一瞬の隙。この状況下においてそれは死を意味する。
戦慄する神経が一秒たりとも集中を解くことのないよう、沙羅は拳を強く握りしめて振り返った先に立つ男を見つめていた。
対峙するのはこれで二度目。けれど全てが鮮明に印象づけられていた相手だった。
空の色に似たその髪も、獲物を見据えるような鋭い瞳も。
「黙ってねえでなんとか言えよ」
苛立ちを含んだ声音で彼は畳みかける。
「死神が一体なんの用があって俺の宮をうろついてんのか訊いてんだ」
一歩、二歩と大股で歩み寄ればふたりの間の距離は見る間に狭まった。
それでも一向に口を開かない沙羅に、グリムジョーはあと一歩踏み出せばいつでも斬り込める距離まで迫り、挑発するように首を捻る。
「なんならあのときの続きを始めてもいいんだぜ?」
「……あなたと闘いにきたわけじゃない」
「じゃあ何しにきた」
「……」
首を振って応えたものの、その問いには再び口を噤む沙羅。それを見たグリムジョーはピクリと眉を動かした。
「まさかウルキオラに会いにきたとでも言うつもりかよ」
半ば冗談で言ったつもりだった。それこそ「まさか」だと。
けれどそう訊ねた瞬間。
他人の表情を読むことには疎い、そもそも読もうとすらしていないグリムジョーでさえ、向かい合う彼女の瞳に哀しみが走ったのを見逃さなかった。
「……ハッ」
短く鼻で笑って、目を細める。
つくづく馬鹿な女だ。色恋に浸かりたいのなら身近にいる適当な死神に媚びればよいものを、宿敵である破面──それも十刃に心奪われるとは。
その上相手は──
「そいつは残念だったな。あいつはもうてめえのことなんざ憶えちゃいねえよ」
嘲笑交じりに覗かせた憐れみは本心から来るものだった。
なぜならウルキオラはもはや
『なぜおまえがあの死神を知っている?』
『あの女がどうなろうと俺には関わりのないことだ』
誰の手も届くことのない、藍染の手中深くに堕ちたのだから。
「わかってる」
それに対する沙羅の答えは端的だった。
「だからここまで来たの」
短く、けれど芯の通った声で言い放つ。向き合うグリムジョーは瞠目した。
「……正気か?」
「あいつが藍染の術に嵌められたのをわかってて、そこから救うために乗り込んできたってのか? それもてめえひとりで」
それがどれほど無謀な試みであるかは論じるまでもない。
ましてや彼女はあの現世での遭遇の際に一度自分に殺されかけている。十刃の強さは身に沁みて知っているはず、なのに。
その十刃の居城である虚夜宮に単身乗り込んでくるなど到底信じがたいことだ。
けれどいくら渇いた笑いをこぼしても、対峙する彼女の瞳はなんら怯むことはなく。
その力強い眼差しにグリムジョーはふと錯覚を覚えた。これとよく似た瞳を、以前にもどこかで目にしたことがあるような気がして。
……ああ、そうだ。
現世でこの女をあと一歩のところまで追い詰めたとき、その細い首に刃を落とす寸前で間に入ったのはウルキオラだった。
『退がれ、グリムジョー』
いつもは冷ややかに一瞥するだけの翡翠の瞳に見たこともないような熱を灯して。
あの翡翠が、目の前の紫と、重なる。
こいつ、あのときのウルキオラと同じ目をしてやがる。
「
「諦められるならこんなところまで来たりしない。……わざわざ死ににくるほど、馬鹿でもない」
「俺に言わせりゃここにいる時点で十分イカれてるぜ」
まるで磁力に吸い寄せられるように沙羅の瞳を覗き込んだまま、グリムジョーは今度はほんの数刻前の記憶を手繰り寄せていた。
つい先程天蓋の外の岩場で言葉を交わしたときの、一切の感情を失った男の目を。
