雲ひとつない快晴だった。
「ウルキオラ、見て見て!」
スカイブルーの絵の具を天いっぱいに溶かしたような空を眩しそうに見上げていたウルキオラは、その声で現実に引き戻された。
視線を向けた先では、空と同じ色のワンピースをまとった沙羅が顔を輝かせて店のショーウィンドウにへばりついている。
「ここは家畜屋か?」
「間違ってはいないけどペットショップって言ってくれる?」
隣に並んだウルキオラに苦言を呈して沙羅は再びガラスの向こうに目を戻した。大小様々な飼育ケースの中には、まだ足取りの覚束ない子犬や真ん丸の大きな眼の子猫が愛くるしい鳴き声をあげている。
「可愛い、こっちの子はまだ目が開いたばかりかな。──あっ見て! あの奥の子猫、ウルキオラにそっくり」
「……どこがそっくりだって?」
「ほら、綺麗な緑色の目してるじゃない。それにあのすました横顔。私たちのこと気になってるのにわざと見ないようにしてるみたいでしょ」
「愛想がなくて悪かったな」
ウルキオラが横を向いてぼやくと沙羅は「それ、その顔!」と笑った。その様子があまりに楽しそうなものだから中に入るか訊ねれば、沙羅は少し考えて首を振る。
「ううん、いい。ここから見てるだけで十分」
憧憬を浮かべた眼差しは生きる世界が異なるものへの線引きをしているようにも思えた。
言葉の代わりにウルキオラがぽんと頭に手を置くと、目線をあげて「行こっか」と微笑む。
もしもふたりが現世で暮らす普通の恋人同士であったなら、それはごく日常的な光景だったはず。
楽しそうに語らいながら歩くその男女の姿は、行きかう買い物客で賑わう街並みの中に違和感なく溶けこんでいた。
本当は、過ぎていく時間の一秒一秒が、すがりついて引きとめたいほどに惜しい。この緩やかに流れる時間が限られた幸福であることを彼らは知っていた。
だからこそ、一瞬たりとも無駄にすることのないよう、瞳に映る景色の全てをくっきりと目に焼きつける。かわす言葉の一言一言を、何度も頭の中で反芻しては、焼きつけられた映像と共に記憶の上に重ねていく。
この夢の時間が終わりを告げても、いつでも脳裏に鮮明に呼び起こせるように。口にこそ出さなくともふたりの想いは確かにひとつに交わっていた。
*
「お待たせ」
唐突に「ちょっと待ってて!」と駆けだした沙羅が、戻ってくるなり差しだしたストローカップにウルキオラは目を瞬いた。
飲み物であるらしいその液体の中には、なにやら得体の知れない黒々としたものがうごめいている。
「タピオカミルクティーだって。今現世で人気らしいよ?」
「……丸薬のように見えるが。これを飲むのか?」
受け取ったカップの中身をウルキオラは猜疑心に満ちあふれた眼で覗きこむ。
彼が現世で暮らしていたのは百年も前のことだが、補血剤やら鎮痛剤の類にこんな薬剤があった気がする。いや、薬ならまだいい。怪しげに黒光りする丸い粒はいっそ毒薬のようにすら見えてくる。
「もう、みんな飲んでるんだから平気だってば。とにかく飲んでみて!」
言われてみれば周囲で談笑している若者も同じカップを手に太いストローをすすってタピオカとやらを飲んでいた。
仕方なしに一口含むと、ミルクティーの甘みと同時にぐにゃりとした感触が口内に広がる。
「どう? 美味しくない?」
「……なんとも言えない。斬新な食感には違いないが」
「えー、ミルクティーが一番人気だったのにな。私のも飲んでみる? こっちは黒糖味、美味しいよ?」
「いや、いい」
「遠慮しないでいいのに。ウルキオラ甘いもの好きでしょ?」
「別にそこまで好きじゃない」
微妙な表情のまま呟いたウルキオラに沙羅はえっと血相を変えた。
「嘘!? いつもお菓子食べてくれるから好きなのかと──」
「あ……いや」
黙々とガトーショコラを食していた姿を思いだし、まさか無理に食べていたんじゃ、と青褪める沙羅にウルキオラは言いよどむ。それを見て沙羅がますます邪推を深める前にと、ウルキオラは渋々口を割った。
「そうじゃない。甘いものを特に好みはしないが……おまえの作るものは美味い、と思う」
「……本当?」
「ああ」
「無理してない? 好きじゃないならはっきり言ってくれたほうが」
「何度も言わせるな」
気を遣っているのではと勘繰ったが、決まり悪そうに視線を外すウルキオラの横顔を見る限りそうでもないようだ。
「前におまえが言っていただろう。料理は一手間加えるだけで味が変わる、生き物のようだと」
「あ……うん」
