雛森との面会から数日後、沙羅は任務の合間を縫って五番隊の隊舎を訪れた。
多くの隊士が任務に出払っている日中の時間帯だけあって、隊舎内は人もまばら。その中で沙羅の姿に気づいた若手の隊士が声をかけてきた。
「十三番隊の草薙副隊長ですよね? なにか御用ですか?」
「忙しいところごめんなさい。桑島四席に少し伺いたいことがあって」
「桑島四席なら奥の事務室にいますよ。この先の通路の突きあたりの部屋です」
「ありがとう」
緊張感など微塵も覗かせずに微笑んで沙羅はまっすぐに奥の部屋を目指した。
間を置かずして辿り着いた事務室の前に立ち、ゆっくりと二回ノックをする。すぐに「どうぞ」という男性の声が返ってきて、沙羅は小さく息を吸いこんでからドアノブを引いた。
*
『
沙羅が復唱したその名に、雛森は複雑な表情を浮かべたまま頷いた。
『うちの四席を務めているんだけど、すごく優秀な人なの。藍染隊長のことを心の底から尊敬してて、あたしもよく桑島くんと隊長の話で盛り上がったりしてたんだ』
そこまで言うと雛森は言いにくそうに眉を歪めて続ける。
『藍染隊長にもすごく信頼されてて、よく任務にも同行してた。隊長と一緒にいる時間は、桑島くんがあたしの次に長かったと思う……』
『そう……』
沙羅がわずかに瞳を細めたのを見て、雛森はすぐに「でも!」と顔を上げた。
『桑島くんは本当にしっかり者で優しい人なんだよ。そんなことするような人じゃ──』
『わかってる、心配しないで。疑いをかけにいくんじゃない、疑いを晴らしにいくんだから』
沙羅のその言葉に安心したのか雛森は肩の力を抜いて頷く。
そんな彼女に笑みを返しつつ、沙羅は静かにこの先の動向について思考を巡らせていた。
*
五番隊第四席・桑島大悟は気さくで快活な青年だった。
「まさか草薙副隊長から話しかけていただけるとは思いませんでした! 雛森副隊長とは同期だったんですよね? すごいなぁ……雛森副隊長の代はほかにも吉良副隊長や阿散井副隊長もいますし、僕たちにとっては憧れの世代なんですよ」
話を聞けば沙羅たちの三期下で霊術院を卒業したという桑島は、興奮を抑えきれない様子で朗らかに笑った。
『しっかり者の四席』
雛森や他の隊士たちからそう称される彼は、隊長・副隊長不在の穴を埋めるべく獅子奮迅の活躍を見せているらしい。もはや五番隊の中核と言ってさしつかえない存在だ。
「それで、僕にお話ってなんでしょうか?」
人当たりの良い笑みを浮かべて首を捻った桑島に、沙羅は一度思い悩む素振りを見せてから口を開いた。
「……少し藍染隊長の話を聞きたいの」
途端、それまでの笑みが嘘のように桑島の表情が険しくなる。
「あんな男はもう隊長でもなんでもありませんよ。ただの裏切り者です」
そこには憎しみの色がありありと浮かんでいた。
吐き捨てる桑島を見据えながら沙羅は「でも」と続ける。
「あなたも藍染隊長に憧れてたんでしょう?」
「確かに以前は憧れてましたけど──今じゃ憎いと思ってますよ。あんな形で僕たちを裏切るなんて……それに気づけなかった僕も僕ですけどね」
「そう……だよね。私も藍染隊長のことは赦せない。雛森はあんなに藍染隊長のために尽くしていたのに、それを簡単に斬り捨てて……」
「……」
「結局……あの人は部下のことを駒としか思ってなかったのかな」
「……ええ。本当に……雛森副隊長が可哀想だ……」
おもむろに視線を逸らして呟いた桑島の横顔を、沙羅は一瞬たりとも見逃さないよう見つめていた。
そうして幾ばくかの沈黙の、あと。
沙羅はそれまでの沈んだ声とはがらりと声音を変えて、桑島に言い放った。
「どうやら藍染様からはなにも聞かされていないみたいね」
「……藍染様……?」
突如身に纏う雰囲気を一変させた沙羅に桑島は驚愕の表情を向けていた。
「なぜそんな呼び方を……草薙副隊長、あなたはまさか……あの男と……?」
「そんなことも知らされてなかったの? じゃあ藍染様はとっくにあなたを見限っていたのかもね」
淡々と言葉を紡ぐ沙羅の表情はまるで人形のように張りついたまま、動かない。
「一体なにを仰っているんですか……? 僕は……」
「だから、あなたじゃもう役不足ってこと。昨日の現世での襲撃、失敗したんでしょう? 藍染様はあなたが偽りの情報を流したのだと失望されている」
