Dear…【完結】   作:水音.

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第31話 Into the Dark ―闇に染まる世界―

 空にぽつんと浮かぶ三日月が夜の公園を朧げに照らしだす。

 青白いその月光を浴びながら、沙羅はいつもの桜の下に腰を下ろして待ち合わせの相手を待っていた。

 

「……っくしゅ!」

 

 不意に震えが走って身を縮めるように膝を抱える。

 季節は次第に初夏へと移り変わる準備を始めているものの、夜はまだ少し肌寒い。これだけの長時間外にいれば冷えるのも無理はないと思う一方で、沙羅はこの震えが単に寒さからきているものだとは思えずにいた。

 

 約束の時間はとうに過ぎている。

 ウルキオラは、まだ来ない。

 

 元々全くの異なる世界に身を置く相手だ、必ずしも時間通りに逢えるとは限らない。そんなことは沙羅とて重々承知している。

 それでも、今日はあまりに遅すぎる。

 否、なによりも。あまりに胸がざわつきすぎる。

 

 半分無意識に胸元のネックレスを握った。

 沙羅の手の中に収まった翡翠の石は、彼女の身体同様にすっかり冷えきっている。それが無性に寂しくて必死に掌から温もりを送った。

 

 ……さっきからずっと感じているこの感覚はなに? 

 悪寒、恐怖……そんな生温(なまぬる)い言葉で表現できるようなものじゃない。それは例えるなら──

 

 得体の知れないなにかがじわりじわりと忍びよる感覚に、沙羅は首を振って意識を正した。

 

 こんなわけのわからないことで不安になるなんて、私らしくない。

 大丈夫。きっともうすぐ来る。

 ウルキオラは約束を破ったりしない。

 

 そう言い聞かせても身体の震えは治まらず、手の中で強く握りしめたネックレスに祈りをこめる。

 

 どうかお願い。

 

「早く、来て……」

 

 その直後だった。突如辺りの空気が震えるのと同時に、沙羅の背後でズズズ……と音を立てて空間が上下に裂けた。

 それはまさにウルキオラがいつも虚圏から現世に現れるときに開く黒腔(ガルガンタ)だった。

 

 息をするのも忘れて振り返る。

 裂けた空間の間から見慣れた白い影が現れたのを目に留めて、沙羅はようやく安堵の息をもらした。

 左頭部を覆う仮面に、深緑色の瞳。そこに立っていたのは間違いなくウルキオラで。

 

「よかった……遅いから心配しちゃった」

 

 言ってからなんだか咎めるような言い方になってしまったかな、と少し後悔する。決して怒っているわけではなくて、ただ安心したのだ、本当に。

 だがウルキオラはそれに対して表情ひとつ変えることなくゆっくりと黒腔から足を踏みだした。

 裂けた空間が再び音を立てて閉じてゆく。

 

「……なにかあったの?」

 

 反応らしい反応を見せないウルキオラに沙羅は漠然とした違和感を覚えた。

 ウルキオラの反応が薄いのはいつものことだが。しかしそれにも彼は返答しない。ただ翡翠の眼差しをまっすぐに沙羅に向け、音もなく歩み寄ってくる。

 そして次の瞬間ウルキオラの口から出た言葉に、沙羅は本気で耳を疑った。

 

 

「おまえが草薙沙羅か」

 

 

 それはぞっとするほど冷たい声音で。

 背筋に鳥肌が立つのを感じながら、沙羅はただ愕然と目の前の男を凝視する。

 胸に疼く違和感がみるみる膨れ上がっていく。

 

「どうやら間違いないようだな」

 

 モノを見るような視線で眺め下ろしてくるウルキオラに、沙羅は本能的に後ずさった。

 

「ウルキオラ……?」

 

 かすかな期待をこめてその名を呼ぶ。

 

 どうか応えてくれるように。

 どうかいつもの彼であるようにと祈りながら。

 

 するとそれを耳にしたウルキオラが初めて表情を動かした。感情のない瞳を見開いて、じっと沙羅の姿を映しだす。

 しかし次に彼の口から出たのは、沙羅の望んだ台詞とはまるでかけ離れたものだった。

 

「なぜ俺の名を知っている」

 

 身体の底から湧き起こる震えは、今度こそはっきりと寒さによるものではないと断言できた。

 

「冗談でしょ……? ウルキオラ……」

 

