Dear…【完結】   作:水音.

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第41話 An Indelible Name ―消せない名前―

「草薙……沙羅」

 

 それは消そうともがけばもがくほどに、記憶の奥底に色濃く刻みつけられる名前。

 

 

 **

 

 闇天の空に浮かぶ青白い三日月。その頼りない光が射し込む先に彼女はいた。

 

『よかった……遅いから心配しちゃった』

 

 安堵の笑みを浮かべた面差しは、主が連行するよう命じた『対象者』と一致した。

 

『おまえが草薙沙羅か』

 

『冗談でしょ……? ウルキオラ……』

 

 驚愕に打ち震えながらこちらを見据える濃紫色の瞳。

 

 思えば最初から不可解だったのだ。

 

 なぜこの女は俺の名を知っている? 

 

『私がわからないの?』

 

『どうして……』

 

 なぜこんなにも哀しそうに、俺を見る? 

 

『ウルキオラ! 話を聞いて!』

 

 まるで

 

『いい加減に……目、覚ましてよ……バカキオラ……!』

 

 まるで、俺を──

 

 

「……っ」

 

 朧月に照らされた瞳から涙が一粒零れ落ちたところでぷつりと記憶が途切れた。

 同時に頭がひどく痛み出し、ウルキオラは左の頭蓋を押さえる。内側から溢れ出す何かを仮面で無理矢理押さえ込むように。

 

「なぜ……」

 

 痛みをやり過ごしてウルキオラは再び目線を上方へ向けた。

 崩玉から放たれた光の中、くっきりと浮かび上がるその姿は記憶に刻みつけられたものと何ら変わることはない。

 

「なぜあの死神が……虚圏に」

 

 虚圏へ連行するというウルキオラの提示に強い抵抗を示し、剣を抜いても尚応じることはなかった草薙沙羅。

 途中からの記憶は定かではないが、窮地へ追い詰められたところを仲間に救われ、命からがら逃げ出したのではなかったか。

 その死神が一体どんな理由があって自ら虚圏へ赴いたというのか──

 

 動揺を隠せないでいるウルキオラを隣で愉しそうに眺めていた藍染は、崩玉が映す映像の中にもうひとつの人影を捉えると片眉を上げた。

 

「……おや? グリムジョーも一緒なのか」

 

 意外そうな主の言葉に、ウルキオラも見慣れた水浅葱の髪を目にとめた。

 

 侵入者である死神の前を進んでいるのは、自分同様藍染から一桁の数字を与えられたはずの男──第6十刃、グリムジョー・ジャガージャックだった。

 

 ふたりの姿を確認したウルキオラが咄嗟に導き出した結論は「奴が草薙沙羅を虚圏に連行したのだろう」というものだった。

 ウルキオラは己が仕損じた任務の後任としてグリムジョーが選ばれたと思い込んでいる。つまりは順当にその任を果たしたのだろうと。

 

 けれどその結論を彼はすぐに自ら打ち消した。

 見たところ草薙沙羅は衰弱している様子もなければ拘束されているわけでもない。グリムジョーのあとを追って走る様はどう見ても「連行されている」状況とは思えない。

 

(あの馬鹿が……何をやっている)

 

 ウルキオラの内部にジリ、と胸を焼き焦がすような苛立ちが生じた。

 その矛先は当然、映像の中で草薙沙羅と何やら言葉を交わしている同僚に向けられる。

 

『死神のお姫様にはフラれたのか?』

 

 数時間前に天蓋の外で会ったとき、嘲笑交じりにそう言ってきたのは他でもないこの男なのに。

 

『しらばっくれんのもいい加減にしろよ』

 

 何を寝惚けたことを。

 死神なんぞに肩入れしているのは貴様のほうだろうが。

 

『てめえ……本気で言ってやがんのか』

 

 俺は何も変わってなどいない。

 藍染様の望みのためにこの身を尽くすことが、この俺の唯一であり絶対の存在意義だ。

 破面として生み出された日から今日まで──ずっと。

 

