Dear…【完結】   作:水音.

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第32話 Crying Moon ―涙月―

 闇。

 己が佇む空間を言葉にして表すとすれば、その一言で事足りた。

 

 それはどこまでも広がる漆黒の闇に包まれた虚無の世界。

 そこには光も、希望も、救いも、なにも存在しない。ただ黒く淀んだ絶望だけが、そこに堕ちた者を貪欲に侵食し続ける。

 

 その孤独な闇の中で、彼は静かに目を開いた。

 当然ながらその瞳に映るものはなにもない。

 

 ──ああ……俺はまた、ここへ還ってきたのか。

 

 混濁する意識の中でそう考えて、ふと疑問が浮かび上がる。

 

 還ってきた? 

 ならば自分は今までどこにいたのかと。

 

 もう何十年もの長きに亘り自分を捕らえていたはずのこの世界が、今はずいぶん懐かしく感じられた。

 記憶を辿ろうとして、辿るべき道筋がないことに気づく。

 

 ──俺は、誰だ? 

 ──俺は……何だ? 

 

 視覚も聴覚も意味をなさないこの空間にあっては、己の存在ひとつ明確に認識することすら困難で。

 

 わからない。

 ワカラナイ。

 

 『俺』は一体『何』なんだ。

 

 次第に思考することすら億劫になって瞼を伏せようとしたとき、不意にどこからか声が響いた。

 

 

『ウルキオラ──』

 

 ……ああ、そうだ。それが俺の名だ。

 

 だが、今の声は? 

 とても懐かしく、愛しい声だった。けれどその声の主が思い出せない。

 

『ウルキオラ!』

 

 彼女が自分の名を呼ぶその声が好きだった。

 彼女と出逢うまでは、名前などただの呼称であってそこに意味などないと思っていたのに。

 

『呼ぶ人が気持ちを込めて呼べば、その名前も意味のあるものになるんじゃないかな』

 

 そう教えてくれたのも、彼女だった。

 そして優しい声でこの名を紡いで、俺の名に意味を与えてくれた。

 

 大切だった。

 誰よりも、なによりも、大切だった。

 二度と離すまいと決めた。

 今度こそ護り抜くと誓った。

 ──誓ったのに。

 

『私がわからないの?』

 

 わかってる。

 わかっているんだ。

 俺の魂が彼女の存在を肯定している。

 

 なのになぜ、彼女の名が思いだせない? 

 その笑顔も、瞳の色も、風に揺れる髪も。

 幾度となくこの目に焼きつけてきたはずなのに、なぜなにも思いだせないんだ。

 

『どうして……こんな』

 

 黒い静寂に響き渡るのは哀しみに満ちた声。

 

 彼女はなにを嘆いている? 

 なにが彼女を苦しめている? 

 なぜ彼女は俺の隣にいない? 

 俺は、ここでなにをしている? 

 

『ウルキオラ! 話を聞いて!』

 

 彼女は…………誰だ? 

 

 

 ザン……

 

 

 彼女の声以外に初めて耳に届いた音は、ひどく鈍い響きを帯びていた。

 ぬるり、と右手に生温(なまぬる)い感触が走る。

 怪訝に思って右手を見下ろすも、この暗闇の中では指の一本すら視認できなかった。

 

 ……なんだ? 

 右手だけじゃない、腕や頬にまでべっとりと張りついているこの生温い液状のもの。

 血……? 

 

 ウルキオラが明確に結論づけるよりも早く、今度は左手に感覚が生じた。

 真正面に突き出した左手がなにかを掴んでいる。

 細く、温かく、ドクドクと脈打つそれは柔らかく、少し力をこめれば容易に握り潰せそうな気がした。

 

 なんだろう、これは。そう疑問に思ったのも束の間。

 

『……く……げほっ……!』

 

 声が

 

『いい加減に……目、覚ましてよ……』

 

 聞こえる

 

『バカキオラ……!』

 

 今にも泣きだしそうな、彼女の声が。

 

 だが聞こえてきた声はそれだけではなかった。

 

「腕の一本でも斬り落とせばおとなしくなるだろう」

 

 一瞬、聴覚が狂ったのかとすら思った。

 だが雑音ひとつないこの空間で、聞き慣れたその声を聞き紛うはずもなかった。

 最も聞き慣れた──自分の声を。

 

 今、俺は、なんと言った? 

