Dear…【完結】   作:水音.

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【Side Story】 Snow Drop Ⅳ ―待雪草Ⅳ―

 ポツ……

 

 いつの間に太陽を覆い隠したのか、どんよりとした黒い雨雲からこぼれ落ちた雫が頬を濡らす。

 まるでそこだけ時間が止まったかのような静寂が辺りを包みこんでいる。

 

「……隊長……」

 

 静寂を破ったのは海燕の声だった。

 ルキアの斬魄刀に胸を貫かれ、彼女に身体を預けたまま掠れた声をもらす。

 

「ありがとうございました……俺を……戦わせてくれて……」

「……ああ」

 

 浮竹は苦しげに眉根を寄せて海燕に背後から歩み寄った。

 

「朽木……。俺の我儘に付き合わせて……ヒデー目に遭わせちまったな……。……悪い。キツかったろ」

 

 ポン、とルキアの背中を撫でて海燕は笑う。

 

「ありがとな……。おかげで……心は此処(ここ)に、置いていける……」

 

 それを受けるルキアは声を発することもできない。血に染まった死覇装を貫いている刀を握ったままガタガタと全身を震わせている。

 ほかに方法がなかったとはいえ、重いものを背負わせてしまった、と悔やむ。生真面目な少女が自責の念に駆られるであろうことを予見して海燕は口を開きかけたが、呑みこんだ。

 

 大丈夫だ。朽木(こいつ)は口下手で人付き合いも苦手なやつだが、ひとりじゃない。十三番隊(うち)のやつらがこいつをひとりにはさせない。

 そういう隊にまとめあげたという自負がある。そういう隊士ばかりだという自信がある。

 

 おもむろに目線を上げた海燕は視界の中央に薄茶色の髪の少女を捉えた。

 

 そう、自分のことなど差しおいて一にも二にもまず仲間を気にかけるような、こいつみたいなお人好しが、十三番隊(うち)にはいる。

 

「聞こえたぜ……おまえのバカでけェ声」

 

 喉の奥が焼けるように熱かったが、その姿を目にすると自然と頬が緩んだ。

 

 ひた向きで、努力家で、頭にバカがつくほど正直で。かと思えば頑固で向こう見ずな一面もあって、目を離せばどんな無茶をするかわかったもんじゃない。入隊からずっと面倒を見てきた、手のかかる可愛い“後輩”。

 虚の憎悪に呑まれて消えかかった海燕の理性を最後に呼び戻してくれたのは、そんな彼女の叫びだった。

 

「おかげで目が覚めた。……ありがとな」

「……っ、先輩……!」

 

 瞬く間に勢いを強める雨の中、よろよろとおぼつかない足取りで、それでも懸命にこちらへ向かってくる沙羅。もうしばらく彼女の成長を見守りたかったが、自分はどうやらここまでのようだ。

 

「だっせーなぁ……俺。自分の護りたいモンひとつ護れねえで……これじゃ都に笑われても言い返せねえな」

「……護ったじゃないですか」

 

 声を震わせて沙羅は海燕を見上げる。

 

「海燕先輩の誇りも、都さんの誇りも……全部護ったじゃないですか」

 

 雨と涙に濡れたその瞳があまりにもまっすぐに自分を捉えていて、海燕は目を逸らせなくなった。一瞬ののち我に返ると、短く吐息をもらして視線を落とす。

 

 気づけば先程まで脳内で耳障りな悲鳴を上げていた虚の声は止んでいた。既にこと切れたのだろう。

 俺がてめえみてえな性根の腐った虚に競り負けるかよ、と内心で鼻を鳴らす。そんな自分もすぐにあとを追う運命なのだが。

 

(俺は……本当に護れたのか。都の誇りを)

 

 霞む視界のその先で、妻が振り返って微笑んだ。

 

『ええ。おかげですっきりしたわ。……ありがとう、海燕』

 

 黒曜の長い髪をふわりとたなびかせ彼女が背を向ける。

 

(待てよ都、俺も行く。おまえをひとりで行かせやしねえよ)

 

 すると再び振り返った都は呆れたように腰に手をあてた。

 

『もう……仇討ちして自分がやられてたんじゃ世話ないわよ。手のかかる人ね』

 