今のウルキオラにとっては主・藍染の意向に沿って動くことが至上理念。それ以外の事象にはなんら関心を払うことはない。
それでも目の前のこの女はウルキオラに会いたいと願うのか。奴が藍染の手に染まり、別人に成り果てたと知って尚。
「……イカれてやがる」
もう一度、幾分静まった声でグリムジョーは繰り返した。
男と女の情愛など、理性が本能を都合よく脚色しただけの幻でしかないというのに。
百年前から紡がれているふたりの軌跡を知らないグリムジョーには、ウルキオラを救うために単身虚圏に乗り込んできたという沙羅の覚悟は一瞬の気の迷いとしか思えなかった。
*
どうしよう。
どうすればいい。
呼吸音ひとつ聞きもらさないような静まり返った空間とは対照的に、沙羅の鼓動は激しく脈打っていた。
破面との遭遇はもちろん想定していたが、よりによって十刃と鉢合わせるとは。それもこの男に。
面識がある、というのはこの場合安堵の要素にはなり得ない。面識があるからこそ、沙羅は彼がいかに危険な人物かを知っていた。
『俺は目の前にある全てのものを斬り落として上に立つ。ただそれだけだ』
現世での初遭遇の際に迷いのない眼差しでそう言い放ち、沙羅を死線まで追い詰めたグリムジョー。好戦的で、その自信に違わず圧倒的な戦闘能力を誇る第6十刃。
ウルキオラに逢うことが第一の目的である以上目立つ戦闘はなるべく避けたいところなのに。
ごくりと喉を鳴らせばその音すらも筒抜けになりそうで、沙羅は一層身体をこわばらせながら口を開いた。
「……あなたは藍染惣右介に従っているわけじゃないんでしょう?」
それでこの男が引き下がるとは到底思えないけれど。
「だったらなんだ? そう言えば俺が黙ってここを通すとでも思ってんのか」
予想通りの返答が返ってきて沙羅は奥歯を強く噛みしめた。
じり、と間合いが詰まる。鋭く細められた蒼い目に射抜かれ背筋を冷や汗が伝う。
避けては通れないのなら──
腰を落として夢幻桜花の柄に手をかけようとした瞬間、突然グリムジョーが沙羅から距離を取って背を向けた。
不可解な行動に沙羅の緊張は高まる。
──だが、
「手ェ貸してやる」
肩越しに告げられた台詞はまったくもって予期せぬものだった。
「…………え?」
ぽかん、と困惑の声を上げた沙羅はこちらに背を向けたままのグリムジョーの後ろ姿を凝視する。
一拍置いて振り返った彼の眼光にはやはり敵意が滲んでいて、聞き違えたのだろうかと頭を整理しようとしたが、それよりも先にグリムジョーが続けた。
「てめえひとりで突っ込んでもどうにもならねえって言ってんだよ。ウルキオラに辿り着く前になぶり殺されんのがオチだ」
苦々しく吐き出される言葉にますます混乱する。
手を貸す、とは単にこの場を見過ごしてくれるという意味ではないだろう。
なぜこの人はそんなことを言うのか。
虚圏まで乗り込んできた以上、それ相応の覚悟はしてきたつもりだ。敵である沙羅がいつどこで息絶えようと、彼にはなんの関わりもないはずなのに──
「どうして……」
「勘違いすんな。てめえのためじゃねえ」
至極当然ともいえる疑問を口にした沙羅に、グリムジョーは素っ気なく吐き捨てた。
「気に入らねえんだよ」
「……?」
「俺たちを都合のいい駒としか思ってねえ藍染の野郎も、奴の言いなりになっていいように使われてるウルキオラも」
「あの馬鹿、俺に借りがあることも忘れやがって……」
虚空に向けられた蒼の瞳が怒りに歪んでいる。チッ、と短く舌打ちをしてグリムジョーは右の拳を震わせた。
憤りの裏に見え隠れする侘しさは、まるで彼らの不確かな存在そのものを象徴しているかのようで。
その横顔を目の当たりにした沙羅は言葉に詰まった。