沙羅が告げたその言葉に桑島はさっと青ざめた。
「違う! あれは僕のせいじゃない! 事前に調べた情報では確かに昨日の正午に現世駐留組の交替引き継ぎを行うはずだったのに、いつの間にか延期になっていて……でもそんな話、僕のところにはちっとも回って来なかったんだ!」
「……」
必死の形相で訴える桑島を、沙羅は冷めた目で見つめている。その温度のない眼差しが彼を余計に急き立てた。
「本当だ……嘘じゃない! 僕は絶対に藍染様を裏切るような真似は──!」
勢いに任せて吐きだしていた桑島は、そこで言葉を止めた。対峙する沙羅の瞳が哀しげに揺らいだ気がしたから。
それまではただ冷たい光を放っていたはずのその濃紫の目は、今はくっきりと悲哀の色を浮かべていた。
一瞬ののち、桑島は自分が取り返しのつかないことを口走ってしまったのだと知る。
「あ……そんな」
がくんと膝の力が抜け落ちて床にへたりこむ。
「今のは……僕を試すために……?」
血走った眼で見上げてくる桑島に沙羅は目を細めて「ごめんなさい」と呟いた。
「う……うあああッ!」
発狂した桑島が腰の斬魄刀に手をかけた瞬間、その手は上から押さえられていた。
「……抜かないで」
柄にかけた右手の上に、いつの間に真横に移動したのか沙羅の手が重ねられている。
「ここであなたが抜刀したら、私はあなたを敵として処理しなければいけなくなる。……どうか刀を抜かないで」
懇願にも似た眼差しでそう告げられ桑島は混乱した。
敵への内通は最も罪深いとされる背信行為だ。それが露見すれば、いずれにせよ自分は尸魂界に
なのになぜ彼女はそんなことを言うのだろうか。まるで「刀を抜かなければ敵じゃない」とでも言いたげな、そんな台詞を。
だが桑島に本当に衝撃を与えたのは次の一言だった。
「雛森の気持ちも考えてあげて」
「……ッ!」
狂気に染まりかけていた桑島の目に動揺が走る。その間を逃さずに沙羅は続けた。
「雛森はあなたのことを本当に信頼してるって話してくれた。とても優秀で、頼りがいのある人だって。もしもあなたがここで抜刀して、私がそれに対応したと知ったら……雛森がどれだけ哀しむと思う?」
沙羅の手の下で、斬魄刀の柄を握る手が小刻みに震えた。
「でも……僕はもう、雛森副隊長を裏切って……それだけじゃない……隊の仲間や、瀞霊廷のみんなのことも……!」
「本当に仲間を裏切ったのならそんなことは気にもとめない。だけどあなたは違う。……ずっと心を痛めてたんでしょう?」
優しい声音で語りかけながら沙羅が手を離すと、柄にかけられていた右手はずるりと垂れさがった。
「雛森副隊長……」
そのまま床に手をついた桑島は肩を震わせて嗚咽をもらした。
ウルキオラから内通者の存在を知らされたその日、瀞霊廷に戻った沙羅が真っ先におこなったのは、四日後に迫った現世駐留組の一斉交替の日程を改めることだった。
それも当事者にしか話が伝わらないよう、極秘裏に。
そして数日が過ぎ、破面の奇襲がかけられるはずであった日を何事もなくやり過ごしたその翌日、沙羅は雛森から聞きだした桑島大悟の元を訪れた。
それまで瀞霊廷のあらゆる情報を横流しして完璧に任を全うしていたはずの内通者が、偽りの情報を伝えるという致命的なミスを犯した。そのことに誰より動揺しているのは内通者本人のはずで。
ちょっとした狂言を吹っかけて白か黒かを見極めるには絶好のタイミングだった。
結果追い詰められた彼は、自ら「黒」であることを明かしてしまった──
「あんな芝居を打つってことは、僕が怪しいと気づいていたんですよね? どうしてわかったんですか……?」
幾分落ち着きを取り戻した桑島は、憔悴した眼差しで沙羅を見上げた。
実際沙羅はかまをかける前──桑島に最初の問いを投げかけたときから彼こそが内通者であると確信していた。
藍染惣右介について訊ねた際、清々しいまでに「憎い」と言いきった桑島。
客観的に考えれば当然のようにも思えるが、沙羅はそこにかすかな矛盾を感じていた。
本当に心を傾けた相手であれば、どれだけ残酷に裏切られようと、そう簡単に胸の内に淀む感情全てを憎しみに昇華することなどできはしない。
どれだけ周りにたしなめられても、憎むべき敵だと言い含められても、感情はそんなに思いのままには動いてくれない。……雛森がそうであるように。