 声までもが震えて、うまく喉の奥から押しだせない。

 

「おまえに名乗った憶えはない」

 

 もう十分に聞き慣れたはずの声が、今初めて耳にしたような恐ろしい声に聞こえる。

 衝撃のあまり二の句も告げない沙羅を、ウルキオラはわずかに目を細めて一瞥(いちべつ)するだけだった。

 

「藍染様のご命令だ。草薙沙羅、おまえを虚圏へ連れて行く」

 

 彼が口にした自分の名には、いつも含まれている宝物を愛でるような優しい響きは欠片もない。

 慈しみも、労わりも、なにも。

 

「なにがあったの……」

 

 震える拳を胸に引きよせて、沙羅は恋人を──恋人であるはずの彼を、見上げる。

 しかしそれに返る視線は恋人に注ぐものにしてはあまりに冷たい。

 

「藍染隊長に……なにをされたの?」

「おまえに話すことなどなにもない。俺はただおまえを虚圏へ連行する、それだけだ」

 

 彼の目は確かに沙羅を捉えているはずなのに、その瞳の中には沙羅の姿など一片も映っていない。

 そこにはただ、主の命により虚圏へ連行すべき『対象物』が、なんの色もなく映しだされている。

 

 状況を受け止めきれずに沙羅が呆然と立ち尽くしていると、ふっと目の前のウルキオラの影が消えた。

 

「っ!」

「抗うな」

 

 一瞬で沙羅の背後に回りこみ右腕をひねり上げたウルキオラが、冷やかな声を響かせる。

 

「抵抗するようなら多少手荒な手段を取っても構わないと仰せつかっている。五体満足でいたければおとなしく従うんだな」

 

 それが決して脅しでないことは腕に加えられる容赦ない力が物語っていた。

 

 ……違う。

 こんなの。

 

 苦痛に顔を歪めながら、沙羅は肩越しにウルキオラを振り返る。

 

「こんなの、ウルキオラじゃない……!」

「!」

 

 まさか抵抗してくるとは思わなかったのか、瞬時に身を屈めて身体の向きを反転させた沙羅に対してウルキオラの反応はわずかに遅れた。

 その隙に掴まれた右腕を引き抜いて後方に飛びのく。

 

「……黙って従う気はないということか」

 

 刹那見開いた瞳をすぐさま戻したウルキオラに、沙羅は泣きたくなるのをこらえて声を絞りだした。

 

「私がわからないの?」

 

 問われた彼は質問の意味すらわからないとでもいうような顔をしていた。

 

「なにが言いたい? 俺はおまえのことなど知らん」

「記憶を……消されたの? それとも操られて……」

「知らんと言ったはずだ。俺は誰にも操られてなどいない、藍染様の命のままに動くだけだ」

 

 向けられる冷たい眼差しには一片の迷いもなく、淡々と主の名を口にする。

 

「藍染……」

 

 かの反逆者がウルキオラになにをしたのかはわからない。だが今目の前にいる男が沙羅の知っているウルキオラでないことだけは確かだった。

 

「どうして……」

「無駄口は十分だ」

 

 沙羅が最後まで言い終えるのも待たず、再びウルキオラの影が残像を残して消える。

 

 今度は腕は取られなかった。

 響転(ソニード)と呼ばれる高速移動歩法で迫ったウルキオラを、沙羅はそれを上回る速さの瞬歩を駆使して避けた。

 

「……なるほど。藍染様の元へ連れて行く前に少々しつける必要がありそうだな」

「待って、話を聞いて!」

「しつこいぞ」

 

 沙羅の主張をその一言で跳ねのけたウルキオラは、おもむろに左の腰へと手を運ぶ。

 

 それは沙羅にとって信じがたい光景だった。

 キン、と小気味よい音を響かせて、ウルキオラの腰の剣鞘から銀色の光を放つ刀身が抜き放たれていた。

 

「ウルキオラ……?」

「手加減はしてやるが、せいぜい死なないよう気をつけるんだな。俺としてもおまえに死なれては困る」

 

 その言葉の意味を理解した瞬間には、もうウルキオラの剣の切っ先は沙羅のすぐ眼前まで迫っていた。

 

 

 キィン! 

