少女はそこで生まれ育った。
「沙羅ー!」
高らかな呼び声に沙羅は山菜を摘む手を休めて立ち上がる。後方に首を巡らすと、ちょうど自分と同じ歳の頃合いの少女と少年がこちらに向かって駆けてくるのが見えた。
「
山菜を詰めた籠を肩にかけながら、沙羅はふたりに大きく手を振り返す。その動作に合わせて薄茶色のさらさらとした髪が風に揺れた。
「こんなに早くからどうしたの?」
「えへへ、今日は魚がいっぱい取れたからお裾分けしに来たの!」
「わ、すごい! こんなにたくさん?」
「ああ。こっちの一番でかいやつは俺が釣ったんだぜ」
「なによ、釣った数はあたしのほうが多かったんだからね」
「千歳が釣ったのなんてこーんなちっさなのばっかだろ?」
「うるさいな、バカ勇真!」
隣でいつもの言い合いを始めた千歳と勇真に、バケツいっぱいの魚に目を丸くしていた沙羅は笑って顔を上げた。
「ふたりともすごいよ。私こんなにたくさんのメバル釣ったことないし、こんな大きなスズキも釣れないもん」
その一言で気をよくしたのか、ふたりは顔を見合せて嬉しそうに照れ笑いをこぼす。
「へへ。けど沙羅だってすげーよ。今日もそれ全部ひとりで採ってきたんだろ?」
勇真が指差した籠の中には様々な種類の山菜が山積みになっている。沙羅が早朝から山へ登って摘んできたものだ。
「本当、よくこんなに見つけられるよね。今度あたしにも山菜の見分け方教えてほしいな」
「じゃあ今度山菜狩りに行くときは一緒に行こうよ。今はちょうどワラビとかゼンマイとか、春の山菜がたくさん採れる時期だから」
笑顔を返した沙羅は、ふたりの後方から更にもうひとつこちらに向かって来ている影を目にとめた。
「あのね、今日はおばあちゃんも一緒に来たんだよ。最近ずっと寝こんでたけど、今日は身体の調子がいいんだって。沙羅が煎じてくれた薬湯のおかげだって喜んでたよ」
千歳の言葉に顔を綻ばせた沙羅はゆっくりと歩み寄ってくる老婆に駆け寄る。
「おばあちゃん、おはよう!」
「おはよう沙羅。今日もいい天気だね」
徐々に昇り始めた太陽に目を細めた老婆は、顔の皺を一層深くしながら穏やかな笑みを向けた。
同じ春蘭の集落に生まれ落ちた彼らはこうして身を寄せ合って日々を過ごしている。
それは流魂街ではよく見られる光景だった。現世での生を終え、尸魂界へと送られた
血の繋がりこそなくとも、ここにいる三人は沙羅にとっては大切な家族だった。
*
「よし、じゃあこれが沙羅の分な」
「えっ、これ全部? みんなの分がなくなっちゃうよ」
「平気だよ。まだ家にもあるし、これは沙羅のために持ってきたんだから」
「でも──」
大量の魚が積まれたバケツを勇真に差しだされ、困った様子で首を向ける沙羅に、老婆は目尻に皺を寄せて頷く。
「いいんだよ、沙羅。どうせ私たちは腹なんてほとんど減りもしないんだからね」
流魂街に住まうほとんどの者には空腹という感覚が存在しなかった。日常的に食物を口にはしているものの、それは腹を満たすためではなく、ただ純粋に娯楽のひとつとして。
しかし沙羅はその例外だった。腹は減るし、喉も渇く。当然食事を取らなければ飢餓に苦しむことになる。それは沙羅がその身に霊力を有している確かな証。
「いいなぁ沙羅は。霊力があるなんて羨ましい」
「お腹がすくだけだもん、なにもいいことなんてないよ。こんな力いらなかったのに」
沈んだ面持ちで千歳に返す沙羅を老婆はおやおやとたしなめる。
「沙羅、そんなことを言うもんじゃないよ。霊力を持てるのは限られた魂だけと定められているんだから。沙羅は多くの魂の中から選ばれて、その力を授かったんだよ」
「そうかな……」
そう言われても尚、沙羅は納得がいかないといった様子だった。
霊力があると言っても特別役立つ力を使えるわけではない。確かに傷の治りが人より早かったり身体能力が優れていたりはするけれど、それだけだ。ならば飢餓への恐怖から解放されるほうが、まだ幼さの残る少女にとってはよほど喜ばしいことだった。