 斬り落とす? 誰の腕を? 

 俺は、なにをしている? 

 

 闇に覆われていたはずの視界が、淡い月光に照らされぼんやりと輪郭を取り戻していく。

 真っ先に大樹に生い茂った緑が映り、あの桜の木の下にいるのだとわかった。

 

 右手に握った剣の柄から赤い液体が滴っている。

 左手に掴んでいるものは──白い、か細い首だ。

 濃紫の瞳がまっすぐにこちらを見つめている。

 その存在をはっきりと認識したとき、息が止まった。

 

 俺の左手に首を締め上げられ、桜の幹に押さえつけられている彼女。

 左肩から腕にかけて切り裂かれた傷から、とめどない鮮血を流している彼女。

 苦しそうに顔を歪ませ、祈るような瞳で俺を見上げている彼女。

 

 記憶が急速に逆流する。

 彼女を傷つけたのは誰だ? 

 彼女を苦しめたのは誰だ? 

 俺は、彼女に、なにをした? 

 

 記憶が錯綜する中、意識したわけでもないのに勝手に右腕が持ち上がった。

 握りしめた剣の切っ先は空に浮かぶ三日月の光を帯びて、吸いこまれるように彼女の肩口へと沈んでいく。

 その間もウルキオラは問いの答えを探し続けていた。

 

 彼女は

 

 彼女は──

 

 

 

 そして向かい合った瞳から一粒の涙が零れた瞬間、ようやくその答えが頭の中で弾けた。

 

 

「沙羅…………?」

 

 

 *

 

 よく聞き慣れた声が自分の名を呼ぶのを、沙羅は朦朧とした意識の中で聞いていた。

 直後、あれだけ強固に首を締め上げていた手から力が抜け、桜の幹に背をもたれたまま重力に任せてずるずると滑り落ちる。

 長時間圧迫されていた気管が急に解放されたことから、肺が不足していた空気を取りこむべく一気に活動を始め沙羅は激しくむせこんだ。

 

「げほっげほっ! ……はっ、はぁ……ッ!」

 

 生理的にこみあげる嘔吐感をこらえて顔を上げる。

 視界はまだうっすらと霞んでいたが、それでも月明かりの下に浮かぶ白い影だけは十分に捉えられた。

 

「ウル、ッオ……ラ……?」

 

 息も絶え絶えに、けれど懸命にその名を呼ぶ。

 

 どうか今のが聞き違いでないように。

 どうか、どうか──

 

「沙羅……」

 

 今度ははっきりとその口から自分の名がもれて、沙羅は力の限り唇を噛みしめた。そうでもしないと今にも泣き崩れてしまいそうだった。

 

「よかった……戻ったんだ……!」

「俺は……」

 

 呆然と自身の左手を見下ろしているウルキオラに、沙羅はくしゃりと顔を歪めて立ち上がる。

 身体を動かす度に左肩に激痛が走ったが、今はそれよりもウルキオラが正気を取り戻したことのほうが遥かに重要だった。

 

「俺は今……なにをしていた? なぜおまえを──」

「大丈夫。もう大丈夫だから、落ち着いて」

 

 穏やかな声音でなだめる沙羅の声に、ぎこちない動作で首をそちらに向ける。

 そしてその姿が全身くっきりと視界に映しだされたところで、ウルキオラは再び凍りついた。

 

「……沙羅? その傷は……」

 

 どう見ても刀傷としかとれない傷が深々と刻まれた左肩を、沙羅は咄嗟に後ろに庇った。

 

「平気、大した怪我じゃないよ」

 

 けろりと笑ってみせる沙羅にも、ウルキオラの表情はこわばったまま動かない。

 やがて虚ろに揺れるその瞳は、己の右手の先でぬらぬらと光っている剣の刀身に辿りついた。

 紅よりも鮮やかな血の赤が驚愕に見開かれた翡翠を射抜く。

 

「俺が斬ったのか……?」

 

 いくら頭で否定しようとも、右手には動かぬ証拠がある。なにより、剣を振り下ろして肉を切り裂いた感覚が。

 

「俺が、おまえを?」

 

 一語一句、確かめるように呟くウルキオラの手を沙羅はたまらず握りしめた。

 

