Dear…【完結】   作:水音.

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第34話 Only Wishing ―ただひとつ願うことは―

 虚夜宮(ラスノーチェス)の最奥にあるその一室は絶えず冷やかな静寂に包まれていた。

 コツ、コツと足音を響かせて廊下を歩んできた彼はその部屋の前で足を止めると、重厚な扉と向き合い声を上げる。

 

「ウルキオラ、入ります」

 

 押し開いた扉の奥では、玉座に腰かけた主が頬杖をついて彼を見下ろしていた。

 

「お帰り、ウルキオラ。ひとりで戻ってきたところを見ると任務は果たせなかったのかな」

「申し訳ありません。途中で思わぬ邪魔が入り、草薙沙羅の捕獲に失敗しました」

「邪魔?」

 

 藍染は片眉を上げて先を促す。

 

「はい。隊長羽織を着た白髪の男と、金髪の女です。草薙沙羅を援護しに来た様子でした」

「浮竹と……松本くんか。彼らが来たのなら無理もない。特に浮竹は相当腕が立つ。まともにやり合わなくて正解だよ」

「申し訳ありませんでした。次は必ず──」

「いや、もういい。二度も行く必要はない」

 

 さらりと言い放った藍染に、ウルキオラはわずかに目を見開いた。

 第4十刃(クアトロ・エスパーダ)である彼に与えられる任務は総じて重要度の高いものが多い。こうも簡単に任を解かれるとは思わなかったのだろう。

 

「ですが」

「いいと言っているんだ」

「……了解しました」

 

 ウルキオラの疑問は藍染のその一言で黙殺される。真意はどうあれ、主の意向こそが彼にとっての全てであり、そこに私情を挟む余地はなかった。

 

「ウルキオラ、君を前にして草薙沙羅はどんな様子だった?」

「ご覧になりますか」

「いや、君の口から聞きたい」

 

 眼球に手を添えるウルキオラに首を振った藍染は、薄い微笑みを浮かべる。その真意はやはり掴めなかったが、主が望むならとウルキオラは口を開いた。

 

「相当取り乱しているようでした。俺のことを知っているかのような態度を取ったり、意味のわからない言葉を発したり……錯乱状態に陥っていたのかと。その後もこちらの意向に従う様子が見受けられなかったので、強制的に連行しようと試みましたが──」

 

 そこで一旦言葉を切ったウルキオラは、表情を変えないままに続けた。

 

「あの死神は泣いていました」

 

 淡々と告げたウルキオラに藍染は小さく首をもたげる。

 

「君はそんな彼女を見て、どう思った?」

「……どういう意味でしょうか」

 

 主の問いに質問で返したウルキオラの目には困惑の色が浮かんでいる。問いかけの意図するところが本当にわからないのだろう。

 それは彼が草薙沙羅の涙に対してなんの感傷も抱いていないことを意味していた。

 

「……いや、なんでもないよ。君自身が理解していないことを訊ねても仕方がない。それにしても──彼女はさぞ哀しんだことだろうね」

 

 ウルキオラの返答にどこか満足したように頷いた藍染は、涼しい笑みで彼を見下ろす。

 

「私に逆らうということは、そういうことだよ。ウルキオラ」

「は……?」

 

 訝しげに眉を寄せたウルキオラに、藍染は微笑を浮かべたまま目を伏せた。

 

「ああ、すまない。今の君に言ったところで届きはしないか。ご苦労だった。部屋に戻って休んでくれ」

 

 主の含みを持たせた口ぶりに漠然とした違和感を覚えたものの、退室を促されてしまった以上もはやウルキオラにこの場での発言権はない。

 

「失礼しました」

 

 深々と一礼しウルキオラは玉座の間をあとにした。

 

 

 

「……なんや、ウルキオラを丸めこんだ死神て、沙羅ちゃんのことやったんですか」

 

 ウルキオラが退室して間もなく。一連のやりとりを聞いていたのであろう、藍染にとっては腹心とも言える男が奥の袖から姿を現した。

 