 そう自分に言い聞かせながらも、4の数字の奥底に湧いた苛立ちは抑えきれないほどに膨れ上がっていた。

 ウルキオラ自身何に苛立っているのか把握できてはいない。

 ただ、無性に(かん)に障る。

 目の前に広がる映像の中、時折何かを話しかけては笑顔を見せる死神も。

 敵に対するものとは思えない表情でそれに答えるグリムジョーも。

 全てが不愉快で──目障りだ。

 

「始末しますか」

 

 ぞっとするほど冷たい声色で、ウルキオラは隣の主を振り仰いだ。

 己の中でザワザワと不協和音を奏でる元凶を今すぐにでも取り除きたかった。

 だが、対する藍染は落ち着き払った様子でくすりと笑みをもらした。

 

「ウルキオラ、彼女は君に会うためにここまで来たんだ。そんなことを言っては可哀想だよ」

 

 まるで小さな子供をなだめる親のように。

 

「俺に……?」

 

 ウルキオラは今度こそはっきりと眉をひそめた。また頭の中で耳障りな不協和音が鳴る。

 

「仰る意味がわかりません」

 

 彼にしては珍しく不快を露わにして答えると、藍染はやはり我が子を見つめるかのような眼差しで微笑んだ。

 

「だろうね。今の君には」

 

 ──またそれか。

 雲をつかむような捉えどころのない発言に、ウルキオラの中で初めて主に対する反感が湧く。

 

 ……初めて? 

 

 本当に、初めてなのか──? 

 

 

「ウルキオラ」

 

 すぐ真横で響いた呼び声にウルキオラはハッと顔を上げた。深い闇の色を宿した双眸に吸い込まれる。

 

「見た通り侵入者とは言っても彼女ひとりだ。取り立てて騒ぐほどのことでもない。君は自宮に戻ってくつろいでいるといい」

「……ですが」

「二度は言わない。速やかに第4の宮へ戻るんだ」

 

 有無を言わせぬ口調でそう放った藍染は、しかしすぐに笑みを浮かべてこう呟いた。

 

「ゴールがなければゲームにならないだろう?」

 

 その意味はやはり呑み込めなかったが、この場に留まる理由を失ったウルキオラは主に礼をして玉座の間をあとにした。

 

 

 *

 

「この感覚……くそっ、もう捉えやがったのか」

 

 突然足を止めたグリムジョーは上方を仰ぐと顔を歪めて舌打ちした。

 

「霊圧が捕捉されてやがる」

「え……!?」

 

 彼に倣って辺りを窺っていた沙羅もさっと表情をこわばらせる。

 

「虚夜宮の天蓋に囲まれた全域は藍染の監視下にある。遅かれ早かれ気づかれるだろうとは思ってたが──まさかここまで早いとはな。ずいぶんと用心深いこった」

 

 苦々しい顔つきで吐き捨てたグリムジョーは次いでこう呟いた。

 

「まるでおまえがここに来るのがわかってたみてえな段取りのよさだな」

「……」

 

 俯いた沙羅は、その言葉の意味するところについて考えを巡らせていた。

 

 そうなのかもしれない。あれだけ人の心理を読むことに長けた人だ。

 彼が沙羅とウルキオラの関係を知って一計を企てたのだとすれば、沙羅がウルキオラに会うために虚圏に乗り込んでくることを想定していてもおかしくはない。

 

「じゃあこっちの動きは全部筒抜けってこと?」

「ああ──奴の監視下を通ってる限りはな」

 

 含みのある物言いに顔を上げると、グリムジョーは瞼を伏せて霊力を集中させていた。

 やがて彼が右手を突き出すとその手掌に宿った霊圧の塊が前方の空間へ飛んで弾ける。一瞬ののち、辺りの空気が震え出すと同時に霊圧が弾けた場所でぐにゃりと空間が裂けた。

 

「これは……」

大虚(メノスグランデ)が同族を助けるときに使う反膜(ネガシオン)は知ってんだろ? こいつはアレを応用したもんだ。次元を歪ませて異空間への干渉を保ち、虚夜宮の内部を自在に行き来できる通路を生み出す──とかなんとか言ってたな。俺も理屈は知らねえが」

 

 グリムジョーが空間の裂け目に手をかざすと、それはまるで生き物のようにぱっくりと口を開きその奥には真っ白な回廊が続いていた。

 