「お願い、自分を責めないで。ウルキオラのせいじゃない」

 

 憔悴した眼差しを向けるウルキオラに、できる限りの穏やかな表情を浮かべて沙羅は頷く。

 そんな言葉を紡いだところで彼の心が鎮まるはずもないことは明白だったが、それでも言わずにはいられなかった。血に濡れた手は沙羅にもわかるほど震えていて、ウルキオラの動揺を如実に訴えていたから。

 

「虚圏でなにがあったの?」

 

 一向に震えのおさまらないウルキオラの手を、幼子をあやすように優しく包みこみながら沙羅は訊ねる。

 

「虚圏で……?」

「藍染隊長に命じられたんでしょう? 私を虚圏に連れてくるようにって」

 

 ──アイゼン。

 半ば放心状態で沙羅の声に耳を傾けていたウルキオラは、その名にピクリと眉を動かした。

 

『君らしくもないな。なにをそんなに焦っているんだ?』

 

 言葉尻こそ穏やかだがなんの温もりもない冷やかな声が耳元で甦る。それと同時に臓腑を鷲掴みにされたような悪寒も。

 

 俺はあのとき、藍染様に──

 

『草薙沙羅という死神を知っているね』

 

 脳裏を主の冷たい微笑みが駆け抜ける。

 

『彼女をここへ連れてきてくれないか』

 

 彼は確かにそう命じた。

 けれどウルキオラはそれに応じなかった。

 

『……その命には従いかねます』

 

 否とは言わせぬ重圧の中、それでも拒絶の意思を露わにしたウルキオラに、まるで悪戯をした子供をたしなめるような瞳を向けた藍染。

 その彼の手がゆっくりと自分に向かって伸びてくるさまを、ウルキオラはただ見つめることしかできなかった。

 

『今楽にしてあげよう』

 

 それは呪いの呪文のような恐ろしい響きを帯びて。

 その手が額に触れた瞬間、意識が暗い深淵に引きずりこまれていく感覚に包まれた。

 

 そうだ……あのとき。

 あの闇の世界に鎖される最後の瞬間、藍染様は俺にこう囁いたんだ。

 

『ウルキオラ。どれだけ遠くへ手を伸ばそうと、君にはあの光を掴むことはできないよ。なぜなら君は──』

 

 

 ──君は、虚なのだから──

 

 

 虚。

 ホロウ。

 善なる魂を喰らわんとする悪しき魂魄。

 

 例え仮面を剥いで破面となり、理性を取り戻しても、己を構成する禍々しい魂が浄化されるわけではない。

 

 ──ソウダ、オマエハホロウダ。魂ヲムサボルバケモノダ

 

 違う

 俺はもうあんな獣に成り下がりはしない

 沙羅を護ると誓ったんだ

 

 ──ソノ大事ナ女ヲ傷ツケタノハ誰ダ? オマエハホロウの血ニ負ケタンダヨ

 

 違う

 黙れ

 

 ──アア、血ヲ浴ビタイ、肉ヲ喰ライタイ

 

 やめろ

 俺の中に入ってくるな

 

 ──オマエモ本当ハソウ思ッテイルハズダ。ホラ、手ヲ見テミロヨ

 

 内側から響くその声に、耳を貸すべきではないとわかっていたのに。

 動揺に煽られる瞳は声に導かれるまま見つめてしまった。沙羅の血に濡れた、自身の右手を。

 

「…………っ!」

 

 赤く輝く血は、彼の中に眠るもうひとつの本能を引きずりだす。

 彼が必死に抑えつけようとしていた、衝動を。

 

「ウルキオラ?」

「……ろ」

「え?」

 

 すぐ隣で不安げに見上げてくる沙羅に視線を合わせることができない。

 合わせては、いけない。

 

「逃げろ……沙羅」

「どうしたの? まだどこか──」

 

 眉を潜めて手を伸ばす沙羅。

 

 来るな

 触れるな

 

 ──喰ッテシマエ

 

 やめろ

 こいつにだけは手を出すな

 

「俺から……離れろ。今すぐ逃げるんだ」

「ばかなこと言わないで。そんなこと──」

「来るな! 早く行け!」

 

 力の加減も忘れて突き飛ばすと、沙羅は左肩から地面に倒れ込み悲痛な声を上げた。

 はっと我に返って首を向ける。

 

「沙羅!」

「……っ、大丈夫……」

 

 弱々しく身体を起こした沙羅はそれでも気丈な笑みを浮かべてみせた。

 

 ──アア、マタ傷ツケタ

 

「違う……俺は」

 

 ──ヤハリオマエハホロウナンダヨ

 

「黙れ……」

 

 ──ホラ、早ク喰ッテシマエヨ

 

「やめろ……俺は二度と沙羅を……」

 

 ──愛スル女ノ血肉ハサゾヤ美味イダロウナ? 