……この人は、
この人も、ひょっとしたら──
「……俺たちは藍染の操り人形じゃねえ」
ぽつりと吐き出された渇いた声。
ああ……やっぱり。
彼も同じなんだ。
これまでずっと仮面の内側に閉ざされていた内面を垣間見て、沙羅は初めて気がついた。彼もまた、ウルキオラと同様に主の絶対的な支配に縛られているのだと。
「──信用できねえって面だな。どうせおまえも俺らのことを藍染の犬だと思ってんだろ」
「そんなこと思ってない」
皮肉めいた表情でせせら笑ったグリムジョーに沙羅は首を振った。
自ら望んで心を捧げたのであれば、それは揺るぎない忠誠だ。けれど彼らは違う。
一方的な支配の元に強いられた隷属は忠誠とは言わない。
「あなたたちにも心があるじゃない。心を縛る権利なんて、誰にもない」
強い眼差しできっぱりと言い放った。
「……ハッ、相変わらず変な女だな。さすがはウルキオラなんざに惚れる物好きなだけあるぜ」
「物好き?」
「あんな愛想も面白味もねえ奴に惚れる女が他にいるかよ。筋金入りの物好きだろ」
褒めているのか貶しているのかよくわからない口ぶりで告げるグリムジョーに沙羅は緊迫感を忘れて思わず笑った。
無論当人は九割九分嫌味のつもりで言ったのだろうが、沙羅にはそれが無性に嬉しかった。
きっと、初めて会えたからだ。ウルキオラへの想いを当然のように認めてくれる相手に。
ウルキオラと出逢ってからここまで、互いに心を通わせながらも『死神と破面』という立場に縛られてきた沙羅にとって、今のグリムジョーの発言は顔が綻ぶには十分すぎた。
「……物好き、か。確かにそうかもしれない」
嬉しそうに目を細める沙羅に、グリムジョーは横目で視線を投げかけながら「まじで変な奴だな」と呟いた。
「でも本当にいいの? 私に協力するってことは、他の仲間を裏切ることになるんでしょ?」
「仲間? どいつのことを言ってんだ?」
「どいつって──」
怪訝な表情で首を捻るグリムジョーに沙羅は目を瞬く。己が仕える主であれ、十刃であれ、はたまたもっと広義に捉えるならこの虚圏に生きる全ての破面が、彼にとって『仲間』なのではないだろうか。
「俺には仲間なんていねえし必要もねえ。藍染も他の十刃も、俺にとっちゃ目障りなだけだ。……ウルキオラの野郎もな」
最後にわざとその名を付け加えてグリムジョーは沙羅を見据える。
「おまえに手を貸してやるのは、藍染の人形に成り下がった馬鹿に吠え面かかせるためだ。あの胸クソ悪りィすまし顔をぶち壊せんのはおまえぐらいしかいねえんだろ」
「…………」
「必要ねえっつーならそれでもいいぜ。おまえがどこでくたばろうが俺の知ったことじゃねえ。それともひと思いにここで殺してやろうか?」
沙羅の沈黙を別の意味に捉えたらしいグリムジョーは、パキパキと指の骨を鳴らすと猟奇的に笑ってみせた。けれど沙羅はその笑みにも表情ひとつ動かすことなく黙って彼を見つめる。
「気に入らねえなら刀を抜けよ。ちったぁ憂さ晴らしにもなりそうだしな」
「……グリムジョー」
「なんだよ」
呼びかけに反応したグリムジョーにじっと視線を向けて、そして。
「ありがとう」
満面の笑みを放った沙羅にグリムジョーは今度こそ面食らった。
眉間に皺を寄せて、鋭い眼差しで睨みつける。
「別におまえのためじゃねえって言ってんだろ」
「それはわかってるんだけど、でも嬉しいから。ありがとう」
「おまえ馬鹿か? 俺はウルキオラが気に食わねえだけなんだよ」
「うん、でも」
「ごちゃごちゃうるせえな! ウルキオラに会いてえなら黙ってついてくりゃいーんだよ!」