「十刃とその従属官だけが通行を許されてる通路だ。ここなら居場所は特定されねえし、藍染の監視の目も届かねえ」

「監視の目が届かないような場所を十刃に自由に使わせてるの?」

 

 驚きを含んだ眼差しで沙羅はグリムジョーを見上げる。

 十刃が真の忠誠の下に藍染惣右介に従っているわけではないことはグリムジョーを見ても明らかだ。虚圏屈指の実力者の集団だからこそ、最も反乱を懸念すべき相手だと普通は考えそうなものだが。

 

「それが奴のやり方なんだろ」

 

 グリムジョーは表情ひとつ動かさずに答えた。

 

「そうやっていかにも俺らを丁重に扱ってるような面して、内心では楽しんでやがるんだ」

 

 ──これは私からの信頼の証だ──

 

 吐き気がするほど柔和な笑みを浮かべた主を思い返して、苦々しく目を細める。

 

「どうしてわざわざそんなことを?」

「十刃が束になって反乱を起こしても怖くねえって言ってるようなもんだろ。結局は俺たちが奴の手の上で転がされてるってことを知らしめたいだけなんだよ」

 

 能力が優れている者には権力を与えると同時にある程度の『限定された』自由も与える。そうすることにより彼らは自身が特別な待遇を受けていると自覚して、与えられた権力を誇るようになる。それをまるで己が力で得たものと誤認し、仮初めの自由に甘んじて。

 気づけば十刃の一員として藍染惣右介の支配下に置かれている現状を自然と受け入れている。

 そう、恐ろしいほどに、すんなりと。

 

『支配されていることを気づかせない。──統率論の基本だよ』

 

 もう何年前になるのだろうか。

 沙羅が十三番隊の席官入りを果たしたばかりの頃、一般の隊士を取りまとめるための基礎教養として藍染隊長の講義を受けたときのことを思い出した。

 

 誰もが慕って止まなかった五番隊隊長・藍染惣右介。

 その眼鏡の奥の瞳に恐るべき狂気が宿っていたことなど、彼の傍に身を置いていた者ですら誰一人として気づかなかっただろう。

 否、彼の傍にいればいるほど、より盲目的に敬愛していたに違いない。

 

 支配とは心を縛るものではなく心を導くものだと説いた彼の言葉は、全てがまやかしだったのか。

 あのとき藍染はすでに多くの隊士の心を掴みその支配下に置いていたのかもしれない。本人たちに自覚が生まれないよう、実に巧妙に。

 

 そう考えるとぞっと背筋に悪寒が走った。自分が今ウルキオラを巡って相対しているのはそういう相手なのだ。

 決して忘れていたわけではないが、実感すると急に恐怖が芽生えた。

 私の行動は、一体どこまであの人に読まれている──? 

 

「なに情けねえ面してんだよ。こんな命知らずな真似しといて今更ビビってんのか?」

 

 沙羅の表情をそのまま読み取ったグリムジョーが鼻で笑う。

 

「余計なことに頭使ってる暇あんなら、どうやってウルキオラの根性を叩き直すかでも考えてろよ。そのためにこの俺がわざわざ手ェ貸してやってんだ」

「グリムジョー……」

「この通路を使えば時間稼ぎにはなる。いくら藍染でも俺がおまえに手を貸すことまでは予測してねえだろ」

 

 顔を上げると視線が交わった先の彼はニッと口の端を持ち上げた。

 それが自分に心を許してくれたとか、好意で協力してくれているとか、そんな意味合いじゃないことはわかっている。けれど今の沙羅にとって何より心強い存在だった。

 

「うん、意地でもウルキオラに逢わないと。言いたいことは山ほどあるもの」

「……女の執念って怖えー」

「何か言った?」

 

 後戻りなどできないし、するつもりもない。

 ウルキオラへと繋がる道をただただ前へ突き進むのみ。

 

 グリムジョーが開いた回廊に踏み込んで、沙羅は勝気に笑った。

 

 *

 

 異次元の回廊とはいっても、その造りは虚夜宮の内装と全く同じものだった。

 警戒を強めながら通路を進む沙羅に向かって、元々虚夜宮の回廊を取り囲む次元を歪めて造り出したものだから構造は何も変わらないのだとグリムジョーは説明した。その語尾には必ずと言っていいほど「~らしい」が付いて回ったが。