 

 今まさに我が身を切り裂こうとしていた刃を、沙羅は自身の斬魄刀を抜き放つことで辛うじて受け止めていた。

 

「やめ──ッ」

 

 制止の声を上げる間もなくすかさず二撃目、三撃目が繰りだされる。

 ウルキオラの剣が皮膚を裂くギリギリのところで応戦しながら、沙羅は唇を噛んだ。

 

 重い。振り下ろされる剣撃のひとつひとつが、とてつもなく重く、そして速い。

 気を抜けばすぐにでも刀が弾かれてしまいそうで、沙羅は必死に夢幻桜花の柄を握りしめた。

 

「どうした。副隊長を担う者がこの程度か」

 

 ウルキオラが突きだした剣先が頬を掠め、一筋の血が浮かびあがる。

 直後、左の下段から放たれた蹴りは夜闇で視界が利かないことも手伝って完全に死角になっており、反応が遅れた沙羅は大きく後方に蹴り飛ばされた。

 

「ぐっ……」

 

 咄嗟に受け身を取ったため大きな痛手はない。

 だから斬魄刀を握る手が震えているのは痛みではなく……恐怖から。

 

 どうして

 どうして彼と闘わなければならないの

 

『斬る刀ではなく、護る刀であるように』

 

 そう願ってこの刀を贈ってくれたのは確かに彼だったのに。

 どうして今私は、その刀を彼に向けなければならない? 

 

 闇に覆われた視界の中央に映るウルキオラが、ゆっくりとこちらに向かって近づいてくる。

 

 やめて

 やめて

 あなたとは闘えない

 

 闘えないのに──

 

 す、とウルキオラの人差し指がまっすぐ沙羅を指し示す。

 その指先におびただしい霊圧が凝縮されていくのを認めたときには、もはや沙羅に考える時間は残されていなかった。

 

「咲き誇れ、夢幻桜花!」

 

 斬魄刀の切っ先を天に向けて叫ぶと同時、ウルキオラが放った緑色の霊圧を帯びた虚閃(セロ)が沙羅を包みこみ、爆発する。

 やがて土煙が晴れた頃、そこには淡い薄桃色に煌めく斬魄刀を構えた沙羅が立っていた。

 

「ようやく斬魄刀を解放したか。確かに霊圧は跳ね上がったようだが──」

 

 自身の放った虚閃が完全に弾かれたにも関わらず、表情ひとつ変えずにウルキオラは口を開いた。

 

「まだそれだけではないだろう。おまえの霊圧を抑えこんでいるその封印、さっさと解いたらどうだ」

 

 月明かりの下、沙羅の胸元に浮かびあがっている花の紋様に目を細めて、ウルキオラは淡々と告げる。

 その声に導かれるように胸元に手をあてて、沙羅はしばし逡巡した。

 

 沙羅が所属する十三番隊の隊花を模したこの紋様は、打たれた死神の80%もの霊圧を封じる限定霊印。

 これを解放すれば霊圧は今の5倍にまで膨れあがる。本気でウルキオラを相手にするのならそうするほかないだろう。

 けれど──

 

 幾ばくかの躊躇いのあと、沙羅は胸にあてた手を再び夢幻桜花の柄へと戻した。

 

「……なんの真似だ?」

「限定解除はしない」

 

 小さく首を振って腰を落とす。

 ここで沙羅が限定解除をすればその情報はただちに技術開発局の霊波計測研究科へ伝えられる。

 そうなれば、前回グリムジョーと闘った際に清音が遣わされたように、尸魂界から救援が寄せられるだろう。

 

 けれど今のウルキオラを誰かに会わせるわけにはいかない。

 もしも沙羅を助けに来た仲間が今のウルキオラを見たら、誰もが彼を『敵』と判断するだろう。

 十刃という立場はもとより、沙羅に対して冷酷に剣を振るうその姿は、紛れもなく尸魂界に仇為す敵対者。

 そうして闘いに発展して、もしもウルキオラが傷つけられるようなことにでもなったら。あるいはその逆で、ウルキオラが仲間を傷つけるようなことになったら。

 

 だめ。絶対にだめだ。

 限定解除はできない。

 覚悟を固めて再び斬魄刀を構えた沙羅を、ウルキオラは別段意に介することはないといった表情で見つめ返した。

 

「まあいい。手間が省けるだけだ」

 

 そう言ってふわりと地を蹴る。

 直後、先程までよりも数段増した速さでウルキオラの剣撃が迫っていた。

 

「くっ……!」

 

