それはとても不思議な感覚だった。
沙羅の知らない、知るはずもない記憶。
けれど判然としない意識の中でもなんとなく理解していた。
目の前に鮮明に映しだされるこの光景が、百年前に確かに存在した一場面なのだということを。
**
「──なんじゃ、じゃあ結局誕生日にはこの刀しか贈っとらんのか?」
刀身を砥石で削っていた手を休めて、刀鍛冶は普段は愛想良く細めている目を大袈裟に見開いた。
そのすぐ隣の作業台に腰かけていた紫苑は、組んだ足の上に片腕で頬杖をついてむっとした表情を浮かべる。防衛軍の勤務が非番の今日、紫苑は先日沙羅に贈ったばかりの刀を持って刀鍛冶の店を訪れていた。
一週間で一級品の刀を仕上げろという紫苑の無理な要求を、その紫苑の予想を上回る出来栄えで見事に果たした刀鍛冶だったが、彼は「仕上げ砥ぎ」と呼ばれる刀の研磨の最終工程に十分な時間をかけられなかったと言って沙羅に一日だけ刀を預けてほしいと願い出ていた。
刀鍛冶の仕事に対する誇りと熱意が伝わるその申し出を、沙羅が当然断るはずもなく。しばらく日勤が続く沙羅に代わって、非番の紫苑が刀を持ってきたというわけだ。
「……仕方ないだろう。それ以外にあいつに合うようなものが思い浮かばなかったんだ」
「紫苑、相手は女性じゃぞ? 指輪のひとつでも贈れば大層喜んだろうに」
「ばか言え、指輪なんてつけていたら刀を握る感覚が狂う。そんなものを沙羅に贈れるか」
至極真剣な顔つきで言い返した紫苑に、刀鍛冶は心底呆れた様子でやれやれと吐息をもらす。
「おまえさんは本当に女心をわかってないのう。指輪に限らずともいくらでもあるじゃろうが。装飾品を贈られて悪い気のする女性なぞおらんぞ?」
「…………」
刀鍛冶の言葉に、紫苑は頬杖をついたまま黙りこむ。
初めて想いを告げたあの夜、誕生日祝いとしてこの刀を渡すと沙羅は心から喜んでくれた。何度も柄を握りしめ、刀身の刃滑りを指先で確かめては嬉しそうに顔を輝かせる沙羅を見て、この選択は間違っていなかったと思っていたのだが。
やはり、そういうものなのだろうか。
沙羅とてひとりの剣士である前にひとりの女性。それは十分にわかっている。
ならばやはり、身を飾る宝石のひとつでも贈ったほうが彼女は喜んだのだろうか。
悶々と考えこむ紫苑をなにやら愉しそうに眺めながら、刀鍛冶は更に畳みかけた。
「時に、彼女とはもう寝食をともにしておるのか?」
「…………なに?」
たっぷり間を置いてから顔を上げた紫苑は眉を潜める。この老人がなにを言っているのか測りかねたが、言葉通り「一緒に暮らしているのか」という意味らしい。
「そんなわけないだろう。この刀を贈ったのは二週間前だぞ? じいさんあんた飛躍しすぎてないか」
「そうか? わしはそうは思わんがのう。彼女はひとり暮らしじゃろう?」
「ああ……実家は北町の郊外部にあるらしいが」
紫苑の返答に刀鍛冶はニッと目尻に皺を寄せる。
「彼女もひとり、おまえさんもひとり。ならばともに暮らすのが自然じゃろう。特に女性のひとり暮らしには危険もつきまとうしのう。おまえさん、心配じゃないのか?」
「それは……」
「ならばなにを躊躇う必要がある。結婚前の男女がともに暮らすなど不誠実だと気にしておるのか? おおそうじゃ! それならいっそ求婚してしまえばよかろう」
刀鍛冶の突飛な提案に、紫苑は組んだ足の上に乗せていた肘を勢いよくずり落とした。
「求……おいじいさん、ふざけるのも大概に──」
「誰がふざけておるものか。なんじゃ? その気もないのにこんな大層な刀なぞ贈ったのか?」
「……別にその気がないとは言ってないだろ」
無論その気はある。その気はあるが、さすがに今すぐ行動を起こそうとまでは考えてもみなかった。紫苑としては沙羅と想いを重ねられただけでも十分な成果と言える。
しかし目の前のこのお節介な老人は、紫苑がそれで満足することをよしとはしないようだ。
「ならば問題なかろう。善は急げじゃ、さっさと彼女に会いにいって求婚せい」