 

「俺は初めて見たときからあいつが気に喰わなかった」

 

 人気のない回廊をしばらく進んだところで、グリムジョーはおもむろに口を開いた。

 

 彼がウルキオラと対面したのは数年前のこと。

 破面としての誕生はグリムジョーのほうが先だった。

 

 その頃すでに十刃の地位を得ていたグリムジョーは、藍染による新たな破面創生の儀式に立ち会っていた。

 闇に浮かび上がるは陶器のような澄んだ白い肌。

 大虚の証である仮面を剥がされ、その名残を左頭部に残した破面は、恐ろしく美しい緑の瞳でこちらを見ていた。

 

『新たなる同胞よ。君を心から歓迎する。我が名は藍染惣右介──君の創造主だ』

 

 頭上で響いた声に彼は緩慢な動作で首を向ける。

 

『名前を教えてくれるかな?』

『……ウルキオラ・シファー』

 

 紡がれる声は感情の宿らない静かな低音。

 

『──ではウルキオラ。私のために力を使ってくれないか』

『……藍染様の御心のままに……』

 

 刹那見開いた翡翠の瞳はわずかな迷いすら映すことなく伏せられ、その様を傍らで見ていたグリムジョーは忌々しげに顔を歪めた。

 

 例え自我が芽生えて理性を備えたとしても、誕生したばかりの破面が無条件で他者に服従するというのはまれな例だ。

 元々が虚であった彼らはそれまで本能に突き動かされるままに破壊活動を繰り返してきた存在。仮面を剥いだところで、真っ先に働く欲望はやはり本能だ。

 

 ところが此度の新入りは突然の支配に抗う素振りなどまるでない。

 虚に堕ちた魂魄である以上、いかんともしがたい破壊衝動がその内には潜んでいるはずなのに。

 

 十刃でさえ戦慄するほどの強大な霊圧の持ち主でありながら、ウルキオラの心はぽっかりと中身が抜け落ちた空洞のようだった。

 

 

「普段はろくに話もしねえ癖に、口を開けば『藍染様のため』だの『十刃の責務を果たすため』だのとほざきやがる。あいつにはてめえの意思も何もねえんだよ。面といい中身といい、つくづく人形みてえな奴だぜ」

 

 グリムジョーの言葉に、沙羅は彼の従属官も全く同じことをもらしていたのを思い出す。

 

「……ウルキオラは人形なんかじゃないよ」

 

 弁解するように見上げればグリムジョーは目線を落として短く笑った。

 

「変わったんだろ。おまえに会って」

 

 グリムジョーがウルキオラの変貌に気づき始めたのは、ちょうど彼が現世で偶然沙羅と遭遇した頃。

 あのときウルキオラが沙羅を庇って自分の前に立ちはだかったことでグリムジョーは確信した。

 ウルキオラが死神の女に──藍染以外の存在に、心を傾けていると。

 

 変貌とはいっても、虚夜宮で日々を過ごすウルキオラを一見する限り表面上は何も変わっていない。それもそうだろう、他ならぬウルキオラ自身が己の変容を悟られまいと予防線を張っていたのだから。

 そうでなくともウルキオラは元々感情を顔に出さない性質だ。その些細な変貌に気づく者がいるとすれば、彼らの創造主・藍染か、ウルキオラの従順な翡翠の瞳に反感を抱いていたグリムジョーくらいだった。

 

 

「変わったわけじゃないよ。きっと、思い出しただけ」

 

 伏し目がちに呟いて、沙羅は薄く微笑む。

 

「なかなか感情が表に出ないから伝わりにくいかもしれないけど、根はすごく優しいんだよ? ウルキオラは」

「……おまえそれ惚気てんのか?」

「えっ!? そう聞こえた!? そ、そうじゃなくて、だからウルキオラは──」

 

 途端に頬を紅潮させて首を振る沙羅にグリムジョーはつまらなそうにそっぽを向く。

 

「勝手に言ってろ、どうせ俺には理解できねえよ。あんな愛想無しのどこがいいんだか」

 