 

「やめろぉぉぉッ!!」

 

 

 頭を抱えて絶叫するウルキオラを沙羅は愕然と見上げた。

 

「ウルキオラ!?」

 

 声はもう、聞こえない。

 

 視界を埋め尽くすのは、赤。

 攻撃的なその色は驚異的な速さで意識の中に侵食してくる。

 

 やめろ

 

 やめろ

 

 理性は必死に制止を呼びかけているのに

 

「う……ぐ……ァ」

 

 沙羅

 

 こんなにも

 

 おまえを傷つけたくないと心は叫ぶのに

 

 

「……ウ……キオラ……ッ!」

 

 おまえの声が、聞こえなくなる

 

 おまえの姿が、見えなくなる

 

 愛しさは禍々しい欲望へと変わり、そして

 

 

『喰イ尽クセ』

 

 

 虚の

 

 本能ガ

 

 

 ア

      バ

  レ

     ダ

         ス

 

 

「アアアアアアア!!」

 

 

 獣の咆哮にも似たその叫びにビリビリと頭上の桜の葉が震えた。

 突き刺さる霊圧は鋭く、禍々しい。

 いつも静かに沙羅を包みこんでくれていた、ウルキオラの清廉な霊圧はそこにはない。

 

「……なん、で……」

 

 目の前のこの状況をどうすれば信じられるというのか。

 向けられる翡翠の瞳に籠められているのは、

 

「……ス……コロス……!」

 

 殺意。

 

 直後、なんの前置きもなくウルキオラの指先から虚閃(セロ)が放たれた。

 

幻桜陣(げんおうじん)!」

 

 咄嗟に防護壁を張ってやり過ごすも、立ちこめた白煙が消えぬうちに横から鳩尾に強烈な蹴りが入った。

 どれだけの衝撃だったのか、背中から激突した桜の幹にメキメキと亀裂が入り、沙羅は声にならない悲鳴をもらす。

 

「くぁ……ッ」

 

 息を整える間もなく眼前を剣閃がよぎり身を捻った。

 

「ウルキオラ! やめて!」

「喰ッテヤル……オマエノソノ血モ、魂モ……スベテ──」

 

 沙羅の叫びなどとうに彼の耳には届いていない。目の前に立つ破面は、今や完全に理性すら失っていた。

 

「アアアア!!」

 

 その翡翠の瞳に映しだされるのは“捕食対象”。

 愛する女という極上の魂魄を前にした彼は、ただただ己の飢渇を満たすべく破壊衝動に取り憑かれていた。

 

「ウルキオラ……!」

 

 自分を喰らわんとする恋人の姿に沙羅は戦慄する。

 穿界門をくぐる前、全身を駆け巡った悪寒の正体を今確信した。

 

 黒くて、重くて、冷たくて。

 そこには一筋の光もない。

 

 絶望。

 

 彼もまた、沙羅と再会するまではこんな絶望に侵され続けていたのだろうか。

 

『たまに自分で自分がわからなくなる……まるで身体が乗っ取られたように、血を求めて暴れだすんだ』

 

 息もつかせぬ剣撃の合間、不意にいつかウルキオラが告げた言葉を思いだした。

 二月前、ちょうどこの場所でふたりが再び運命をともにすることを誓い合った夜のことだ。

 

 あのとき彼は言った。自分の中に巣食う虚の本能が恐ろしいと。

 次はおまえを傷つけてしまうかもしれないからと。

 

 それを理由に離れようとしたウルキオラに、沙羅は『そのときは私が止める』と告げた。

 もうウルキオラをひとりで苦しませるのも、二度目の別れを告げるのも嫌だったから。

 彼とともに歩む道以外はいらないと思えたから。

 