 哀しそうに、けれどどこか安堵したように表情を和らげる。

 そちらへ向けて踏みだそうとした海燕に『けどその前に』と都は掌を突きだした。

 

『あなたは本懐遂げて満足してるかもしれないけどね、残される身にもなってみなさいよ。あなたと私が揃っていなくなったらどれだけ不安な思いをするか』

 

 彼女の言はもっともだ。副隊長と三席を立て続けに失い、十三番隊は大いに揺れるだろう。

 隊長の浮竹にも苦労をかけることになる。無理をしてまた調子を崩さないといいが。

 それに──今ここで自分の死を看取ることになる年若いふたりの隊士も。

 

『ほんの一言でもいい。声をかけてあげて。私は……なにも言えずにお別れになっちゃったから。……ほら頑張って副隊長!』

 

 寂しげに目を細めた都に勢いよく背中を叩かれ、急激に意識が浮上した。

 

「……ぱい! 海燕先輩!」

 

 懸命な形相の沙羅が下から覗きこんでいる。ルキアにもたれかかったままの体勢をみる限りほんの一瞬の出来事だったようだ。

 

「だから……聞こえてる……って……」

 

 ヒューヒューと鳴る呼吸の合間に声を紡ぐが、息が続かない。

 どの道これじゃろくに話せねえよ、と思うもここで断念しようものならあの気丈な妻に締め上げられそうだ。

 

 苦しさをごまかすように瞳を細めるとまばゆい反射光がちらついた。

 雨雫を受けて輝く金色の副官証。隊花の待雪草が刻まれた十三番隊副隊長を示す唯一無二の証。

 

 ああ……そうだ。

 こいつの後継者はもう決めてあるんだった。

 

「できれば……俺の手で、直接……渡してやりたかったけどな……」

「海燕殿!」

「先輩、動かないでください!」

 

 自身の左肩に括られたそれに触れようと右手を伸ばして、海燕の身体はぐらりと傾いだ。

 ルキアとともにそれを支えた沙羅は悲痛な面持ちで首を横に振る。それでも海燕は伸ばした手の中にしっかりと副官証を掴んだ。

 

「おまえなら、きっと……この花を……」

 

 そこから先は呑みこんで、ニッと口の端を持ち上げる。

 あえて言い残す必要はないのかもしれない。言葉以外にも遺せるものはある。

 自分が明言せずとも沙羅は近い将来必ずや十三番隊を支える支柱となるはずだ。

 心残りはその姿を見届けられないこと。

 

「花……?」

 

 徐々に白みがかってきた視界に映る沙羅の表情は戸惑いに揺れていて、恐らくは海燕がなにを伝えようとしているのかも理解できてはいないだろう。

 今はそれでもいい。いつかきっとわかるときが来る。

 

「あとは……頼む、な」

 

 副官証から離した手を沙羅の頭に乗せ、そしてもう一方の手をルキアの頭に乗せて、海燕はニカッと笑みをこぼした。

 いつもよりも幾分弱くふたりの髪を掻き乱したその手は、やがてずるりと垂れ下がると、そのまま力を失った。

 

 

「海燕殿……?」

 

 彼の身体を支えたまま呆然と呼ぶルキアの隣で、沙羅は頬を滑り落ちていった手にそっと触れる。もう二度と自分に触れてくれることはないであろうその大きな手に。

 

「私が……私が海燕殿を……」

「……そうじゃないよ、ルキア」

 

 唇をわななかせるルキアに、緩慢な動作で首を振って。

 

「……海燕先輩は、都さんの誇りを護った。ルキアは、先輩の誇りを護った……」

 

 今はそう告げるので精一杯だった。肺をもぎ取られたような息苦しさに思考が散らばり、うまく言葉が出てこない。

 この現実をどうすれば受け止められるというのだろう。ただ耳を掠める雨音だけが過ぎゆく時間を訴える。

 

 

「海燕先輩……ッ!」

 

 声にならない嗚咽をもらして沙羅は海燕の手を握りしめた。

 どんなに強く握ってみても、どんなに切に願ってみても、その手が握り返されることはなかった。

 

 それが誰からも愛され、誰よりも慕われていた十三番隊副隊長──志波海燕の最期だった。

 

 

 

 *

 

