Dear…【完結】   作:水音.

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第36話 Imitation or Real ―夢と現の狭間で―

「屈伏……?」

 

 青々と生い茂る桜の葉の下、うっすらとその姿をあらわにした斬魄刀の化身に沙羅は瞠目して聞き返した。

 

『あなたが求めている力は、ただ私と同調しているだけでは永劫得られることはないでしょう。本気で己を高めたいのであれば、あなたがあなた自身の力で私を打ち倒すほかありません』

 

 一語一句、言い聞かせるように夢幻桜花は告げる。そこに含められた意味を理解した沙羅は小さく喉を鳴らした。

 

 既に始解を会得している沙羅は、夢幻桜花と『対話』し『同調』することを可能としている。

 斬魄刀との同調は、斬魄刀本体の力を引きだすためには不可欠な意思疎通の手段。しかし彼女はそれだけでは力は得られないと言う。

 真の力、すなわち、斬魄刀の二段階目の解放。

 

卍解(ばんかい)──」

 

 低く呟いた沙羅に夢幻桜花は表情ひとつ崩さずに頷いた。

 

 卍解に必要とされる要件は、斬魄刀の『具象化』と『屈伏』。

 いずれもごくわずかの才能ある死神でなければ到達できない境地とされているが、沙羅は既に夢幻桜花の精神体を自在に()びだしていることから、具象化については会得済みと言っていい。

 つまり残る要件はただひとつ──夢幻桜花を屈伏させること。

 

『沙羅。私を打ち破る自信はありますか』

 

 強固な意思がこめられた桜色の眼差しが沙羅を射る。

 

『無論、私も黙って屈伏する気はありません。あなたが真に私を従えるだけの力を有しているかどうかを見極めます。それでも──私と闘う覚悟はありますか』

 

 向けられた瞳の奥に、見たこともないような夢幻桜花の闘志を感じて沙羅は戦慄した。

 いつもの鍛錬とはわけが違う。ほんの一瞬でも気を抜けば最後、捩じ伏せられるのは自分だ。

 

「……覚悟はできてる」

 

 明確な力量差の相手を前にしたときに起こる本能的な震えに脅かされながら、それでも沙羅は正面から夢幻桜花と向き合った。

 

「ここで私が逃げだしたら、永遠にウルキオラを救えないから」

 

 キン、と(おごそ)かな金属音を響かせ、沙羅は斬魄刀を抜刀した。

 握りしめた刀に夢幻桜花の精神は宿っていない。彼女を屈伏させるには、純粋に沙羅の実力のみで打ち倒さなければならない。

 恐怖がないと言えば嘘になる。夢幻桜花の力は普段その加護を受けている沙羅本人が誰より身に浸みてわかっているのだから。

 それでも、立ち向かう以外に選択肢などない。

 

 静かに呼吸を整える沙羅に目を細めた夢幻桜花は、その歌声のような澄んだ声色で主に語りかけた。

 

『始める前にひとつ訊きます。沙羅、あなたが望む力とはなんですか?』

 

 初めて夢幻桜花を解放したときと同じ問いを彼女は投げかけた。

 だから沙羅は迷わず告げた。そのときと寸分違わぬ答えを。

 

「護る力」

『なにを?』

「大切な人を」

 

 力のこもった声で返す沙羅に、夢幻桜花はふっと瞳を和ませる。

 

『今のあなたにとって、それが彼なのですね』

「今だけじゃない。……あの頃からずっとそうだった」

 

 百年前、初めて紫苑から夢幻桜花を贈られたあの夜。真新しい柄を握りしめたときも、願ったことは同じだった。

 この人を、護りたい。

 普段はあまり表情を動かすことのない紫苑が、時折見せる柔らかな笑顔が大好きだった。その笑顔をなによりも護りたいと思った。

 

『では、彼を護ることであなたを案ずる周りの方々を裏切ることになってもいいのですか?』

「…………」

 

 揺るぎない決意を覗かせていた沙羅は、そこで初めて返事に窮した。それこそが沙羅に最後まで決断を踏みとどまらせていた問いだったから。

 