 そう、約束したんだ。

 絶対に止めるって。

 

 だから。

 

「殺されるわけには……いかない」

 

 全身がみしみしと痛みを訴えていることに否応にも気づかされながら、それでも沙羅は血濡れになった両手でゆらりと夢幻桜花を構えた。

 

 *

 

 キュオッと熱が圧縮される音と同時に爆風に包まれる。

 防護壁で防ぎきれなかった熱波が皮膚を焼き、切り裂いていく。

 背後に霊圧を感じ前方へ転がると、その場には鋭い剣撃が振り下ろされていた。

 

「はっ……はっ」

 

 ウルキオラが繰りだす攻撃の一手一手は、沙羅の急所を狙い澄まして着実にその身を脅かす。

 本音を言えば体力も霊力もとうに限界を超えていて、気を抜けば今にも崩れ落ちそうだった。それほどに目の前の『ウルキオラ・シファー』という破面の強さは驚異的だった。

 

 でも。

 

「私が……」

 

 柄を握る手に力をこめる。

 

「私が止めなきゃ」

 

 そう約束したのだから。

 

「縛道の九──(げき)!」

 

 赤い光で対象を縛る低級縛道の一種であるそれは、鬼道性質の霊圧をぶつければ難なく解けてしまうもの。

 だが思考能力を失ったウルキオラはそれを力技で強引に引き剥がしにかかり、結果そこには一瞬の隙が生まれた。

 

「破道の三十一、赤火砲(しゃっかほう)!」

 

 すかさず掌から火炎弾を放出する。詠唱破棄の状態であっても、十分な防御体制を取る前に浴びせられればそれなりの痛手は受けるというもの。

 

「ウゥ……!」

 

 剣を振るって炎を振り払おうとしているウルキオラに向かって、沙羅は瞬歩で一気に距離を詰めた。

 

 ここで決めなければもう勝機はない。

 急所を外してウルキオラの動きを──

 

 狙いを定めて斬魄刀を振り被ったそのとき、気配を悟ったウルキオラと目が合った。

 

 理性を失い血走った瞳のその奥に、鮮やかな翡翠の輝きを見つける。

 自我が崩壊し獣さながらに襲いくるその表情の中に、穏やかに微笑む彼の面影が重なる。

 そこから刀を振り下ろすまでのわずかな間に、沙羅は漠然とした疑問を抱いた。

 

 

『沙羅……』

 

『おまえを心から愛してる』

 

 

 どうして私は

 誰よりも大切な愛しい人に、刀を向けているのだろう

 

 沙羅の記憶の中に焼きつけられているウルキオラの姿が、何気ない仕草や表情のひとつひとつが、フラッシュバックのように甦る。

 無論今相対しているのはそれを見過ごすような相手ではなかった。

 

「──っ!」

 

 キィン、と甲高い金属音が鳴り響き、受け止めた剣撃の重さに耐えきれず刀は沙羅の手から弾かれた。そうして背後の桜の幹に突き刺さった夢幻桜花を振り返る間も、なく。

 

「ガアァッ!」

 

 ウルキオラが振り上げた血まみれの刀身が月光を帯びて赤く光る。

 沙羅の瞳に映る彼に表情はない。ただ殺戮衝動という本能に任せて血を求める獣がそこにはいた。

 

「ウ──」

 

 呼び名は最後まで紡がれることはなく

 自分に向かってまっすぐに振り下ろされる剣閃を、沙羅はただ呆然と見つめていた。

 

 

 *

 

 その状況を把握するのに若干の時間を要した。

 空を切った剣は沙羅の身を斬り刻むその前にピタリと動きを止めていた。

 

 ウルキオラが止めたのではない。彼は依然として柄を握る手に力をこめている。

 けれど剣はそれ以上先へ進まない。

 

 何度か瞬きをして、沙羅は目を凝らしてようやく確認できる程度の細かい灰のような粒子が自分と彼の間に浮遊していることに気づいた。

 それは沙羅の身を護る盾のように細かく張り巡らされ、ウルキオラの凶刃を受け止めている。

 沙羅の知る限りでその能力を持ち合わせている人物はひとりしかいなかった。

 

「乱菊……?」

 