「勝手に話を進めるな。俺にも俺の考えが……」
「贈り物のひとつも考えられん男がなにを言う。四の五の言わずに男らしく決めてこんか」
懸命な反論はことごとく封じこめられ、紫苑はただ落ち着きなく目線を彷徨わせることしかできなかった。
自分のこんな様子を沙羅が見ていたら、きっとけらけらと腹を抱えて笑い転げるに違いない。いや、それとも必死に笑いを押し殺して肩を震わせているか。
いずれにせよ恥晒しもいいところだ。こんな姿、絶対に沙羅には見せられない。
「あの子は器量もよいし、とても優しい子だからのう。うかうかしているとほかの男に横から奪われないとも限らんぞ」
「……」
嫌悪を表に出したつもりはないが、無意識のうちに口を真一文字に引き結んでいた。素直な反応を見せる紫苑に刀鍛冶は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「男と女が結ばれるのに時間は関係ないもんじゃよ、紫苑。それに──大事なものがあるなら、少しでも手が届く場所で護ったほうがいい。こんな荒れた時代じゃ、いつ失ってしまうかもわからんのじゃからな……」
すっかり綺麗に磨き上げられた刀を見つめてそう告げる刀鍛冶の横顔は、それまでのふざけた表情とは打って変わって、どこか物哀しさすら窺わせるものだった。
「……言われなくても護るさ」
対する紫苑は、それを吹き飛ばすような自信に満ちた声を放つ。
この命を賭しても沙羅を護ると、あの桜の開花した夜に自分は確かに誓ったのだから。
*
これ以上磨きようもない、と刀鍛冶が太鼓判を押した沙羅の刀を受け取って紫苑は腰を上げた。と、奥の鍛冶場にまだ錬成されている途中らしい鋼が寝かされているのが目にとまる。
「また新しい刀を打っているのか?」
「ん? ああ、まだ打ち始めたばかりじゃがな」
「あまりぼったくるなよ。客が寄りつかなくなるぞ」
「安心せい、ぼったくるのはおまえさんに対してだけじゃ。それにな、あれは一銭の儲けにもならんよ。友人に贈ろうと考えているものじゃからな」
そう告げた刀鍛冶に紫苑はわかりやすく驚いた顔を向けた。
「へえ、じいさんにも友人と呼べるようなやつがいたのか。そいつはよかったな」
「……おまえさんはつくづく厭味ったらしい男じゃのう」
「安心しろ、俺もあんたに対してだけだ」
不敵な笑みをたたえて刀鍛冶を見遣る。すると彼も目尻の皺を深くして「さっさと行け」と顎でしゃくった。
*
帰り道、紫苑は自宅へ戻る前に商店街へと立ち寄った。
多くの店が立ち並ぶその中で紫苑が足を止めたのは、これまでの彼であれば絶対に近づくこともなかったであろう女性向け宝飾品の専門店の前。煌びやかなアクセサリーが並べられたショーウィンドウをしげしげと見つめて、紫苑は低く唸った。
「指輪じゃなければなにを贈れというんだ……」
そもそも沙羅がどういうデザインを好むのか、どんな色が好きなのか、見当もつかない。難しい顔をしながら眺めていると、控えめな輝きを放つ銀色のチェーンが自然と目についた。
(ネックレスか……)
チェーンの先には小さな宝石が埋めこまれたヘッドがついていて、そのシンプルなデザインが沙羅にはよく似合いそうな気がした。これならば日々の鍛錬の邪魔にもならないのかもしれない。
『いっそ求婚してしまえばよかろう』
先程刀鍛冶に言われた台詞を思いだして、ふぅっと短く嘆息する。ゆくゆくはそうしたいと願う気持ちに偽りはないが、しかしいくらなんでも早すぎはしないか。
もちろん刀鍛冶の言うように、男女の進展に時間は関係ないのだという意見もわかる。そしてこんな時代だからこそ、ともに過ごせる時間は一秒でも大切にするべきだということも。
「桐宮沙羅……悪くはないな」
「なにぶつぶつ言ってるの?」
「……っ沙羅!?」
普段はほとんど動揺を露わにしない紫苑だが、このときばかりは慌てふためいた。
横からぴょこんと顔を覗かせた沙羅は、そんな彼を見て不思議そうに首を傾げている。
「なぜこんなところにいる?」