「技術的なことはわからんが、おまえのそういう心がけが作ったものにも反映されているように思う。……だから美味いんだろうな」
ぼそりとひとりごちるように吐露するウルキオラに、胸の奥がくすぐったいようなじんじんと痛むような不思議な心地になる。味を褒めてくれたことはもちろんだが、他愛のない話をこうして憶えていてくれることがたまらなく嬉しい。
「ふふ、ありがとう」
「……締まりのない顔が余計に緩んでるぞ」
「すぐそうやって憎まれ口叩く!」
眉をつりあげてみせるものの口元は変わらず緩んだままで。
「また作るね」
「ああ」
隣で嬉しそうに言う沙羅の顔をちらりと盗み見て、ウルキオラも表情を和らげた。
その後もしばらく散策を続け、あちこち見て回ってははしゃぐ沙羅を見守っていたウルキオラだったが、中央街路に差しかかったところで不意に足を止めた。背後から接近する気配に振り返る。
「あの、すみません……」
話しかけてきたのはひとりの老婆だった。予想だにしない出来事にウルキオラは咄嗟に身構えて警戒心を強める。
……気づかれた? まさか。霊圧は完全に消している。
そもそもこの老婆にそれを察知できるだけの霊力があるとは──
「空座本町駅に行きたいのだけど……この辺りの道は入り組んでいてよくわからなくてねぇ。行き方を教えてもらえませんか?」
「……」
タウンガイドのようなものを手に歩み寄ってくる老婆に、ウルキオラは内心でほっと息をもらした。と同時に、わかるはずがないだろうと首を振る。
「いや、あいにくこの辺りの者じゃ──」
「ちょっとその地図見せてもらってもいいですか?」
断りを入れようとしたウルキオラの横からひょこっと顔を出した沙羅は、老婆が持っていた地図としばらく睨めっこして「うーん」と首を捻る。
当然ながら百年前とはがらりと町並みが変わっており、これまでに何度か乱菊の遊びに付き合わされて歩いたことはあるものの、やはり土地勘は皆無に等しかった。
「ああ、わからなければいいんですよ。地元の方じゃないのにごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ力になれなくてごめんなさい」
肩を落とす沙羅に老婆は人の良い笑みを浮かべて去ろうとしたが、「あっ」と声をあげた沙羅がそれを遮った。
「そう言えばここへ来る途中で交番を見かけたんです。せめてそこまでご案内しましょうか」
人懐こい笑顔でそう言って、沙羅は老婆の荷物を持ちながら交番まで付き添ってやった。
別れ際、深々と頭を下げる老婆に手を振り返している沙羅を、ウルキオラは呆れの入り混じった表情で見つめる。
「おまえは天性のお人好しだな」
「そう? 困っているときはお互い様でしょ?」
当たり前のように言い放つ沙羅にかつて人間として過ごしていた頃の彼女がはっきりと重なり、眩しそうに瞳を細めるウルキオラであった。
*
ひとしきり町歩きを堪能したふたりが次に向かったのは、自分たちにとって馴染みの深い店があったはずの場所。
「方向は大体この辺りのはずなんだけど──」
今や高層マンションが立ち並ぶ住宅街と化しているその場所は、百年前は町人たちの長屋がずらりと続く集落だった。そしてその中には、町一番の刀匠と呼ばれる刀鍛冶の店も。
「すっかり変わっちゃったね……」
「百年も経っているからな。無理もない」
ウルキオラの言葉に頷きつつも沙羅はこみあげる物哀しさを隠せずにいた。
あの刀鍛冶の店も、防衛軍の詰所も、沙羅にとっては紫苑との限られた
まるで自分たちの思い出など最初から存在していなかったかのような変わり果てた町の姿に、言いようのない寂しさを覚えた。
「沙羅……」
「仕方ないよね、なにも変わってないほうがおかしいもの」
振りきるように明るい調子で顔をあげる。が、見上げたウルキオラの瞳は沙羅ではなくまっすぐ前方へと釘付けになっていた。
「どうしたの?」
彼の視線を辿ったところで沙羅もまた言葉を失う。
ふたりの視線の先にいるのは、老人。
その面影は百年前に出会ったあの刀匠にとてもよく似ていた。
「──おじいさ……ッ」
咄嗟に飛びだしかけた沙羅の腕をウルキオラが掴む。
「落ち着け。あのじいさんのはずがないだろう。……他人のそら似だ」
そう言いながらもウルキオラもまた自身の目を信じられずにいた。それほどに、目の前の老人の横顔はあの刀鍛冶に酷似していた。
棒立ちするふたりの視線に気づいた老人がふと顔をあげる。
視線が、絡まる。
もしかして、もしかして──と胸を躍らせる沙羅に老人は穏やかに笑いかけた。