『あなたは彼を護るために護廷十三隊の副隊長としての責務を放棄しようとしています。それはあなたに信頼を寄せる仲間に対する明確な裏切り。これまであなたを慕い、支えてくれた方たちを、あなたは自ら切り離すことになるのです。……二度とこの地へ戻ることは赦されないでしょう』

 

 辛辣な宣告。けれど夢幻桜花の言うことは正しい。沙羅がウルキオラの元へ行くというのはそういうことなのだ。

 ただ家を飛びだして恋人に会いに行くのとはわけが違う。ましてや一隊の副隊長を担う者がそんな軽挙に走ったとあれば、尸魂界への反逆と取られても致し方ない。

 そのときの乱菊や浮竹、仲間たちの感情を思うと胸が張り裂けそうになった。きっと──いや、間違いなく、これまで築き上げてきた信頼関係は失われるだろう。

 

『それでも行くと言うのですか?』

 

 挑むように投げかけられた問いに、沙羅は瞼を伏せて黙りこんだあと、ゆっくりと夢幻桜花に視線を預けた。

 

「私……ひどいかな」

 

 浮かんだのは自嘲の笑み。とても儚く、哀しそうな。

 

「みんなを裏切ることになるってわかってても、止められないの」

 

 乱菊と甘味処で談笑して笑い転げたり、隊舎の縁側で浮竹とお茶を飲んだり、ルキアや清音らと一緒に鍛錬に励んだり──

 そんな何気ない、けれど確かな幸せにあふれていた日々が、二度と取り戻せない過去になってしまうかもしれないのに。

 それでも心は叫ぶのだ。

 ウルキオラを失いたくない、と。

 

 

 百年前の誓いを今でもはっきりと憶えている。

 

『それじゃあ私は、紫苑の笑顔を護るね』

 

 彼は沙羅を護れなかったことをずっと悔やんでいたが、誓いを護れなかったのは自分のほうだ。紫苑の笑顔を護るどころか彼を置き去りにし、暗い絶望の淵へとおとしめた。

 それでも。

 

『ずっとおまえに……逢いたかった』

 

 長き時を経て再会した彼は、変わらぬ想いを伝えてくれた。

 沙羅を失った哀しみ故に虚に堕ち、ウルキオラ・シファーとなっても、変わらぬ温もりを与えてくれた。

 

『俺が護りたいのは今も昔もおまえだけだ』

 

 まっすぐな翡翠の瞳の輝きは今も瞼の裏に焼きついたまま。

 ならば私が護りたいのは、私が誰よりも護るべきは、彼だ。

 百年もの間空虚な孤独に蝕まれてきたウルキオラを、二度とひとりにはさせまいと決めた。なにがあっても離れるものかと。

 

「……ウルキオラを護れないなら、私に夢幻桜花を持つ資格はない。そうでしょう?」

 

 刀の柄を握る手に一層の力をこめて沙羅は実体化している夢幻桜花を見据える。

 彼女はそのために与えられた力。今使わずしていつ使えと言うのか。

 

「これが運命だとしても諦めない。──虚圏(ウェコムンド)へ行く」

 

 顔を上げた沙羅の首元で翡翠のネックレスが弧を描くように揺れた。夢幻桜花はその様にじっと目を細め、そして静かに口を開く。

 

『覚悟は固まっているようですね。ですが言葉だけでは信頼に足りません。あなたのその想いに偽りがないことを、“彼”の前で証明してご覧なさい』

 

 ゆらりと夢幻桜花の腕が持ち上がったのを見て沙羅は即座に身構えた。しかし手の中の斬魄刀は意のままに反応せず、瞬く間に桜の花弁に包まれる。

 やがて一面花で埋め尽くされた視界が開けたとき、目の前に夢幻桜花の姿はなかった。

 

「ここは……」

 

 見上げた瞳に映しだされたのは見慣れたあの桜の木。だが沙羅はすぐに違和感を覚えた。

 先程までは青々と繁る緑にすっかり染められていたはずなのに、まるで季節が逆行したかのように美しい花を咲かせている。そしてその姿も幾分小さくなったように思えた。

 形状からしてあの桜であることは間違いないが、年月を感じさせる立派な幹も、沙羅がウルキオラと幾度となく語り合ったあの太い枝もない。

 改めて辺りを見渡してみると周囲の景色もガラリと変わっていた。いつもここから眺めていた空座町の街並みは見る影もなく、まだ若いこの桜がぽつんと佇んでいるのは遥か遠くまで切り開かれた平原の中心部。