「ああ──おまえは彼女と親交があったんだったな。ギン」

「乱菊と仲がええんですよ、あの子。ようふたりに甘味処に付き合わされましたわ」

 

 目線だけ向けた藍染に、彼──市丸ギンは目を細めて歩み寄る。

 

「せやからあんまあの子のこといじめんといてください。乱菊に怒られるのボクなんやから」

「ふ、よく言えたものだな。おまえはとっくに松本くんを怒らせているだろう?」

「うわ、それ言うん? ……ホンマ人が悪いわ」

 

 困ったように苦笑を浮かべて頭を掻くギンに、藍染はいつもの含み笑いではなく自然に口元を緩めた。

 

「けどあの子、ホンマにええ子なんですわ。ボクんところにもよう干し柿差し入れに来てくれとったなぁ」

「ああ。私も彼女のことは憶えている。人当たりがよく、それでいて迷いのない目をした娘だったな」

 

 過去を思い返すように目を細めて、しかし彼はすぐに元の表情へと戻す。

 

「だがウルキオラを懐柔できた理由はそれだけではないだろう。一体彼女のなにがウルキオラをあそこまで惹きつけたのか……おまえも興味が湧かないか、ギン?」

「えらい気にしてはりますなぁ。ほんならボクが連れてきましょか?」

 

 もはやこの主にはなにを進言しても通じないと悟ったのか、諦めたように言ったギンに藍染は「いや」と首を振った。

 

「それには及ばないさ──……」

 

 そう呟いた藍染の口元には、なにかを心待ちにするかのような愉しげな微笑みが浮かんでいた。

 

 

 *

 

 夢幻桜花に付き添われて眠りについた沙羅が次に目を覚ましたのは、あれからまた半日ほどが経過した翌朝のことだった。

 寝すぎたゆえに頭は幾分もやがかっているものの、肩の痛みはずいぶん和らいだ。精神的にも少しはまともになった気がする。やはり身体の衰弱は心にも直結するものらしい。

 

 首を巡らすと傍らには鞘に収まったままの夢幻桜花が立てかけられていて、それだけで安堵する。こんなによく眠れたのはきっと彼女が傍に居てくれたおかげだ。

 具現化して礼を言おうかとも思ったが、やめておいた。口に出さずとも彼女は十分すぎるほど自分の想いを汲んでくれていることを知っていた。

 

 ──と、病室の扉を隔てて近づいてくる気配を察知する。

 沙羅にとって慣れ親しんだ温かい霊圧を身に纏って現れたのは、その背に〈十三〉の数字を背負う人物だった。

 

「沙羅? もう起きても平気なのか」

「はい。おはようございます、隊長」

 

 ベッドから降りて出迎えた沙羅に、浮竹はやや目を丸くして入室した。そして彼が次に口を開くよりも早く、沙羅は深く腰を折る。

 

「申し訳ありませんでした」

 

 こんな言葉ひとつで済まされるはずもないことは重々承知していたが、それでも言わずにはいられなかった。

 無断での現世降下に加え、宿敵である十刃との密会。

 この行動だけを見れば即刻内通者として捕らえられてもおかしくないはずだが、沙羅の元には事件から二晩明けた今となっても事情聴取のひとつも来ない。それが浮竹の手回しであることは明白で。

 

「私は……自分の感情に突き動かされるまま、副隊長としての責務に背いた行為に走りました。それがどれだけ隊長にご迷惑をおかけすることになるか、わかっていながら──」

 

 この人には全てを話さなければならない。

 それでどれほど罵られ、蔑まれようとも、この人にだけは。

 

「私……」

 

 思い詰めた表情の沙羅がそこまで口を開いたところで、唐突に頭の上にポンと大きな手が乗せられた。

 

「もういい。なにも言うな」

 

 驚いて顔を上げると哀しげに眉を潜めている浮竹と視線が重なった。その眼差しは咎めるでも呆れるでもなく、ただ純粋に沙羅のことを案じている。

 