 横に薙ぎ払われた剣閃を紙一重で避け、後方に跳ぶ。次々と剣撃を繰りだしてくるウルキオラに対し沙羅は防戦一方だった。

 瞬きをする間もないほど素早い連撃をさばくのに精一杯で、反撃に転じる余裕もない。

 

「ウルキオラ! 話を聞いて!」

「おまえと話すことなどない」

「ウル……ッ」

「耳障りだ」

 

 沙羅の言葉を待たずして振り下ろされた剣にはどれだけの威力が宿っていたのか、受け止めた沙羅の身体はよろめいた。

 すかさず下段から斬り上げてきた二撃目にも辛うじて反応はしたものの、体制が崩れたところで足元をはらわれる。

 勢いよく地面に叩きつけられむせ返りながらも、沙羅は即座に立ち上がり夢幻桜花を水平に構えた。

 

 相手は十刃で四番目の力を持つ者。霊圧を限定された状態で敵うわけもない。それは最初から容易に予測できたことだった。

 ならば──

 

桜花乱舞(おうからんぶ)!」

 

 沙羅の声高な詠唱とともに夢幻桜花の刀身から無数の桜の花弁があふれ、ウルキオラの全身に纏わりついてゆく。

 一枚一枚に微量の霊圧が籠められたそれは、本来であれば対象の動きを止める効果があるはずだが、ウルキオラ相手ではそれもただの時間稼ぎにしかならない。

 

「雷鳴の馬車、糸車(いとぐるま)間隙(かんげき)──」

 

 案の定一瞬で桜花乱舞の拘束を弾き返したウルキオラがこちらへ意識を向ける前に、沙羅は霊力を集中させ言霊を紡いだ。

 力で敵わないのなら、動きを止めるしかない。

 

「光もて(これ)(むつ)に別つ──縛道の六十一、六杖光牢(りくじょうこうろう)!」

「──っ!」

 

 詠唱と同時に六つの帯状の光がウルキオラの胴を囲うように包みこんだ。

 

「ち……」

 

 光の帯に身体を絡めとられたウルキオラは苦々しく表情を歪める。その姿を確認した沙羅は膝に手をついて荒い息をもらした。

 これで少しは時間が稼げる。その間に縛道を重ねて動きを封じて──思考を巡らせ術式を練り始める、と。

 

 バキンッ! 

 

「な……」

 

 顔を上げた沙羅の視界に映ったのは、自身を拘束する光の帯を強引に引きちぎったウルキオラの姿だった。

 言霊を完全に詠唱した縛道がこうもたやすく解かれるなんて、それほどまでにウルキオラの霊力は自分を圧倒しているというのか。

 

「小細工はここまでだ」

 

 息を呑んで見開いた濃紫の瞳に、冷たい翡翠の瞳がくっきりと映しだされた。

 

 *

 

 一体どうしてこんなことになってしまったのか。

 ウルキオラの容赦ない攻撃から懸命に逃れながら、沙羅は二週間前に現世で逢ったときの彼の言葉を思いだす。

 

『俺は藍染様のためでもなく、死神のためでもなく、ただおまえのために生きたい』

 

 真剣な面持ちでそう言って、死神の中に内通者がいるという情報を回してくれたウルキオラ。

 彼の助言があったからこそ、沙羅は新たな犠牲者を生み出すことなく内通者を捕らえることができたのだ。

 それは尸魂界にとっては非常に有用な情報であったと同時に、ウルキオラにとっては明確な背信行為だった。

 

 もしも──

 もしもウルキオラの主であるあの男が、それに気づいたとしたら? 

 

 裏切りを働いたウルキオラを彼は決して赦しはしないだろう。

 これまでになんの接点もない沙羅を突然虚圏へ連行するようウルキオラに命じたのも、そう考えれば辻褄が合う。

 

 私のせいなの? 