 海燕と都の葬儀には他隊からも多くの隊士が集い、別れを惜しんだ。

 隊の中心人物を立て続けに失った十三番隊は以前の活気が見る影もないほどに静まり返っていた。覇気を失った隊士たちは一様に口を閉ざし、隊舎内に賑やかな笑い声が響くこともない。

 ……ただひとりを除いては。

 

「おはようございます!」

 

 普段と変わらない凛とした声色で隊舎の扉を開いたのは、亡き副隊長を「海燕先輩」と呼んで慕っていた少女。

 

「沙羅……。ああ、おはよう」

 

 彼女の様子に一瞬呆気に取られた浮竹は、すぐに持ち直して笑顔を見せた。その場に居合わせた隊士たちも一拍遅れてから「おはよう」とぎこちない笑みを返す。

 沙羅はそのまま隊舎にいるほかの隊士にもひと通り声をかけて回ってから、最後に浮竹の元へと歩み寄った。

 

「──隊長」

「……朽木なら今日も休みだ。まだ外へ出られる状態じゃないようだからな」

「……」

 

 問いを先読みしてそう答えると沙羅はしばし黙りこんで顔を上げた。

 

「行ってきてもいいですか?」

 

 浮竹はもの言いたげな面持ちを浮かべたが、口を開くことなく頷いた。

 

 *

 

 宿舎の寝所に入ってすぐ、沙羅は暗い室内でうずくまっているルキアを見つけた。

 

「おはよう、ルキア」

 

 はっと顔を上げたルキアに笑いかけながらカーテンを引いて窓を開ける。

 

「いつまで寝てるの? こんなにいい天気なのにもったいない」

 

 射しこむ朝日を避けるように目を細めたルキアは、憔悴しきった表情で沙羅を見上げた。

 

「外に出よう? ここに居てもなにも変わらないよ」

「行けぬ……」

「どうして?」

「私は海燕殿を殺したのだ……皆に合わせる顔がない……」

「違う」

 

 膝の間に顔をうずめたルキアの言葉を沙羅は間髪入れずに否定した。

 

「殺してなんかない。ルキアは海燕先輩を救ったんだよ」

「救ってなどいない……。私さえいなければ海燕殿が死ぬことはなかった……」

 

 そう呟くルキアの瞳に暗い絶望の色が灯る。

 

「なぜ私ではなく海燕殿なのだ……あんなにも皆に慕われた方が、どうして……!」

「自分を責めないで。ルキアのせいじゃない」

「違う、私のせいだ!」

「ルキア……」

「私が虚に喰われればよかった……私が死ねばよかったのだ!」

 

 パン! 

 

 頬を走った衝撃にルキアは目を瞠った。

 沙羅が誰かに向けて手を挙げたのはこれが初めてのこと。

 

「そんなことを……あの人が望んだと思うの?」

 

 頬を押さえるルキアを見据えて、沙羅はきつく唇を噛みしめる。

 

「海燕先輩は、都さんの誇りを護った! 虚に身体を奪われても、最期まで死神としての誇りを貫いた! そしてそれを……私たちに……託した」

「…………」

「先輩言ってたじゃない……ルキアのおかげで、心は此処に置いていけるって……。ルキアは先輩の誇りを護ったんだよ? なのに自分が死ねばよかったなんて……そんなんじゃ海燕先輩が哀しむ!」

 

 どれだけの憤りと哀しみをその内に秘めたのか。腹の底から吐きだされた沙羅の言葉に、ルキアは呼吸を止めた。

 

 

「……ごめん。痛かったよね」

 

 床に手をついたままのルキアの前に屈み、沙羅はその頬に手を添える。

 

「でも……今頬が痛むように、ルキアの心も痛んでるんでしょう? ……ボロボロに傷ついてるんでしょう?」

 

 己の不甲斐なさを痛感しているのは沙羅とて同じ。手を伸ばせばすぐに届く距離にありながら、海燕を護れなかった。

 けれどいくらそれを悔いたところで彼が戻ることはない。そして彼もそんなことは望まない。

 あの人が望むのは、いつだって──

 

「私たちが前を向いて生きること。それが海燕先輩の一番の願いだよ」

 