 

「懐かしい……」

 

 そう呟いたのは意識してではなく、自然と唇が動いていた。

 この景色をよく知っていた。そう、懐かしいと思えるほどに。

 

 

 *

 

 初めてこの桜を見たのは、あの人とおじいさんの店から帰る途中だったな……

 杉原さんに絡まれて、怒り心頭の私を紫苑が呆れながらなだめていたんだっけ。

 そう言えばその流れで悪口合戦に発展して、紫苑に「ババ沙羅」と言われた憶えがある。誰がババよ。そっちのほうが年上のくせに。大体紫苑のほうが趣味も性格もよっぽどジジくさいじゃない。

 休みの日はなにをしているのか訊ねたとき、決まり悪そうに「……読書か昼寝」と答えた紫苑を思いだして、沙羅はくすくすと笑った。

 

 

「沙羅」

 

 

 それは、あまりにも唐突に。過去の回帰に耽っていた沙羅の背後で響いた。

 まさに今思い返していた人の、低く穏やかな声が。

 

「……?」

 

 幻聴、だと思った。

 だから沙羅は深く考えることもせずに振り返り、そして動きを止めた。

 

「……し、」

 

 名を呼ぶ前に喉が震える。いまだかつて、こんなにも己の目を疑ったことはなかった。

 

 ──これは幻だ。夢幻桜花が見せる過去の幻。

 きっと私の記憶の中にある彼の姿が、こうして浮かび上がっているだけ──

 

「……久しぶりだな」

 

 振り返った先の彼は、沙羅の記憶にない言葉を発してその翡翠の瞳を和ませた。

 

「……っ」

 

 それとは対照的に沙羅の思考は目まぐるしく回る。

 嘘だ、嘘だ。

 彼がここにいるはずがない。私の前に現れるはずがない。

 言い聞かせるのに、わからなくなる。

 

「沙羅?」

 

 訝しむような表情を覗かせて踏みだした彼から、沙羅は咄嗟にあとずさって距離を取った。

 そんな沙羅の様子に顔を歪めた彼は自嘲の笑みをもらす。

 

「もう……俺のことなど憶えてはいないか」

「……違う……!」

 

 寂しげな瞳に胸が締めつけられて、沙羅はぶんぶんと首を横に振った。

 必死に踏みとどまろうとする理性を感情が押し流していく。流されてはいけない、これは夢幻桜花が作った幻だ。

 わかって、いるのに──

 

 目が、

 

 耳が、

 

 心が、

 

 彼の存在を受け入れている。

 

 左頭部を覆う仮面はない。

 瞳の下の仮面紋もない。

 

 彼は、彼は確かに、

 

 

「紫苑……」

 

 

 桐宮紫苑、その人だった。

 

 

 *

 

 ようやくその名を紡いだ沙羅に紫苑はふっと顔を綻ばせた。ゆっくりと沙羅に歩み寄り、手を伸ばす。

 その長い指が頬に触れたとき、沙羅は我知らず涙をこぼした。

 

「……っ」

 

 紫苑だ。紫苑の温もりだ。

 もう夢でも幻でも構わない。こうして再びこの手に触れられただけで、胸の奥に巣くっていた迷いや不安、哀しみが全て浄化されたような気がした。

 

「し、おん……紫苑……ッ!」

 

 崩れるようにすがりつくとすぐに力強い腕に抱きとめられた。

 いつもいつも、この腕が沙羅を護ってくれた。この指が沙羅の涙を拭ってくれた。

 あの頃と変わらない動作で沙羅の目尻を伝った涙を拭った紫苑は、泣きじゃくる沙羅の背中を何度かさすると、顔を曇らせて呟いた。

 

「……すまない」

 

 どうして、謝るの。

 

「俺が弱いばかりに、おまえにつらい思いをさせた」

 

 違う、謝らなければならないのは私のほうだ。

 けれど伝えたい言葉が声にならなくて、沙羅はただ小刻みに首を振る。

 そんな沙羅の涙から推しはかることのできない哀しみを感じて、紫苑は続けた。

 

「俺は……姿を変えた今となっても、おまえを苦しめてばかりいるんだな」

「……! 紫苑、」

「言わなくていい。俺はあいつの一部だ。全てをともに見てきた」

 

 だからなにが起きたのかわかっている。言外にそう言い放った紫苑に沙羅はまた泣きそうになった。

 この人はずっと傍にいてくれたんだ。

 身体を失い、ウルキオラ・シファーという魂魄を構成する思念体のひとつとなっても、変わらずに沙羅を想い続けて。

 

 ……でも、じゃあウルキオラは? 