だから迷いなく憎しみを露わにした桑島に沙羅は違和感を覚えた。
彼は己を偽っている。だからこそこんなにも平然と藍染への恨みを語れるのではないだろうかと。
けれど話を進めるうちに、沙羅は平静を装う桑島の表情の中に時折暗い影が指すことに気がついた。
『雛森副隊長が可哀想だ……』
そう告げる彼の面差しはとても演じているようには見えなくて。
「あなたが、苦しんでいるような気がしたから」
それを見抜いた瞬間、沙羅は桑島の心に葛藤が生じていることを確信したのだった。
「すごいですね……草薙副隊長は。まるで心を読まれているみたいだ……」
自嘲するように呟いた桑島の表情からは、完全に反抗の意思は消え去っていた。
「どうしてこんなことになったのか、話してくれる?」
同じ目線まで屈みこんで問いかけると彼は静かに口を開いた。
「藍染様が謀反を起こす少し前……あの方は僕だけを呼びだしてこう言ったんです」
──私はこれから大きな目的のために尸魂界と敵対しなければならない。闘いを早いうちに鎮静化して犠牲を最小限に抑えるためには、君の協力が必要だ──
眼鏡の奥の瞳を薄く細めて語りかける上官に、桑島は底知れぬ恐怖を感じた。
いつもの穏やかな空気とはまるで違う、絶対的な重圧がその場を支配している。
だがそれでも藍染が桑島にとって敬愛する主であることに変わりはなかった。
むしろその重圧は、元より行き過ぎる敬意により盲目になっていた桑島を
そうして操り人形のごとく首を頷かせた彼は、藍染失踪後も彼の意のままに動き、尸魂界の情報を流す内通者の役割を担ってしまったのだった。
「……最初はただ嬉しかった。藍染様が僕のことを信用して、僕だけに話してくれたことがすごく嬉しかったんです」
──君以外にはこの役は頼めない。
──君を信頼しているからこそ任せるんだよ、桑島くん。
主からその言葉をかけてもらえるだけで至上の喜びを感じた。この人のために尽くそうと、ただ言われるがままに任をこなした。
だがその心の中にも次第に迷いが生まれる。
『おい聞いたか? 昨日九番隊の現世任務中に破面が奇襲をかけてきたんだってよ』
『また? 今月に入って何度目だ?』
『ああ……今回は死者も出たらしい』
『一体なんだってんだ……』
自分が流した情報のせいで仲間が傷ついてゆく。
──犠牲を最小限に抑えるためには、君の協力が必要だ──
そう告げたはずの主君の言葉とは裏腹に犠牲は増える一方で。破面襲撃による隊士負傷の知らせを聞く度に募る葛藤は、いつしか「藍染様のために」という使命感ひとつでは片づけられないほどに大きく広がっていた。
「わかってたんだ……利用されているだけだってことぐらい」
いまだ床に座りこんだまま桑島は喉の奥から声を押しだす。
「雛森副隊長が斬られたあと……僕はすぐに藍染様の元へ行って訊ねたんです。雛森副隊長にはなんの罪もないのにどうしてそこまでする必要があったのかって」
その問いに返ってきたのは哀しみに満ちた声色だった。
──桑島くん、私も心が痛いよ。だがこれも必要な犠牲なんだ……わかってほしい──
なにが必要なのか、なぜ必要なのか──藍染が詳細を語ることはなかったが、胸を突かれるような眼差しにそれ以上抗うことはできなかった。
「本当はずっとわかってた。僕も雛森副隊長のように、都合よく斬り捨てられる駒のひとつでしかないんだって……」
床についた手が握り拳に変わる。
「だけど怖かった。仲間を欺いて、尸魂界を裏切って……その上藍染様にまで見離されたら、僕がここに存在する意味はなくなる。僕は……どこにも居場所がなくなってしまう」
怯えるように俯くその身体は、言いようのない恐怖に震えていた。
「仲間が傷つくのも、藍染様に捨てられるのも、裏切りがばれるのも、全部怖くて……。もう……どうすればいいのかもわからなくなって。それでも藍染様には逆らえなくて……っ!」
こらえきれなかった嗚咽が桑島の喉からもれる。
血が滲むほどに強く握り締められたその拳の上に、沙羅はそっと手を重ねた。
「話してくれてありがとう。……あなたもずっとひとりで苦しんでいたんだよね」
「……ッ」
労わるような温もりをその手から感じて桑島の身体がこわばる。