「あーあ、もったいねえよなぁ。俺だったら霊力が少しでもあれば死神になったのに!」
「私は死神になんてなりたくないよ。刀で人を斬るなんて怖い」
「死神が斬るのは虚だろ? あいつらは悪い魂だからいいんだよ。悪者を倒す正義のヒーロー! カッコいいじゃんか」
「それでも、悪いことをしたからって殺すのはいや」
頑なに首を横に振る沙羅に勇真は頭の裏で手を組んで「沙羅はホント頭が固いよなぁ」と呆れている。その隣では千歳がほっとしたように胸を撫で下ろしていた。
「あたしは安心した。沙羅が遠くへ行っちゃったら寂しいもん」
「私もみんなと離れるのは寂しいよ。だから死神になんてならないし、これからもずっとここにいる」
その後何事もなかったかのように戯れる三人の子供たちに、ただひとり老婆だけが複雑な表情を浮かべていた。深い慈愛の色を宿したその瞳は、無邪気に笑う沙羅を静かに見つめていた。
*
季節は穏やかに流れ、尸魂界は初夏を迎えた。
その日、護廷十三隊十三番隊副隊長・
「おッし。この辺りも特に異常はねえな」
安穏とした空気に包まれる街並みを眺めて満足げに頷き、海燕は報告書に筆を走らせる。報告事項を手短に記し終えて一息ついたのも束の間、背後からなにやら慌ただしい様子で部下の隊士が駆け寄ってきた。
「海燕副隊長!」
「どうした?」
「たった今瀞霊廷からの緊急通信が入りました。流魂街に虚が出現し、住民が奇襲をかけられた模様。ただちに討伐隊を編成し救援に向かうようにとのことです!」
伝令神機を片手に告げた隊士の言葉に、海燕の眼光が一瞬にして鋭さを増す。
「場所は」
「南流魂街第七地区、春蘭です」
「第七? こっからそう距離もねえじゃねえか。くそっ、こんなところにまで虚が出るようになっちまったのか──」
低く舌打ちをもらした海燕は報告書を懐にしまうとすぐに身を翻した。
「瀞霊廷へ戻ってる暇はねえな。このまま向かうぞ!」
「はい!」
*
春蘭に虚が現れた。
瀞霊廷からさして距離もないこの地区に虚が現れることは滅多になく、前回の虚の出現からはおよそ数十年ぶりのこと。更に悪いことにその虚は強大な霊力を持つ
「グガアァァァ……ッ!」
「おばあちゃん! 早く!」
多くの住民の魂魄を喰らって肥大化した虚は次の標的を沙羅たちに定めていた。三人の子供は必死に祖母の手を引いて走っているが、所詮は子供の足。その差はみるみる縮まっていく。
そして、元より足が弱い老婆の身体にもすでに限界が訪れていた。
「はぁ、はぁ……私のことはいいから、おまえたちは先に逃げなさい……っ」
とうとう足がもつれて走れなくなった老婆は、乱れた息で子供たちの背を押した。
「なに言ってるの! おばあちゃんを置いていけないよ!」
「大丈夫、私もすぐに追いかけるよ」
ふわりと微笑む老婆に沙羅は必死になって首を左右に振る。そんな見え透いた嘘に騙されるほど幼くはない。
「絶対だめ! みんなで一緒に逃げるの!」
涙目になって叫べば勇真と千歳も真剣な顔つきで頷いた。鋭利な牙を剥きだしにした虚はすぐそこまで迫っていて、今にも全速力で駆けだしたいけれど、大好きな祖母をこの場に置いて逃げることなどできなかった。
「おまえたち……」
老婆は老いた瞳をめいっぱいに見開いて、くしゃりと顔を歪ませる。力の入らない足を奮い立たせてなんとか踏みだそうとするが、そう試みたときにはもはや遅すぎた。加速をつけた虚は四人に向かって一気に襲いかかってきた。
「きゃあっ!」
虚の巨体が勢いよく地面に突進し、辺り一面に砂埃が舞う。
衝突の直前に跳びのいたおかげで直撃は免れたものの、激しい揺れに立ち上がることすらできない。沙羅は傍らの老婆の身体を支えながら千歳と勇真の姿を捜した。
