Dear…【完結】   作:水音.

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第37話 Open the Gate ―開門―

 月のない夜だった。

 闇色の天からは一筋の光が射しこむこともなく、沙羅は灯篭(とうろう)のわずかな明かりを頼りに自室の机に向かい筆を走らせていた。

 

 自室──と言ってもここに住まうようになったのはほんの数ヶ月前のこと。副官室と称されるその部屋は十三番隊の副隊長のためにあつらえられたもので、ここ何十年かはずっと主不在のまま空き部屋となっていた。

 そんな由緒ある部屋を与えられ最初こそ戸惑った沙羅だったが、すぐにその困惑は消えた。

 

『海燕先輩! いつまで寝てるんですか!』

『うー……あと五分……』

『そんな時間ありません! 今朝は席官会議だって隊長が言ってたじゃないですか』

 

 大好きな人が永きに亘り過ごしていた部屋。ここにいればいつでも海燕の存在を感じられるような気がしたから。

 けれどその思い出の場所にも今、自分は別れを告げようとしている。

 

「……よし、と」

 

 すっきりとした文字でしたためた手紙を、沙羅は何度か読み返し最後に署名を書き加えてから筆を置いた。

 丁寧に三つ折りにして用意していた封筒に入れる。十三番隊隊長、浮竹十四郎宛のその封筒の表には沙羅の字で「辞表」と記してあった。

 

 これを目にしたとき、浮竹は一体どんな顔をするだろうか。

 なにを思い描いても胸は軋みを上げるばかりで。

 しばし心を落ち着かせるように瞼を伏せてから、沙羅はゆっくりと立ち上がる。死覇装の帯を結び直して、傍らに立てかけていた斬魄刀の鞘を腰紐に固く括りつけた。

 

『それも置いていくのですか?』

 

 夢幻桜花が示したのは辞表の隣に置かれた金色の腕章。

 その表面には待雪草の紋様が刻まれ、薄暗い部屋の中にあっても尚まばゆい輝きを放っていた。この世にふたつとない十三番隊の副隊長の証。

 

「……うん。だってもう私は副隊長じゃなくなるんだし。このまま持ち逃げしたら泥棒になっちゃう」

 

 冗談っぽく笑ってみせたものの、その笑顔には寂しさが残った。

 

 沙羅はこの副官証に誓ったはずだ。この輝きを纏うに恥じぬ死神になると。

 それを譲れぬ目的あってのこととはいえ、ここへ置き去ろうとしている。そこにどれだけの葛藤があったのかは計り知れない。

 そんな夢幻桜花の視線に気づいているのか、沙羅はじっと副官証を見つめてその表面を指先でなでた。

 

「これはここに置いていくけど……この花は私の中にもちゃんと咲いているから」

 

 夢幻桜花に、自分に、言い聞かせるように呟く。

 

『沙羅。おまえに望むことはひとつだ。その花を、決して枯らさないこと』

 

 かつてこの副官証を受け取った際に浮竹から贈られた言葉が甦る。

 それは凍てつく冬を耐え忍ぶ花。降り止まぬ雪の中、それでもいつか春が訪れると信じて待ち続ける希望の花。

 

(隊長、みんな……ごめんなさい)

 

 謝罪の言葉は並べ始めたら後を絶たない。

 

 だけど私は

 

 それでも私は

 

 

「この花の意味を護るために、行きます」

 

 

 *

 

 深夜の瀞霊廷を抜けだすのはたやすい。

 加えて今夜は新月。見回りの隊士たちは何人かいるものの、地理さえわかっていれば人目を避ける方法はいくらでもあった。

 

 中心部から一番離れた穿界門へ瞬歩で向かっていた沙羅は、途中ぴたりと足を止める。瞳の先には通い慣れた十番隊の隊舎。

 何度ここへ親友を訪ねに来たことだろう。十中八九は仕事をサボって煎餅をかじっているか、それを見咎めた年若い鬼隊長に絞られていた親友の姿を思いだして、くすりと笑みがこみ上げる。

 

 その奥にある副官室も幾度となく足を運んだ場所だ。美味しい酒やつまみを手に入れるとすぐに宴会を開きたがる乱菊に付き合わされ、更には気心の知れた仲間たちも巻きこんで朝までどんちゃん騒ぎを繰り広げたりもした。酒乱の彼女をなだめるのに散々苦労したことも今では懐かしい。

 破天荒でなにかと手のかかる親友だが、そんなところも含めて沙羅は乱菊のことが大好きだった。そして彼女もまた、口には出さずともいつも沙羅のことを気にかけていてくれた。

 

「手がかかるのはあんたのほうよ、って怒られちゃうかな……」

 

 般若のように目を吊り上げている乱菊を想像して、沙羅は自嘲の笑みをこぼす。

 

 怒られるのならまだいいのかもしれない。

 呆れる? それとも見離す? 