 ふわりと金の髪をなびかせて、見慣れた後ろ姿が眼前に舞い降りる。頭上で穿界門が閉じていく音が響いた。

 そして呆気に取られている沙羅を振り返るなり、彼女は声高に怒鳴りつけた。

 

「なにぼけっとしてんの! 早く刀を取りなさい!」

「あ……」

 

 そこでやっと我に返り、沙羅は桜の幹に突き刺さっていた夢幻桜花を抜き取った。

 その間に乱菊は灰と化した刃を振りかざし、ウルキオラの剣を弾き返して距離を取る。

 

「ったく……危機一髪じゃないの。間に合ってよかったわ」

「どうして……」

「穿界門をくぐるとき様子がおかしかったから、あんたには悪いけど霊圧感知モニターから様子を見てたのよ。……まさかこんな化け物が出てくるとは思わなかったけど」

 

 化け物、という単語に顔をこわばらせた沙羅はウルキオラを振り返った。

 思わぬ第三者の介入に驚いているのは彼も同じなのか、少し距離を置いた場所からふたりの様子を伺っている。

 だがそれも束の間、乱菊のことも『破壊対象』として認識した彼はすぐさま斬りかかってきた。

 

「来たわね──あんたはとりあえずその肩の傷を止血しなさい、こいつはあたしが引きつけるわ」

「待って!」

 

 空気中に霧散した灰を掌に集めて迎え撃とうとする乱菊を、沙羅は声の限りに制してその前に割りいった。

 ギァン! と火花を散らして夢幻桜花がウルキオラの剣を受け止める。

 

「なにしてんのよ! あんたは下がってなさい!」

「だめ! 闘わないで!」

 

 後ろで驚く乱菊に首を振ってそう叫び、続くウルキオラの剣撃をすれすれで捌く。

 ウルキオラが乱菊を傷つけることも、乱菊がウルキオラを傷つけることも、絶対に避けなければならない。

 

「お願い、闘わないで……!」

 

 悲痛な面持ちで訴える沙羅に乱菊は目を瞠る。

 

「沙羅……?」

 

 だが沙羅が乱菊を下がらせる間もなく。

 ふたりの背後で再び空間が裂ける音が鳴り響くと同時に、沙羅にとって馴染みのあるもうひとつの霊圧がその場に現れていた。

 

「隊長!?」

 

 穿界門の奥から現れたその姿に沙羅は今度こそ驚嘆の声を上げた。

 

「沙羅! 無事だったか!」

 

 十三番隊隊長・浮竹十四郎は真っ先に自身の副官を目にとめると、続いて隣の乱菊にも視線を移して安堵の表情を浮かべた。

 

「松本も怪我はないな? 全く、俺の話も聞かずに勝手に飛び出して行くんだからな」

「すみませんでした浮竹隊長。でも──」

「ああ、わかってる。間一髪だったようだな。助かったよ」

 

 ふたりの会話を聞いていた沙羅はそこでようやく納得した。

 乱菊になぜここがわかったのかという疑問をぶつけた際、霊圧感知モニターから見ていたと彼女は言った。

 だが技術開発局の研究員以外で、独断でのモニター室への入室が許されているのは護廷十三隊各隊の隊長のみ。権限のない乱菊がモニター室へ入ったということは、必然的に隊長の誰かに随行したという形になる。

 乱菊が自分のことで相談を持ちかけるとしたら、それは浮竹以外ありえないだろう。

 

「松本がおまえの様子がおかしかったと心配していてな。それでモニターから様子を窺っていたんだが、おまえのすぐ傍に強大な霊圧反応が示されたのを見て跳んできたってわけだ」

 

 沙羅に対して補足するようにそう言ってから、浮竹はさっと表情を引きしめてウルキオラを見据えた。

 

「あの霊圧はこいつか……」

 

 血に飢えた眼でこちらを観察しているウルキオラをきつく睨み返して、浮竹は腰鞘から斬魄刀を抜刀する。

 

「調査モニターで見た顔だな……第4十刃、ウルキオラ・シファーだったか? 松本、沙羅の治療は頼んだぞ」

「待ってください!」

 

 斬魄刀の解放体制に入った浮竹を沙羅は咄嗟に引き止めた。驚いて振り返る浮竹に、必死の表情で懇願する。

 