藍染のために背信行為を働くようになって以来、常に疎外感に包まれていた彼が、こんなにも他人の存在を身近に感じるのは久方ぶりのことだった。
なぜなら自分は裏切り者。ここにいてはならない者、なのだから。
「でも桑島くん。あなたはとても大事なことをわかってない」
頭上から降ってきた穏やかな声に、桑島は恐る恐る顔を上げた。
この温もりの持ち主である十三番隊の副隊長は、そんな彼に向けてふわりと微笑みかけた。
「雛森も、五番隊の隊士も、みんなあなたのことを頼りにしてる。あなたの居場所はここにあるじゃない」
その言葉に桑島の頬を一筋の涙が伝った。
いつだって孤独ではなかった。
『あれ、あれ? 桑島くん、あたしのデスクの上にあったファイル知らない?』
『先日の任務報告書のファイルですか? それなら内容を全てチェックして、先程総隊長へ提出してきましたよ』
『えっあれ全部やってくれたの!? うわぁ、桑島くんて本当に仕事が早いね。あたしなんてとろくて怒られちゃうくらいなのに』
『そんなことないですよ。雛森副隊長は仕事が丁寧なので安心して書類を回せるんです。僕じゃ気づかないようなミスもすぐに指摘してくれますし』
『ううん、桑島くんには敵わないよ。あたしも頑張らなくちゃ!』
天真爛漫な笑顔でいつも元気づけてくれる副隊長──ずっと憧れていた。
『桑島四席! あの、鬼道の扱い方で少しわからない部分があるんですけど、ご指導願えませんか?』
『あっずるいぞおまえ! 俺のほうが先に桑島四席に頼んであるんだからな!』
『なによ、今は私がお願いしてるんだからそんなの関係ないでしょ!』
『わかったわかった。じゃあふたりとも、今日の夕方は時間あるかい? 僕もちょうど修行場で鬼道の練習をしようと思っていたところだから、よかったら一緒にどうかな』
『はいっ! お願いします!』
素直で実直な部下たち──心の底から信頼を置いていた。
それは藍染が尸魂界を裏切ったあとも変わらず、むしろ隊長という隊の中核を失った隊士たちはこぞって四席である彼を慕い、敬い、信望を寄せた。
そう、誰も彼を異端視などしていなかったのに。心の奥底に巣食うやましさを隠せずに一線を引いていたのは彼のほうだ。
居場所は最初からここにあったのに。
「……っ……僕は……なんてことを……」
今になって己の犯した罪の重さを実感した。
「すみません……本当に……申し訳ありません……!」
謝って済む問題ではないことは重々承知している。この身に背負うこともできないほどの、重すぎる罪。
けれどもう逃れることはできない。
逃げたくも、ない。
しばし俯いて肩を震わせたあと、桑島は沙羅に向けて両手首を突きだした。
「……僕を捕らえてください」
しかし沙羅は首を左右に振ってそれを
「私は誰かの命を受けてここに来たわけじゃない」
困惑の表情を浮かべる桑島に、ふっと頬を緩めて。
「ただ確かめたかったの。一連の破面の襲撃事件に理由があるのなら、それを突き止めてこれ以上の被害を食い止めたかった。だからその目的を果たした今、私のやるべきことは終わり。私の手であなたを捕らえるつもりはない」
その言葉を桑島は目を見開いて聞いていた。
内通者を目の前にしながら、捕らえる気はないと言い放つ彼女。つまり、自分の身の置き方は自分で決めろと。
それは沙羅の桑島に対する厳しさでもあり、そしてこの上ない優しさでもあった。
犯した罪の重さは変わらずとも、他者に罪を暴かれるのと自ら罪を認めるのとでは受け手の心証は大きく異なる。
彼女は自分に再起への道筋を示そうとしているのか。
「償えないなんて思わないで。誰だって、いつだってやり直すことはできる。大切なのはそこから目を背けないこと。あなたにできることはまだまだたくさんあるよ」
「……十三番隊にいる同期が、以前話していたことを思いだしました。草薙副隊長には人の心を動かす力があるって。てっきりその同期があなたに入れこんでいるんだろうとしか思っていなかったんですが……はったりじゃなかったようですね」
上を向いた桑島の目にはうっすらと涙が光っていた。
一度顔を逸らしてそれを拭ってから、ゆっくりと立ち上がる。
「今から一番隊へ行ってきます。そして総隊長へ全てをお話ししてきます」
「うん……」