 哀しみをこらえた瞳で東の空から昇り始めた太陽を眩しそうに見上げる沙羅の髪を、初夏の風が優しく揺らしていった。

 

 ──いつまでもしけた(ツラ)してんじゃねえよ。オラ、とっとと顔上げやがれ! ──

 

 海燕ならばきっとそう言ってくれるような気がした。遠い昔、祖母を失った沙羅の背中を力強く押してくれたあのときのように。

 

「だから……泣いていいんだよ、ルキア?」

 

 そっと肩の上に置かれた手の優しさに、とうとうルキアの表情が崩れた。

 

「……ぅ……ッ」

 

 なにかの糸がぷつりと切れたかのように、ルキアの喉から弱くか細い声がもれてくる。

 

 泣きたいのなら思い切り泣けばいい。

 哀しくて胸が張り裂けそうなら、痛みが消えるまで哀しめばいい。

 そうしてまた、立ち上がればいい。

 

「海燕殿……かいえん、殿……っ! う……ッああああああ……!!」

 

 悲鳴のような嗚咽をもらすルキアの肩を沙羅は強く抱きしめて、彼女とともに涙を流した。

 ふたりの少女は身を寄せ合い涙が枯れるまで互いの胸で泣き続けた。

 

 *

 

 その日の午後、ルキアは沙羅と連れ立って海燕の死後初めて十三番隊の隊舎に足を踏み入れた。

 

「朽木……!」

 

 驚きの様相を隠せない浮竹に、彼女は真剣な眼差しを向けて頭を下げる。

 

「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。朽木ルキア、十三番隊隊士として本日より職務に復帰させて頂きたくお願いに上がりました」

 

 瞳にはまだ赤く泣き腫らした跡が残っていたものの、そこにはもう悲壮な絶望は浮かんでいなかった。

 

「……そうか。復帰したからには容赦しないぞ? これから十三番隊を立て直していくためにはやらなきゃならないことが山ほどあるからな」

「はい!」

 

 差しだされた浮竹の手を、ルキアは固い決意とともに両手で握り返す。後ろで見守っていた沙羅もその光景に瞳を和ませた。

 

「……いよおぉぉーっし! 朽木も復活したことだし、新生十三番隊の始動だぜ!」

「ってあんたが仕切んないでよ小椿! これからは皆で隊長を支えていくんだからね!」

「わかってらい! いちいちやかましいんだよおまえは!」

「なにおぅ!?」

 

 仙太郎と清音が口論を始めたのを皮切りに、十三番隊の隊士たちの顔にも徐々にいつもの活気が戻ってくる。

 

「そうだよな……落ちこんでる暇なんて俺たちにはない」

「ぼさっとしてたら他隊に差をつけられるぞ」

「俺たちの手で十三番隊を立て直すんだ!」

 

 ほんの一瞬前までの静けさが嘘のように慌ただしく動き始める十三番隊の面々。

 それを遠巻きに眺めていた沙羅は、視界の隅に金色の輝きを捉えて首を巡らせた。

 

 隊舎の中央の柱、『十三』の数字の下に張りつけられた副官証。

 主を失ったものの、その輝きはなにひとつ衰えることなく今も十三番隊を照らしている。

 そこに咲くのは『彼』がいつでも心に宿していた待雪草──希望の花だ。

 

「……隊長」

「うん?」

「今度の席官試験の願書、まだ間に合いますか?」

 

 ずっと先を見るような眼差しで告げた沙羅に、浮竹は小さく瞠目した。そしてすぐに、

 

「ああ。もちろん」

 

 と頷いた。一歩踏みだす決意を固めた部下の成長を喜ぶように。

 

 強くなろう。

 海燕と都の心も、誇りも、十三番隊(ここ)にある。

 ならば私は、ふたりが愛したこの場所を護れるよう、強くなろう。

 

「沙羅ー! ちょっとこっち手ェ貸してくれ!」

「はーい! 今行きます!」

 

 力強く咲き誇る待雪草をしっかりと目に焼きつけてから、沙羅は呼び声に応えて(きびす)を返した。

 

「──……」

「どうした?」

「いえ、今……」

 

 死覇装の裾を揺らして隊舎の奥へと駆けていく沙羅の後ろ姿を食い入るように見つめていたルキアは、浮竹の声にハッと我に返る。

 ぱちぱちと瞬きをこぼした先に見えるのは間違いなく沙羅の背中。けれど──

 