「う……けほっ」
「くっそ……」
幸いふたりも無事なようだが、この状況が絶望的であることに変わりはない。再びこちらへ向けて身構えた巨大虚に、沙羅は背筋が凍るような恐怖を覚えた。
血走ってくすんだ目に、身を切り裂かれた幾人もの犠牲者の血が滴るおぞましい牙。それは貪欲に血を求める捕食者の顔だった。
これが、虚。
魂を喰らう悪しき魂魄。
その凶悪な姿を目の当たりにした今、それが元は人間の形をしていたなんて到底信じられなかった。
「美味ソウナ匂イ──娘、オマエ強イチカラヲモッテイルナ……」
「……っ」
大きく裂けた虚の口がニヤリと歪む。恐怖に足がすくんで、動けない。
「サア娘……ワシノ血肉トナルガイイ」
「やめろ!」
虚が沙羅に向かって飛びかかろうというまさにそのとき、勇真が渾身の力をこめてその巨体にぶつかっていった。しかし虚はそれによろめくこともなく、易々と少年の身体を弾き返す。
「勇真!」
「ガキガ……邪魔ヲスルナ。焦ラナクトモスグニ喰ッテヤルサ……コノ娘ヲ喰イ尽クシタラナ!」
「……!」
大きく開かれた口の中から血濡れの牙が現れ、今度こそその照準を沙羅に定めた。
「沙羅──ッ!」
千歳が泣き叫ぶ声がずいぶんと遠くに聞こえた。
千歳、勇真。
おばあちゃん。
どうか……みんなだけでも無事に──
死を覚悟した沙羅は固く目を瞑った。
しかしいくら待ってみても、覚悟した衝撃は訪れなかった。代わりに優しい温度が全身をかすめた。
ほのかに梅の香りがする。
それは大好きな祖母の匂い。
「おばあちゃん……?」
声に出して確かめるまでもなく、目の前に彼女はいた。沙羅の身体を力強く抱きしめる祖母が。
ぬるり。不意に、
哀しいほどに赤い液体。
そこでようやく、沙羅は祖母の身体を見慣れぬ物体が貫いていることに気がついた。とても鋭く、おぞましい、虚の牙が。
「沙羅……早く、逃げ……」
「……おばあちゃ……」
ゴポッと口から血を吐いて老婆は沙羅の横に沈んでいく。
「いやぁ! おばあちゃんッ!」
千歳の悲鳴で我に返った沙羅はすぐに老婆の身体を抱き起こすが、彼女は厳しい表情でそれを拒んだ。
「行きなさい……早、く……っ」
「や……嫌だよ、そんな──」
「ああっ!」
沙羅が首を振ると同時に老婆は悲痛の叫びを上げた。虚が大きく身を捩り、その牙に突き刺されたままの老婆の身体は必然的に宙に吊り上げられた。
「ばあちゃんっ!」
咄嗟に勇真が叫ぶが、先程投げ飛ばされた衝撃で負傷したのか、地面に這いつくばったまま動けない。千歳は目の前の惨状に声を失い、涙を流しながらガクガクと震えていた。
「ソンナニ早ク死ニタイカ? クタバリゾコナイノババアガ」
「やめて……もうやめてよ!」
宙吊りにされた老婆の身体からはおびただしい量の血が滴り落ちている。
死んでしまう。
このままでは、おばあちゃんも、勇真も、千歳も、私も。
みんなみんな、死んでしまう。
「チ……コンナババアヲ喰ラッタトコロデ美味クモナントモナイワ」
いたぶるのにも飽きたのか、虚は老婆の身体から牙を抜き無造作に放り投げた。どさり、と鈍い音を響かせて地面に沈む。
駆け寄った沙羅の瞳にはぐったりと力を失った老婆の姿が映しだされた。
「おばあちゃん……!」
どうして──
どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。
つい昨日まで、平凡ながらも満ち足りた日々を過ごしていたのに。
これからもずっと、このありふれた日常が続いていくものと思っていたのに……
「どうして奪うの……」
喉の奥から渇いた声がもれた。
それは怒りなのか、哀しみなのか、自分でもよくわからないまま感情の波に押し流される。
熱い。
身体中が焼けただれたように熱を帯びていた。
なにかが
なにかがあふれだしてくる。
「どう……して……っ」