 ふわりと金髪をなびかせて背を向けた彼女が去っていく様が脳裏をよぎって、まるで血が凍ったように指先が冷たくなった。

 

『……沙羅』

「仕方ないよね。でも……」

 

 夢幻桜花の気遣わしげな声が頭の中で響いて沙羅は顔を上げた。

 

「乱菊は……私に裏切られたって思うかもしれないけど。私はずっと親友だと思ってるから──」

 

 届くはずのない言葉に想いを乗せて、再び走りだす。間もなくして穿界門の前に辿り着いた沙羅はもう立ち止まることはなかった。

 穿界門が閉じる最後の瞬間、これまでこの地で出会った仲間たちの顔がまるで走馬灯のように浮かんでは消えていく。

 

 乱菊。

 隊長。

 ルキア。清音。仙太郎。十三番隊のみんな。

 雛森、恋次、吉良。霊術院の同期や先輩、後輩たち。

 卯ノ花隊長。勇音さん。護廷十三隊の仲間たち。流魂街の家族。

 

 巡り逢えた全ての愛すべき仲間たちへ

 

 ありがとう、そして

 

 

「さよなら……」

 

 

 月が消えた夜空の下、穿界門は静かに閉ざされた。

 

 

 *

 

 同時刻──虚圏。

 第4十刃ウルキオラ・シファーは虚夜宮の片隅、花も湖もないさびれた岩場に腰かけて漆黒の天を仰いでいた。

 

 天蓋の外側に位置するこの場所には、主・藍染惣右介が形成した偽りの太陽の光が射しこむことはない。

 ウルキオラはあの白々しい陽光が嫌いだった。

 心酔する主が造り出したものとはいえ、あの光だけは受け入れがたかった。

 

 なぜなら自分は破面。

 全てを覆い、浸蝕する闇こそが己の本質。

 光を求めることそれ自体が滑稽であり、無意味だ。

 

 その拒絶感はここ最近で更に膨れ上がっていた。

 現世に浮かんでいるものとまるで同じ眩さを放つ偶像の太陽。あの光の下に晒されるだけで無性に気分が悪くなる。

 原因は定かではないが、その症状がいつから始まったかははっきりと認識していた。現世での任務に失敗したあの日からだ。

 

 あの日を境に自分はどこかおかしい。否、あの日を境に正常に戻ったというべきなのか。

 それを裏づけるのは不自然なほどに曖昧な記憶。

 あの任務の前、自分はどこでなにをしていたのか。記憶を辿ろうとすると、途端に脳にフィルターがかかったかのように思考が乱れた。

 

 思いだせない。

 脳裏になにかが浮かび上がっていることは確かなのに、それがなんなのかがわからない。

 だが、

 

(……どうでもいい)

 

 それすらも今の彼にとっては取るに足らないことだった。

 思いだせないのなら、それは思いだす必要がないことなのだろう。

 いずれにせよ己の存在意義は主のためにこの命を尽くすこと。それに支障をきたさなければ記憶などあってもなくても同じ。遂行すべき目的は変わらないのだから。

 

「──ずいぶん暇そうじゃねえか。現世には行かねえのかよ?」

 

 不意に後方から気配が近づくと同時に、聞き覚えのある声が響いた。覚えがある、と言ってもそれは決して喜びを感じるものではない。

 

「なにか用か、グリムジョー」

 

 背後に立つ彼に一瞥をくれると、そのまま視線を上方に戻してウルキオラは告げた。

 お世辞にも気が合うとは言えない相手だ。それは奴も同じはず。そんな男がなぜわざわざ自分から近づいてくるのか。

 するとグリムジョーはニヤリと口元を歪め、ウルキオラからは少し距離を置いた場所に腰を下ろした。

 

「そう構えんなよ。最近やけにおとなしくしてるみてえだから心配してやってんじゃねえか。死神のお姫様にはフラれたのか?」

「……なんの話だ」

「ハッ、今更とぼけんのか? んな猿芝居しなくても誰にも言っちゃいねえよ。こんな面白い話、誰かに聞かせるにはもったいねえからな」

 

 嘲笑交じりに話すグリムジョーにウルキオラは眉を潜めた。

 ……こいつはなにを言っている? 