 彼の中の『紫苑』が今ここに現れたということは、その本体である『ウルキオラ』はどうなってしまったのだろう。

 もう、沙羅のことなど欠片も憶えてはいないのだろうか。心を失った虚と成り果てて。

 

「沙羅」

 

 頭上で響いた声に顔を上げると、紫苑がまっすぐにこちらを見つめていた。そして深い哀しみを帯びた翡翠の瞳は、沙羅へ向けてこう告げた。

 

「もう……闘わなくていい」

「え……?」

「この刀を贈ったときに言ったはずだ。自分の身を一番に考えろと。おまえがその身を犠牲にしてまで刀を振るうことなど俺は望まない。……無論あいつも」

 

 沙羅の腰に括りつけられた夢幻桜花を示して語る紫苑にウルキオラの姿が重なる。

 そう、きっと彼もそう願うだろう。血を流すぐらいなら刀を手放せと。

 

「だからもうあいつのことは忘れろ」

 

 重く吐きだされた紫苑の言葉が、冷たい温度をもって沙羅の中を駆け抜けていった。

 

「それは……私を護るため?」

「……おまえを失いたくないんだ」

 

 わずかに視線を逸らして答えた紫苑に、沙羅はぎゅっと唇を噛みしめ、顔を上げる。

 

「私が黙ってやられると思うの?」

「……沙羅」

「私だって失いたくない!」

 

 押さえていた憤りがあふれだし、沙羅は強い口調で放った。聞き分けのない子供をたしなめるような眼差しを向ける紫苑をきつく見つめ返して。

 

「紫苑が──ウルキオラが、私と離れても幸せに暮らしてるって言うなら構わない。だけどそうじゃない! ウルキオラは今も闇の中に捕らわれてて……紫苑はそれを哀しんでる。私だけのうのうと生きるなんてできるわけないよ……!」

「哀しむ……? 俺は……」

 

 戸惑う紫苑の言葉を遮って、沙羅はそっと頬に手を添えた。

 

「紫苑もそこにいるんでしょう?」

 

 今目の前にいる彼が実体でないことはわかりきっている。彼もまたウルキオラの一部として捕らわれているのだ。深く冷たい、深淵の底に。

 なのにわざと遠ざけるようなことを言って。嘘が下手なのは今も昔も変わらない。

 

「絶対に助ける。だから、待ってて」

 

 力強くそう告げれば翡翠の瞳が見開かれた。

 

「そしたら……今度こそ一緒に生きよう?」

 

 百年前には果たせなかった誓いを、今度こそ。

 ふわりと微笑んだ沙羅に、紫苑は一度固く目を閉じ、ゆっくりと瞼を押し上げた。そこに変わらぬ笑顔があるのを確かめて。

 

「どうしても行くと言うんだな?」

「うん。この刀を手放したら、私は私じゃなくなる。それは紫苑だってわかってるでしょ?」

「…………」

 

 沙羅の性格は身に染みて知っているつもりだ。一度言いだしたら決して引き下がらない頑固な一面も。

 

「ならばひとつだけ約束してくれ」

「なに?」

「おまえは絶対に死ぬな」

 

 驚く沙羅をじっと見据えて。

 

「あいつは……『ウルキオラ』は、闇に心を明け渡した。あの夜あいつが虚と化して暴走したときも、俺は中から抗おうとしたが、無理だった。あいつの心が俺の存在を拒んだんだ」

 

『桐宮紫苑』の記憶を手放せば、『草薙沙羅』への想いに苦しむこともなくなるから。

 愚かなことだ、と紫苑は呟く。そうして目を背けようとしている時点で、ウルキオラはとうに『紫苑』の枠を超えて沙羅を愛してしまっているというのに。

 