「今まで誰にも話せずに……辛かっただろう」

「──っ」

 

 息が止まった。

 知っているんだ。彼は自分とウルキオラの関係を知っている。恐らくは乱菊が気を遣って話してくれたのだろう。

 それでもまだ、この人はこんなにも温かい手を差し伸べてくれるのか。

 

「すみません……」

 

 もはやなにに謝ればいいのかもわからず、弱々しく呟いて下を向く。どんな糾弾を受け、どれだけなじられようとも泣かない自信はあったが、予想していたものとは真逆の言葉を投げかけられた沙羅は震える唇を懸命に噛みしめた。

 

 泣いてはいけない。

 泣いて甘える資格なんか、ない。

 そう思ったのに。

 

「やはり俺の前では泣けないか?」

 

 浮竹がどこか寂しそうに言うのを見て、沙羅は束の間驚きの表情を浮かべたあと、泣きだしそうな顔で笑った。

 

 ……いいえ、隊長。

 私はあなたの話を聞きながら、いつも必死に涙をこらえているんです。

 だって気を抜けばすぐにあふれてしまいそうなほど、あなたの言葉は心の奥までまっすぐに届くから。

 

「私はいつも隊長に救われてばかりです」

 

 一語一句、自分に言い含めるようにそう口にすれば、浮竹もそこにこめられたものを悟ったのかそれ以上訊ねることはなかった。ゆっくりとした足取りで窓辺まで歩み寄った彼は、窓の外の青く澄みわたった空を仰ぐ。

 

「総隊長には、俺とおまえと松本の三人で現世の霊圧調査を行っている最中に、破面の襲撃に遭ったと説明した」

 

 背後で沙羅がはっと息を呑んだのを知ってか知らずか、浮竹は平時の声音のまま続けた。

 

「俺が代表して説明責任を果たすことで、おまえと松本への聴取は省略された。今回の一件に関して説明を求められることはないだろう」

「隊──」

「それから」

 

 沙羅の声を遮った浮竹は、やはり背を向けたまま告げた。

 

「遭遇した破面は非常に強力な霊圧の持ち主だったが、十刃かどうかを特定するまでには至らなかったと伝えた」

「…………」

 

 あの破面が第4十刃ウルキオラ・シファーであることを、彼はすぐに見抜いていたのに。

 

「いずれにしろ、ここ最近は目立った動きを見せなかった破面が再び活動を開始したことは疑いようもない。総隊長からは対破面戦に備えての戦闘訓練を強化するようにと仰せつかった」

 

 どうしてそんな危険を冒してまで庇ってくれるのだろう。

 どうしてこの人は、こんなに──

 

「……敵じゃないんだろう?」

 

 肩越しに振り返った浮竹の目がひどく優しくて、沙羅は拳を握りしめて俯いた。どんな感謝の念を捧げても足りないような気がした。

 

「隊長、本当に……」

「礼なんて言うなよ? 俺は事実を報告したまでだからな」

 

 思考をことごとく先読みされ、言葉を奪われる。再び外の景色へと視線を戻して窓を開け放った浮竹に、沙羅は黙って頭を下げることしかできなかった。

 窓から入りこんだ穏やかな風が、浮竹の横をすり抜けて俯く沙羅の頬を撫でていく。

 

「まったく、いつまでそうしてるつもりだ?」

「わっ……隊長! やめてください!」

 

 頭を下げたままの沙羅に呆れた声をもらした浮竹は、沙羅の頭上に手を伸ばして髪をわしゃわしゃとかき乱す。

 慌てて顔を上げた沙羅に満足げな笑みを返して、浮竹はふとサイドテーブルに置かれている副官章を目にとめた。

 

「おまえがこれをつけるようになってもう三月か。……早いものだな」

 

 長きに亘って空白となっていた十三番隊副隊長の席位に沙羅が任命されたのは、もう三ヶ月も前に遡る。

 