 その言葉の意図するところがウルキオラにはまるで掴めなかった。

 

「で、どうなんだよ」

「……会話にならんな。貴様の戯言に付き合う気はない。さっさと消えろ」

「しらばっくれんのもいい加減にしろよ。草薙沙羅はどうしてんのか訊いてるだけだろ」

 

 苛立ちを覗かせたグリムジョーがついにその名を切りだすと、ウルキオラはわずかに目を見開いた。

 

「なぜおまえがあの死神を知っている?」

「あ? なに言ってやがる。てめえもいただろうが」

 

 今度はグリムジョーが怪訝な顔をする番だった。

 忘れもしない二月前、春を迎えたばかりの現世で遭遇し刃を交えた死神の女。護廷十三隊の副隊長だというその女をあと一歩というところまで追い詰めたとき、グリムジョーの剣を止めたのはほかでもないウルキオラだ。

 しかし今のウルキオラにはそのことはおろか、草薙沙羅に関する一切の記憶が存在しなかった。百年前の哀しい別れも、再会を果たし、あの桜の木の下で過ごした時間も、ふたり交わした約束も、全て。

 

「……そうか。次はおまえに任務が与えられたということか」

 

 真実を知る術を持たないウルキオラは別の結論を導きだしたようだった。要するに、自分は御祓(おはら)い箱かと。

 その代わり手として己よりも数字の低いこの男が選ばれたというのは気に喰わないが、任を(まっと)うできなかったことは事実。受け入れるほかないだろう。

 

「任務だと? わざわざ現世まで助けに来ておいてよく言うぜ。そんな誤魔化しが通用すると思ってんのか」

「おまえがなにを言いたいのか理解できんが、いずれにせよ俺はあの死神を捕らえる任から解かれた。あの女がどうなろうと俺には関わりのないことだ」

「おい!」

 

 そう吐き捨てて踵を返そうとするとガッと肩を掴まれた。

 

「てめえ……本気で言ってやがんのか」

「生憎冗談を言う趣味はない」

 

 その言葉に違わず、振り返った翡翠の瞳はなんの抑揚もなくグリムジョーを見据えている。そこでようやくグリムジョーは先程から感じていた違和感の正体に気がついた。

 

(こいつ……)

 

 現世で草薙沙羅に向けた剣を止めたとき、この男はあんなにも激情をこめた眼差しを自分にぶつけてきたというのに。

 今その瞳にはなんの温度もない。

 一体なにがウルキオラに変化をもたらしたというのか。

 否、そもそもこれまでの彼こそが異常だったのかもしれない。藍染惣右介の下、同じ十刃として顔を突き合わせるようになってからそれなりの年月が経つが、グリムジョーは現世で対峙したあのときほど感情を露わにするウルキオラを目にしたことはなかった。

 ましてやたかが死神の女ひとりのために行動を起こすなど。

 

「放せ」

 

 グリムジョーの腕を強引に振り払ったウルキオラの表情には、迷いも葛藤も存在しなかった。ただグリムジョーに対する嫌悪感だけが露わに映しだされている。

 

「ウルキオラ……てめえまさか藍染に──」

「藍染様だ。いい加減口の利き方くらい覚えろ、馬鹿が」

 

 ひとつの推論を導きだしたグリムジョーに、ウルキオラは即座にその言葉を遮って吐き捨てた。

 現世の空を思い起こさせるような蒼の瞳が、なぜか無性に(しゃく)に障る。得体の知れないこの苛立ちをウルキオラは目の前の男のせいにすることで片付けようとした。

 

「貴様の話になど興味はない。これ以上俺に関わるな」

「てめえ……ッ!」

 

 一方的な拒絶を突きつけ、ウルキオラはグリムジョーが口を開く前に響転(ソニード)で消えた。

 

「……くそっ」

 

 闇天から降る一筋の月明かりが空虚な岩場を照らしだす。主を失ったその場所を、グリムジョーは顔を歪めて睨みつけ、呟いた。

 

「馬鹿はてめえだろうが……」

 

 

 *

 

 空座町に降り立った沙羅は迷うことなく目的の場所へと駆けていた。

 一切の月明かりが失われた夜。それでも町が暗闇に包まれることはない。

 無数の街灯に照らしだされる街並みを見つめながら、百年前とはずいぶん変わったものだなと沙羅は意識下で思った。

 