沙羅の言葉を強引に遮ったグリムジョーは、居心地が悪そうにさっと踵を返して歩き出してしまった。
「……怒ることないのに」
ただ力を貸してくれることへの感謝を伝えたかっただけだ。それとも、もしかしたら彼は面と向かって礼を言われることに慣れていないのだろうか。
そう思うとこちらを振り返りもせずにずかずかと通路を突き進んでいくグリムジョーが急に人間臭く感じられた。
ほんの二月前に自分を生死の境まで追い詰めたのは他でもない彼なのに。今はあのときに抱いた恐怖は欠片も甦ってはこない。
──ならば、信じてみよう。
例えこれが罠だったとしても、他にすがるものなどないのだから。
一度緩く息を吐き出した沙羅は、すっと表情を引きしめてグリムジョーのあとを追った。
*
「もたもたしてんな! 置いてかれてえのか!」
「そんなわけないでしょ! 急ぐのはいいけど
軽く息を切らしながら不満をこぼす沙羅に、グリムジョーはチッと舌打ちして速度を緩めた。
「仕方ねえだろ、ここからウルキオラの宮までどれだけ離れてると思ってやがる。ちんたら歩いて道案内してる時間なんてねえんだよ」
「そんなに遠いの?」
「ウルキオラの宮は俺の宮とは正反対の位置にある。虚夜宮の端から端まで突っ切るようなもんだ」
「そうなんだ……」
「おまえそんなことも知らねえで乗り込んできたのかよ?」
真剣に耳を傾ける沙羅にグリムジョーは本気で呆れた顔を向けた。
「……無謀なのは重々承知してます」
「無謀っつーかただの馬鹿だろ。大した神経してるぜ」
「それはどうも」
「誉めてねえよ!」
「わかってるってば!」
ムッとした表情で切り返して、沙羅は思案に耽った。
黒腔から直接虚夜宮に出られただけ運が良かったと思っていたのだが、やはりそう上手くはいかないらしい。
虚圏への突入に際しても取り立てて綿密な作戦を練ったわけではない。準備不足を指摘されるのは致し方ないだろう。けれど。
(……そんなこと、最初からわかってる)
沙羅とて自分がどれだけ危険な選択をしたかは理解しているつもりだ。それでも、後悔を抱えたまま諦めるよりはずっとましだと思ったから。
ほんの一筋の光明でもいい。絶望の闇に身を堕とすぐらいなら、どんなわずかな希望でもすがりつきたかった。
その先にしかウルキオラとの未来は存在しないとわかっている。
(グリムジョーの言う通りだ。もたもたしてる時間なんてない)
ぐっと速度を上げて斜め後ろにつくと、それを横目で確認したグリムジョーは薄く口角を上げた。
「スピード上げるぞ。遅れんなよ」
沙羅が引きしまった面差しで頷くと同時に、グリムジョーは前方へ視線を戻し力強く地を蹴った。
ここからどれだけ距離があったとしても、この虚夜宮の天蓋の下に間違いなくウルキオラはいるのだ。
追いかければ手が届く場所に、彼はいる。
ウルキオラ。
紫苑。
「……今、行くから」
喉の奥で小さく呟いてグリムジョーのあとを追った。
*
同時刻、虚夜宮中枢部。
コツ、コツ
コツ、コツ……カッ
「……?」
ギンの言伝を聞いて玉座の間へと向かっていたウルキオラは、規則的に響かせていた靴音を止めて頭上の天蓋を振り仰いだ。
何かを窺うように天に注がれていた視線は、ほどなくして元の位置に戻される。
やがて別段気に留める様子もなくウルキオラは再び廊下を歩み始めた。
蒼の男が導く砂上の城でこの先何が待ち受けているのか、沙羅はまだ知らない。
そしてウルキオラに至っては、これから己の身に降りかかることはおろか、自分が愛した女性がこの光のない世界に飛び込んできたことさえも
──まだ、知らない。
***
《Howling Blue…咆え猛る蒼》
思わぬ協力者。