Dear…【完結】   作:水音.

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第5話 Calling You ―君を呼んでいる―

 夢を見た。

 ここ最近何度も繰り返し見ているあの夢だ。

 

 漆黒に包まれたその世界で、俺は誰かの名を呼んでいた。

 

 無限に広がるその闇の中は

 どんなに走り回っても一筋の光すら射すことはない。

 

 どれだけ喉から声を絞り出そうとも

 求める人の声が返ることはない。

 

 どれだけ遠くへ手を伸ばそうと

 その手はただ空を切るのみ。

 

 なにもかもが失われた……虚無の世界。

 

 それでも。

 

 俺は呼んでいた。

 

 その人の名を、ただひたすらに。

 

 その名を口にすることだけが、この絶望的なまでに孤独な空間で自我を保つ、ただひとつの手段だった。

 

 

 愛する人の名を、呼ぶことだけが。

 

 

 *

 

「それではこれをもって草薙沙羅を十三番隊副隊長に任ずるものとする。尸魂界のため、ひいては魂の安定のため、その身を尽くし隊へ仕えることを願う」

 

 口上と共に十三番隊の隊花である待雪草を模した副官章が沙羅の前に差しだされた。

 

「──謹んでお受けいたします、浮竹隊長。至らぬ身ではありますが、全身全霊をもって隊へ尽くす所存であります」

 

 深く頭を下げて副官章を受けとると、目の前の浮竹は穏やかに微笑み、頷いた。

 その後ろには十三番隊の隊士たちはもちろんのこと、他隊から駆けつけた乱菊らの姿もある。

 

「おめでと、沙羅! ほら、腕貸して」

「……うん」

 

 副官章を広げる乱菊に緊張でこわばっていた顔を綻ばせ、沙羅は左腕に括られていく副隊長の証を感慨深く見つめる。

 

 重い──

 とてつもなく重い。

 けれどそれを背負って立てるように強くならなければ。

 そう、彼が諭してくれたように。

 

「はい、できた! これであんたも副隊長の仲間入りね」

 

 ポン、と左肩を叩いて笑う乱菊。彼女にもどれだけ勇気づけられたかわからない。

 ありがとう、と笑みを浮かべると今度は待っていましたとばかりに後ろから大歓声があがった。

 

「やったぁぁ! 沙羅、ついに覚悟を決めてくれたのね! あたしは嬉しい!」

「おいコラ鼻垂れ女、副隊長を馴れ馴れしく呼び捨てにするんじゃねぇ!  沙羅に失礼だろうが!」

「んだとー! てゆーかおまえも言ってんじゃんこのワキクサ!」

「て、てめえ!!」

「ちょっと、やめてよふたりとも──!」

 

 犬猿の仲の三席の仲裁に入る沙羅を満足げに見つめて、乱菊は隣の浮竹を見上げた。

 

「よかったですね。沙羅が決意を固めてくれて」

「ん、ああ──だが驚いたよ。俺はてっきり松本が背中を押してくれたものだと思っていたんだが」

「いいえ? 私はなにも。少し前に相談は受けましたけど、あのときはあの子まだ悩んでる様子でしたし──」

 

 そう言って沙羅に視線を戻すと、一点の曇りもない晴れ晴れとした笑顔で隊士たちから祝福を受けている。

 

「このところやけに機嫌がいいし……なにかいいことでもあったのかしら」

「かもしれないな。なんにしても喜ばしいことだよ。沙羅が笑っていると皆も安心する」

 

 隊士たちを見守る浮竹の口元にもまた、小さな笑みが浮かんでいた。

 

 多くの隊士が彼女を副隊長に推薦したその理由が、屈託のないその笑顔にあると言ったら彼女はどう思うだろうか。

「そんなものは私の力でもなんともない」

 そう憤慨するだろうか。

 

 けれどそこには確かに力があるのだ。

 人の心を惹きつけ、包みこみ、安らぎを与える力が。

 

 それは単に造形の美からなされるものではない。彼女の持って生まれた優しい心根と、仲間を想う気持ちとから生まれた、言わば沙羅本来の気質。

 ゆえに鍛錬によって習得することは不可能であり、その事実が沙羅の存在をことさら確固たるものにしていた。

 

「……まあ、本人はさっぱり自覚してないんでしょうけどね」

 

 呆れ顔で肩をすくめて乱菊は言った。

 

 沙羅はまだ気づいていない。

 その笑顔が、遠い日の元副隊長のそれをとうに凌駕し、隊士たちを支えつづけているということに。

 