 自分が紫苑とともにこの町で生きていたあの頃は、夜は繁華街などの特定の場所を除いてはひっそりと静まり返り、視界を保てるだけの灯りもない。町民が寝静まったあとの夜の見回りには手持ちの燈篭が欠かせなかった。

 昼は多くの人々で賑わい活気にあふれる町は、夜になれば人々とともに眠る。人工的な光に遮られることがない分、地上から見上げる星空は際立って美しく見えたものだ。

 

 それが今はどうだろう。夜中の二時を回る頃合いだというのに、いくつもの電飾に彩られきらびやかに浮かび上がる空座町。

 改めてこの百年という時の重みを知る。

 人が変わるにも、町が変わるにも、十分過ぎるほど長く重い時間。

 

 けれど沙羅は知っていた。

 どれだけの時間が過ぎようとも、決して変わらない、決して変えられないものが存在することを。

 

 だからそれを護りに行くのだ。

 百年前から変わることのない願いを叶えるために。

 

 タン、と勢いよく地面に着地して息を整える。顔を上げた先には薄汚れた看板を掲げる一軒の商店があった。

 

「……これは珍しいお客様っスねえ」

 

 いざ店先に踏みだすと、頭上から男の声が降ってきた。声の主を見上げた沙羅は嬉しそうに顔を綻ばせる。

 

「お久しぶりです、浦原さん」

 

 *

 

「元気そうでなにより──と言いたいとこスけど」

 

『浦原商店』の看板が掲げられた店の軒先に立っていた彼は、トレードマークの帽子を押さえて沙羅の前に降り立つと肩を竦めた。

 

「ただ遊びに来てくれたわけじゃあなさそうっスね」

「はい。お願いしたいことがあって来ました。こんな時間にすみません」

「歳は取りたくないもんだなぁ。妙な胸騒ぎばかりが的中する」

「……」

「新月の夜に起こることってのは、大体ロクなもんじゃないんスよ」

 

 苦笑交じりに闇夜を見上げる浦原に返す言葉が見つからなかった。それでもまっすぐ彼に向けた視線だけは逸らさずにいると、浦原はふうっと吐息をもらして店の引き戸を開ける。

 

「どうやら店先で聞ける話でもなさそうだ。どうぞ、入ってください」

 

 

 付き合いこそ短いものの、沙羅と浦原の間には特別な信頼関係が築き上げられていた。

 始まりは去年の夏。忘れもしない、尸魂界中を震撼させたあの藍染惣右介の謀反の一件だ。

 かの騒動の折、沙羅は恋次ら数少ない仲間とともにルキアの処刑を止めるべく奔走していた。その途中で同じく処刑を止めるために行動を起こしていた旅禍(りょか)の少年たちに出会い、共通の目的を志す者ならば死神も旅禍も関係ないと判断した沙羅は彼らに手を貸すことに決めた。

 それが浦原喜助の導きによって尸魂界へ遣わされてきた、人間の黒崎一護一行だったというわけだ。

 

 その後藍染の謀反が露見し、崩玉は奪われたもののルキアの処刑は辛うじて食い止めることができた。

 そうして全てが片づいた頃、沙羅はルキアとともに現世へと招かれ、一連の事件の発端である浦原から深い謝罪の言葉と感謝の念を捧げられたのだった。

 

 

「……あのときは色々とご迷惑をおかけしました。草薙サンには本当に感謝してるんスよ」

「私はただルキアを救いたかっただけです。お礼を言われるようなことなんてしていません」

「ですがその朽木サンが捕らわれる原因を作ったのはアタシです。……本当にすみませんでした」

 

 帽子を外し、深々と頭を下げる浦原に沙羅は困ったように笑って首を振る。

 

「もう謝るのはやめにしましょうって言ったじゃないですか。ルキアも浦原さんのことを恨んだりなんてしていませんから」

「……相変わらずっスね、あなたは」

 

 決して上辺だけではない気遣いが織り交ぜられた言葉に、浦原は表情を緩ませて再び帽子を被り直した。

 

「それで、アタシにお願いというのは──へぶッ!」

「沙羅! 沙羅ではないか!」

 

 いざ本題に入ろうと浦原が口を開いた直後、彼は突如現れた豊満なバストに跳ね飛ばされて(ふすま)に頭から突っこんでいた。

 

「道理で馴染みのある霊圧だと思ったわ! ずいぶんと久しいのう!」

 

