満開に花開いた桜の下、紫苑は鼓動を止めた沙羅の身体をいつまでも抱きしめていた。
「うっ……沙羅……っ」
背後ですすり泣く仲間の声も、今は耳に入らない。
声ももらさず、身動きひとつ取らず。紫苑は壊れた機械のように沙羅を腕に抱いたままうずくまっていた。
「紫苑……本陣へ戻ろう」
やがて日も傾きかけた頃、仲間がその肩に手を置いても。紫苑はぴくりとも反応しない。
「……しっかりしろ。沙羅を埋葬してやらないと──」
だが仲間が沙羅の亡骸に手を伸ばした途端、紫苑の口から低い声がもれた。
「触れるな」
怒りとも、哀しみともとれない、低く押し殺した声で。
「沙羅に……触れるな」
自分以外の何者かがその身に触れることを彼は固く拒んだ。そうして誰の手も借りることなく力を失った沙羅を抱きかかえた紫苑は、反乱軍を鎮圧し勝利に湧く本陣へと帰還した。
「沙羅……」
物言わぬ姿となり果てて戻った沙羅に、萩谷を始め第三部隊の仲間たちは皆声を詰まらせて涙を流した。
その間も紫苑は片時も沙羅の傍を離れることはなかった。
葬儀は二日後に営まれることになった。
此度の戦では沙羅以外にも多くの死者が出たものの、彼女は特に防衛軍の勝利に貢献した者として手厚く葬られた。
だが、それを死に物狂いで止めようとしたのが紫苑。棺に納められた沙羅と引き離されるのを頑なに拒み、部隊の仲間たちは暴れる彼を数人がかりで抑えつける羽目になった。
そうして沙羅の火葬が終わると、紫苑はそれまで暴れていたのが嘘のように力を失い、一言も言葉を発することはなくなった。
それから一週間が過ぎた頃。
抜け殻と化した紫苑を気遣い、萩谷と隊員たちは紫苑の自宅を訪れていた。
「おまえ少し痩せたんじゃないのか? ただでさえ細いのに、このままだと骨と皮だけになるぞ」
差し入れの食材をテーブルに置いて、萩谷は窓辺でぼんやりと外を眺めている紫苑を振り返る。だがその瞳がまるで色を映していないのを見てとって、ため息まじりに隣に腰をおろした。
「紫苑……せめて飯だけは食え。このままじゃ本当に死んじまう」
「約束したんだ……」
不意に押しだされた低い声に、萩谷は少し驚いた顔をして耳を傾けた。
「ずっと傍にいて……護ってやると。だが間に合わなかった」
「紫苑……」
「俺が……もっと早く向かっていれば。……いや、そもそもあいつを裏門に残らせなければよかったんだ。俺のせいで沙羅は──」
「それは違う。おまえのせいなんかじゃない」
「そうですよ。紫苑さんは悪くない! 悪いのは全部あいつです──」
萩谷に続いて声をあげたのは、第三部隊の若手の隊員だった。彼もあの日、沙羅と共に裏門に残された部隊の一員だ。
「……あいつ?」
虚ろな瞳を向けた紫苑に、若い隊員は悔しそうに唇を噛んで頷いた。
「杉原司令官ですよ……あいつが自分の手柄のために無茶な奇襲をかけようとさえしなければ、あんなことにはならなかったのに……!」
「確かに杉原の采配は軽率だったが、あの時点ではまだ反乱軍の狙いが裏門だと判断するのは難しかった。……一概に奴を責めることはできないさ」
力なく首を振る萩谷に、隊員は「でも!」と声をあげる。
「斥候部隊が反乱軍の兵数が急増したのを報告したとき、沙羅は真っ先に気づいたんですよ? 正門は陽動なんじゃないかって!」
「……なんだって?」
「それですぐに引き返すように進言したのに、杉原司令官は耳も貸さなかった。第三部隊の指揮官ごときが口出しするな、なんて偉そうに言って……沙羅が囮になって残ったのだって、司令官であるあいつを先に逃がすためだったんですよ? 全部……全部あいつのせいで──」
ガタン……
若い隊員がそう告げたところで、それまでろくな身動きひとつ取らなかった紫苑が唐突に立ちあがった。
「紫苑……?」
訝しげに声をかける萩谷には答えずに、紫苑は感情の読みとれない冷ややかな翡翠の瞳を隊員に向ける。
「……今の話は本当か?」
背筋が凍るような冷たい声音に、隊員はぞっとしたものを感じながら頷いた。
その、瞬間。
「紫苑!?」
紫苑は目を瞠る速さで部屋を飛びだしていた。
──部屋の傍らに立てかけていた刀を握りしめて。
*
場所は第一部隊詰所内、執務室。
突然扉を開くなりズカズカと目の前までやってきた来訪者に、杉原龍之介は振り返り様に眉をしかめた。