 沙羅はまだ気づいていない。

 その笑顔が、人の心のみならず、人ならざる者の心までつかみかけているということに──

 

 

 *

 

「ジャーン!」

 

 誇らしげに左腕をかざしてみせた沙羅に、ウルキオラは小さく目を見開いた。

 

「副隊長になったのか?」

「うん。昨日任官式を終えて、正式に着任しました」

 

 まだ慣れない肩書に気恥ずかしそうに肩をすくめるその左腕には、真新しい副官章が括られている。

 

「……よかったな」

「ありがとう。──あ、それからこれ」

 

 嬉しそうに微笑んだ彼女が差しだした包みからは甘い香りがもれていて、ウルキオラは先日覚えたばかりの単語を口にした。

 

「『まふぃん』か?」

「ううん、前にあげたのとは違うよ。今回はね、ガトーショコラ」

「がとーしょこら」

「そう」

 

 耳慣れない単語をそのまま繰り返して包みを開ければ、確かに前回とは異なる甘い香りが鼻をついた。

 

「……焦げてるぞ、これ」

 

 いかにも身体を害しそうな色に顔をしかめると沙羅はけらけらと笑った。

 

「そういうものなの! 大丈夫、焦げてないから」

 

 半信半疑でかじってみれば、しっとりとした食感とともにほどよい甘さが口内に広がる。

 

「……美味い」

「それはよかった」

 

 ふわりと笑う沙羅にそれ以上はなにも告げず、ウルキオラは無言でガトーショコラを一切れ平らげた。ふたりが並ぶ桜のてっぺんを心地良い春風が吹き抜け、カカオの甘い香りを散らしてゆく。

 

「おまえはこういうものを作るのが得意なのか?」

 

 二切れ目に手を伸ばして問いかけるウルキオラに、沙羅はうーんと首を捻った。

 

「得意っていうのかわからないけど──作ること自体は好き。いろんな材料を組み合わせて、そこからまったく新しいものが生まれるのが楽しくて」

 

 そう語る沙羅は本当に楽しそうだ。

 

「料理はね、生き物みたいなの。ちょっとした工夫を施したり一手間入れるだけで、全然別の味になったりするんだよ」

「……そうか」

 

 そこまで言ってつまらないことを話してしまったかと不安げに隣を仰いだ沙羅は、ウルキオラの顔を見てほっとした。見上げた先の彼は、とても穏やかな表情を浮かべていてくれたから。

 

「そういえば──私たちってまだお互いのこと全然知らないね」

 

 ガトーショコラの残りを包みに戻して懐にしまうウルキオラを横目に、沙羅はふと呟いた。

 

「知りたいのか?」

「え、あ、そういう意味じゃ──」

 

 もごもごと口ごもるとからかうような瞳とぶつかった。

 ような、じゃない。確実にからかっているのだ。

 

「もう! ウルキオラ!」

 

 ばっと手を挙げると薄く笑って降参のポーズを取る。

 こんな他愛のないやりとりを交わすようになったのもここ最近の間だ。

 この桜の木の下で出逢ってからというもの、回を重ねるごとにふたりの距離は急速に縮まっていた。

 

 だが──……

 

「知らないほうがいいこともある」

 

「え……」

 

 ウルキオラが何気なくもらしたその言葉に、沙羅は瞳を惑わせる。

 

「俺は破面でおまえは死神だ。それは変えようのない事実だろう?」

 

 そう告げる彼の横顔は平静を装っているようで、どこか物哀しさが窺えた。

 それにつられてきゅっと唇を結ぶ沙羅に、ウルキオラは儚げに微笑んで。

 

「……案ずるな。今更おまえを取って喰おうなどとは思わないさ」

 

 ポン、とその頭の上に手を置いた。ウルキオラが自ら沙羅に触れたのはこれが初めてのことだった。

 線の細い白い手は思っていたよりもずっと温かくて、彼は間違いなくここに存在しているのだと沙羅を安心させる。

 

 でも──ねえ、ウルキオラ。

 それでももっとあなたのことを知りたいと願ってしまう私はよくばりかな。

 

 私たちが敵対する立場に置かれていることは十分にわかってる。

 そして、今や一隊の副隊長にまでなった私が、その敵に対して心を開くなんて許されないのだということも。

 でも……それでも、私は──

 

 

「もっと知りたい……ウルキオラのこと」

 

 

 はっきりと音に乗せて告げれば彼は目を逸らして押し黙ってしまった。

 

 怒ってしまったのだろうか……。身勝手なことを言ったから。

 

 震える両手を膝の上でぎゅっと握りしめると、ウルキオラが小さく息を吸った。

 