「こんにちは」
「あ……こんにちは」
軽く会釈をした老人はそのまま何事もなかったように掃き掃除を続けた。
その様子に沙羅は力なく瞼を伏せる。ありえないとは思いつつも、その面影にあの刀鍛冶を重ねずにはいられなかった。
「行こうか、ウルキオラ……」
落胆の色を浮かべながら老人の横を通り過ぎる──が、ウルキオラは元の立ち位置で足を止めたままだった。
沙羅が訝しげに振り返ると、ウルキオラは今度は老人の後ろの門にかけられている看板を凝視していた。
「……剣術教室?」
ウルキオラの呟きに、老人は箒を持つ手を休めてにこりと微笑む。
「ええ、うちは剣術指導を行っているんですよ」
「剣術を……珍しいですね」
百年前とは違いすっかり平和に包まれている今の現世では、剣術などとうに廃れたものとばかり思っていた。目を丸くする沙羅に老人は「そうでしょう」と頷く。
「今の時代では剣術など必要とされないのはわかっているのですが、
「曾祖父?」
「ええ。うちの曾祖父は刀鍛冶でしてね。一応その道では名の通った名匠だったそうなんですよ。しかし廃刀令が出てからは途端に仕事が減って、剣術そのものが廃れてしまった……そこで曾祖父は剣術を後世に残すために、この剣術道場を開いたのだと聞いています」
老人の話を沙羅とウルキオラはただ黙って聞いていた。
胸が震えた。
こんな偶然があってよいのだろうか。
「そのひいおじいさんの……写真を見たことはありますか?」
沙羅の問いかけに老人は不思議そうに首を捻る。
「写真はありませんが、肖像画なら。それがどうかしましたか?」
「いえ……よく似てらっしゃるんじゃないかと思って」
老人は大きく目を見開くと、すぐさま豪快に笑いだした。
「はははは! 面白いお嬢さんだ! ええ、よく親父に言われたものですよ。どうして父親でも祖父でもなく、曾祖父に似ているのだと」
カラカラと笑う老人にあの刀鍛冶の笑顔がそのまま重なり、沙羅は目頭が熱くなった。
憶えている。笑ったときに目尻の皺がくしゃっと増える、あの笑顔だ。
「お嬢さん……?」
急に俯いた沙羅を老人は気遣わしげに覗きこむが、ウルキオラはそれをさりげなく背後に庇うと話題の矛先を変えた。
「なんでもない、気にしないでくれ。それより少し中を見せてもらってもいいか?」
ふたりの思い出の中のあの町の面影はもうほとんど残っていないけれど
ふたりが過ごした刻は、確かに今この時代のこの瞬間へと続いているのだと知った。
「どうぞ、あがって。汚い場所ですけど」
ウルキオラの申し出に快く応じた老人に招かれ、ふたりは道場の中へと足を踏み入れる。
「わぁ……すごい」
きょろきょろと首を巡らす沙羅の目に真っ先に止まったのは、道場の壁に綺麗に飾られているいくつもの刀。
その中で沙羅は特に重厚に扱われている一振りの刀を目にとめた。それに気づいた老人は壁際に歩み寄る。
「これは曾祖父の最後の一作です。友人に捧げるために打ったとのことですが、曾祖父がこの刀を渡す前にその方は亡くなられたそうで」
「そうなんですか……」
顔を曇らせた沙羅は、続く老人の言葉に息を呑んだ。
「なんでも軍規違反を犯して処刑されてしまったとか」
「え……」
それって、と隣のウルキオラを振り仰ぐ。
ウルキオラは黙ってその刀の前に近づくと、鞘にうっすらと掘りこまれた文字に目を瞠った。
『我が生涯の友桐宮紫苑へ捧ぐ』
「じいさん……」
翡翠の瞳が動揺に揺らいだ。
いつも憎まれ口ばかり叩いていたあの刀鍛冶が、自分のために刀を打っていてくれたなんて思いもしなかった。
「曾祖父は最期までそのご友人の死を嘆いていたそうです」
「……」
沙羅の死後、抜け殻のようになっていた紫苑に、刀鍛冶は毎日のように顔を見せては励ましてくれた。
その気遣いに応えるどころか、同胞殺しという最悪の汚名を被って処刑された紫苑。残された刀鍛冶がどれだけ心を痛めたかは測り知れない。
「ウルキオラ──」
「……大丈夫だ」
心配そうに眉根を寄せる沙羅に、静かに頷く。
後悔することで取り戻せるのならいくらでもするだろう。
だがそうではない。今更どんなに足掻こうと、百年前に戻ることなどできないのだから。
沙羅が望む未来のために、この身を尽くすと決めたのだから──
「ひょっとして剣術の心得がおありですか?」
老人の問いにウルキオラは戸惑いがちに頷いた。
「ああ……多少は」
「それでは、よろしければ一本お相手いただけませんか? この刀で」
刀鍛冶の最後の作品である刀を手に取った老人に、ウルキオラよりも沙羅が驚いた顔をする。