 奥の寝所から姿を見せた四楓院夜一──ここ浦原商店の住人であり、元護廷十三隊二番隊隊長でもある──は、沙羅の前まで歩み寄ると懐っこく笑ってみせた。

 

「夜一さん、お元気そうでなによりです。あの、浦原さん……大丈夫ですか?」

「ああ心配いらぬ、喜助がこの程度でくたばるはずがなかろう」

「はいはい、この通りッスよ……っと。今ちらっと白い花畑が見えましたけど」

 

 いささか焦点が合っていない目で頭を押さえている浦原には一瞥もくれず、夜一はまじまじと沙羅の顔を覗きこむ。

 

「しかし沙羅、お主少し会わぬうちにずいぶんと面構えが変わったのう」

「え……そうですか?」

「当然ですよ夜一サン。草薙サンは今や十三番隊の副隊長さんなんスから。そりゃあ面構えも変わるってもんだ」

「いや、そういう意味ではない。なんと言うか色気が増したというか艶っぽくなったというか……さてはお主、恋でもしておるのか?」

「ッげっほ!!」

 

 思いがけぬ夜一の台詞に沙羅は途中まで飲みかけたお茶を喉に詰まらせてむせこんだ。

 

「……草薙サン、分かり易すぎますよ……」

「かっかっかっ! 相変わらず素直な奴よのう! 副隊長になったとはいえ性根までは変わらんものじゃな」

 

 明らかなうろたえを見せる沙羅を豪快に笑い飛ばす夜一。

 

「……っそんなことより! 今日ここに来たのはお願いしたいことがあるからなんです」

「そう、問題はそれじゃ」

 

 そこで急に真顔に戻った夜一は、鋭い眼差しで沙羅を射抜いた。

 

「まさか遥々こんなところまで恋愛相談には来ないじゃろう? それもこんな夜更けに」

「夜一サンに恋愛の相談してもなんの参考にもなりませんしねえ」

「喜助。お主は黙って向こうへ行っておれ」

「できればそうしたいくらいですよ。アタシだって草薙サンのお願いとやらを聞きたいわけじゃない」

 

 そう告げる浦原の瞳にも普段の冗談交じりの色合いは浮かんでいなかった。

 両者の反応は対称的だが、ふたりとも沙羅の様子からただならぬ気配を感じ取っているのは確か。

 重苦しい雰囲気に包まれる中、沙羅は意を決して顔を上げた。ふたりの顔を真正面から捉えて、強い覚悟とともに口を開く。

 

黒腔(ガルガンタ)を開いてもらいたいんです」

「……虚圏へ行きたいということですか?」

「はい」

「それはなぜ?」

 

 浦原の問いに沙羅は少しも迷うことなく答えた。

 

「どうしても救いだしたい人がいるんです」

「どういうことじゃ。虚圏に誰か連れ去られたとでもいうのか?」

 

 続く夜一の問いにはしばし返答に(きゅう)したものの、沙羅は再び「はい」と首を頷かせた。

 

「妙ッスねえ。護廷の死神が藍染に捕らわれたなんて話はこっちには届いてませんけど」

「……」

 

 浦原の口調は妙というよりは確信を伴った言いぶりだった。

 元護廷十三隊の隊長を務めていただけあって瀞霊廷内の事情に精通している浦原と夜一は、ともすれば現役の護廷隊士をも凌ぐ情報網を有している。死神が攫われたなどという事件が起これば真っ先に彼らの耳に届くはずだった。

 

「……死神じゃなくても、私には絶対に必要な人なんです」

 

 その浦原の疑問に肯定も否定も返さずに沙羅はそう告げた。ただ揺るぎない意思を瞳に宿して。

 

「お願いします。私を虚圏へ行かせてください」

 

 両手を畳について低く頭を下げる沙羅を、浦原は少しも表情を緩めることなく見つめる。

 

「念のため訊いておきます。それは十三番隊の副隊長としての依頼スか?」

「……いえ。私はもう副隊長じゃありません」

 

 今度は首を横に振った沙羅は、輝きを失った左肩に触れて瞼を伏せた。

 

「瀞霊廷を出るとき、副官証と一緒に辞表を置いてきました」

「──!?」

「今の私はもう護廷隊士ですらありません。これは私の個人的なお願いです」

 

 沙羅の告白に夜一も、そして浦原も息を呑んで驚愕していた。

 付き合いが短いとは言え、多少なりとも彼女のことは理解していたつもりだ。自ら背負った副隊長という重責をそう易々と放棄するほど責任感に欠けているとは思えない。

 つまり今の沙羅の申し出は、その背景にそうしなければならないほどの理由が存在することを示唆していた。

 