「……沙羅」

 

 宝物を愛でるかのように自分の名を呼ぶこの声に、沙羅は弱かった。

 否応なしに心臓が高鳴ってしまう。

 それを知ってか知らずかウルキオラは静かな低音を響かせて続けた。

 

「おまえ、前世ではどんな人間だったんだ?」

「え?」

 

 唐突な問いかけに沙羅はぱちぱちと目を瞬いた。

 

「……わからない。前世のことなんて憶えてないもの」

 

 困惑した面持ちで首を横に振る。

 

 現世での生を終え、尸魂界に流れてきたばかりの魂魄の中には前世の記憶を宿している者もいるが、その多くは尸魂界で過ごす悠久の時の中で次第に薄れていく。

『忘れる』のではない。次の転生に備え、魂が記憶の初期化を図っているのだ。

 そしてすでに尸魂界で多くの時を過ごしている沙羅もまた、前世の記憶は失っていた。

 

「ウルキオラは憶えてるの? 人間だった頃のこと」

 

 反対に問いかけてみるとウルキオラはしばし黙りこんでから首を振った。

 

「……いや。だが虚に堕ちるような人間だ。さぞろくでもない奴だったろうな」

 

 自嘲するウルキオラに、沙羅は考えこむような仕草を見せて。

 

「そうかな……なにか理由があったんじゃないかな」

 

 虚になるのは、必ずしも悪意を抱く人間だけではない。

 愛する人を想うあまり現世にとどまってしまった魂魄が、寂しさに耐えかねて虚化してしまうこともまれではない。

 そうして苦しむ魂を、沙羅はこれまで幾度となく()のあたりにしてきた。

 それほどまでに愛することを止められない想いが、人の心には存在するのだ。

 

「きっと……魂が昇華できずに虚になってしまうぐらいの強い思念が、ウルキオラの中に残ってたんだよ……」

 

 その想いは誰にも責められるものではない。

 だから沙羅はいつも願う。

 虚を昇華するその瞬間、来世こそはその想いが叶うようにと、振りおろす刀に祈りをこめて。

 

「……おまえはいつもそうやって虚にまで情けをかけているのか?」

「情けってわけじゃないけど……どっちが正しくてどっちが間違っているかなんて、誰にもわからないじゃない」

 

 無論沙羅とて死神としての己の生き様には信念を抱いている。

 かと言ってそれ以外の道が誤っているのかと問われれば決してそうではなく。

 だから、例え目の前にいるのが敵であったとしても──

 

「敵だから悪だなんて決めつけたくないだけ」

 

 そう言って沙羅は鮮やかに笑った。

 迷いのない、まっすぐな瞳で。

 

 ああ……そういうことか。

 唐突にウルキオラは理解した。

 

 いつだったか勝負を持ちかけた自分に対し、「闘う理由はない」と答えた彼女。

 あれは敗北を恐れて闘いを避けたわけではなかったのだ。

 

「敵だから倒す」という公式は彼女の中には存在せず

 ただ彼を──『ウルキオラ』という存在を、懸命に理解しようとしていたのだと。

 

「不思議な奴だ……」

 

 微笑を浮かべたウルキオラに、沙羅もほっとしたように表情を和らげた。

 

「お互い様でしょ」

 

 こんな小さな憎まれ口にも、顔が綻ぶ。

 それがなぜなのかはわからない。

 ただ、彼女の隣にいるとそれだけで心が安らぐ。そんな気がした。

 

 ばかげてる。

 心なんて──とうの昔に失ったはずなのに。

 

「じゃあ私、そろそろ行くね。副隊長になったら急に仕事が増えちゃって」

 

 すとんと枝から飛び降りて下から見上げてくる沙羅に、いつか見た光景が重なる。

 

 ……いつか? 

 一体いつの記憶だというのか。

 彼女とはまだ会って一月(ひとつき)も経っていないというのに。

 

「またね、ウルキオラ」

「ああ……」

 

 反射的に引きとめたくなる衝動を抑えて、身を翻して穿界門をくぐっていく後ろ姿を見送った。

 ひとり残された桜の大木の頂上を、彼を慰めるかのようにあたたかい風が吹き抜ける。

 その風に身を委ねながらウルキオラはふとその名を呟いてみた。

 彼の心を揺さぶってやまない、その人の名を。

 

 

「沙羅──……」

 

 

 その瞬間、頭の中でなにかが弾けた。

 

 

 

 ***

 

 




《Calling You…君を呼んでいる》

距離が近づくほどに、なにかが動き始めている。
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