「そろそろ副隊長と呼ばれるのにも慣れてきたか? 最初の頃は隊士たちがいくら呼んでも反応しなかったからなぁ」

「あれは……、私を呼んでいるとは思わなくて」

 

 着任当初は副隊長という肩書に慣れず、隊士たちの呼びかけにも無反応で通り過ぎていた沙羅。その後隊士たちに慌てて取り繕う沙羅の姿を思い返して、浮竹は快活に笑った。

 そんな浮竹に沙羅はバツが悪そうに「今はちゃんと反応しますよ」と釈明したあと、浮竹と同じように副官章に視線を落として呟いた。

 

「でも、やっぱりまだ慣れません。……私にとってこの副官章は、海燕先輩の象徴ですから」

 

 その名を口にすると、途端に浮竹が目を和ませた。昔を懐かしむようなその表情には自然と笑みが刻まれる。

 

「海燕の象徴か……確かにそうかもしれないな」

「はい……」

 

 こくりと頷いて、沙羅は今や己の所有物となった副隊長の証を手に取った。遠い昔、かつてこの副官章を身に付けていた人の姿がありありと思いだされる。

 

『副隊長の志波海燕だ。隊長がいねーときは俺が代わりにウチを仕切ってる。ま、わかんねーことがあったらなんでも聞いてくれ! これからよろしくな!』

 

 あんなにも十三番隊の副隊長の座に相応しいと思える人を、沙羅はほかに知らない。それほどに誰もが彼を慕っていた。

 

 言葉もなく、副官章を握る右手に力をこめる。

 本当に大好きだった。今はもういない、副隊長。

 

 過去の回想に耽る沙羅の意識を呼び戻したのは頭上から響いた浮竹の言葉だった。

 

「だけどな、沙羅。おまえに自覚はないんだろうが、おまえはもう十分に海燕の抜けた穴を補っているよ」

 

 振り返った沙羅を優しい瞳が見つめていた。

 

「え……?」

「ほらな、気づいていないだろう」

 

 目を丸くしている沙羅を見て浮竹は肩をすくめる。それでもまだ困惑の表情を浮かべたままの沙羅に、笑みを深めて。

 

「うちの隊士たちにとっての副隊長はもう海燕じゃない。おまえなんだ」

「どういう意味ですか?」

「言葉通りの意味さ。今日だって皆おまえの見舞いに行くと言って聞かなかったんだぞ? 大人数でぞろぞろ押しかけても迷惑だからと言って置いて来たんだが、朽木や清音辺りは強引にでもついてきそうな勢いだったな。言い含めるのにどれだけ苦労したか」

 

 苦笑いをこぼす浮竹に、沙羅は言葉を呑んで黙りこんだ。

 

 それは、それは私が不甲斐ないからだ。

 いつも失態を招いて、みんなに迷惑をかけてばかりで。

 本来副隊長とは隊の管理・監督を任される立場であって、隊士に心配されるようなことなどあってはならないのに。

 

「こんな頼りない副隊長じゃみんな不安になりますよね……」

 

 自分らしくない弱気な台詞だとわかっていても、今はそう思わずにはいられなかった。

 いくら隊士たちが親しみを持ってくれようと、純粋に副隊長としての器を比べたとしたら自分は海燕の足元にも及ばないだろう。その差は天と地ほどにも隔たり、沙羅がいくら努力を重ねたところで決して追いつける距離ではないような気がした。

 

「そう思っているのはおまえだけだよ」

 

 静かに、浮竹の声が室内に木霊する。

 

「仲間であれば誰だって心配はするさ。だがあいつらがそこまで真剣になるのはただおまえの身を案じているだけじゃない。皆おまえを必要としているからだ。自分たちの副隊長としての、草薙沙羅を」

 

 浮竹の真摯な言葉が沙羅に向けられる。嘘偽りなく、まっすぐに。

 

「おまえは隊の中心となってしっかりと皆を支えている。副隊長の務めは十分に果たしてくれてるよ」

 