「沙羅が海燕殿に見えたような気がして……」

 

 彼よりもずっと小柄な姿に吸いこまれるように見入っているルキアに、浮竹も深い眼差しで沙羅を追った。

 隊士の中心で笑う姿に重なって、最後まで己の信念を貫き通したあの勇敢な青年の笑顔が見える。

 

「……後継者、か」

「え?」

 

 ぽつりともれた呟きにルキアが隣を仰ぐと、浮竹は感慨深げに微笑んだ。

 

「おまえはずっと俺たちの傍にいるんだな、海燕……」

 

 

 **

 

 あれから数十年もの月日が流れた。

 春を迎えた瀞霊廷には今年も色鮮やかな花が咲き乱れ、鳥のさえずりが響きわたっている。

 

「──して、どうするつもりじゃ。浮竹隊長」

 

 一番隊の隊舎へ招致された浮竹の前には、総隊長・山本元柳斎重國がずっしりと腰を構えて座っていた。

 

「どうする、と言われますと……」

「とぼけるでない。いつまで副隊長の空席を続けるつもりかと聞いておる」

 

 元々の老顔の上に更に皺を重ねた元柳斎の問いに浮竹は言葉に詰まる。

 

「前副隊長・志波海燕の殉職から四十年余……確かにあれほどの器を持った隊士はなかなかおらんじゃろう。だからこそ儂も黙認してきた。だが副隊長は隊長に次いで隊の根幹となる絶対的な存在じゃ。その副隊長がいつまでも不在のままとあっては、隊の統率にも関わろう」

「候補として考えている者はいるんです。ですがまだ話が最後まで固まっていないものでして……」

「七席の草薙沙羅のことか。確かにあの娘なら力量も人格も要件は満たしておる。ほかの隊長格からの評価を踏まえても申し分ない。──しかしな、十四郎。本人にその気がなければ話にならんじゃろう」

「それは……」

 

 厳しい表情から一転、親が子を諭すように語りかける元柳斎に浮竹は視線を落とした。

 

 そう、海燕の死から四十年が過ぎた。

 あの哀しい事件のあと、十三番隊は第三席に仙太郎と清音を据えて当面を凌いだものの、未だ副隊長の席位は空白のまま。

 浮竹としては亡き海燕の志を誰よりも色濃く引き継いでいる沙羅こそが次の副隊長に相応しいと考えていた。それはほかでもない海燕の願いでもある。

 長い時間の中で着実に成長し、今や第七席を預けられる身となった沙羅。そんな彼女に浮竹は度々副隊長への昇格の話を持ちかけてはいるものの、沙羅は頑なに首を横に振った。

 どうやら席官を務めるようになったことで、海燕の存在がいかに大きなものであったかを知らしめられたようだ。副隊長なんて自分には到底務まらない、と萎縮するばかり。

 

「……あと少しだけ時間をいただけませんか? 自信さえ持てれば、草薙沙羅は間違いなくうちで随一の隊士なんです」

「もう十分に時間はやったはずじゃ、これ以上の猶予は与えられぬ。ただちに新しい副隊長の任命に取りかかれ。刻限は今月いっぱいとする」

 

 有無を言わさずそう放たれ、浮竹は一番隊の隊舎をあとにした。

 

 

「今月中か……参ったな」

 

 ぽりぽりと頭を掻きながら重い息をひとつ。

 実際のところ、現三席の仙太郎や清音にも副隊長昇格の打診をしたことはある。けれどふたりは揃って同じ返答を寄越してきた。

 

『副隊長には沙羅しか考えられません』

 

 それはほかの席官に訊いても一様に同じ答えだった。が、その当人が頑として受け入れないのだ。八方塞がりとはまさにこのこと。

 

「──というわけなんだが、皆はどう思う?」

 

 隊舎に戻った浮竹は沙羅を除いた上位席官を集めて会合を開いた。

 

「そりゃあ沙羅にやらせるしかないっすよ! 沙羅が副隊長なら誰も文句は言わねえだろうし」

「問題はどうやって沙羅を納得させるかよね。あの子がその気になってくれないとどうしようもないもん」

「やるって言うまで帰さなきゃいいんじゃねえの?」

「だからそれじゃだめだっつってんでしょーが!」

 