「えっ……それはとても大切な刀なんじゃ」
「どんなに出来のよい刀でも振らなければ意味がありませんよ。と、これは曾祖父の口癖だったそうですが」
「でも、あの、おじいさんが相手をするんですか? この人一応腕は立つのでそれは……」
一応? と不満げなウルキオラの視線は無視しつつそう言えば、老人は快活に笑った。
「ははは、伊達に長年剣術指導なんぞやってるわけじゃありませんよ。まあそんなに固く考えず、軽く手合わせ程度でお相手いただけたらと思ったんですが……ご迷惑だったかな?」
刀鍛冶の刀を差しだしながら首を捻った老人に、ウルキオラはしばし考えてから刀を受け取る。
「一本だけ手合わせ願おう」
「ああ、ありがとう」
道場の中央で刀を構えて向き合ったふたりは、沙羅の合図を皮切りに鋭い金属音を響かせて刃を交えた。
なるほど、さすがに剣術指導を心得るだけはある。老人の無駄のない動きに感心しつつ、ウルキオラは繰りだされる刀の一本一本を冷静に
時折打ち込みの合間を狙って反撃に転じれば、老人はすかさず防御の体制に切り替え応戦した。
やはりあのじいさんの血を継いでいるだけあるなと納得するも、決定的な体力差は否めない。次第に老人の息があがってきたのを見てウルキオラは一気に踏みこんだ。
「そこまで!」
ウルキオラの刀がぴたりと老人の喉元に突きつけられる寸前で沙羅の制止がかかった。ウルキオラが刀を鞘に納めたところで、硬直していた老人はようやく我に返る。
「……いや、まいった。ここまで歯が立たないとは思わなかった。本当にお強いんですね」
「あんたも十分強かった。あと十年若かったらわからなかったかもな」
技量の違いは明確だったが控えめに告げたウルキオラに、老人は静かに顔を綻ばせた。
「私もこの仕事を長くやっているが、君ほど腕が立つ人は初めてですよ。名前を聞いてもいいかな?」
「…………紫苑だ」
まさかウルキオラと名乗るわけにもいかず昔の名を名乗れば、老人は驚愕に目を見開いた。
「なんと、曾祖父の友人と同じお名前とは! ……これもなにかの巡り合わせかもしれませんね」
そう言ったきり考えこむ素振りを見せた老人は、意を決したように顔をあげるとたった今ウルキオラから受け取ったばかりの刀を差しだした。
「紫苑さん、もしも君さえよければ、この刀を貰ってくれませんか?」
「俺に?」
「ええ。君のような人の手元にある方が、曾祖父もこの刀も喜ぶと思うんです」
老人の言葉にウルキオラはまじまじと刀を見下ろしていたが、束の間の沈黙のあとゆっくりとその首を左右に振った。
「……それはできない」
「お気遣いはいりません。もちろんお代をいただくつもりもありませんし──」
「いや、そういう意味じゃない」
困ったように首をもたげて、ウルキオラは老人を見遣る。
「この刀はじいさんの最後の形見なんだろう? それならこれはあんたが持っているべきだ。この先じいさんの志を引き継ぐためにも」
長い生を持つ自分たちにとってはこの百年もその一部に過ぎない。
だが人間たちの生に置き換えてみれば、それは途方もなく長い時間だ。
町が変わり、人も変わり、そして世も変わる。
簡単に移ろってゆくこの人間の世界に、自分たちが存在した証を一秒でも長く刻みつけておきたかった。
それはあの桜の木然り。そしてこの刀もまた、現世に「桐宮紫苑」が存在したという確かな証だった。
「……わかりました。残念ですが無理矢理押しつけてもご迷惑でしょうしね。この刀はこれまで通り当家で保管いたします」
「ああ……頼む。では俺たちはそろそろ失礼する。邪魔をしたな」
「いえ、またいつでも来てください。しかし……不思議ですね、君たちは」
ぽつりと紡がれた声にウルキオラと沙羅が振り向くと、老人は胸を詰まらせたような眼差しでふたりを見ていた。
「まるで曾祖父のことを知っているかのようだ」
ふたりはただ曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
老人の見送りを受けて道場をあとにし、しばらく歩いたところで沙羅はおもむろにウルキオラを仰ぐ。
「またいつか行こうね」
「ああ」
見上げるウルキオラの口元が緩んだのがわかって、沙羅の頬にも笑みが浮かぶ。
そしてふたりはどちらからともなく手を繋ぎ、再び町の雑踏の中へ溶けこんでいった。
***
《Walk in the Past…追憶の旅路》
姿形は変われど、ふたりが過ごした刻は確かに今へと続いている。