Dear…【完結】   作:水音.

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第33話 Lost ―そしてあなたを失った―

 意識を取り戻した直後、真っ先に瞳に映りこんだ色は白だった。

 

「ウルキオラ──ッ!」

 

 かすれた声で叫んで、伸ばした右手が空を切ったところで気づく。

 視界に広がるのは白い天井。そこに独特の薬品臭も加わって、すぐにここが救護詰所の一室であると理解した。

 

 ぎこちない動作で身体を起こしながら、沙羅は左肩に走った鈍痛に顔を歪める。

 すでに治療が施されたのであろう傷口は痕こそ綺麗に消えていたものの、無理に筋肉組織を修復した反動により内側にはまだ痛みが残った。

 

 肩を押さえる手が震える。痛みとともに研ぎ澄まされる思考が、この傷を負わせた男の姿を鮮明に思い起こさせる。

 忘却するにはあまりにも近すぎる記憶。忘れることなど赦されない。

 

『おまえが草薙沙羅か』

 

『俺はおまえのことなど知らん』

 

 白光を放つ三日月の下、異物を見るような冷たい瞳が沙羅を見下ろしていた。

 

『せいぜい死なないよう気をつけるんだな』

 

 おまえのために生きたい──そう言ってくれたはずの彼が、その剣先をこちらへ向けた。

 

『腕の一本でも斬り落とせばおとなしくなるだろう』

 

 一切の感情が失われた眼差しでなんの躊躇いもなく沙羅を斬り捨て、首を締め上げて。

 その鋭い刃をまさに沙羅の肩口に沈ませんとしたそのときになって、ようやく彼は正気に戻ったのだ。

 

『沙羅……?』

 

 今しがた己の身に起こっていたことがまるで信じられないといった様子で、不安げに沙羅を見つめて。

 けれどその視線が沙羅の左肩に刻まれた刀傷にとまったとき、ウルキオラの表情は一変した。

 

『俺が斬ったのか……?』

 

『俺が、おまえを?』

 

 血に濡れた己の右手を目の当たりにしたウルキオラの瞳が、みるみる狂気に呑みこまれていく。

 傍に寄った沙羅を突き飛ばした彼は、倒れこんだ沙羅に一瞬だけ哀しそうに顔を歪めた。

 

『やめろ……俺は二度と沙羅を……』

 

 それは誰に向けての言葉だったのか。

 その台詞を最後にウルキオラは頭を抱えて絶叫し、そして理性を失った。

 残されたのは殺意をこめた目でこちらを睨みつける、血に飢えた一体の虚だった。

 

 獣の目をした虚はすぐに沙羅に襲いかかってきた。その愛しい血肉を喰らうために。

 自我はなくとも、その霊力が第4十刃のそれであることに変わりはない。

 霊力、破壊力──全てにおいて自分の上を行く相手を前に、沙羅はなすすべもなく捩じ伏せられた。

 そして彼は、沙羅に向けて血濡れの剣をまっすぐに振り下ろした──

 

 

「──気がついたのね」

 

 突然室内に響いた声に、沙羅ははっと息を呑んで顔を上げた。見ると病室の入り口のところに乱菊が背をもたれて立っている。

 

「一応ノックはしたんだけど」

 

 驚き顔の沙羅に苦笑交じりにそう言いながら、乱菊は後ろ手で扉を閉めた。思考に耽っていて気配に気づかなかったのだろう。

 

「気分はどう?」

「うん……大丈夫」

「そう、よかった」

 

 首を頷かせた沙羅に幾分ほっとした表情を浮かべて、乱菊はベッドサイドの椅子に腰かける。

 

「……なにがあったか憶えてる?」

 

 気遣わしげな眼差しとともに紡がれた問いに、沙羅はもう一度静かに首を縦に動かした。

 

「来てくれてありがとう……。乱菊がいなかったら私──」

 

 あのとき、もしも乱菊が来ていなければ。あるいは彼女の到着があと数秒でも遅かったならば、沙羅は確実に斬り裂かれていた。

 ウルキオラの剣によって。

 

「……っ」

 

 その瞬間の映像をまざまざと思いだし、沙羅は唇を噛んで左肩を押さえ、そこに思い切り爪を立てた。刀を突き立てられたような胸の痛みをどうにかして誤魔化したくて。

 

「沙羅……」

 

 痛ましげに眉を潜める乱菊の視線から逃れるように、窓の外へ目を向ける。太陽が南天高くまで昇り詰めているところを見ると、自分は半日以上も眠っていたらしい。

 そこまで考えて、あの場にいたもうひとりの存在を思いだした。

 

「隊長は?」

「総隊長へ報告に行ってるわ」

 