 ふわりと笑みを浮かべて告げる浮竹に、胸の奥が熱くなるのを感じた。それほどに、今の浮竹の言葉は重みがあるものだった。

 だが、それと同時に湧き上がるのは如何(いかん)ともしがたい無力感。

 

 だって。

 だって私は。

 

 どれだけ隊士たちを支えられたとしても

 どれだけ副隊長の責務を果たせたとしても

 一番大切なものを、護れなかったのだから……

 

 

 苦悶の色を浮かべて黙りこむ沙羅の横顔を、浮竹は口を結んだままじっと見つめていた。

 やがてその表情が一向に明るくならないのを見咎めて、彼は語りかけるように静かに紡ぐ。

 

「沙羅、十三番隊の隊花は知っているな?」

「……? 待雪草です」

 

 突然の問いかけに沙羅は戸惑いがちに返答した。

 それは今右手の中にある副官章にも、袖を通している死覇装の内側にも刻まれている、十三番隊を象徴する花。

 

「じゃあ待雪草の意味は知っているか?」

「意味?」

 

 楽しそうな面持ちで語る浮竹に首を傾げようとして、沙羅はふとこのやりとりに懐かしさを憶えた。

 これと同じ会話をいつかも交わしたような気がする。誰と──と自問しかけて、すぐにその声が脳裏に甦った。

 

『沙羅、いい話聞かせてやろうか』

 

 そうだ。この副官章の持ち主だった人がいつか教えてくれた話だ。

 あのいつもの屈託のない笑顔を一層輝かせて、彼はこう言っていた。

 

『護廷十三隊の各隊には、それぞれに隊を象徴する花が決められてんだ。俺たち十三番隊の隊花は待雪草。この待雪草が持つ意味はな──』

 

「……希望」

 

 静かな、けれどはっきりとした声で呟いた沙羅に、浮竹は大きく頷いた。

 

「そうだ。待雪草にこめられている意味は希望──それは十三番隊の思想そのものでもある」

 

 そこまで告げると、浮竹は力強い眼差しで沙羅を正面から射抜く。

 そして語る。上官として、今の彼女に贈ってやれる精一杯の言葉を。

 

「希望を捨てるな、沙羅。例えその目に見えなくとも、その手の中に感じられなくとも、希望は必ずおまえの中に存在する。おまえの心の中にな」

 

 それがどんなにか細く、脆弱なものであっても、そのわずかな光を心に灯し続ける限り、人は絶望の闇に迷うことはない。

 

「絶望など容易(たやす)く受け入れるな。自分の心の奥底に残された希望の存在を否定するな。向き合うことから、逃げるな」

 

 浮竹の低く通る声は、沙羅が内側にひた隠しにしていた苦悩を深々と貫いた。

 

 向き合うことから逃げるな。

 その言葉の、なんと重く厳しいことだろうか。

 

 二月前のあの夜、そう覚悟を決めたのはほかでもない自分自身だったのに。

 ウルキオラと向き合い、どんなに苛酷な現実でも逃げずに受け止めていこうと固く誓ったのに。

 ふたりなら怖いものなどなにもないと思っていた沙羅は、ひとりになった途端なにもかもが怖くてたまらなくなってしまった。

 

「わかりません……私」

 

 ウルキオラという存在を失った自分は、こんなにも弱い。

 彼と再会する前の自分は一体どうやって笑っていたのだろうか。

 なにを想い、なにを願い、なんのために刀を振るっていたのだろうか。

 今となっては思いだせない。

 

「隊長……希望は……どこにあるんですか? 希望とはなんですか……?」

 

 すがるような眼差しで見上げる沙羅を、浮竹は少しも目線を逸らすことなく見つめ返した。

 

「希望は──未来への願いだと俺は思う」

 

「誰もが自分の心の中で思い描いている未来がある。こうしたい、こうありたいという未来へ繋がる願いがある」

「願い……」

 

 ぽつりと反芻した沙羅に浮竹は視線を窓の外へと移して頷く。

 

