当に伝えたい言葉こそが、彼女が望む言葉に違いないのだと気づいたから。
「……沙羅」
その声に反応して沙羅がわずかに目線をあげたのが嬉しかった。
自分が紡いだ声が沙羅の耳に届く。ただそれだけで、この上なく満たされた。
頬に触れる小さな手にはあの頃と同じ温もりがある。ただそれだけで、この上なく幸せだと思えた。
「逢いたかった」
本当に伝えたい言葉は、きっとこれだけ。
「ずっとおまえに……逢いたかった」
頬に添えられた手を引きよせて、ウルキオラは沙羅を抱きしめた。ともすれば息苦しさを覚えるほどに、強く。
それでも沙羅は少しも抗わずにその抱擁に身を委ねた。
今はただ互いの温もりを感じていたくて。
*
「おまえはちっとも変わらないな……」
ふわりと鼻腔をくすぐる沙羅の髪を指先で梳きながら、ウルキオラは呟く。
表情も、声も、仕草も。
なにもかも、記憶の中の彼女のまま。
「紫苑だって変わってないよ」
だが沙羅がそう微笑むと、ウルキオラは不意に身体を離して視線を逸らした。
「俺は……違う」
押しだされる声は低く、冷たい。
「俺はもう紫苑じゃない。……おまえの知っている俺とは違うんだ」
その言葉の意味を察してか、沙羅の表情は哀しそうに曇った。
「……ウルキオラ。どうして──」
言いかけたその瞬間、ズズ……と場の空気が震え、沙羅とウルキオラは同時に身構えた。
もう十分に耳慣れたその音は、空間が裂ける音圧によって生じるもの。ふたりの視線を辿った先では、異空間から出現した穿界門が今まさにその扉を開こうとしているところだった。その直後──
「沙羅! 大丈夫!?」
門が開ききるよりも早く中から飛びだしてきた影の主に、沙羅は目を丸くした。
「清音!?」
血相を変えて駆け寄ってきたのは、十三番隊第三席、虎徹清音だった。
一瞬の驚きのあと、沙羅はすぐさま後方に目を配る。
ほんの数秒前までそこにいたはずのウルキオラの姿は闇に消えていた。穿界門の出現と同時に身を潜めたのだろう。
彼の行動の早さに感心しつつ、再び視線を清音へと戻した。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「それはこっちの台詞! 沙羅が現世で限定解除したって報告を受けたから跳んできたんじゃない!」
「あ……」
そこで沙羅はようやく先のグリムジョーとの闘いで限定解除したことを思いだした。
中央四十六室への認可申請が省略できるとはいえ、限定解除を行えばその情報は即時尸魂界の技術開発局へも送られる。副隊長が限定解除までして闘っているとあれば、清音ら十三番隊の面々が心配するのは当然だ。
おまけに今の沙羅の様相は文字通り満身創痍。自身の鬼道とウルキオラの手当てで一応の処置は済ませたものの、こんな姿を目の当たりにすれば清音が慌てるのも無理はない。
ウルキオラとの再会に夢中になってそんな当たり前のことすらすっかり頭から抜け落ちていた自分に苦笑しながら、沙羅は「心配かけてごめんね」と清音に笑いかけた。
「まったく、ごめんじゃ済まないわよ! 限定解除してここまでやられるなんて……一体なにが起きたわけ?」
「うん……ちょっとね」
「ちょっとってなに。まさかこの期に及んで誤魔化そうってんじゃないでしょうね」
いかめしい顔つきでずずい、と詰めよる清音に沙羅はたまらずあとずさりした。
沙羅同様、普段から浮竹の身を案じている清音もまた筋金入りの心配性であり、この手に関してはとことんしつこい。
「そ、そんなことないよ。その……実は十刃と鉢合わせしちゃって」
「十刃ァ!?」
予想通りの反応を見せる清音に苦笑いしながら、沙羅は頬を掻いた。
「十刃相手に限定状態じゃ敵わないから、限定解除して応戦したんだけど──途中で虚圏から帰還の指示があったみたいで、いきなり帰っちゃったの。おかげで助かったよ」
話に矛盾が生まれないように、と気を遣いながら沙羅は一語一句説明した。それを真に受けた清音はみるみる目を丸くする。
「おかげで助かったって──そんな呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ! それならどうしてすぐに救援要請出さなかったわけ!? 一歩間違えばこの前みたいにやられてたかもしれないじゃない!」
「そうなんだけど……伝令神機に触れる余裕すらなくて」
要請を出す余裕がなかったというのは事実だ。ただしその後ウルキオラに救われたなどとは口が裂けても言えないが。
そんなまるで緊張感のない様子で笑ってみせる沙羅に清音はまざまざと溜め息をもらし、「とにかく!」と腰に手を当てた。
「なんにしても無事で良かった。沙羅にもしものことがあったら隊長ショックで倒れちゃうもん」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃないの! とりあえず尸魂界に戻るわよ。その十刃がまたいつ戻ってくるかもしれないし。傷の手当ても姉さんに診てもらえば大丈夫だから、ね」
言いながらぐいぐいと自分の腕を引く清音に沙羅はたじろぐ。
「あ……でも」
「問答無用。縛りあげてでも連れてくよ」
決して冗談ともとれない声音でそう告げた清音に、なすすべもなく穿界門へ引きずりこまれながら、沙羅は懸命に後ろを振り返って声をもらした。
「──待ってるから」
傍目には人影ひとつ認められない。
けれど、きっとそこで気配を殺して潜んでいるであろう彼に、精一杯の想いを馳せて。
「あの場所で待ってる……来てくれるまで、ずっと」
どうかこの声が届いていますように──そう願いながら。
穿界門が完全に閉ざされるその瞬間まで、沙羅は月明かりに照らされる現世の街並みを見つめていた。
***
《Time Flows…そして時は流れ》
ウルキオラは第5話の最後の時点で過去の記憶を取り戻していました。