 その言葉に脳内が一気に現実に引き戻された。

 五番隊・桑島大悟の内通による相次ぐ破面の襲撃がようやく治まったというのに、その矢先の副隊長の負傷。総隊長からは厳密な状況説明を求められるに違いない。

 

「大丈夫よ、上手く理由をつけて説明するって言ってたから」

 

 顔をこわばらせた沙羅をなだめるように乱菊は告げる。

 こんな状況にあっても自分を護ろうとしてくれている親友と上官に、ただただ胸が締めつけられるばかりだった。

 

 荒立つ感情の波をやり過ごしてから、沙羅は乱菊に目線を戻す。

 

「私が気を失ったあと、どうなったの?」

「すぐに退却したわ。浮竹隊長があんたの治療が最優先だって言ってね」

「じゃあ……」

 

 戸惑いがちに口を開いて、最も気にかかっていたことを訊ねようとした。しかしその名を口にするのが躊躇われて再び言葉を呑みこんでしまう。

 そんな沙羅の心境を察してか、乱菊は薄く目を細めて告げた。

 

「……あの破面とは闘ってないわ」

 

 途端に沙羅の表情に安堵の色が混じる。それを見た乱菊は確信を得たようだった。

 

「彼なのね?」

 

 短い問いかけにぴくりと指が反応し、そして固まる。

 

「彼が……あんたの一番大切な人なのね?」

 

 静まり返った病室に乱菊の澄んだ声だけが響いて、沙羅はぎゅっと瞼を閉じてその言葉を頭の中で反芻した。

 

 そう、大切な人。

 百年前から変わらぬ最愛の人。

 

 気づけばいつもそこにある、優しい陽だまりのような温もりを与えてくれた。

 口数は少なくとも、いつも黙って隣で話を聞いてくれた。

 ただ傍にいてくれるだけで幸せだった。

 代わりなどいるはずもない、ただひとりの、大切な──

 

「ウルキオラ……」

 

 一度は呑みこんだ名を今度こそ音にして呟いた。

 目を開けると哀しそうに唇を引き結んでいる乱菊と視線が交わる。彼女が痛いほどに自分の内情を察してくれているのだとわかって、その瞬間、涙があふれた。

 

「乱……っ」

 

 くしゃりと顔を歪めた沙羅を乱菊は労わるように抱きしめた。その抱擁がウルキオラのそれと重なって余計に涙がこみ上げる。

 いつもこうして優しさに満ちた温もりで包みこんでくれた彼は、もういない。

 

 どうして。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 

 ともに生きる道を探そうと誓い合ったのに。

 互いの温もりを感じて、「愛してる」と囁いて、あんなにも穏やかに微笑み合ったのに。

 

 肩を震わせて嗚咽をもらす沙羅の背中を、乱菊はただ黙ってさすってやった。

 あふれる涙はとどまることを知らず、沙羅は乱菊の腕に抱かれながら声が()れるまで泣き続けた。

 

 *

 

「そう……」

 

 静寂に包まれた室内にぽつりと乱菊の声が響く。

 

「百年も前から出逢ってたのね……」

 

 彼女が感慨深くもらした言葉に、沙羅は泣き腫らした瞳で頷いた。

 あれから小一時間が過ぎ、幾分落ち着きを取り戻した沙羅は乱菊に事の顛末を話していた。

 百年前から繋がっているこの哀しい運命の連鎖を。

 

「約束したの……一緒に生きようって」

 

 それがどれだけ過酷な選択であるかはわかっていたつもりだ。それでも、ウルキオラが傍にいてくれれば乗り越えられると信じていた。ふたりで歩む未来のためなら、どんな苦境にも立ち向かう覚悟があった。

 だけどまさか、その彼が自分を捕らえにくるなんて。

 

「……それも鏡花水月の能力なのかしら。だけどどうして藍染はそんなことを……」

 

 乱菊の呟きに沙羅は黙りこむ。

 第4十刃であるウルキオラから記憶を奪い、従順な操り人形へと変貌させるだけの能力と権限を持つ者がいるとすれば、かの反逆者・藍染惣右介しか思い浮かばない。

 これは藍染がウルキオラへ与えた罰なのかもしれない。主である己に背き、敵である死神に心を傾けた、彼への。

 

「……私のせいなの。私がウルキオラから破面の情報を聞いて、迂闊に動いたりしたから──」

 

 桑島の内通の一件はあくまで内密に処理を済ませたが、従順だったはずの手駒からぷつりと連絡が途絶えた藍染はその背景を(いぶか)しんだのだろう。

 そしてウルキオラの背徳を悟り、沙羅との繋がりにも気づいた。そうでなければあの男がわざわざウルキオラを使って沙羅を虚圏へ呼び寄せる理由がない。

 