 あーだこーだとやり合う清音と仙太郎に苦笑しながら、浮竹はさてどうしたものかと唸りを上げる。

 しかし話を詰める間もなく沙羅が任務から帰還し、結局結論を先送りにしたままその場は解散となってしまった。

 そうしてその後も目立った進展が見られることはなく、焦る浮竹の心境とは裏腹に元柳斎に提示された期限は刻々と迫っていた。

 

 *

 

「いよいよ明日か……」

 

 運命の刻限を翌日に控えたその日、職務を終えた浮竹は重い足取りで自室へと続く渡り廊下を歩いていた。

 ぎりぎりまで粘ってみたものの、結局沙羅からは前向きな返答も得られぬまま今に至っている。困り果ててうなだれながら自室の前までやってくるとそこには意外な人物が待っていた。

 

「隊長……」

「沙羅? どうしたんだ」

 

 まさに今頭を悩ませていた原因である部下の姿に浮竹は目を丸くする。が、本当に驚いたのは次に続いた台詞だった。

 

「副隊長への昇格の話、お受けしてもよいでしょうか」

「へ……」

 

 ぽかんと間の抜けた声をもらした浮竹を、沙羅はいつになく神妙な面持ちで見上げて

 

「私はまだまだ未熟ですし、海燕先輩のように隊をまとめることもできません。それでも、みんなが私を副隊長として必要だと言ってくれるのなら、例え力不足だとしてもそれに応えたいと思ったんです」

 

 凛とした瞳の奥には揺るぎない決意が宿っていた。

 

「……すみません、今更調子良すぎますよね。散々断っておいてこんな」

「本当か?」

「え?」

「本当にやってくれるんだな? 嘘じゃないな!?」

 

 ガッと両肩を掴んで食い入るように覗きこんでくる浮竹の並々ならぬ気迫に、沙羅は気圧されつつもこくこくと首を頷かせた。

 

「そうか、ついに決心してくれたのか! いやぁよかった、本当によかった! これでうちも安泰だ!」

「……でも隊長、本当に私なんかでいいん「おまえじゃなきゃだめだ!」

 

 沙羅の言葉をきっぱりと跳ねのけて浮竹は言いきった。つい先程までの消沈した面持ちはどこへやら、嬉しさを抑えきれない様子で声を弾ませている。

 

「しかし一体どういう風の吹き回しだ? あんなに頑なに拒んでいたのに」

 

 素朴な疑問を口にした浮竹に一瞬黙りこんだ沙羅は、ふわりと顔を綻ばせて口を開いた。

 

「ある人に言われたんです」

 

 遠くの空を眩しそうに──愛しそうに見上げて。

 

「自信がないのなら、それに見合うだけの力をつければいい、って」

 

 そう語る沙羅の横顔はなにかが吹っ切れたように清々しく晴れわたっていた。

 

「そうか……まあとにかく、おまえが意思を固めてくれたのならなによりだ」

 

 その沙羅の笑顔の理由を、浮竹は「大方松本辺りが背中を押してやったんだろう」と考えて深くは気にとめなかった。いずれにせよ、沙羅が副隊長になってくれると言うのならそれ以上に喜ばしいことはない。

 

「そうと決まれば善は急げだ。早速申請の手続きに取りかかろう! まずは総隊長へ報告しないとな」

「えっ今からですか!? そこまで急がなくても──」

「いいや、ぼやぼやしてたら日が暮れてしまうだろう。ほら行くぞ沙羅!」

「ちょ……っ、隊長!」

 

 逃すまいと腕をがっしり捕らえて歩きだした浮竹に、半ば引きずられる形で一番隊の隊舎へと連れられた沙羅であった。

 

 

 *

 

 五日後。雲ひとつない快晴とともに迎えたその日、十三番隊の隊舎では副隊長の任官式が執り行われていた。

 

「それではこれをもって草薙沙羅を十三番隊副隊長に任ずるものとする。尸魂界のため、ひいては魂の安定のため、その身を尽くし隊に仕えることを願う」

 

 目の前に差しだされた副官証を沙羅は深く(こうべ)を垂れて両手に収める。

 