「完全に藍染の術に堕ちたわけじゃない。あいつは自ら閉じこもったんだ。……おまえを傷つけてしまった現実を恐れて」

 

 愛する人に刀を向け、傷つける。それがどれだけ彼を絶望させたのか、それは当人でなければ知りようもない。

 確かなことは、それでウルキオラが自我を崩壊させてしまったということだ。あまりの苦しみに耐えかねて。

 

「あいつは今、俺の声も届かないほどの深い闇の底で眠っている。もしもあいつを目覚めさせることができるとしたら、それはおまえだけだ、沙羅。これでおまえを失うようなことにでもなれば、今度こそあいつを救う手立てはなくなる」

 

 虚空を見つめて語っていた紫苑は、そこで沙羅に向き直り、繰り返す。

 

「だからおまえは絶対に死ぬな……」

 

 短い言葉の中に万感の想いをこめて。

 

「死なないよ」

 

 ふわりと下から舞い上がる風に髪をなびかせて、沙羅は頷いた。頭上で鮮やかな花を咲かせる桜を見上げて。

 

「私は死なないし、ウルキオラも死なせない。そのために行くんだから」

 

 そして髪を押さえて紫苑を振り返る。

 

「そうすれば……紫苑のことも救いだせるんだよね?」

「言っただろう。俺とあいつはひとつの存在だ」

「うん」

 

 ほっとしたように頷く沙羅に、紫苑は「もっとも」と続けた。

 

「おまえがあいつのことばかり気にかけるのは少し妬けるがな」

「え? ……今ひとつだって言ったじゃない」

「それとこれとは別だ」

 

 沙羅の頬に手を当てながらそう言って、額に口づけを落とす。唇を離す間際に紫苑が見せた微笑みは、目を奪われるほどに美しく、そして優しかった。

 そう、この笑顔を……私はずっと護りたかった。

 

「さあ、もう行け。ここへ来た目的は果たしたはずだ」

 

 とん、と沙羅の身体を離して距離を取る紫苑。引き止める言葉が喉まで出かかって、必死に呑みこんだ。

 このままずるずるとここにとどまったところで事態はなにも好転しない。ウルキオラはおろか、今目の前にいる紫苑すらも救うことはできない。本当の意味でこの笑顔を護るには虚圏へ行くほかないのだ。

 

 けれどひとつだけ、沙羅にはどうしても紫苑に聞いておきたいことがあった。紫苑、と呼びかけて、心なしか輪郭がぼやけてきたように見える彼に追いすがる。

 

「あの最後の夜、なにを言おうとしてたの?」

 

 紫苑と沙羅が人間として過ごした最後の夜。話があると切りだした紫苑に内容を促しても、彼は「明日でいい」としか答えなかった。

 沙羅の質問の意味をすぐに察した紫苑はふっと表情を和らげた。

 

「……それはあいつの口から聞いてやれ」

 

 その姿は今にも桜の花の中に溶けて消えてしまいそうなほどに儚い。

 

「言ったところで、今の俺には叶えてやることもできないからな」

 

 寂しげに笑った紫苑と沙羅の間を、ふわりと一片の花が舞い落ちていった。

 

 胸が詰まる。

 この人がどれだけ自分を想っていてくれたか、沙羅は十分すぎるほど知っていた。

 

「……もう一度おまえに逢えて良かった」

「これで最後みたいな言い方しないで。またすぐに逢えるんだから」

 

 凛とした眼差しを向ける沙羅に、紫苑はもう「来るな」とは言わなかった。ただ一言、穏やかに瞳を細めて

 

「……ありがとう」

 

 そう告げた。

 

 途端、ざぁっと頭上の桜がさざめき、一斉にその花弁を宙へ飛び立たせた。舞い踊る花に視界が阻まれ次第に紫苑の輪郭が失われていく。

 けれど沙羅は手を伸ばさなかった。声も上げなかった。

 ただまっすぐに前を見つめ、夢幻桜花の柄に手をかける。

 

「それは私の台詞だよ……紫苑」

 

 もう姿の見えなくなった彼に向けて胸中で呟いた。「ありがとう」と。

 

 