「もっと慎重に動くべきだったんだ……」

 

 ウルキオラの助言に従って動くことで彼にどれだけの疑いが降りかかるか、考えればすぐにわかることだったのに。

 破面の襲撃による被害を食い止めたいと逸る気持ちが沙羅を盲目にした。その結果、沙羅の軽率な行動はウルキオラを闇に堕とした。

 決して手の届かない、暗く冷たい深淵の底に。

 

「沙羅……」

「……大丈夫。ごめん」

 

 再び涙がこみ上げそうになって、沙羅はそれを振りきるように首を左右に振った。

 

「今日はずっとここにいようか?」

 

 心配顔でそんなことを言う乱菊にふっと頬が緩む。

 彼女だって副隊長の身。決して時間に余裕があるわけではないだろうに。

 

「ありがとう。でも平気。少しひとりになって頭の整理もしたいから」

「なら戻るけど……あんまり考えこむんじゃないわよ。気落ちしてるときに浮かぶ考えってのは大体悪い方向に傾くもんなんだから」

 

 眉根を寄せる乱菊に薄く微笑んで頷く。

 なんとも彼女らしいその台詞が、今の沙羅にはとても心強く感じられた。

 

 

 *

 

 沙羅に別れを告げて病室をあとにした乱菊は、廊下を曲がってすぐのところで壁に寄りかかっている浮竹と鉢合わせた。

 

「あら、浮竹隊長? 総隊長への報告はもう済んだんですか?」

 

 目を丸くしている乱菊に浮竹は頷く。

 

「ああ。もっと問い詰められるかと思ったんだが、意外にあっさり納得してくれて助かったよ」

「それなら中に入ってくればよかったじゃないですか。沙羅も浮竹隊長のこと気にしてましたよ?」

「いや──今は松本だけのほうがいいかと思ってな。……沙羅は俺の前では泣けないだろう」

 

 何気なくもらされたその台詞に、彼の沙羅に対する想いが表れていて乱菊は表情を和らげる。だがすぐにその顔に影を落とした。

 

「……沙羅が自分のことで泣くのを初めて見ました」

 

 首だけこちらに向ける浮竹に、前を見据えたまま告げる。

 

「あの子は元々人前で涙を見せるような子じゃないけど、たまにあたしの前で泣くとしても、それは誰かの哀しみを受けての涙なんです。志波副隊長が亡くなったときや、雛森が斬られたときもそう。ギンがいなくなったときも、ずっとあたしの傍にいて一緒に泣いてくれました。……だけどあの子は自分のことでは絶対に泣かなかった」

 

 その沙羅が、喉が嗄れて声が出なくなるほど、乱菊の腕の中で泣き崩れた。

 沙羅をそこまで追い詰めたものとは。

 

「……あの十刃か」

「ええ……。第4十刃、ウルキオラ・シファー」

 

 乱菊が告げた名前に、浮竹は昨夜対面した男の姿を脳裏に甦らせた。

 

 狂気に満ちた目で沙羅を見つめ、血に染まった剣を振りかざしていた凶悪な破面。

 浮竹や乱菊には目もくれず、ただ沙羅ひとりを狙い喰らわんとするあの執着は尋常ではなかった。

 対する沙羅もそれに怯えるどころか、呼びかけるような素振りさえ見せていた。必死に十刃の名を呼ぶ沙羅の悲痛な叫びが忘れられない。

 

「あの破面が一体なんだというんだ……」

 

 困惑交じりに頭をかきむしった浮竹に、隣を歩いていた乱菊の足がぴたりと止まった。

 

「松本?」

 

 振り返ると哀しそうに細められた瞳と視線が重なる。彼女はその答えを知っているのだと直感的に悟った。

 

「彼は──」

 

 

 ──お願いです隊長……彼を傷つけないでください! 

 

 ──ウルキオラは敵なんかじゃない──! 

 

 

「沙羅が人間だった頃の、恋人だそうです……」

 

 自分を引き止めた沙羅の、今にも泣きだしそうな顔を思いだす。

 あまりにも重すぎる真実に浮竹は言葉もなく瞼を伏せた。

 

 

 *

 

 乱菊が去り再び静まり返った病室のベッドの上で、沙羅は傍らに立てかけられている斬魄刀に手を伸ばした。

 柄を握り、意識を研ぎ澄ます。次に瞼を開くと目の前に音もなく桜色の長い髪の女性が現れていた。

 

『沙羅……』

「……ごめん」

 

 力無く呟いた沙羅に、夢幻桜花は苦しげに瞳を細める。

 彼女の表情はきっと今の自分の表情をそのまま映したものだ。

 