「お願いです隊長……彼を傷つけないでください!」

「あんたさっきからなに言ってんのよ! こいつは十刃よ? あたしたちの敵なんだからね!」

 

 言い聞かせるように声を荒らげる乱菊にも、沙羅は頑なに首を横に振って。

 

「敵じゃない……」

「沙羅?」

 

 ぎゅっと拳を握りしめて、立ち上がる。

 

「ウルキオラは敵なんかじゃない!」

 

 そう叫ぶと沙羅は単身ウルキオラへと向かって駆けだした。

 

「やめろ沙羅! その身体じゃ無理だ!」

 

 浮竹の制止にも構わず、沙羅はウルキオラに駆け寄った。

 すぐさま襲いかかってきた彼の剣を受け止めながら懸命に声を張り上げる。

 

「ウルキオラ、私の声を聞いて! 流されちゃだめ!」

 

 聞く者の心に訴えかけるような悲哀に満ちた叫び。

 しかしそれも心を持たぬ者には、届かない。

 

「ウル──ぅあッ!」

 

 剣を弾き返したその瞬間に振り飛ばされ、沙羅の身体は大きく後方へ投げだされた。

 

「沙羅! もう出るな! 十刃、おまえの相手は俺だ」

 

 すかさず浮竹が沙羅を庇うように立ちはだかり、ウルキオラと対峙する。

 だがウルキオラが標的とするのは浮竹でも乱菊でもなく、沙羅ただひとりだった。

 愛する者の魂を求める……それこそが虚の本能だから。

 

「!?」

 

 まさか自分を飛び越えてまで沙羅を狙いに行くとは思わなかったのか、ウルキオラの高い跳躍に浮竹の反応は遅れた。

 まだ完全に体勢を立て直しきれていなかった沙羅は彼の手に捉えられ、激しく地面に叩き伏せられる。

 

「やめろ!」

 

 浮竹がウルキオラへと斬りかかり、彼が後方へ避けたところで乱菊が沙羅を救出した。

 

「沙羅、大丈夫!?」

 

 乱菊が抱きかかえた身体に力はなく、沙羅は苦痛に歪んだ表情で唇を震わせる。

 

「闘わ……ない、で……」

 

 そこまで呟いてがくんとうな垂れた。

 

「沙羅、しっかりして! だめです、意識が──」

「仕方がない、ここは一旦退くぞ。松本、沙羅を連れて下がってくれ」

「はい!」

 

 浮竹の指示に頷きを返した乱菊は穿界門を呼びだす。

 突如生じた空間の歪みを察知したウルキオラは、逃がすまいと沙羅へ飛びかかろうとするが、浮竹の刀により行く手を阻まれた。その間に沙羅を抱えた乱菊は門の奥へと姿を消す。

 

「グゥゥゥ……!」

 

 口惜しげに唸るウルキオラに重い一撃を振り下ろし、彼の身体がわずかに傾いだその隙に浮竹も穿界門へと踏みこんだ。

 そして音を立てて閉じていく穿界門の間から、獣じみた眼差しでこちらを睨み上げているウルキオラを見下ろして目を細める。

 

「十刃は皆高い知能を有していると聞くが……自我がないのか? だが……それならなぜああも沙羅に執着するんだ──」

 

 胸に湧いた疑問の答えは見つからず、浮竹は乱菊の後に続いて尸魂界へと身を翻した。

 

 

 *

 

「ゥ……俺、ハ……」

 

 再び夜の静寂が戻った公園には、かすかに理性を取り戻した破面が一体、苦しげに呻いて闇色の天を仰いでいた。

 

 ──任務は失敗だ。虚圏へ戻って藍染様に報告しなければ。

 

 頭の奥で冷えきった自分の声が響き、彼はそれに導かれるようにゆらりと腕を振るって黒腔(ガルガンタ)を呼びだした。

 今の彼にそれ以外の思考はない。

 

 そして音もなく黒腔へ踏みこむウルキオラの背中を、空に浮かんだ朧げな三日月が照らしだした。

 頼りない一条の光を浴びたその白い影は、闇の世界へと帰る間際、一瞬のまばゆい輝きを放って静かに消えた。

 

 それはまるで、月からこぼれ落ちた一粒の涙のように。

 

 

 

 ***

 

 




《Crying Moon…涙月》

 月さえも、涙を流す。
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