「……桐宮か。今更君に礼儀を求めるつもりはないが、挨拶ぐらいはしたらどうだ」
「黙れ
普段の彼からは想像もつかない暴言に杉原は目を見開く。
「なんだと?」
「貴様のせいで沙羅は死んだ」
紫苑の口から出たその名に、杉原は一瞬のうちに理解した。だがすぐに元の憮然とした表情に戻り淡々と告げる。
「彼女には感謝している。彼女の犠牲があったからこそ我が軍は勝利を手にしたと言っても過言ではない」
「沙羅が犠牲にならなくとも勝てた闘いだった。……貴様が武勲に焦りさえしなければな」
一歩、また一歩と近づきながら紫苑が告げた言葉に、杉原は顔を歪めた。
「とても聡明で──勇敢な女性だった。……悪いことをしたと思っている」
「は……そんな態度を一度でもあいつに向けたことがあったか?」
散々沙羅をないがしろにしておいて、なにを今更。あまりに利己的な物言いに笑いすらもれた。
氷のような、嘲笑が。
「……詫びならあの世で入れろ。もっとも貴様が沙羅と同じ場所に行ければの話だがな」
キン……
親指で刀の
「……正気か? 同胞を手にかければ君もただでは済まないぞ」
杉原の顔には驚愕と焦燥の色がありありと浮かんでいた。午前の勤務を終えて執務室で一息ついていた彼の腰に、刀はない。
「桐宮……血迷うな。君はこれから皆の上に立つ人間だろう」
じりじりと詰まる間合いに冷や汗が伝う。対峙する紫苑の目は、戦場で敵を前にしたときと同じ鋭さを帯びていた。
ドン、と杉原の背が壁にぶつかる。ふたりの間にもはや距離はない。
「桐……」
杉原が声をあげるよりも先に、紫苑はすらりと刀を鞘から抜き放った。
「俺にはもう……失うものはなにもない」
そう告げた紫苑は……とても哀しそうに、笑っていた。
「──やめろっ紫苑!」
背後から萩谷の声が響いたのと同時
紫苑の視界は、真新しい赤で埋め尽くされていた。
*
王都防衛軍、軍規第八十一条第四項。
『同胞への抜刀及び此れに準ずる一切の行為を働いた者を極刑とする』
「第一部隊特別司令官・杉原龍之介への抜刀、及びその斬殺。これは防衛軍の隊員として赦されざる反逆行為であり、一切の情状を考慮する余地はない。よって軍規第八十一条第四項の定めにより、第三部隊・桐宮紫苑を極刑に処する」
紫苑が杉原を手にかけた一週間後、監獄に捕らえられていた紫苑の処置が正式に決定した。
「紫苑……なぜあそこで刀を抜いた。同胞へ刀を振るえばこうなることぐらいわかっていたはずだろう……」
処刑執行日前夜、最後の面会に訪れた萩谷は哀しそうな面持ちを浮かべて金網越しに紫苑を見つめていた。
「……沙羅は胸に刀を突き立てられて死んだ」
萩谷の方には顔を向けず、紫苑は窓の隙間からわずかに射しこむ月明かりに目を細める。
「その苦しみをあいつにも味わわせてやりたかったんだ」
こともなげに言い放ったその言葉に萩谷はますます顔を歪めた。
「沙羅は……そんなことは望んじゃいなかったはずだ」
「……」
「ましてやそのせいでおまえが極刑に処されるなんて、そんなことを沙羅が望むわけがない」
黙れ……
あんたにあいつのなにがわかる。
あんたが沙羅を語るな。
沙羅を誰よりも理解していたのはこの俺だ。
誰よりも愛し
誰よりも、大切だった。
ほかのなにを犠牲にしてでも、護りたかった。
「……だが、沙羅はもういない」
ぽつりと呟いた紫苑の横顔は青白い月に照らされ、生きている者のそれとは思えないほどに朧げだった。
「……紫苑……」
「あんたには世話になった……感謝している。だがもう……全てどうでもいいんだ」
──そう。
沙羅を失った今、この世への未練などなにもない。
未練どころか、俺から沙羅を奪ったこの世界が──憎い。
沙羅が消えた世界で、のうのうと笑って生きている全ての人間が──憎くてたまらない。
ああ、どうせ沙羅のいない世界なら
もう全て壊れてしまえばいいのに。
消えてなくなってしまえばいいのに。
憎い。
ニクイ。
スベテガ、ニクイ──……
*
ヒュウ……
春の夜風が寂しげな音を残して耳元をすり抜ける。
ウルキオラがぽつりぽつりと紡ぐ過去の話を、沙羅は沈痛な面持ちで聞いていた。
「その翌日、俺は処刑された。……世界の全てを憎んだまま」
あまりに
目を逸らしてはいけない。それは全て、彼が今までひとりで抱えてきた苦しみなのだから。
「だが俺の憎しみは死んでもなお消えることはなかった」