「……卍解」

 

 

 そして沙羅は、桜の花で埋め尽くされた視界の一点に向けて、迷うことなく刀を振り下ろした。

 

 

 *

 

 頬を撫でる風があたたかい。

 ゆっくりと開いた瞳に映しだされたのは、淡い薄桃色の花ではなく枝先いっぱいに生い茂る青葉だった。

 

『……よく打ち破りましたね』

 

 振り返ると夢幻桜花が静かな微笑みをたたえていた。

 

『彼には逢えましたか?』

 

 まだどこか夢見心地だった沙羅の意識は、夢幻桜花のその一言で呼び戻される。

 

「今のは……夢幻桜花が作った幻?」

『あれが幻かどうかは、あの場にいたあなた自身が一番よくわかっているのではないですか?』

 

 そう問い返した夢幻桜花に沙羅は頷いた。

 最初こそ幻覚だと思い込んでいたものの、紫苑と言葉を交わしてからはなんの疑念も抱かなかった。これが幻覚であるはずがないと。

 すると夢幻桜花は満足げに微笑んだ。

 

『確かにあの情景は私が沙羅の記憶を辿って生みだしたもの。けれどそこであなたが出逢った人は幻などではありません。あなたの想い──逢いたいと願う強い心が、あの場に彼を呼び寄せたのです』

「私の、願う心……」

『ええ。私はただあなたが望む夢の中へ(いざな)っただけ。誰もが心に秘めている願いや希望、それを具現化させる世界に』

「それが夢幻桜花の力なの?」

 

 だとしたら、それはとてつもない能力だ。心に秘めた願いを叶える世界──それは誰もが望む世界なのだから。

 

『そうです。けれど、いくら願いが叶おうと夢は夢。現実はなにも変わりません。それでも人は夢に捕らわれる。夢に逃れようとする。一度眠りに落ちた者は、二度と(うつつ)の世界へ戻ることは叶わないでしょう』

 

 そう、一切の迷いや不安、苦しみが取り除かれた世界はとても居心地が良い。

 沙羅もまた、あのまま紫苑との別れ惜しさにとどまっていたら、二度と夢の世界から戻ってくることはできなかっただろう。

 

『ですがあなたは自らその夢を打ち破って戻ってきた。……本当によく戻ってきてくれました』

「それは……紫苑が背中を押してくれたから」

『ならばそれもまた、あなたの願いだったのでしょう』

 

 まだ実感が湧かない様子の沙羅に、夢幻桜花は顔を綻ばせてそう語る。

 

『夢の中の出来事が現実に変化をもたらすことはありませんが、あなたがそこで感じた想いは全て真実。だから今度はあなたが自分の手で現実を変えるのです、沙羅』

 

 言いながら沙羅の手を取ると、夢幻桜花は(うやうや)しく(こうべ)を垂れて跪いた。

 

『あなたの想い、あなたの覚悟、しかと見届けました。この身に宿る命の全てを賭して、あなたが望む未来を切り開く剣となりましょう。あなたの志を護る盾となりましょう。命尽き果てるまであなたとともに歩み、あなたとともに闘うことをこの名のもとに誓いましょう』

 

 それは澄んだ清流のせせらぎのように清らかな、けれど揺るぎない信念に満ちた言葉。

 

『沙羅。私の名を呼んでください。そして命じるのです、あなたの願いを』

「夢幻桜花、私に力を貸して。ウルキオラを救いたい」

『……主の望むままに』

 

 沙羅の手の甲に口づけを落とした夢幻桜花は、力強い瞳で主を見上げると風に溶けるように消えていった。

 しかし沙羅はこれまでのどんなときよりもその存在を色濃く感じていた。腰に携えた斬魄刀に、握る掌に、奮い立つ心に、夢幻桜花の魂が宿っている。それは彼女が沙羅に屈伏したなによりの証。

 

 ありがとう、夢幻桜花。

 

 ありがとう……紫苑。

 

 あふれる想いは今はまだ言葉にはしない。

 風に揺れる葉桜の下、沙羅は遠くの空を見上げて大きく息を吸いこんだ。

 

 

 

 ***

 




《Imitation or Real…夢と(うつつ)の狭間で》

 愛しき夢に導かれ。

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