「予定より早く仕事が終わったんだ。それでさっき紫苑の家まで行ったんだけど、灯りがついてなかったからまだおじいさんのところにいるのかと思って、向かってる途中だったの。入れ違いにならなくてよかった」
「そうか……」
にこりと笑った沙羅に頷きを返して、紫苑はようやく息を吐きだす。しかし次に続いた問いに再び心臓が跳ねた。
「紫苑こそこんなところでぼーっとしてなに考えてたの? 紫苑が独り言なんて珍しいよね」
「いや……」
表面上は平静を装いながらも、紫苑は必死に沙羅に言い繕う言葉を探していた。
唯一の救いは、沙羅が目の前の宝飾店に対してはなんの気も払っていないこと。まさか紫苑がショーウィンドウに飾られているネックレスを見ていたとは思っていないようだ。
「この刀の出来栄えに感心していたんだ。ほら、じいさんに研磨を仕上げてもらった。これ以上の出来はないそうだ」
「えっ、もう仕上がったんだ! ありがとう!」
都合良く右手に握っていた刀を差しだすと、沙羅はぱっと顔を輝かせてそれを受け取った。早速鞘から引き抜いて刀身を眺めては「すごい!」と歓声を上げている。
それにほっと安堵の息をもらすと、紫苑は沙羅を送るべく彼女の自宅までの道をゆっくりと辿った。
「この刀にね、名前をつけようと思うの」
「名前?」
夕暮れの町を歩きながら、沙羅は手元に戻ってきたばかりの刀を大事そうに抱えて頷いた。
「そう。名前をつけると刀との絆が深まるって言うでしょ。それでずっと考えてたんだけど、なかなか浮かばなくて。紫苑はなにがいいと思う?」
「おまえの好きな名前をつければいいんじゃないか」
「それが浮かばないから相談してるんでしょ」
唇を尖らせる沙羅に、紫苑は視線を上げてしばらく考えると
「──桜」
「え?」
「おまえは桜が好きだろう。その刀の刀身も桜の花の色に似ているしな。名前には『桜』の字を入れたらどうだ?」
紫苑の提案を沙羅はしばし口の中で反芻する。
「桜……桜の花……うん、いいかも! 紫苑もたまにはいいアイディア出すんだね」
「どうせろくに期待もしないで訊ねたんだろう」
わざと目を細めて視線をぶつけると、沙羅は「そんなことないって」と笑いながら首を振った。ふたりでそんな他愛もないやりとりを交わしながら歩いていると、沙羅の家まではあっという間だった。
「じゃあね。送ってくれてありがとう」
「──沙羅」
太陽に代わって空に浮かぶ月の下、手を振って身を翻す沙羅を紫苑は咄嗟に呼び止めた。
「明日は早番だったな」
「うん。紫苑もでしょ?」
「ああ。そのあと少し時間を空けておけ。話がある」
「話? それなら今話せばいいじゃない。上がってく?」
背後の玄関を指差して言う沙羅に、紫苑は首を横に振る。
「明日でいい。……いや、明日がいい」
沙羅はきょとんと目を瞬いていたが、こういうときの紫苑は頑として譲らないことを知っていたので、おとなしく引き下がった。
「わかった。じゃあまた明日ね」
ふわりと笑顔を浮かべて小さく手を振る。どうせ明日になればわかること、と深く考えもせずに。
「おやすみ、紫苑」
「ああ……おやすみ」
それは、ごくありふれた日常の風景。
これから先もずっと続いていくはずの、ごく平凡なやりとり。
ふたりは知らなかった。知るはずもなかった。
今なにげなく更けていくこの夜が、ふたりにとって最後の夜になるのだということを。
そう、それはふたりが百年の別れを告げることになる、あの哀しい運命の日の前夜のこと。
紫苑のその決意は沙羅に告げられることはなく
沙羅はその翌日、あの桜の木の下で息を引き取ったのだった──
**
ぼんやりと開けた視界いっぱいに、白い天井。
自分がどこにいるのかはすぐにわかったものの、沙羅の意識はひどく混乱していた。
いましがた見ていた夢。あれは一体なんだったのだろう。
途中、自分が出てきてからのことは沙羅自身の記憶にもはっきりと残っている。宝飾店の前で立ち尽くしていた紫苑に声をかけたときの、あの慌てた様子も。
じゃあその前は?