「希望は過去にはない。過去への願いは後悔となり、そこからなにかを学ぶことはあっても希望が生まれることはない。自分の願いを形にしたいのなら、それは未来へ繋げるしかないんだ。……沙羅、おまえにもあるだろう? 思い描いていた未来が」

 

 未来。願う未来。

 そう、現世でウルキオラとの限られた時間を過ごすときはいつも、遠い未来ではこの時間も日常的なものになっているかもしれないと夢見ていた。たくさんの願いが、希望があふれていた。

 けれどその全ての未来図で自分の隣に思い描いていた人は──

 

「沙羅、今目の前にある現実を目を逸らさずに受け止めるのは確かに大切なことだ。だがそこで歩みを止めるな。叶う望みが薄れたからといって、願う心まで押し殺すな」

「でも……私にはもう」

 

 切望していた未来に最も必要な人が、いない。

 

「本当にそうか?」

 

 降ってきた声に顔を上げると、浮竹が試すように見ていた。

 

「もう願いも希望もないと、おまえは本当にそう思うのか?」

 

 その双眸には慈愛に満ちた優しさが宿っている。それに釘付けになる沙羅に、浮竹は表情を和らげてこう続けた。

 

「生きている限り、未来はある。未来がある限り、希望はある。……おまえたちはまだ生きているだろう?」

 

 その瞬間、沙羅は息を呑んだ。

 おまえたち、という単語が電流を帯びて脳にくっきりと焼きついた。

 

 そうだ私は生きている。

 

 そして

 

 そして

 

 ウルキオラも、生きている──……

 

 

 窓から流れこむ風が初夏の香りを運ぶ。

 まだこの風が冬の名残をとどめていた頃、沙羅とウルキオラはあの桜の下で出逢った。

 

 まるで引き寄せられるように近づいては、引き剥がされるように遠のいて。

 それでも互いを諦めきれなかったふたりが手を取り合い、ようやく運命をともにする覚悟を固めたその矢先、ウルキオラは自我を奪われた。

 

 それは絶望だと思っていた。

 最愛の人が自分に刃を向ける。異物を見るような冷たい眼差しが注がれる。

 そこにはもはやひとつの希望も残されていないと思っていた。

 

 だけど。

 

『おまえたちはまだ生きているだろう?』

 

 私もウルキオラも、まだ生きている。

 その距離は遥か遠くの異世界まで隔たっているけれど、まだ生きている。

 それは百年前の死別と似ているようで全く異なるものだ。

 

「……希望」

 

 その二文字の単語が自然と口からこぼれた。

 右手に持った副官章に刻まれた待雪草の紋様を、そっと指先で確かめる。

 

 希望、それは願う未来。

 例えほんのわずかでも、その未来に希望が残されているというのなら。

 

 まだ、願うことは赦されるだろうか──

 

 頬を撫でる風にしばし瞼を伏せていた沙羅は、おもむろに目線を上げた。

 

「……隊長」

 

 そう呼びかければすぐに顔を向けてくれる上官に、それまで張りつめていた糸が途端に緩む。

 

「私、まだ笑えるみたいです」

 

 それは泣き笑いにも近い表情だったが、そこに浮かぶ微笑は紛れもなく本物だった。まだ心から笑うことができた。

 

「本当に希望を失ってしまったら、きっと笑うこともできませんよね」

 

 なにかが吹っ切れたような面持ちで、沙羅は浮竹を見上げる。すぐに力強い頷きが返ってきた。

 

「ああ。おまえはちゃんと前を向いてる。おまえの進む先にも、希望は必ずあるさ」

 

 浮竹の言葉を胸中で何度も噛みしめて、沙羅は窓辺から空を仰いだ。

 

 一度は心に押しとどめた切なる願いを、再び解き放つことが赦されるのなら

 

 私は──

 

 遥か頭上の天からは柔らかな日差しが降り注いでいた。

 

 

 

「おっと、いい加減隊舎に戻らないとな。また朽木や清音たちにごねられたら面倒だ」

 