「……っ!」
現世へ強い執着を残した魂魄は、その生を終えても尸魂界に送られずその場にとどまってしまうことがある。
そしてそれが負の感情であればあるほど、魂は残虐性を増して──
「……俺は虚に堕ちた」
愛する者を失った哀しみと、それでも変わらず回り続ける世界への憎しみから生まれたその虚は、本能に突き動かされるまま周囲の魂魄を喰らっていった。
戦で命を落とした仲間の魂も、罪なき町民の魂も、一切の見境なくただひたすらに。
「気づいたときにはもう数えきれないほどの魂魄を取りこんでいた。だが……いくら魂を喰らっても、ここの孔が疼いて満たされなかった」
そう告げながらウルキオラは首元の孔に指先で触れる。
虚の孔は失った心の象徴。その頃すでに幾千もの魂魄の集合体と化していた彼は、とうに理性など失った思考の中、それでもたったひとつだけ憶えていたことがあった。
『俺ハ、トテモ大切ナモノヲ失ッタ』
けれどその「大切なもの」がなんだったのかが思い出せない。
一筋の光すら見えぬ闇の中、「それ」を求めて何度もその名を口にしようともがくのに。
呼ぶべき名すら、わからない。
その苛立ちが彼を余計に残虐にさせた。
壊シテヤル。
全テ喰イ尽クシテ、破壊シテ。
コノ穢レタ世界ヲ滅茶苦茶ニシテヤル。
完全に虚の破壊衝動に取りつかれ殺戮を繰り返す彼は、とうに意識の底に埋もれた僅かな自我の中でぼんやりと思った。
俺が失った、なによりも大切なもの
俺が護れなかった、誰よりも愛しい人
もう二度と手に入らないのなら、俺がここに存在する意味はない。
……名も知らぬ大切な人
もしも君が今の俺を見たら
君は俺を、殺してくれるだろうか──
救いの手を差し伸べたのは彼がずっと呼び続けていた「大切な人」ではなく、冷たい微笑みをたたえた男だった。
『君をあらゆる恐怖から解放しよう』
長い時間の中で
そして崩玉の力を使い、彼の仮面を……剥いだ。
『名前を教えてくれるかな?』
『……ウルキオラ・シファー』
幾千もの虚が折り重なって形成された彼は、もはや「桐宮紫苑」ではなかった。
『──ではウルキオラ。私のために力を使ってくれないか』
手を伸ばす藍染から発せられたのは、絶対的な支配感。それは、失われた心の空白すら埋め尽くすかのような重圧で。
『……藍染様の御心のままに……』
ウルキオラにとって、自分を恐怖と虚無の闇から引きあげた藍染は完全無欠たる創造主であり、その存在は神にも近いものだった。
そしていつしか彼の心は失われた「なにか」を追い求めることを忘れ、ただひたすらに藍染から下される命をこなすためだけに動いた。
『主のために』
そう言い聞かせている限り、ウルキオラは自分の行動に一切の疑問を抱くことなく、また苦痛を覚えることもなかったから。
残虐な殺戮も、理不尽な侵略も、彼にとってはなんの意味もなさなかった。
迷いはなかった。
……そう。
あの日、あの桜の下で。
彼女に出逢うまでは──……
*
夜風が桜の頂上を吹き抜け、月明かりの中薄桃色に照らしだされる花びらを幻想的に舞いあげる。
全てを語り終えたウルキオラに沙羅は言葉を発することができないでいた。
突然ウルキオラが足場の枝から腰をあげ、そのまま空を切って地面に着地する。
「……ウルキオラ?」
それに続いて降り立った沙羅は訝しげに声をかけるが、彼は黙って桜の幹に手を当てた。
「何度悔やんでも……悔やみきれない」
ウルキオラが手を触れている部分に刻まれた古い傷跡は、百年もの昔、恋人の命が奪われたときのもの。
「あのとき……なぜもっと早くここへ来なかったのか」
──あなたのせいじゃない。そう言おうとして、言えなかった。
翡翠の双眸が苦しそうにこちらを見据えていたから。
「なぜ死んだ……」
ぽつり、と
低く紡がれた言葉に沙羅は息を呑んだ。
それは怒りではなく
憎しみでもなく
……ただ、哀しみ。
「なぜ……俺を残して死んだんだ。沙羅……」
哀しく歪んだその瞳を目の当たりにするまで
私はちっともわかっていなかった。
紫苑が……ウルキオラが、どれだけ私を想い。
そしてそれ故に、どれだけ苦しんでいたのか。
その言葉を聞くまで、私はなにもわかってなんかいなかったんだ──
***
《A Man Sank A Hollow…虚に堕ちた男》
拠り所を失った心が壊れるのは、哀しいほど簡単で。