 きっとウルキオラもグリムジョーにだけは愛想云々を説かれたくないと思っているに違いない。──と喉まで出かかったが、そこはあえて口を噤んでおいた。

 

「まァどっちにしろ俺にとって気に喰わねえ奴には違いねえ」

「なんか……グリムジョーってウルキオラのこと目の敵にしてない?」

「馬が合わねえんだよ、俺とあいつは」

 

 心底嫌そうに眉根を寄せるグリムジョーを見て、沙羅の脳内には優等生に絡む不良学生の図が浮かんだ。

 いや、どちらかといえば何かと校則を破りがちな問題児を品行方正な学級委員長が厳しく指導しているイメージだろうか。

 それはそれで案外良いコンビになったりして、などと想像して口元を押さえると横から鋭い視線が突き刺さった。

 

「なに気持ち悪い笑い方してんだよ。またロクでもねえこと考えてんじゃねえだろうな」

「あ、わかる? グリムジョーとウルキオラって意外と合うんじゃないかなって。ほら、正反対の性格してるとかえってうまくいったりするでしょ?」

「…………」

「ちょっ……無言で構えないで!」

「決めた。今度こそシバく、ぜってーシバく」

「冗談だってば! そんなにムキにならないでよ!」

「誰のせいだ!」

 

 パキパキと指を鳴らすグリムジョーから必死に距離を取る沙羅。

 もはやこんなやりとりさえ自然になってしまった気がして、グリムジョーは短く舌打ちした。

 

 ……なんで俺まで死神と慣れ合ってんだよ。

 こいつに手を貸すのはウルキオラを正気に戻してぶちのめすためであって、決してこんな軽口を交わすためではなかったのに。

 

 だが、と沙羅に視線を戻してグリムジョーは思う。

 

 沙羅がウルキオラのどこに惹かれて恋仲に発展したのかは皆目見当もつかないが、ウルキオラが彼女に惹かれた理由は多少は理解できなくもないような……気もする。

 少なくともこれまでに出会った死神とは全く違う。刀を抜くよりも先に言葉を投げかけてきたのも、屈託なく笑いかけてきたのも、心からの感謝を告げられたのも、全て沙羅が初めてだった。

 

 だからといって気を許すつもりなどない。

 俺は破面で、こいつは死神──俺の敵だ。

 その気になればいつだって始末できる。今はただ暇潰しに泳がせているだけだ。

 

 そう言い聞かせることでグリムジョーは胸の内に湧いた違和感を無理矢理遠ざけた。

 そうでもしないと何かを認めることになりそうで、今はまだそれに目を向けたくはなかった。

 

 

「大体あいつが他人に心を開くってこと自体が信じられねえんだよ。あれだけ周りには無関心って態度貫いといてよ」

「そう? ああ見えて結構周りを見てるんだよ」

 

 大仰に肩をすくめるグリムジョーに沙羅はくすりと笑って返す。

 ウルキオラが十刃の中で特に人気があるということも、聞いたときこそ驚いたがよくよく考えてみれば納得できることだった。

 

 百年前──ウルキオラが紫苑として生きていた頃も、彼は実に多くの仲間から信望を寄せられていた。口数は少ないし愛想もないけれど、不思議と人を惹きつける魅力を持っていた。

 それは同じ王都防衛軍第三部隊に所属し、誰よりも近くで彼を見ていた沙羅が一番身に沁みて感じていること。

 そこにいるだけで圧倒的な存在感を放つ紫苑は、本人に自覚こそないものの常に部隊の中心に立ち、隊員たちは皆彼を慕っていたのだ。

 

「まあ、人付き合いが上手くないのは昔から変わらないけどね」

「昔?」

「そう。ずっと昔。私たちが人間だった頃」

 

 なんとなしに告げるとグリムジョーは口を半分開いたまま言葉を失っていた。

 

「……あ、そっか。私とウルキオラはね、百年前にも現世で一度出逢ってるの。お互いが人間として生きていたときに」

 

 当時を懐かしむように沙羅は瞳を細める。

 

「……大した女だな、おまえ」

「え?」

「惚れた男が虚になっても、ずっと想い続けられるなんてよ。普通は愛想尽かすだろ」

 