「私……斬れなかった。ウルキオラを止めなきゃいけないって、わかってたのに」

 

 昨夜のあの闘いの場で、わずかな隙を覗かせたウルキオラに沙羅は夢幻桜花の鋭い刃を向けた。

 致命傷を避けて斬りつけ、動きを止める。それが理性を失った彼を抑える唯一の手段だったのに。

 

「ウルキオラを前にしたら……振り下ろせなかった……」

 

 その翡翠の瞳も、流れる黒曜の髪も、低い声色も。

 全てがウルキオラだった。

 そして躊躇する沙羅の手から夢幻桜花は呆気なく弾かれ、その直後ウルキオラの凶刃はもう眼前まで迫っていた。

 

「……っ」

 

 俯き、強く唇を噛む。

 あの瞬間の映像を思いだすだけで震えが走った。

 

『……愛する者に剣を向けて、躊躇わない者などいないでしょう』

 

 隣で静かに呟いた夢幻桜花を見上げると、彼女も同じように眉をひそめていた。

 

『私とて、彼を傷つけるのは忍びない。私に命を与えてくれたのは、ほかでもない彼なのですから』

 

 その言葉に、沙羅はああ、と目を細める。

 

「そうだよね……」

『ええ。ウルキオラ──かつての桐宮紫苑の想いがあったからこそ、私は生まれることができたのです』

 

 百年前、沙羅を護りたいという紫苑の想いをあの刀鍛冶の老人が形にして、そして夢幻桜花は生まれた。

 ウルキオラに向けた剣閃に迷いが生じたのは、なにも沙羅自身の戸惑いのせいだけではなかったのかもしれない。夢幻桜花もまた、自分を生みだしてくれた存在を斬りつけることに少なからず躊躇いがあったのだろう。

 彼女は沙羅を、沙羅が大切に想うものを護るために生みだされたのだから。

 

「だけど……私はなにも護れなかった」

 

 手の中の斬魄刀の柄を一層強く握り締めて、沙羅は呟く。

 護るために与えられた刀を手にしていながら、一番護りたい人を護れなかった。

 

「あんなに苦しんでいたのに」

 

 理性を奪われたウルキオラの、身を裂くような叫びが耳に焼きついて消えない。

 

「……救ってあげられなかった」

 

 普段はあんなに優しい輝きを帯びている翡翠の瞳が黒い狂気に呑まれていくのを、あのとき沙羅はただ呆然と見ていることしかできなかった。

 あんなに、近くにいたのに。

 

「悔しい……」

『沙羅……』

 

 痛ましげに注がれる夢幻桜花の眼差しに向き合うこともできず、沙羅は拳を握りしめて俯いた。

 

 私にもっと力があれば

 私がもっと強かったなら

 ウルキオラを止めることができたのに。

 今ほど自分の弱さを悔やんだことはない。

 

「ウルキオラ……」

 

 その名を口にするだけで、乱菊の胸の中で出しきったと思っていた涙がまだ滲んだ。

 そんな沙羅を夢幻桜花はそっと抱きしめる。

 触れられている、という明確な感触こそないものの、温かい風を身に纏っているような感覚に包まれ、安堵する。

 

「ごめん……泣いたってなにも変わらないのにね……」

『あなたが私の前で強がる必要などないでしょう』

 

 夢幻桜花の清らかな声はそのまままっすぐに沙羅のこわばった心の奥まで沁みわたり、それが余計に涙をあふれさせた。

 やがてこみ上げる嗚咽をこらえることを諦めた沙羅は、小刻みに肩を震わせながらふと今しがた自分が口にした言葉に思考を巡らせた。

 

 泣いてもなにも変わらない。

 ならばどうすれば変えられるというのだろう。

 

 わからない。

 なにを考えようとしても胸が押し潰されそうなほど苦しくなるばかりで、ちっとも思考がまとまらない。

 

 顔を歪めて頭を押さえる沙羅を、夢幻桜花はベッドに横たわるようそっと促した。

 

『沙羅……答えはいつも目の前にあるわけではありません。……今は少しお休みなさい』

 

 そう告げた夢幻桜花に頬を撫でられると、眠気など少しもなかったはずなのに不思議と睡魔に襲われた。

 

「うん…………」

 

 頷きを返して間を置かずして、沙羅の意識はゆっくりと沈んでいく。

 そうして涙の跡を残したまま眠りについた沙羅の頬を、夢幻桜花の白く長い指がそっと労わるように撫でていた。

 

 

 

 ***




《Lost…そしてあなたを失った》

 あの静かな微笑みを、なによりも護りたかった。
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