「どうかそんな辛そうな顔をしないでください。あなたのおかげでようやく目が覚めたんです。……僕のところに来てくれたのが草薙副隊長で良かった」
どこか清々しい表情でそう告げた桑島に、沙羅はもしかしたらこの青年はずっと誰かに気づいてほしかったんじゃないかと思った。
自分ではどうしようもないこの裏切り行為を、誰かに止めてもらいたくて。
「本当にありがとうございました……」
深々と頭を下げる彼に沙羅はなんと言葉をかけるべきか躊躇った。
そして一拍間を置いて、結局自分が一番伝えたい言葉を口にした。
「また会おうね、桑島くん」
その一言に一瞬目を丸くした桑島は、
「はい……きっとまた」
吹っ切れたような笑みを浮かべて、大きく頷いた。
*
机周りを簡単に片づけて事務室を出ようとした桑島は、扉の前に立ったところでしばし逡巡し、振り返る。
「最後にひとつだけ……聞いてもらえますか」
「うん?」
どこかこわばった面持ちの桑島に、沙羅は小首を傾げながら頷いて先を促した。
「僕が使えなくなったとわかれば、藍染様はまた別の手を使って尸魂界を貶めようとするでしょう。いつかは直接相対するときも来るかもしれない。でも、もしもそうなったとしても、藍染様とは絶対に闘わないでください。あの人とだけは……闘ってはいけない」
「どういう意味?」
「あの人の能力は危険すぎるんです。どんなに抗おうと思っても、いざあの人を前にすると頭が麻痺したように動かなくなってしまう。僕が藍染様の元を離れられなかったのはそれが原因でもあります。僕自身も、いつの間にかあの人の術中に捉えられていたんだ……」
言いながら、桑島は自身の両手をまるで異物を見るかのような瞳で見つめる。
今は握るも開くも思いのまま。だがかの男を前にしたとき、その四肢は、その心は、確実に藍染惣右介の意のままとなっていた。
脳内のあらゆる反抗心は消え去り、代わりに与えられたのは圧倒的な支配。
「それも鏡花水月の能力なの? それとも崩玉の……」
「……わかりません。ただはっきりと言えることは、それがとてつもなく強大な力だということです。例え十刃であっても、あの力でねじ伏せられれば抗う術を持たない」
十刃。その響きにすぐさま翡翠の瞳を思い浮かべた沙羅は、無意識のうちに拳を握りしめた。
主の命に背いてでも沙羅のために生きると言ってはくれたものの、ウルキオラが今でも藍染に隷属する立場に置かれていることは否定できない現実。いつかは逃れようのない命が下される日も来るだろう。
そのとき、ウルキオラがどれだけ苦しむことになるか。想像するだけで心は軋みをあげた。
「……闘わずに済むのなら、それが一番いいんだけどね」
結局、桑島の忠告に沙羅は躊躇いを覗かせながらそう答えた。
「やはり……闘うつもりなんですね」
「闘いたいわけじゃないよ。だけど藍染隊長が尸魂界を混乱に陥れようとしている以上、その覚悟はしておかないとって思ってる」
そこで一拍置いた沙羅は、強い眼差しを桑島に向けて。
「だって私たちは、そのための護廷十三隊なんだから」
尸魂界を、現世を、全ての魂の安寧を護るための。
沙羅の顔に浮かびあがった自信に満ちた微笑みに、桑島は一瞬息をするのも忘れて見惚れた。
ああ、そうか。だからこのひとはこんなにも揺るがないのか。
恐怖よりも、迷いよりも、ただ護りたいという強い意思が芯にあるから。
だからこんなにもまっすぐなのか。
「大切なものが脅かされて、闘うことでしかそれを護れないのなら。例え腕がちぎれたとしても、私はこの刀で闘い続けたい」
腰の斬魄刀を掴んだ沙羅の凛とした横顔に眩しさすら覚える。
これ以上自分がなんと言おうと、彼女の意思を曲げることは不可能だと桑島は悟った。
「だからあなたは周りを惹きつけるのでしょうね……」
「え?」
ぼそりと小声でもらした台詞ははっきりとは届かなかったのか、首を捻った沙羅に桑島は「いいえ」と笑った。
どうかこの心優しき副隊長がこれ以上の哀しみを背負うことのないように。
どうかその笑顔が絶えることのないように。
静かな祈りを抱きながら桑島は沙羅に深々と頭を下げ、一番隊の隊舎へ向かうべく事務室を発った。
次第に小さくなっていくその後ろ姿を沙羅は最後まで見つめていた。
***
《A Betrayer…内通者》
次話、ついにあの男が動く。