 グリムジョーにしては珍しく素直に感嘆の意を表したのだが、それに対して沙羅はゆっくりと首を左右に振った。

 

「ううん。そうじゃないよ」

 

 褒められるようなことなんて何ひとつない。

 虚になっても想い続けられる? そんなの当然だ。

 

 彼は自らの意思で変わったんじゃない。変わらざるをえなかったんだ。

 深く冷たい闇の底に突き落とされて。

 

「あの人が虚になったのは、私のせいだから……」

 

 そう告げたきり唇を強く引き結んだ沙羅に、グリムジョーはそれ以上問いかけることはなかった。

 どこまでも続く白い回廊をふたつの影は言葉もなくまっすぐに突き進んで行った。

 

 

 外観を望む窓も装飾もない、無色で殺風景な回廊を沙羅とグリムジョーはただひたすらに駆け抜ける。

 虚夜宮とはこんなにも広い場所だったのかと沙羅は走りながら己の思慮の甘さを痛感した。覚悟はしていたつもりだが、それでも想像を遥かに凌いでいた。グリムジョーの協力を得られなければ自分は今頃どうなっていたのだろうかと思うとぞっとする。

 やがて時間の感覚すら忘れかけた頃、沙羅は唐突に踵に力を込めて立ち止まった。

 

「……グリムジョー」

「ああ」

 

 同様に動きを止めた斜め前のグリムジョーを確かめるように窺い見る。

 

「今度は従属官じゃないんだよね」

「俺の従属官はあいつらだけだって言ったろ」

 

 前方から一瞬も目線を逸らさずにグリムジョーは答えた。

 言葉で聞かずともその表情さえ見れば、先程と全く異なる相手であることは明白だった。

 

 ビリビリと震える空気が否応にも訴えてくる。

 この先に待つ者の、身の毛がよだつような禍々しい霊圧を。

 

「……つーかあんな気色悪りィ奴を従属官にするなんて考えただけで虫唾が走るぜ」

 

 どうやらグリムジョーは相手が誰なのかをすでに察しているようだった。察した上で尚、彼がここまで険しい表情を浮かべている意味は。

 

「──お言葉だね。僕のほうこそ君の従属官なんて願い下げなのにさ」

 

 カツン……

 

 反響する靴音とともに回廊の奥に浮かび上がった一体の影。

 

 カツン

 

 カツン

 

 次第に大きくなる影に目を凝らす沙羅の脳裏に甦るのは、ここに踏み込む前にグリムジョーが告げた言葉。

 

 ──十刃とその従属官だけが通行を許されてる通路だ──

 

「妙な霊圧を感じると思ったらずいぶんと珍しい客人を連れてるじゃないか。グリムジョー」

「なんの用だよてめえ」

 

 剣呑な眼差しで一蹴したグリムジョーに、影の中の男はくつくつと喉を鳴らした。

 

「同じ十刃なんだ、そう構えることもないだろう? 少し話が聞きたいだけさ」

 

 カツン……

 

 半分近くまで距離を詰めた男に遥か頭上の電飾からこぼれた白光が射し込む。

 薄明かりの中映し出されたのは、この荒廃した虚圏には似つかわしくないほどに鮮やかな桃色。

 

「なに、難しいことじゃない。ただ納得のいく説明が欲しいだけだよ。一体どんな理由があって、君がそこの『死覇装を身に付けたさも死神のような風貌の女性』を連れているのか──」

 

 つい、と長細い人差し指で沙羅を指し示した男は、眼鏡越しに放つ視線を隣のグリムジョーに移すとニタリと口元を歪めた。

 

「詳しく説明してくれないかな。この僕にもわかるように、さ」

 

 花の彩りにも似た髪をふわりと一房躍らせて彼は実に愉しそうに首をもたげた。まるで新しい玩具を前にした子供のように。

 

 

「彼女は一体誰なんだい?」

 

 

 間もなく沙羅は知ることになる。

 

 狂気が入り交じった笑みを浮かべるこの男が、第8十刃(オクターバ・エスパーダ)、ザエルアポロ・グランツだということを。

 

 

 

 ***

 




《An Indelible Name…消せない名前》

 そのたったひとりの死神の名が、4の数字の内側を掻き乱す。

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