 私がウルキオラの情報に基づいて動いたことによって、藍染惣右介はウルキオラの反逆を知り、罰を与えた。

 ウルキオラがこうなってしまったのは、私の……

 

 心の迷いはほんの一時の隙を生みだした。避けきれなかった剣の切っ先が首筋をかすめる。

 一筋の鮮血が散るとともに、プチン、となにかが切れる音がした。

 

 スローモーションのように首元から落ちていくのは翡翠の宝石。

 ふたりで人間に紛れて現世を歩いたあの日、ウルキオラから贈られたネックレス。

 

「っ……!」

 

 気を取られたのはほんの刹那。だがそれはこの状況では決定的だった。

 気配を感じて見上げた瞳に、月光を浴びて煌めく刀身が映る。その輝きは一瞬にして沙羅の視界いっぱいに広がって。

 

 ザン……

 

 光る刃が鈍い音を響かせて沙羅の身体を切り裂いていた。

 

 

 

「……ぅ……ッ」

 

 痛みは声に変わるよりも早く全身を走り抜けた。

 左肩から二の腕にかけてざっくりと切り裂かれた皮膚の間から、ドクドクと鮮血が溢れる。

 

「咄嗟に腕で庇った反応速度はたいしたものだが、これで左腕は使い物にならなくなったな」

 

 激痛に顔を歪める沙羅を、ウルキオラは相変わらず感情の欠如した眼差しで見下ろしていた。

 

「……っまだ……終わりじゃない」

 

 そう言って再び斬魄刀を構えようと顔を上げた沙羅の首にウルキオラの手が伸びる。

 呆気なくその白い手に捕らわれた沙羅は、宙に吊り上げられたままあの桜の幹に背中を叩きつけられた。

 

「……く……げほっ……!」

「いい加減にしろ」

 

 引き剥がそうと抗う沙羅を諌めるように、首にかけられた手にみしみしと力がこもる。頸動脈を締め上げられ呼吸もままならない。

 視界が明滅するほどの息苦しさに襲われながら、沙羅はその苦痛を与える張本人である目の前の男を見つめ返した。

 

 いい加減にしろ、なんて

 そんなの──

 

「こっちの……台詞……よ」

「……なんだと?」

 

 かすれた声で吐きだせば、ウルキオラが訝しげに眉を潜めた。

 

 百年前、まさにこの場所で自分を護ると誓ってくれたのは、紛れもなくこの人だった。

 

『俺はおまえのことなど知らん』

 

 その彼が、今は敵を見るのとまるで同じ目で沙羅に刃を向けている。

 

『せいぜい死なないよう気をつけるんだな』

 

 じくじくと痛みを訴えるのは斬りつけられた傷口じゃない、心だ。

 

「いい加減に……目、覚ましてよ……バカキオラ……!」

 

 苦しげに呟いてウルキオラを見つめた沙羅の瞳に、じわりと涙が浮かんだ。

 いつもならすかさず「ババ沙羅」と返してきたはずの彼は、もうここにはいない。

 

「黙れ。戯言(ざれごと)は聞き飽きた」

 

 ここには、いない。

 

「ふ……ぅ……ッ」

 

 潰された喉からはもはや擦りきれた声しか出なかった。

 

 ウルキオラ

 本当に私がわからないの

 

 いくら視線で訴えてみても、自分の首を締め上げる男の表情に変化はない。

 

「……やむをえんな」

 

 そんな沙羅の眼差しを正面から受け止めながら、ウルキオラは疲れたように吐息をもらした。

 ただ純粋に、面倒だ、(わずら)わしい、そんな感情を乗せた呟きとともに。

 

「腕の一本でも斬り落とせばおとなしくなるだろう」

 

 そう吐き捨てた瞳はゾッとするほど冷たかった。

 

「…………っ」

 

 次第に霞みがかっていく視界の隅で、ウルキオラがゆっくりと剣を振り上げたのがわかった。

 

 どうして

 どうしてなの、ウルキオラ

 本当のあなたは、一体どこへ行ってしまったの

 

 大地に深く根差す緑のように、いつも静かに見守っていてくれた。

 言葉はなくとも、慈愛に満ちた温もりでそっと包みこんでくれた。

 時折見せる穏やかな微笑みには、ただ一心に自分だけに注がれる、惜しみない愛情が映しだされていた。

 そんなあなたは──もうどこにもいないの? 

 

 ウルキオラ

 

 お願いだから

 

 私の声に、答えて──……

 

 

 空に浮かぶ三日月が振り下ろされる剣の切っ先を朧げに照らしだし、沙羅は一粒の涙をこぼした。

 そしてそれが沙羅の肩先に触れるか触れないかの距離まで迫った、そのとき。

 

 

「沙羅…………?」

 

 

 弱々しい、けれど聞き紛うはずもないウルキオラの声が、沙羅の耳にははっきりと届いていた。

 

 

 

 ***

 




《Into the Dark…闇に染まる世界》

 絶望の闇に侵された、哀れな破面。
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