 入室した時よりもずいぶんと高度を上げた太陽を目にとめて、浮竹が振り返る。

 

「もう大方の治療は終わっているそうだが、卯ノ花隊長から退所の許可が下りるまでは勝手に動くんじゃないぞ?」

「わかってますって。子供じゃないんですから」

「おまえには口うるさいぐらいがちょうどいいんだ。放っておけばどんな無茶をするかわかったもんじゃないからな」

 

 ジロリと目を細めた浮竹に返答を詰まらせたものの、その視線は決して沙羅を咎めるものではなかった。

 

 本当に、この人はどこまで優しいのだろう。

 こうして傍にいるだけで、胸の奥で渦巻く不安や恐怖がすっと薄らいでいくのがわかる。

 

「──隊長」

 

 隊長羽織を翻して背を向けた浮竹を沙羅は心なしか張りつめた声で呼び止めた。

 首だけ振り返った彼に、精一杯の感謝と敬意をこめて。

 

「いつも失態ばかりの部下でごめんなさい。でも私は、隊長の副官であることを誇りに思っています」

 

 護廷十三隊にはほかにも優秀な隊長はたくさんいるけれど、きっと私にはこの人以上の隊長はいないだろう。

 十三番隊の副隊長として、浮竹十四郎の下で働けたことを。その傍に仕えられたことを。

 心から、誇りに思う。

 

 見上げた上官はそれに屈託のない笑顔で応えてくれた。

 

「俺もおまえを誇りに思うよ」

 

 嘘偽りのない、穏やかな表情だった。

 その笑顔を、沙羅は一瞬の瞬きもこぼさずに鮮明に瞼の裏に焼きつけた。瞳を閉じればいつでも思いだせるように。

 

「じゃあまたな」

 

 片手を上げて去っていく浮竹の後姿を見つめる。〈十三〉という重い数字を一身に背負うその背中がとてつもなく大きく見えた。

 やがてその姿が完全に見えなくなったところで、沙羅は誰もいない廊下に向かって深々と頭を下げた。

 

「本当に……ありがとうございました」

 

 

 胸に(いだ)くは希望。

 一度は手放しかけた未来への願い。

 

「夢幻桜花……私決めたよ」

 

 再び静寂に包まれた病室の中で、沙羅は傍らに立てかけてある斬魄刀に語りかけた。

 

 心から願うことはただひとつ。

 

 私は、彼と生きたい。

 

 彼と生きる未来が、欲しい。

 

 

「ウルキオラに逢いに行く」

 

 

 決意とともに斬魄刀を握りしめると、柄の部分が熱を帯びたような気がした。

 

 

 *

 

「──ええんですか?」

 

 沙羅を連行しようかというギンの申し出を断った藍染は、玉座に腰かけ艶然とした笑みを浮かべたまま頷いた。

 

「ああ。私は彼女の真意を確かめたいだけだ。ただこちらの情報を得るためにウルキオラを取りこんだのなら、心を失ったウルキオラはもはや用済みだろう。向こうもこれで手を引くはずだ。わざわざこちらから出向くまでもない」

 

 そこまで告げると、藍染は頬杖を解いて虚空を仰ぐ。

 

「だが、もしも彼女がウルキオラのことを本気で愛していたとしたら──」

 

 ゆっくりとギンに視線を合わせた彼は、それはそれは愉しそうに、微笑んだ。

 

「きっと彼女は来る。そういう娘なんだろう? 草薙沙羅は」

 

 

 それは強大な引力を以て、沙羅を過酷な運命へと巻きこんでいく。

 黒く、冷たく、険しい渦の中へ。

 

 ひとつ、確かに言えることは、それが自分で選んだ道だということ。

 

 向かう先にどれだけの苦痛が、どれだけの絶望が待ち受けていようとも。

 それでも彼女は立ち上がる。

 

 ただ未来に希望はあると信じて。

 

 

 ***

 




《Only Wishing…ただひとつ願うことは》

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