沙羅がどう足掻いても知りようのない、あの刀鍛冶の店でのやりとりは全て本当にあった出来事なのだろうか。
首を捻りつつ視線を横に逸らしたところで、沙羅は気づいた。あの夢の中、絶えずその中心にあった存在に。
「夢幻桜花……?」
ベッドの脇に立てかけられている愛用の斬魄刀を見つめてぽつりと呟く。すると特別精神を研ぎ澄ましたわけでもないのに、淡い光を纏った桜色の長い髪の女性が目の前に現れた。
『どうかしたのですか、沙羅』
呆然と見上げてくる沙羅に夢幻桜花は不思議そうな眼差しを向ける。
「あれは……夢幻桜花の記憶なの?」
『なんのことです?』
「夢で見たの。私が死ぬ前の日……紫苑が夢幻桜花を持って、おじいさんの店に行ったときの──」
困惑している沙羅を、夢幻桜花は桜色の瞳を大きく見開いて見つめ返した。
『沙羅──あなたは私の記憶を見たと言うのですか?』
「わからない……でも少なくとも私にはあんな記憶はなかった。ただの夢なのかもしれないけど」
胸元で手を握りしめて先程までの夢の内容を口にした沙羅に、夢幻桜花は確信を抱いた。
『いえ……きっとそうなのでしょう。今あなたが見た夢は、確かに私の記憶と合致しています』
「本当? でもどうして──」
きょとんと見上げる沙羅に穏やかな微笑みを向ける。それはまるで、子の成長を喜ぶ母のように。
『沙羅にはまだ早すぎると思っていましたが……あなたはもう十分にその資格を有しているのかもしれませんね』
「資格……?」
訝しげに聞き返したところで沙羅ははっと身構えた。間を置かず病室の扉を開いて姿を現したのは、ここ救護詰所の最高責任者、四番隊隊長の卯ノ花烈だった。
「お話し中でしたか? ごめんなさいね」
沙羅の斬魄刀の化身である夢幻桜花の姿は当然ほかの者には見ることはできないのだが、室内に漂う霊圧の揺れで悟ったのか卯ノ花は遠慮がちに笑んでみせた。
それにすぐに首を振った沙羅を見て、彼女はふと真顔に戻る。
「……哀しい夢でも見ましたか?」
「え?」
彼女のその言葉を聞いて、沙羅はそこで初めて自分の頬に涙の筋が残っていることに気がついた。
ああ……泣いていたんだ。
在りし日の、平凡な幸福に包まれる自分たちの姿を見て。
「いえ」
涙の跡を拭って顔を上げた沙羅は、目を奪われるような鮮やかな微笑みを浮かべていた。
「とても……幸せな夢でした」
それを目の当たりにした卯ノ花は一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐに「そうですか」と静かに口元を緩ませた。
それ以上は特に深く言及することもなく、彼女は沙羅の診療を始める。傷口そのものはもう完全に癒えていることもあり、診療はものの数分で終わった。
「ありがとうございました。ご迷惑をおかけしてばかりですみません」
「いいんですよ。これが私の務めですから。内部の筋肉組織もほぼ修復されたようですし、あとは念のためにもう二、三日休養を取って身体を休めれば心配はないでしょう」
「あ……いえ、私はもう本当に大丈夫です。これ以上お世話になるわけには──」
身を乗りだす沙羅に卯ノ花はくすくすと肩を揺らした。
「あの……?」
「ああ、ごめんなさい。あまりにも彼の言った通りで──実はね、昨日浮竹隊長にきつく念を押されたんです。あなたの『大丈夫』は絶対に鵜呑みにしないでください、とね」
可笑しそうに笑みをこぼす卯ノ花に、沙羅は罰の悪さを感じて視線を落とした。あの隊長はどこまで自分の性格を把握しているのだろう。
しかしそんな沙羅に向けて次に卯ノ花が発した言葉は、予想だにしないものだった。