「アタシが断ったらどうするつもりで?」

 

 低い声音で問いかけると沙羅は束の間黙りこんで、

 

「……正直そこまで考えていませんでした。こんなことをお願いできるのは浦原さんしかいませんから。いざとなったら現世に現れた破面に一緒に虚圏へ連れてってもらうようお願いするしかないですかね」

 

 嘘とも本気とも取れないような面持ちで薄く笑ってみせた。

 慎ましく「お願いする」とは言ってみても、相手が尸魂界に敵対する破壊者である以上穏便に事が運ぶはずがない。

 破面に黒腔を開かせる? 万一それが上手くいったとして、通じる先は破面どもの巣窟。自殺行為もいいところだ。

 とはいえ向き合う沙羅の瞳に迷いはなく、浦原は諦めたように肩を落とした。「参ったなァ」とため息をこぼしながら。

 

「喜助」

「草薙サンには大きな借りがあります。あのときの恩は返さなきゃならない」

 

 横から咎めるような視線を投げかけた夜一に、浦原は前を向いたまま告げる。

 

「だからもしアタシにできることがあるなら、どんなことでも力になろうと決めていました。……まさかこんな形で力を貸すことになるとは思いませんでしたけど」

「それじゃあ──」

 

 かすかな期待を覗かせて沙羅は浦原を見上げた。

 

「ここまで頼まれちゃ無下に断るわけにもいきませんしねえ」

「お主……本気で言っておるのか?」

「ま、その辺の破面を締め上げるよりはアタシが黒腔を開いたほうがいくらかマシでしょう」

「だからと言って虚圏にひとりで行かせることなどできるか! 沙羅に借りを返すと言うのなら儂らも一緒に行って手伝ってやればよかろう」

「夜一さん」

 

 憤慨する夜一を呼び止めた沙羅は首を左右に振った。

 

「ありがたいお言葉ですが、その気持ちだけで十分です。これは私の闘いですから」

「なにを言っておる。儂らとて無関係のお主を崩玉の一件に巻きこんだのだ。手を貸すのはお互い様じゃろう」

「いえ、ルキアの処刑のときとは違います。今回のことは私が自分の手で片をつけないといけないんです」

 

 あのときの沙羅にはルキアの処刑を止めるという大きな目的があった。それが浦原や夜一らの利害と合致し、また彼らの意向にも賛同できたことから協力することに決めた。

 けれど今の状況はまるで違う。十刃であるウルキオラが虚圏にいることに不都合を抱える者は誰ひとりとしていない。仲間の破面や尸魂界の死神はもちろんのこと、ともすれば当の本人でさえも。

 彼を救いだしたいと切望しているのは沙羅だけなのだ。

 

 ならば尚のこと助力を乞うことはできない。何人(なんぴと)たりともこの闘いには巻きこめない。

 ほかの誰でもない、自分自身の願いを叶えるための闘いなのだから。

 

「そうまでして救わなければならない人なんスか?」

 

 迷わず頷いた沙羅に浦原は「それなら──」と続けて

 

「そんなに大切な相手なら、草薙サンこそもう少し自分の身を省みたほうがいい。あなたが命を落としてしまったら元も子もないでしょう」

 

 なにをそんなに死に急ぐことがある。彼の言葉は言外にそう問いかけていた。

 

「……死ぬつもりで行くわけじゃありません」

 

 だから、沙羅はできうる限りの力強い表情で彼を見上げた。そしてその眼差しと同じだけ意思をこめた声で。

 

「生きるために、命を懸けるんです」

 

 ウルキオラと生きるために。

 

 ふたりで生きる未来を掴むために。

 

 それが私の、ほかのなににも代えられない“希望”だから。

 

 

 浦原も、夜一も、もう抑制の言葉を発することはなかった。

 凛と前を向く沙羅の瞳を正面から受け止めて、その覚悟の重さを十分過ぎるほど知ってしまった。

 

「……わかりました。それが草薙サンの望みなら」

 

 一瞬なにかをやり過ごすように瞼を伏せた浦原は、再び沙羅と視線を合わせるとゆっくりと頷いた。

 

「黒腔を開きます」

 

 

 ***




《Open the Gate…開門》

 その先に彼がいるのなら、闇の扉ですらも望んでこじ開けよう。
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