圧縮された熱量が手の中に集っていく。
熱い。
熱い熱い熱い。
「うああぁぁ──ッ!」
その皮膚を焦がすほどの熱に耐えきれなくなって、沙羅は叫びとともに掌を前に突きだした。直後、
「ギアアァァァ!!」
膨大なエネルギーの塊が、灼熱の炎をまとって巨大虚の身体に直撃していた。爆音が響くと同時に虚は耳をつんざくような奇声を上げてのたうち回っている。
「な……なんだ今の……! 沙羅がやったのか!?」
立ちこめる黒煙にむせ返りながら、勇真が驚愕の表情で振り返る。しかし当の沙羅本人もこの状況を理解できずにいた。
いまだ熱の残る自身の掌を見つめ、ふるふると首を横に動かす。
「私にもわからない……急に身体が熱くなって──」
言いかけて沙羅ははっと背後を振り仰いだ。次第に薄れていく黒煙の中で、巨大な影がゆらりとうごめいたのがわかった。
「グ……ウゥゥ……」
「まだ動けるの……!?」
煙の中から現れた虚はその硬い甲羅状の皮膚に凄惨な火傷を負っていたものの、動きが止まることはなかった。むしろその濁った目はより一層の狂気に歪んでいく。
「小娘ガ……ヨクモコノワシヲ……」
一歩、また一歩と巨体を引きずって近づいてくる虚を前に沙羅は身じろぎひとつままならない。まるで全身の腱が切れたのではないかと思わせるほどに身体の自由が利かないのは、先程放った不思議な力の反動なのか。いずれにせよ沙羅にはもう逃げる気力も体力もなかった。
「骨ノ一片モ残サズ喰イ尽クシテヤル!」
元より欠如している理性を完全に欠いた虚は、本能的な殺戮衝動に揺さぶられるまま沙羅に向かって一直線に飛びかかってきた。
私はなんて無力なんだろう。
首すら動かせずに固まった視界の奥に、うずくまる祖母とその傍らで放心している勇真と千歳の姿が映る。
『沙羅は多くの魂の中から選ばれて、その力を授かったんだよ』
おばあちゃんはそう言ったけど。それならこの力はなんのために授かったの?
自分の身ひとつ護れない。大好きな家族も、護れない。
眼前に迫る黒い巨体をどこか他人事のように眺めながら、沙羅はぐっと唇を噛んだ。
恐怖よりも、哀しみよりも、悔しかった。圧倒的な力の前にただ押し潰されることしかできない己の無力が、悔しかった。
刹那、ほのかな温もりを帯びた風が頬をすり抜けた気がした。
「……え……」
虚とは別の黒い影が、沙羅の目の前に立っていた。闇よりも深い漆黒の装束が風に揺れている。
「──もう大丈夫だ」
影は声を発して振り返った。振り向きざまに左肩に括られた金色の腕章がきらりと輝いて、そのまばゆさに沙羅は一瞬目を眩ませる。
その上にあったのは太陽のような笑顔だった。
「よく最後まで逃げなかったな。根性あんじゃねえか」
わしゃわしゃと沙羅の髪を撫でて、彼はニカッと歯を見せた。
「誰……?」
呆然と見上げる沙羅の問いに彼が答えるよりも早く、勇真が感嘆の声を上げる。
「死神だ……魂を守る正義のヒーローだ!」
「死神……?」
まさかと思いすぐ目の前の男の姿を凝視してみる。直接目にするのは初めてだが、その黒い装束は死神がまとう死覇装に違いなかった。そして腰には重厚な鞘に納められた斬魄刀。
そこで気を正した沙羅は、こちらに襲いかかってきたはずの虚に視線を戻した。しかしどういうわけか虚は沙羅からわずかな距離を残した辺りで動きを止めていた。
──否。
動きを止めていたのではなく、動きを止められていた。細い帯状の水の粒子に身体を絡めとられて。
唖然とする沙羅の前で、彼はゆっくりと身を翻す。
「正義のヒーローかどうかは知らねえが──」
斬魄刀の柄に手をかけて。
「少なくとも、おまえらのヒーローにはなってやれるぜ?」
最後に肩越しに振り返った彼が見せたのは、やはり屈託のない鮮やかな笑顔だった。
「
***
《Sea Swallow Ⅰ…海燕Ⅰ》
この出会いが少女の運命を変える。