「ですが私もあなたならきっとそう言うと思っていました。ここでできる治療は全て終えましたし、休養を取ったほうがいいと申し上げたのも強要ではなく勧告です。あなたが詰所を出たいと言うのなら、それを止める権限は私にはありません」
「いいんですか?」
小さく息を呑んで顔を上げると、どこか寂しげな笑みをたたえた四番隊隊長の姿がそこにはあった。
「草薙さん……あなたはやはり立ち向かうのですね」
沙羅と正面から向き合いながら、卯ノ花は神妙な面持ちのまま続ける。
「そういえば彼もそうでしたね。誠実で勇敢で、いつもまっすぐに前を向いていて」
「彼?」
「あなたのよく知っている人ですよ。この副官章の以前の持ち主と言えばわかるでしょう?」
ベッドサイドの棚に置かれた副官章を指してそう言われれば考えるまでもない。
「海燕先輩……」
「正義感が強すぎるがゆえに、融通の利かない人でもありましたけどね。あなたはそんなところも含めて、本当に志波副隊長にそっくりです」
融通が利かない、と言いつつもとても親しみを籠めて語る卯ノ花に、彼女もまた海燕を慕っていたひとりなのだと知る。
亡き副隊長の存在の大きさを改めて思い知らされた気がして、そしてそんな彼と並び称されることに引け目を感じて沙羅は力なく首を横に振った。
「いえ、私は……私なんてまだ到底海燕先輩には及びません」
「それはあなたがご自分で気づいていないだけです。本当によく似ていますよ。そうやってなにもかもひとりで背負いこもうとするところもね」
その言葉にはっと胸の奥を突かれた。
総隊長にまで偽りの報告をしたことを踏まえれば、今回沙羅の身に起きた出来事の詳細を知っているのは恐らく乱菊と浮竹のみ。けれどなぜかこの女性にだけは全てを見透かされているような気がした。
「これは私が言うべきことではないのかもしれませんが……草薙さん、あなたはひとりではないでしょう?」
気遣わしげな瞳が沙羅を射る。
「ここにはあなたの支えとなる仲間がたくさんいるはずです。全てをひとりで受け止めようとしなくとも、もっと仲間を頼っていいのですよ。そのための護廷十三隊でしょう?」
彼女が沙羅とウルキオラの関係の全てを知るはずもなかったが、それでも沙羅がその身に抱える宿命の重さだけは感じ取ってくれているのだと十分に伝わるような、優しい瞳だった。
だから沙羅は頭を下げた。膝に額がつきそうなほどに深く。
「……ありがとうございます」
それは彼女の助言を受諾したのではなく、ただ純粋に感謝の気持ちを表しての礼。つまりその気持ちに感謝はするが、受け入れることはできないのだと。
すると卯ノ花は短く吐息をもらして言葉を重ねた。
「あなたはそれほどまでに苛酷な運命に、たったひとりで立ち向かおうと言うのですか」
「……いえ。ひとりじゃありません」
沙羅はゆっくりと首を左右に振った。
この苛酷な運命をともに背負ってきた人がいる。
いや、彼は自分よりももっと重く冷たい絶望の中で、この百年を過ごしてきた。その苦しみは容易に想像できるものではない。けれどだからこそ。
「ともに闘おうと誓い合った人がいます。その人のためにも、私ひとりが逃げだすわけにはいかないんです」
もう彼をひとりにはしておけない。
ウルキオラを、救いたい。
それはさながら遠き日の元十三番隊副隊長のごとく、沙羅は固い意志を秘めた瞳で前を向いた。卯ノ花もそれ以上の説得は無駄と悟ったのか、無言のままおもむろに一枚の用紙を沙羅の前に差しだす。
「卯ノ花隊長……」
目の前に置かれたそれは、すでに責任者である彼女の判が押印された救護詰所の退所許可証。戸惑いがちに受け取ると沙羅はぐっと眉根を寄せて再び頭を下げた。