「──謹んでお受けいたします、浮竹隊長。至らぬ身ではありますが、全身全霊をもって隊へ尽くす所存であります」

 

 胸中に宿る決意をこめて答えると、浮竹は穏やかに微笑んで頷いた。

 

「おめでと、沙羅! ほら、腕貸して」

「……うん」

 

 早速副官証を広げた乱菊は慣れた手つきでそれを沙羅の左肩に括りつけていく。

 

「はい、できた! これであんたも副隊長の仲間入りね」

 

 金色の輝きを纏った沙羅の姿に、固唾を飲んで見守っていた隊士たちはワッと歓声を上げて我先にと押しかけた。

 

「沙羅ー! おめでとう!」

「これから頼むぜ副隊長!」

「我々十三番隊隊士は皆一丸となって副隊長についていきます!」

「副隊長万歳!」

 

 隊舎にあふれかえるほどの仲間に囲まれ、戸惑いながらも心からの笑顔を見せている沙羅。

 なにも彼女は取り立てて目立つ行動を取るわけでも、抜群の指導力を誇るわけでもない。けれど気づけば十三番隊にはいつも沙羅を中心とした輪ができている。

 その姿は在りし日の海燕を彷彿とさせた。

 

「四十年か……ずいぶん長いこと待たせたな」

 

 沙羅の左肩で光を放つ副官証を遠巻きに見つめながら、浮竹は誰に語りかけるでもなく呟く。

 海燕が最期に沙羅に語ろうとして呑みこんだ言葉を、あのとき浮竹は音にならない声として聴いていた。

 

『おまえなら、きっと……この花を……』

 

 “誰よりも大きく、美しく咲かせることができるから──”

 

 “だから”

 

『あとは……頼む、な』

 

 太陽に向かって凛と咲く希望の花も、副隊長として隊を率いるというその大任も、全てを託して彼は旅立ったのだ。最期にはいつもと変わらない笑顔を残して。

 

「これでおまえたちも安心だろう? 海燕、都……」

 

 そうひとりごちて空を仰げば、天高く昇り詰めた太陽が柔らかな春の日差しを降り注いでいた。その光を浴びた沙羅の左肩の副官証は一際まばゆく輝いて金色の花を咲かせる。まるで海燕から沙羅に贈られた祝福のように。

 きっと今頃ふたりで番茶でもすすりながら見守っているのだろう。遥か天上の彼方から、こよなく愛したこの十三番隊のことを。そして、いつも目にかけてきた可愛い後輩のことを。

 

 ふと沙羅を見ると彼女もまた遠くを見据えるような眼差しで空を仰いでいた。

 

 そうだ。例えおまえの姿形が消え失せようとも、おまえの志はこうしてここに引き継がれている。おまえと同じ目をした副隊長が、ここにいる。

 この光を灯し続ける限り、おまえが俺たちの中で死ぬことはない。

 

 なあ、海燕。……そうだろう? 

 

 

「沙羅」

 

 呼び声にすぐさま振り向いた沙羅に、浮竹は薄く微笑んで告げた。

 

「おまえに望むことはひとつだ。その花を、決して枯らさないこと」

 

 副官証に刻まれた待雪草をしばし押し黙って見つめた沙羅は、顔を上げて力強い笑みを浮かべてみせた。

 

「……はい!」

 

 

 そうして十三番隊に新しい副隊長が誕生した。

 希望の花をその身に宿した副隊長は誰よりも隊を想い、隊士を想い、身を惜しまず献身的に尽力した。その存在はいつしか遠き日の元副隊長を凌駕し、隊士たちの心を照らす光明となる。

 かつての結束を取り戻した十三番隊にはもう哀しげに過去を振り返る者はいなかった。

 

 そして希望の花は今日も十三番隊の中心で美しく咲き誇っている。

 

 

 

 ***

 




《Snow Drop Ⅳ…待雪草Ⅳ》

 待雪草
 英名:スノードロップ 花言葉:希望
 十三番隊にぴったりの隊花だと思いました。
 沙羅にとっての海燕の存在の大きさ、十三番隊という居場所の大切さが伝わると嬉しいです。
 
 長い番外編にお付き合いくださりありがとうございました。次話から本編に戻ります。懐かしい人が登場します。

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