「……すみません」
卯ノ花の力と権限をもってすれば、沙羅を強引にでもこの詰所内に縫い止めることは可能だろう。けれど彼女は沙羅の行く手を阻もうとはしない。ただ黙して見送ろうとしてくれている。
その厚意に心底感謝しながら、沙羅は手早く身支度を整え斬魄刀を腰に携えた。
「草薙さん」
今にも病室を飛びだそうと勇む沙羅を、卯ノ花は一度だけ後ろから呼び止めた。振り返った沙羅に、深い慈愛を宿した眼差しを向けて。
「あなたがなんのために、どんな闘いを挑もうとしているのか──確かなことは私にはわかりません。ですがそれがなんであれ、あなたが傷つけば哀しむ人が大勢いるということをどうか忘れないでください」
その言葉の中にこめられた彼女の想いを痛いほどに感じて、沙羅は一瞬泣きそうになった。けれどすぐに唇を引き結んでまっすぐにその瞳を見つめ返す。
「……はい。忘れません──絶対に」
彼女がそれに頷いたのを見届けてから、
もう卯ノ花が声を発することはなかった。そして沙羅も、もう振り返ることはなかった。
*
救護詰所を出てすぐ、沙羅は穿界門をくぐり現世へと向かった。降り立った場所はすっかり馴染みの地となったあの桜の公園。
つい三日前に第4十刃である彼との激しい戦闘が繰り広げられたはずのそこは、恐らく浮竹の手回しにより空間回帰が施されたのであろう、あの闘いが嘘のように元の美しい公園の姿に復元されていた。
そんな穏やかな風景の中を、沙羅は懸命に目を凝らして歩き回る。袖を通したばかりの死覇装を汚すことも気にかけず、地べたに座りこんで手当たり次第に土を払いのけた。
そうして両手がすっかり真っ黒になった頃、金属特有のひやりとした感触が指先に触れた。
シャラ……
引き上げた銀色のチェーンは薄く土を被ってはいたものの、その先で光る翡翠の宝石は一点の曇りもなく静かな輝きを放ち続けていた。
「よかった……」
それはウルキオラとの闘いの最中に沙羅の首から離れてしまったネックレス。現世での夢のような時間を過ごしたあの日、ウルキオラが思い出にと贈ってくれたもの。
丁寧に土を払ってチェーンを首に回す。
『まだー?』
『……今やってる』
この留め具を噛み合わせるのに苦労していたウルキオラの姿を思いだす。
ねえ、ウルキオラ。
あのときは、ただ私が欲しがっていたことに気づいたから買ってくれたんだと思っていたの。
だけど違ったんだね。
本当は、百年前のあの頃からずっと心に決めていたんだね。
ねえ。あなたはあのとき、どんな想いでこのネックレスを贈ってくれたの?
私の首にチェーンを回して、なかなか噛み合わない留め具と格闘しながら、その指先にどんな言葉を乗せていたの?
『そのあと少し時間を空けておけ。話がある』
百年前のあの夜、わざと私と目を合わせないようにしながらそう言ったね。
翌日には聞けるはずだったその言葉の続きを、百年経った今でも聞けないままだよ。
今度こそ、聞きたい。
だから私は
私はあなたに逢いに行く。
「このまま終わりになんてできない……」
胸元で光る翡翠を右手で強く握りしめて、呟いた。もう片方の手は腰に括りつけてある斬魄刀へと伸ばして。
「夢幻桜花、力を貸して」
凛とした声色で告げると、斬魄刀の化身はすぐに答えた。
『そうですね。今がそのときなのかもしれません。いいでしょう、あなたが今以上の力を求めると言うのならば──』
指先で触れた刀身が急に熱を帯びた気がした。
そして沙羅はすぐ耳元で夢幻桜花がはっきりと言い放つのを聞いた。
『私を屈伏させてごらんなさい、沙羅』
***
《Too Far…遠すぎた明日》
その指先にこめられていた想いは。